ソ連 - みる会図書館


検索対象: PANZER 1978年7月号
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1. PANZER 1978年7月号

を、を : ( をミ第一 から , ほんとうに , みんな耳がガーンとしてしまってい 戦闘の推移を見守っていたソ連軍司令部は , 時期をみ たのだ・ はからって後続の歩兵部隊と第 5 機甲軍団を投入した。 南の方では , 爆発の土煙で地平線は見えなくなった。 この結果 , 攻勢第 1 日が暮れかかるころまでに , ソ連軍 砲弾の炸裂で , 大きな土の塊が空中に投げ上げられ , 引 は敵の防衛第 1 線を突破し , 深さ 8 ~ 10 の進出を行な 力の法則に逆って空中にとどまっていた。爆発で空中に い , ウリヤノヴォ地区にある敵の第 2 線陣地に達するこ 吹き上げられた土の粒子が地上に舞い降りる前に , 次の とがでぎた。 ポルコフ方面に向かっていたプリャンスク方面軍所属 騨着が巻き起こす爆風と土の塊が , それをもっと上空に の第 61 軍は , ドイツ軍の死にものぐるいの抵抗に遭遇し 吹き上げてしまうのだった」 準備砲撃は午前 6 時 5 分まで 2 時間 45 分も続いた。め た。だが幾度となくくり返される敵の逆襲をはね返しつ ん密に作られた計画にしたがって , 砲弾はスキ間なく敵 っ , 第 61 軍はじよじょに前進した。 陣に落下した。そして , ソ連軍の歩兵と戦車の突入路を フ・リャンスク方面軍所属の第 3 軍と第 63 軍の進攻地区 開くため , 2 ~ 3 分ごとに弾着点が 100 川ずっ伸ばされ でも , 強力な準備射撃が行われた。 4000 門をこえる火砲 て行く。 と迫撃砲が投入され , 同時にソ連空軍が敵に猛撃を加え すさまじい砲撃と航空攻撃のおかげで敵軍は圧倒され た。砲兵の掩護下でソ連軍歩兵はズーシャ河を渡り , 敵 の前方防禦線に接近し , 戦車の支援を受けて敵の第 1 線 てしまい , 第 11 親衛軍の攻撃担任地区では , 全く組織的 陣地に突入 , ざん壕内を掃射した。 な抵抗はできなかった。敵の防禦施設の大部分は破壊さ 猛砲撃のために , はじめのうち敵の抵抗は弱かった れ , 対戦車陣地は粉砕され , 砲兵は沈黙した。 が , まもなく戦闘機に護衛されたドイツ軍爆撃機の大編 大地をゆるがす砲撃とびったり呼吸を合わせて移動し 隊が戦場上空に姿を現わし , 次から次にソ連軍地上部隊 ていた歩兵と戦車からなる攻撃隊は , 敵の陣地に躍りこ に攻撃を加えた。すさまじい空中戦が展開された。同時 んだ。すばやく突進し , 敵のざん壕に掃射を加える。 にドイツ軍司令部は予備隊を駆り立て , 部隊を戦闘隊形 進攻地区では敵の抵抗は弱く , 組織的ではなかった。 に展開する時間をおしむかのようにどんどんと戦闘に加 敵の断固とした抵抗がないことを利用して , ソ連軍は猛 入させていた。ソ連軍の進撃速度は急速に低下した。 攻を続け , 間もなく敵の第 1 防衛線の抵抗中心を奪取し 7 月 12 日の夜まで , ドイツ軍の第 2 防衛戦をめぐる戦 た。ソ連空軍は戦場上空の航空優勢を確保していた。 いがくりひろげられた。ソ連軍の猛砲撃に耐えぬいた砲 しかしながら , その日の後半になるとドイツ軍の抵抗 兵陣地や防衛拠点がそーーーに現われ , 投入された予 は突如として力を盛り返した。敵はその予備兵力を戦闘 部隊といっしょに , ソ連軍部隊の前進をはばむ。それで に投入しはじめたのである。ドイツ空軍もしだいに活動 を開始した。第 11 親衛軍の進撃地帯における地上戦闘 も , ソ連軍の前進は続いた。 ( つづく ) は , 苛烈を極わめてきた。 前進するティー ゲル I 型。ソ連 軍の強力な防禦 障地に対して , ドイツ軍は再三 突破をこころみ 87

2. PANZER 1978年7月号

「 7 月 10 日より 15 日までの間 に , フォン・マンシュタイン 元帥の率いる兵団は , ドネッ 河 , プゼル河 , サイム河 , ヴ ォルスカラ河の分水界にまで 到達することに成功したが , 攻勢はそこでカつきた。攻勢 は , ベルゴロド / オポャン道 路上のシェベキノとゴンキの 森林付近で停止した。 後にコーネフ将軍は , ドイ ツ戦車部隊の『白鳥の歌』に ついて述べている。 攻勢を行える最後の部隊は 炎上し , 屑鉄と化した。ドイ ツ戦車部隊の背骨は断ち折ら れたのだ」 命中 / ソ連軍の対戦車砲火に撃破されるⅢ号戦車 これに関連することで , 戦 後の西側史学で広く信じられ ている考え方についてここで言及するのが適切だろう。 よ , 待ちに待ったソ連軍の大反撃がはじまるのである。 クルスクの戦いに関する事実を論証するにあたり , 外国 ソ連軍の反攻 の歴史家の一部は , アメリカ , イギリス連合軍が 1943 年 クルスクの突出部に , 強力な防衛陣地を構築するのと 7 月 10 日にシシリー島上陸を行ったために , ドイツ統帥 部がクルスクにおける攻勢作戦を中止したと主張してい 同時に , ソ連軍司令部はオリョール地区とハルコフの北 方に集結した敵部隊を撃滅するための反撃部隊の準備を る。実際の状況は , ドイツ軍の攻撃部隊がソ連軍の防衛 行っていた。この反攻は , すでに直接敵にぶつかってい 線で撃破され , 西部およびプリャンスク両方面軍の反攻 る部隊 ( ヴォロネッおよび中部両方面軍 ) だけでなく , のために独ン戦線で戦略的守勢をとらざるを得なかった 防衛作戦地域から離れて準備された部隊 ( 西部 , フ・リャ ことを示しているのである。 ンスク , ステップ各方面軍 ) も加わった大部隊によって 西側の歴史家の主張の背後にある目的は , 地中海にお 行われる予定であった。 ける限定された規模の作戦の重要性を誇張し , その作戦 をョーロッパにおける実際以上に重要な戦いとみせかけ ソ連軍はクルスクの作戦で , これまでのどの作戦にも ることにある。 増して大きな兵力を投入することが可能になっていた。 事実はこの考え方が嘘でぬりかためたものであること モスクワやスターリングラードでの攻勢のときには , そ を暴露する。ドイツの政治および軍事指導者は , 独ソ戦 れそれ 3 コ方面軍で闘われたのに対し , クルスクの攻勢 線に大きな重要性を与えていた。そのために , 鹹塞作戦 作戦には 5 コ方面軍が投入され , しかも , その当時ソ連 に大きな希望をかけ , 最後までそれを遂行しようと戦っ 軍が持っていた 5 コ戦車軍の全てが含まれていた。 たのだ。 細部までよく練られた計画により , ソ連軍部隊は防衛 独ソ戦線からイタリアに兵力を移動させた問題は , ド 戦闘の終了と反攻作戦の開始との間に , 空白期間をおか ィッ軍がソ連軍の攻撃を受けて後退している時期に生じ ずにすんだ。西部方面軍とプリャンスク方面軍の左翼の た。しかし , その時期においてすら , ドイツ軍が非常に 部隊は , これまでの戦闘には参加していなかった新しい 限られた兵力で戦闘を行っていたイタリアに兵力移動を 部隊で , 7 月 12 日に攻勢をはじめ , 中部方面軍右翼の各 行う代わりに , 独ソ戦線に兵力を残しておく決定が行わ 部隊は 7 月 15 日に攻勢を開始した。ヴォロネッ方面軍は れている。 予備部隊により増強され , 7 月 12 日 , 強力な反撃に転 ドイツ軍の最精鋭部隊から編成された , 恐るべきドイ じ , 8 月 3 日にはステップ方面軍とともにベルゴロド / ツ戦車部隊の突撃を阻止したのは , ソ連軍兵士の忠誠と ハルコフ方面に対する反攻に突進した。 勇気と戦闘技術であった。その成果は , 独ソ戦線におけ クルスク突出部におけるソ連の反攻と呼応して , 突出 るドイツ軍の攻勢戦略に終止符を打ったことであった。 部の南北でも 2 つの大規模な攻勢作戦が行われた。すな そして戦いはこれで終わったのではなかった。いよい わち , 7 月 12 日から 8 月 18 日までの間に行われたオリョ 85 洋ご

3. PANZER 1978年7月号

を一変させた。北方よりクルスクに進撃中の敵攻撃部隊 ドイツ軍の計画であり , 戦況の評価であり , ドイツの指 の後方で , 激しく , そして敵にとっていのちとりとなる 噂者のムードであった。しかし , ドイツの攻勢戦略が全 く無益に終わることがすぐに明らかになるのである。 状況が生起したのだ。 この間 , ソ連軍司令部は反攻のための準備を完成して 7 月 12 日 , ヴォロネッ方面軍は , クルスク突出部南方 地区で進出中の敵に対して , 強力な反撃を加えた。 p ・ いた。西部方面軍およびプリャンスク方面軍の左翼部隊 ロトミストロフ将軍の率いる第 5 親衛戦車軍と A ・ザー は , オリョールに向かって攻撃を集中し , ヴォロネッ方 ドフ将軍の指揮する第 5 親衛軍が , この作戦の中核とな 面軍と戦線に移動進出してきた戦略予備兵団は , ベルゴ 、ロドとハルコフの方向に対して攻撃することになってい っていた。 フ。ロホロフカ付近で , 第 2 次大戦中最大の規模の戦車 た。ソ連軍は , いまや自軍に有利に局面を変えるために 戦が起こった。合計 1200 輛の戦車が , 各種各様の戦闘を ・必要な兵力を整え終わっていた。 ソ連軍はまた , ゲリラ活動の積極的な支援を受けた。 くり広げながら , すさまじい戦いを展開した。同時に , 空でも激戦が行われていた。ソ連軍の反攻は敵戦車部隊 クルスクの戦いの第 1 週に , オリョールとプリャンスク 地区のゲリラは , 1295 名のドイツ将兵を倒し , 9 本の列 に甚大な損害を与え , ドイツの大規模な攻勢計画に終止 符を打ったのである。 . 車を脱線させていた。 第 2 次大戦中で , これほど注意深く立案されたドイツ 当時 , 第 5 親衛戦車軍司令官であった P ・ロトミスト 軍の大攻勢が , これほどまでに完全に , そして短時日の ロフ元帥は , プロホロフカの戦闘について次のように記 うちに崩壊した戦例はなかった。ドイツ軍は , この新し している。 い事態を時間をかけて消化し , 正しい教訓を導きだすべ 「その日の夜遅くまで , 戦場一帯にエンジンのうなりや きであった。しかし , 攻勢の断末魔の状況をはっきりと キャタビラの音が間断なく響きわたっていた。いたると ころに砲弾が炸裂し何百輛もの戦車や自走砲が炎上し 目のあたりにしていたドイツ軍高級将校ですら , それが できなかったことが示されている。彼ら 部隊を再編し , 予備兵力を投入し , ソ連軍 を防衛陣を崩壊させるために , もうひと押し . 攻撃を行うことであると信じつづけてい ドイツ軍では , 部隊の再編成と新たな 0 . 攻撃のための準備作業が , 精力的に進めら ドイツ軍は , やがて将軍たちの れていた。 誤算のために , 高い代価を支払うことにな る。 しかしソ連軍は , ドイツ軍の再攻勢によ る新たな危機が到来することを正確に予想 していた。 7 月 12 日朝 , 西部方面軍翼とプリャン スク方面軍の一部は , オリョール地区の敵 集団を撃滅しようと攻勢を開始した。南部 のヴォロネッ方面軍は , プロホロフカに向 かう敵の攻勢をストップさせ , ソ連軍防衛 線にくいこんでいるドイツ軍を潰走させる ため , 同時に攻撃を開始した。 ソ連軍はクルスクに大部隊を集結させて いた。 7 月 12 日現在 , まだ戦闘に参加して いない兵力は 6 コ軍あった。うち 4 コ軍は オリョール地区の作戦に投入され , 1 コ戦 車軍を含む 2 コ軍はベルゴロド / ハルコフ 地区の作戦に向けられた。 西部およびプリャンスク両方面軍による 準備周到な攻撃は , オリョール地区の戦局 クルスク突出部の南北両戦線に , ドイツ軍は 2700 輛 にのほる戦車を集中し , ソ連防禦線の突破をねらう 83

4. PANZER 1978年7月号

プロホロフカの大戦車戦 ( 7 月に日 ) 南部戦区、 が , ソ連軍は戦車総数でやや優勢であり , かっ戦車の速 力が早く , またこの反撃をドイツ側が予想していなかっ たために , ドイツの攻撃を粉砕することができた。 1 日 中 , 地上で , 空中で激戦が続いた。本戦闘は第 2 次大戦に おける最も激しい戦いのひとつである。攻者は約 10 , 000 第 5 親衛軍 名の死傷をこうむり , クルスクの戦いに戦争の今後の望 第 5 親衛戦車軍 みをたくしていたドイツの最後の希望は断たれた (The Army Quarterly and Defence Journal 誌 1969 年 10 月 号 P .48 ) 」 ソ連軍反攻開始の 7 月 12 日は , クルスクの戦いの転回 点を記した日であった。オリョールのドイツ軍攻撃開始 地区における攻勢作戦は進んでいた。数日後 , クルスク 突出部南方地区に対する攻勢をかけようとしたドイツ南 部軍集団の計画は失敗に終わり , フォン・マンシュタイ 第 3 機甲軍団 ン元帥の兵団は , 攻勢開始位置まで退却を余儀なくされ / 第 7 親衛軍 た。 ヴォロネッ方面軍は , これに圧力を加えはじめた。早 南西方面車 くも 7 月 19 日には , I ・コーネフ将軍の率いるステップ ( マリノ 7 スキー ) 方面軍が攻勢に加わり , 7 月 23 日までにドイツ軍は作戦 開始時の位置まで押し戻されてしまった。 クルスクの作戦は , ドイツ軍指導部が戦略的主導権を 奪回しようとした最後の試みであったが , 作戦はこのよ うにして無残にも失敗してしまった。クルスクの攻勢作 ていた。土煙や爆煙が空高く上っていく。敵はフ。ロホロ 戦において , ドイツ軍は甚大な損害をこうむった。攻撃 フカ戦区で , 戦車による反撃に合うとは予想していなか のためにたくわえた戦力は , ソ連軍の防衛体制に吸い一 ったのだ・ まれて , 消えさってしまった。多くの西ドイツの歴史家 ソ連軍は非常に大きな成果を収めた。激しい戦車戦の は , この点を認めている。例えば W ・ゲルリツツはその = 結果 , ドイツ戦車の突撃部隊は多大な出血を強いられ , 著書 , 「第 2 次世界大戦」で次のように述べている。 攻勢を続ける力を失って防禦にまわらざるを得なくなっ たのである」 書いている。 「夜に入って , ソ連軍が戦 場の支配者になったことが ・。史上最大 確認された・ の戦車戦は終わった・・・ ( P ・ヤング著「第 2 次世 界大戦略史」 P .273 ロンド ン , 1966 年刊 ) 」 プホロフカの大戦車戦 について , イギリスの軍事 評論家ミッチェル・パーリ ッシュは次のように論評し ている。 「攻撃するドイツ軍は , 戦 線 1 マイルあたりほぼ 150 輛の戦車で戦闘を開始した 84 0 SOkm 0 オポャン ポロ - ネッ方面車 ( バツーチン ) 第 6 親衛軍 第一戦車軍 プロホロ・ / カ ゼレニヒノ 第 69 車 シ′レ・ンニ月ぐ s sn 甲軍団 第 48 機甲軍団 . 第 40 軍′ 、第イ機甲軍 : :. ヤコプレポ 0 ・しラみを 0 : : * :. くノレコ・ロド ケジプフ作戦集 冢ケンフ・フ ・・南方軍集団 . :. : 曇藪マンシュ・タイン 7 月 4 日の戦線 7 月 8 日の戦線 - 7 月に日の戦線 - 0 ドイツ軍の攻撃を待ち受けたソ連軍はドイツ軍を上まわる兵力を集め て , 進撃してくるドイツ戦車に強力なカウンター・パンチをみまった

5. PANZER 1978年7月号

TIID S 胤 0 Ⅶ WORLD の設計に関する公開競争の要領を答中し , ここからソ連 め , 1918 年の春 , ソ連共産党の指導者レーニンは労農赤 における戦車開発の第 1 歩が踏み出された。その後の独 軍の最初の軍事専門会議において , われわれは , 正規 創的な研究により , マクシモフ技師による重量 2500 ん 9 の 軍の編成と豊富な科学技術をとり入れることが必要であ 超軽量戦車亀の子虫 , 戦車設計コンテストで入賞し る。新設の陸軍には , 単に小銃および手榴弾のみではな た重量 10 , 000 の水陸両用戦車などが考案されたが , ど く , 工兵部隊をはじめとしてその他の技術部隊の編成も れも実用化するには長い期間が必要であった。 必要であり , さらに戦車 , 装甲車および装甲列車の開発 だが , 革命後の内戦中 , 革命軍は南部戦区の戦闘で白 について考えることは , 新生国家のパイロットであるわ 軍の装備する 2 輛のフランス製 , ルノー FT17 軽戦車を れわれの任務である洋と述べて , 軍事技術の中でもとく ろ獲した。この 2 輛のルノー F T 17 軽戦車が , 今日のソ に戦車の開発に重点をおいた。 連戦車の源流ともいうべきもので , 同時に , 軽戦車の始 1919 年 , 赤軍の軍事技術分野を担当する新設の工兵司 令官は人民委員会への報告書で , 軍事工業の将来と戦車 祖ともなった。 個性ゆたかな軽戦車 コフ技師の監督下に輸送中に発生した破損の修復と再設 ☆ソ連最初の軽戦車 , KS シリーズ 計を行った出力 33 Ⅳ / 1500rPm のイタリア , フィアット製 のトラック用直列 4 シリンダー・液冷式ガソリン・エン 1919 年の夏 , 2 輛のルノー FT17 軽戦車のうち , 1 輛 ジン , アメリカ製の前進 4 段・後進 1 段のスライディン が修理のためにソルノボに輪送された。同年の秋 , この グ・ギャ式トランスミッション , クラッチ・プレーキ式 戦車を徹底的に分解して , 必要な技術データを入手する ために , ソルモフスキーエ場で作業に入った。 操向機を装着し , 武装として 21 口径 37E ホチキス戦車砲 分解・検討の結果 , この戦車をベースに 15 輛のソ連最 を旋回砲塔に搭載した。 初の軽戦車の生産を決定し , 装甲板関係はレニングラー テスト用の M 型軽戦車は軍事工業会議の計画にしたが って , 最初の予備テストを実施した。その結果 , 構造と ドのイシオルスキーエ場 , ェンジン関係はモスクワの A 生産上の多くの欠陥が発見され , その欠陥の除去のため MO 工場 , シャシーと全般組立てはソルモフスキーエ場 で行うことになった。 に 9 月 ~ 10 月の 2 カ月の期間をついやしたが , 欠陥を除 去後 , 11 月から本格的な実用試験が行われた。この戦車 1920 年 1 月 1 日までに設計図が作製され , 同年 2 月に は 12 月 15 日に軍事工業会議に引渡され , 同時に , 月産 4 部分生産が開始されて , 最初のテスト車輛が 8 月 31 日に 組立完了し , M 型軽戦車の名称があたえられた。 輛を目標に生産を開始することになった。 1920 年 12 月末 , 軍事工業会議はレーニンに対するソ連 この 8 月 31 日はソ連戦車開発史上に記念すべき日であ 最初の戦車の製造に関する報告で , この戦車をレー る。テスト用の M 型軽戦車はろ獲したルノー FT17 軽戦 車をほぼそのままコヒ。ーしたもので , A ・ポロホフシチ ン同志のための自由の闘士洋と命名すると述べている。 0 4 0 T26 火焔放射戦 車。 T26A の右側 の砲塔を残し , 機 銃のかわリに火焔 放射機をつんだ ]

6. PANZER 1978年7月号

ュース 第 参加することを望んでいる。 S P 70 に対して , アメリカがどの 程度のことを考えているかは明らか でないが , この中し入れは好意的に 受け入れられ , 近々最初の会談が持 たれるはずである。 ◆ N A T 0 の演習を ソ連の将軍が視察 ! 伝えられるところによれば , 今年 の秋に行われる予定の NATO 軍定 期演習を , ワルシャワ条約機構を代 表するソ連の将軍とポーランドの高 級将官が見学するという。 これはワルシャワ条約 , N A T 0 側ともはじまって以来のことだが , 昨年のソ連軍の演習が西側の軍人に M60A1 砲塔後部のスズキのオートバイ 公開されたことに対する見返りの意 架 , 射撃統制装置や砲塔駆動関係の 改造 , 砲弾をはじめとした車内配置 味もあるかもしれない。 スズキのオートバイが採用に アメリカの戦車部隊の元じめ , 機 の調整などである。 甲学校 ( 在フォート・ノックス ) で 生産の分担は , 砲と砲尾はウォー スエーデン陸軍は , アメリカから かねてから試験中だった戦車部隊へ タープリート工処が , X M 1 の主生 TOW 対戦車ミサイルを買入れると 産会社であるクライスラー社が砲架 公表した。ミサイルの総数 6700 発 , のオートバイ導入がこのほど決定 , と駐退機関係となっているが , 砲弾 そのメーカーに日本のスズキが選定 ランチャーが 340 基にのぼるこの買 のメーカーはまだ決まっていない。 物で , スエーデンは , イタリア , 西 された ( 昨年 11 月号参昭 ) 一方 , 先月号のカラー・ページに ドイツ , トルコに続いて , T 0 W を これは , 中隊長 , 小隊長の乗る指 揮官車の砲塔後部ススケットに小型 も載った X M 1 のパイロット・モデ 購入する 4 番目の国となる。 ル 11 輛は , つい最近完成して試験が ◆在東ヨーロッパのソ連陸軍 のオートイを積むというもので , はじめられている。テストは , テキ 機械化師団の装備を更新中 戦場に展開した部隊間の連絡や報告 サスリ、日のフォート・プリス , メリー 西側の情報筋によると , このとこ に使うもの。無線の使用が制限され ランド州のアみ、ディーン試験場ケ ろ東ョーロッパに配備されているソ たり , どうしても直接報告や確認を ンタッキーナ日のフォート・ノックス 連軍の師団のうち機械化歩兵師団の 行わなければならないとき , いまま 戦力の増強が目立っているという。 で今年いつばいは続けられる。 でのようにテクテクと歩いていたの ひとつには , 新型の T72 戦車の配 ◆ S P 70 計画にアメリカも参加 ? ではとてもたまらないとして , オー トバイがとり入れられた。 西ドイツ , イギリス , イタリアの 備が機械化師団を中心に行われてい 3 国が共同で開発している SP70 ・ ることが指摘されているため。これ なおこのオートバイは , 125CC ク 155E 自走砲の計画に , アメリカが は , いままで機械化師団の戦車戦力 ラスのものである。 ◆アメリカ , 120E 砲のテスト開始 アメリカ陸軍が , XMI 戦車に搭 載する予定の西ドイツ , ラインメタ ル製 120E 滑腔砲のテストを , いよ いよ開始することになった。もし , テストと改修が予定どおり進めば , 1984 年からの生産型に搭載されるこ とになっている。 XM 1 戦車にこの砲を搭載するに あたって , システム全体にいくつか の改修が行われるが , そのための予 算は総額 1 億 4200 万ドルにのぼると みられる。改修の内容は , 新しい砲 試験用砲架にのせられた 120 滑腔砲 1 OO ◆アメリカの戦車部隊に ◆スエーデンが TOW を購入

7. PANZER 1978年7月号

ール作戦と , 8 月・ 3 日から 23 日までに行われたベルゴロ 車 , 自走砲 2360 輛 , 航空機 3000 機で , 兵力で 100 % , 火 砲が 200 % , 戦車 , 自走砲では 170 % , 航空機が 200 % , ド / ハルコフ作戦である。 とそれそれドイツ軍に勝っていた。 オリヨール作戦 クルスクの攻勢をはじめるずっと以前に , ドイツ軍は 7 月 12 日 , クルスク戦の流れが変わった。ソ連軍が攻 オリョールの攻撃開始地区を , 重要地域とする指定を行 撃に転じ , ドイツ軍は防禦態勢に入ることを余儀なくさ い , 強力な防禦陣地を構築していた。主防禦線は , 非常 に強固に要塞化された抵抗中心と , 全周防禦用に設計さ れた。 ドイツ軍にとって , とくに危険な状況がオリョール地 れた砲兵陣地で構成されており , これが , 小さく区分さ ーを守備するドイツ軍部隊は , 奇 れたざん壕と相互に連結していた。主防禦線は 5 ~ 7 区で展開していた 襲攻撃をかけたフ・リャンスク方面軍と西部方面軍左翼部 の縦深をもち , 重要な地点ではその縦深は 9 におよん 隊の強力な圧力をまともに受けることになった。 でいた。 敵は , オリョールにおける攻勢開始地区に強力な部隊 ソ連軍最高司令部は , まずオリョール攻撃開始地区の を持っていた。ソ連軍の反攻が開始されたとき , この集 防禦陣地を撃滅し , そこを守備する敵の第 2 戦車軍と第 団は 37 コ師団で構成されており , その内訳は歩兵 27 コ師 9 軍を殲滅することから , 攻撃を開始することに決定し 団 , 戦車 8 コ師団 , 機械化 2 コ師団だったが , 歩兵師団 たのである。 の 3 分の 1 以上と戦車師団の大部分は , 攻勢作戦中にそ カコロフスキー将軍の率いる西部方面軍は , ポルコフ の戦力を消耗しぎっていた。オリョール地区の敵集団の 方面に第 11 親衛軍を投入することにより , 左翼に猛攻を 兵力は 40 万名 , 火砲約 6000 門 , 戦車 , 突撃砲 1000 輛で , I ・バグラミャン将軍の率いる第 11 親衛軍 加えていた。 1000 機以上の作戦機の支援を受けていた。 は , フ・リャンスク方面軍の右翼部隊とともに , 敵集団を この集団を撃滅することは大変な任務であった。しか 包囲・殲滅することになっていた。さらに , 第 11 親衛軍 し , 反攻開始時までに , ソ連軍はオリョール戦区におけ の一部をもってカチューネッ地区の鉄道とオリョール / る敵に対して数的な優勢を確保していた。作戦を行う西 フ・リアンスク間の道路を遮断するため , 南方に攻撃を加 部方面軍の左翼部隊 , プリャンスク方面軍および中部方 えることも計画された。 面軍の右翼は , 兵力 80 万名以上 , 火砲約 19 , 500 門 , 戦 M ・ポポフ将軍の率いるプリアンスク方面軍は , 東方 でオリョール付近の敵防禦線を突破するための準備にあ たっていた。第 11 親衛軍の一部とともに , 第 61 軍 (P ・ ・べロフ将軍 ) はポルコフ方向に攻撃を行い , 前方地域 における敵の包囲・殲滅にあたることになっていた。第 3 軍 (A ・プルトフ将軍 ) と第 63 軍 (V ・コルパキ将 軍 ) は , オリョールを南北より包囲し , ノヴォシルから オリョールにかけて敵に猛攻を加えつつあった。 反攻を開始するにあたり , K ・ロコソフスキー将軍の 指揮する中部方面軍は , その右翼軍により , ソ連軍陣地 に深く侵入している敵を圧迫して退却させ , 次いで南方 および南西方向でオリョール地域の敵集団を包囲するた めに , クロミイ方面から北西方向に攻勢を行うこととな った。そして , プリャンスク方面軍と西部方面軍ととも に , 中部方面軍は敵集団を潰走させる予定であった。 7 月 12 日午前 3 時 20 分 , 西部方面軍の進攻地域に対し て , すさまじい砲撃と航空機による事前攻撃が開始され た。砲撃は , これまでに前例のないほどよく計画された 強力なものであった。このはげしい準備射撃を目のあた りにした戦時報道班員 Y ・ヴォロフ・イエフは次のように 描写している。 「斉射する砲門から吐き出される爆風はすさましいもの だった。みな , 岸に投げ出されて気絶した魚のようにロ をあけたままでいる。人間の聴覚は地獄のような騷音 , 轟き , ものすごい振動に耐えるようになっていないのだ をー名を 4 雨あがリのドロ道を戦線へ向かうドイ ツ兵。大機甲部隊同士がぶつかったク ルスクでも , 馬は責重な戦力だった 86

8. PANZER 1978年7月号

2 き 8 T37 水陸両用軽戦車 ( 右 ) と T38M 2 。 T37 はフェン ダー上に金属で包んだパルサのフロートをつけている T38 は , 1936 年から T37 の改良型として AMO で製作 には出力 50 / 2200rPm の GAZ ー M 1 工ンジンを搭載し た。重量は 3800 ん 9 に増加したが , 最大速度 64.4 / h , 行 された型式で , 戦闘重量 3280 ん 9 , 乗員 2 名 , 装甲 4 ~ 9.5 mm, 車体左側には 7.62E 機関銃を装備した旋回砲塔があ 動距離は , 13 % の携行燃料で 257 であった。 り , 右側には操縦室がある。この T38 の動力装置は出力 ( 8 ) T 38M 40 Ⅳ / 2200rPm の GAZ ー AA 直列 4 シリンダー・水冷ガ T38 で実験を行った 20E 航空用機関砲 ShVAK を装 ソリン・エンジン , 前進 4 段・後進 1 段の遊星歯車式変 備した型式で , 水陸両用戦車では最も武装が強化された。 速機 , クラッチ・フ・レーキ式操向機を装着し , 最大速度 ソ連戦車技術陣は , 第 2 次大戦開戦までの間 , 多数の 45 , 行動距離は 10 膨の携行燃料で 251 であった。 軽戦車および水陸両用戦車の試作型を製作し , 大戦初期 履帯は鍛造の幅 191E , ヒ。ッチ 63.5mn , 各側に 146 枚配 の T40 水陸両用戦車 , T41 水陸両用戦車 , T46 軽戦車な 列 , 改良ホルストマン懸架装置で , ボギー機構は水平コ イル・スフ。リング , ロッカー・アームおよび 2 コの単列 どを経て , T50 , T60 , T70 , T80 軽戦車へ発展した。 下部転輪からなり , 各側に 2 コ配列されている。 独ソ戦の開戦直前 , 歩兵支援戦車の主力は T26 戦車だ ったが , 国境に配備された戦車は実戦でじゅうぶんに任 ( 7 ) T38M 2 T38 の改良型の T38M2 は , 1938 年に AMO で製作さ 務を達成することができず , 精鋭ドイツ戦車部隊の電撃 戦によって惨めな敗北をきっした。 れた型式である。 T38 との差異はエンジンで , T38M2 スターリンのマンモス、重戦車 ソ連陸軍は , 水陸両用戦車 , 軽戦車 , 中戦車とならん た。さらに TGI / T22 重戦車 , TG3 / T29 重戦車も計画 され , T GI / T22 は戦闘重量 25 , 00C ん 9 , 装甲 35E , 武装 で , 陣地線の突破などにおいて戦闘を優位に展開させる は 76.2mm 短戦車砲と 7.62E 機関銃 2 丁を装備する。ま ために , 陸上戦艦ともいうべき重戦車の開発に努力し , た , T G3 ノ T29 は戦闘重量 30 , 000 た 9 , 武装は 76.2n 短戦 1930 年から 1938 年まで , T32 , T35 , T100 および SMK 車砲 1 門 , 37E 砲 2 門 , 装甲は 37E であった。 重戦車を開発した。これら重戦車は , 独ソ戦において T だが , 当時のソ連の戦車技術では完成が困難であった 34 中戦車とともに , 祖国防衛のために活躍した KV およ ので開発計画は中止され , TGI ノ T22 の設計思想が後の び J s 重戦車のべースとなったものである。 T28 中戦車および T32 重戦車の開発に反映しただけで終 ☆ T32 重戦車 った。 1929 年 , カザン市にある有名なカザン陸軍戦車学校で ソ連戦車技術当局は , 重戦車の開発のべースとして , 戦車の先進国であるイギリスからビッカース A 1 インデ ソ連陸軍の最初の重戦車である TG 重戦車シリーズの試 イベンデント戦車を購 . 入して , TGI / T22 の設計で得ら 作が着手された。 れた技術を導入することによって新型重戦車を開発する この TG ( 後の TG5 / T42 ) は戦闘重量 25 , 000 ん 9 , 乗 ことになった。この重戦車が , 1930 年から 31 年の間に設 員 5 名 , 75E 砲 , 7.62E 機関銃 4 丁 , 300 Ⅳのエンジン , 計された T32 重戦車である。 ェア・サーポ型操向機を備え , 最大速度 40.2 / h であっ 57

9. PANZER 1978年7月号

T100 は構造・機能的に , SMK に類似しているが , 力などがわざわいして , 大した戦果もあげないうちに撃 戦闘重量は 56 , 000 た 9 , 乗員 6 名 , 最大速度 30 / h であ 破されている。ソ連がお手本とした外国の多砲塔重戦車 も , フランスの 2 C は輸送中の列車の上に乗ったまま破 り , SMK よりも機動性は低下した。 この T100 と SMK の開発で得ることができた技術的 壊され , イギリスのインデイベンデント戦車は , ダンケ に貴重なデータは , KV, J s, T10 重戦車の開発に役 ルクの直後に倉庫から引き出されたとはいえ , 実際には 立つものであった。 いちども使われることはなかった。第 2 次大戦の本格的 なはじまりと同時に , 巨人戦車の幕は閉じられたのであ 第 2 次大戦で , ドイツの戦車部隊をふるえ上がらせた る。 強力な重戦車 , K V シリーズやスターリン戦車を送り出 しかし , たとえマイナスの教訓とはいえ , K V やスタ したソ連陸軍も , 1930 年代の重戦車の開発は , 古い考え ーリンの開発に与えた影響は大きく , 第 2 次大戦で他国 にもとずく多砲塔型の巨人戦車に重点がおかれていた。 に先がけて攻・防・機動力のバランスのとれた重戦車を 造りあげたソ連の戦車技術陣は , これらの巨人戦車を決 これら T35 , SMK, T100 などの多砲塔戦車は , 対 フィンランド戦や独ソ戦のごく初期に戦場に投入された してムダとは考えていないに違いない。 が , どの場合でも , 防禦力の不足や不じゅうぶんな機動 K S 3 軽戦車 6 .900 2 T26B 2 軽戦車 9 , 550 3 M S 3 軽戦車 6 .700 2 戦闘 里 (t) 員 法 ( 寸 全 長 幅 全 高 全 轍 距 接 地 長 履 帯 幅 接 圧 ( ん 9 / 地 工ンジ ン 出力 / 回転数 燃料容 積 ( の 甲 ( 新 ) 車体前部 側部 後部 砲塔防楯 前部 ロ 装 弾 薬 行動 能 カ 登坂能力 ( % ) 回転半径 ( 渡渉能力 ( ) 超壕能力 ( 超堤能力 ( 祠 費 ( / の 燃 最大速度 (h/h) 行動距離 ( 80 4.359 1.753 2.003 1 .433 2.438 0.300 0.46 フィアット水平対 向式 G 40ps / 1500rPm 75 5.029 1 .753 2.286 1 .372 2.073 0.406 4.572 2.454 2.540 2.030 2.774 0.259 0.63 GAZ ー T26 水平対 向 8 気筒空冷 G 88ps / 2200 て pm 238 AMO フィアット 直列 4 気筒 G 45ps / 1500rPm 75 8 8 8 8 8 37E 砲 L21M1914X 1 7.62 新機関銃 x 1 16 16 13 25 10 10 10 45E 砲 L46M1932 x 1 7.62E 機関銃 x 1 165 / 3654 ^ 0 8 8 (D ^ 0 8 8 1 よ、 1 武 37 新砲プュトー X 1 7.62 新機関銃 X 1 250 / 3000 250 / 3000 78 信地旋回 0.518 1 .798 0.579 0.804 13.4 60.3 70 62 1 .295 0.762 1 .725 0.762 1 .45 28 346 信地旋回 0.716 1 .295 0.579 1 .45 22.5 109

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トビックス 新鋭戦車はもう古い ? 中性子爆弾出現の衝撃 「われわれの 3 倍もあるソ連戦車部 隊の侵攻を防ぐには , これしかない ! 」と NATO 諸国がさけび続けて いた中性子爆弾の生産決定を , アメ リカは延期、してしまった。 西ョーロッパには , すでに 10 から 50 キロトンにおよぶ各種の戦術核が 7000 発以上も配置されているという 発射台上のランス。中性子爆弾は鬼に金棒か ? のに , ヨーロッパ側のアメリカに対 する要求ぶりはまさに異常洋とい 射線のほかに熱線 , 放射性降下物 , な核弾頭洋 , いままでのものは臺汚 えるものだった。 爆風を発生させるが , あとの 3 つを れた核弾頭ということになるが , しかし , この 7000 発を 10 年間で全 、消すことはできないかと考えた。 きれいなほうはそれでいて放射線の て中性子爆弾に切換えるだけでも 20 当時はまた , 核爆発実験がアメリ 威力は強力で , 1600 四方の装甲車 力やソ連で次々と行われて , 大気中 億から 40 億ドル ( 約 5000 億から 1 兆 輛の中にいる人間に致命的な効果を に放射性物質が拡散するのが大問題 円 ) もかかる。その威力がまだ確か 与えてしまう。にもかかわらず、爆 なわけでもないのに , 生産と配備を 風や熱線の影響が少ないから , 厚い になっていた。 また , 当時のアメリカ国防省のな 決定するのは危険すぎる , というの 壁などの蔭にかくれている民間人に が決定延期の表向きの理由にな かには , 民間人に被害を与えないで はなんの危害も与えず , 放射能が残 侵略軍だけを撃滅できる陸戦用の小 る恐れもないというわけである。 っている。 型核弾頭の実用化を強力に推進する これは確かに , 従来の核弾頭より しかし , 素直にいって中性子爆弾 人道的洋だということはできる。 動きがあったので , コーヘンとその こまで実用寸前になっていると 研究グルーフ。の仕事は勢いを得て作 はたして戦車を、撃滅洋できるか ? は世界中が知らなかったことだし , 業を進めた。 アメリカが生産しなくても「ソ連が もちろん , 中性子爆弾の構造の詳 その結果 , 核爆発の速度をゆっく 細は煢極秘洋だが , 原理は物理学を 極秘のうちに生産すればどうなるの りと行わせれば行わせるほど , 爆風 学んだ者なら誰でもわかる。基本原 か ? 」という不安も残る。 や降下物は減っていき , 小型のもの 理は水爆と同じで , 爆発力は TNT いったいその真相はなにか ? ま ならば地上 150 で爆発させれば , 1000 トンに相当するが , 初期の原子 た中性子爆弾とはそもそもどんなも 地上で物が破壊されるのは半径わず 爆弾がウランやプルトニウムのよう のなのだろうか ? か 400 ほどに限られ , 同じ条件で な放射性物質を分裂させていたのに 中性子爆弾の正体は / ? 対し , 水素のアイソトープを融合さ 中性子爆弾とはなにか ? 爆発させた , 普通の同級の核弾頭の 結論から先にいうと , これは せてヘリウムに変換する。 900 川と大きな差がつくことがわか ニ水爆洋である。 こうして原子力委員会のネバダ実 った。つまり , 破壊面積はほぼ 5 分 中性子爆弾の可能性をはじめて考 験場で世界最初の中性子爆弾のテス の 1 というわけで , しかもふつう核 えたのは , 1950 年の末にランド・コ トが成功したのは , 1963 年のことだ 弾頭ではその地域に危険な放射能が ーポレーションで空軍のコンサルタ 数時間は残るのに対して、この新し ったが , 西ョーロッパに通常兵器の ントを務めていたサミュエル・ T ・ い弾頭では数秒間で消えてしまう。 補充を計っていたケネディ大統領は コーヘンである。彼は、核弾頭は放 ひとロでいうと , 新型はきれい これを無視した。 98