部隊 - みる会図書館


検索対象: PANZER 1978年7月号
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1. PANZER 1978年7月号

ュレックを搭載したものと考えればよい ) を搭載したも のだが , 詳しいことはまだよくわかっていない。 ☆ B Ⅳの部隊編成 さて , 以上で無線誘導式破壊車輛 B Ⅳについての知識 は頭に入ったと思う。 では , この B Ⅳが実際にはどのように編成され , 実戦 に登場したのかということを書いてみたい。 B Ⅳによる部隊がはじめて編成されたのは , クルスク 戦を間近にひかえた 1943 年の春で , この部隊は第 300 無 線誘導戦車大隊 (Panzer Funklenk Abtei1ung 300 ) と よばれるものだった。 この第 300 無線誘導戦車大隊は , ティーガー I と BIV によって編成され , 実戦ではまず B Ⅳが自ら持っ爆薬に よって障害物 ( 地雷 , トーチカ , バリケードなど ) を除 去 , 破壊し , 障害物がなくなるとただちにティーガーが 戦線を突破するという方法をとることになっていた。 これは , B Ⅳによって障害突破の時間 , 資材 , 人的な 労力を最大限に節約し , かっ防禦陣地の突破や強力な戦 線の攻撃における重戦車の能力を最大限に引き出すため にとられた編成と思われる。 第 300 大隊は , クルクス戦ではじめて実戦に投入され たものとみられるが , 実際の活躍 ? についてははっき りしない。 しかし B Ⅳの生産がこの後も続けられ , また新しい部 隊の編成も行われているのだから , 軍当局はクルスクで の B Ⅳの働きをある程度は評価していたものと考えられ この無線誘導戦車大隊は軍団直轄の部隊で , 必要に応 編成は , 中隊本部にティーガー I が 2 輛 , 3 コある小 通信小隊 装甲板が起き上がっているのがよくわかる C 型のプロダクション・モデル。操縦室の 第 311 , 312 , 313 , 314 , 315 , 316 , 513 の各中隊が確認 はⅡを持っ戦車師団に配備されるもので , 現在のところ この中隊は重戦車大隊にではなく , ティーガー I また はなく , 中隊もあった。 また , 無線誘導戦車で編成されていたのは大隊だけで 大隊だが , それ以上の細かい内容は詳かでない。 いるものは , 第 300 以外に第 301 , 302 , 305 を加えて 4 コ これら無線誘導戦車大隊で , いまのところ確認されて みていただくことにして , こでは話を先へ進めよう。 この B Ⅳ装備の重戦車大隊の編成については , 別表を とよばれることになる。 導戦車装備 ) ー・—Schwer Panzer Abteilung (FKL) 車大隊の配備された重戦車大隊は , 重戦車大隊 ( 無線誘 じて各重戦車大隊に配属された。この場合 , 無線誘導戦 されている。 重戦車大隊 ( 無線誘導戦車装備 ) 戦車中隊 本部中隊 ( ティ ーゲル I X 3 ) 偵察小隊 工兵小隊 弾薬小隊 補給中隊 衛生小隊管理小隊 対空小隊 ( ティーゲル I >< 2 ) 中隊本部 戦車小隊 燃料小隊 BIV X 9 ティーゲノレ I X 4 整備小隊 (BIV><27) あくまでもこれは編成上の定数で、実際にはもっと少なかったと考えられる 25

2. PANZER 1978年7月号

3m / 90 8mm/17 8 m / 24 8 m / 幻 IO 熊宿 / 64 田 mm / 47 田 m / 79 0 0 5 十 8 / 円 / 40 5 十 8 , / 55 / 90 BIV Ausf. A 装甲厚と角度 さて , もし君がこの B Ⅳを 自作して ( といってもモデル の話。これから先はプラモに 興味のある人だけお読み下さ い ) , ティーガー I やⅢ号突 撃砲と組んだディオラマでも れアンテナを自作してつけて 戦闘室の後部にでも , それそ 上面にでも , Ⅲ号突撃砲では ティーガーの場合は砲塔の 追加するのを忘れてはならな や突撃砲に , アンテナを 1 本 の車輛 , すなわちティーガー 作ろうと考えた場合 , 誘導用 隊にそれそれティーガー I が 4 輛 , B Ⅳが 9 輛ずっ配備 され , これに整備小隊 , 輜重小隊 (BIV 9 輛の予備を持 つ ) などがついて中隊を構成した。 そして以上の他にもうひとつ , B Ⅳによって編成され た中隊が記録に残っている。それは第 319 中隊だが , い ままでの部隊とはやや異なり , ペアを組んだ戦車がティ ーガー I ではなく , Ⅲ号突撃砲が使用されていた。 この部隊についても細かいことは不明だが , 大戦も末 期になるとこのような編成が増えていったと考えるのが 妥当と思われる。主力戦車はただでさえ不足していたの だから。 以上の各部隊は , クルスク戦をはじめとして , 1944 年 夏のワルシャワの攻防や 12 月のアルデンヌ攻勢などに投 入された記録があるが , これもくわしいことはわからな い。しかし , はっきりとした記録が残っていないことか らみても , あまり成功したとはいえないようだ。 やれば , それで無線誘導車輛は完成する。しかし , Ⅲ号 突撃砲の場合では , 操縦室の横にアンテナを立てている 車輛の写真もあるので , あまりこだわることはないよう だ。 以上 , B Ⅳのこと , 部隊編成や投入された戦闘のこと などを書いてきたが , 今回もまた , 不明なところが多く てあまり役に立っことは書けなかった。今後 , この種の 車輛に関する資料の発掘を期待する , というのが筆者の 実感である。 今回使用した資料は次のとおり。 ・ Spezia1-Panzerfahrzeuge Motorbuch ・・ Aero ・・・・・・ Armor Series NO. 9 Sonderpanzer AFV News ・・・・・・ V01. 17 NO. 2 , 4 , V01. 9 NO. 4 型 車 車 型 種 式 B Ⅳ各 Schwerer Ladungsträger *Sdkfz 301 、 B Ⅳ A, B ( B 型はカッコ内 ) 生産会社 生産年代 ュ・ンシン ヴォルグバード 1942 ~ 1943 ヴォルグバード 6 M 2 , 3 R T B V 出力 ( Ⅳ ) 気筒容積 (cc) 全長 (n) 全幅 (mm) 全高 (m) 車体重量 ( んの 接地長 (n) 轍距 (n) 26 49 2247 3650 1800 1185 3600 ( 400 の 1790 1600 ヴォルグバード 1943 ~ 1944 ヴォルグバード 6 M 3 , 8 1600 1790 5000 1250 1830 4100 3745 78 のア 履帯幅 (mm) 履帯数 ( 片側 ) 接地圧 ( ん 9 / ) 回転半径 ( 川 ) 燃料容積 ( の 装甲 (mm) 車体前部 側部 上部 タ 130 11.5 0.66 55 200 爆薬 500 ん 9 : 路外 ( ) 125 1340 24 38 5 十 8 5 十 8 10 武装 超堤能力 ( ) 登坂能力 ( 。 ) 最高速度 (km/h) 航続距離 : 路上 ( 212 200 77 123 20 20 24 1340 爆薬 500

3. PANZER 1978年7月号

なすようにいった。 で進めないのだ。突破口を開くこと , これをやらなけれ 「はるばるノルウェーからやってきた第 85 歩兵師団が , ばいつまでたってもラチがあかない。若いカナダ第 2 軍 もう 2 ~ 3 日で到着します。そしたらまっ先にカーンと 団長サイモンズ中将は次の兵力をカーン市よりの南進に ファレーズとの間に投入する予定であります」 投入したのである。 「俺の師団は , もう 53 輛しか戦車が残っていないんだぞ カナダ第 2 歩兵師団 カナダ第 33 機甲旅団 この 53 輛の内容は , V 号戦車パンターが 40 輛と第 501 カナダ第 2 機甲旅団 重戦車大隊のⅥ号戦車ティーガー 13 輛だった。 カナダ第 3 歩兵師団 ( 予備 ) 当時ドイツの戦車師団は 50 輛よりなる戦車大隊が 2 コ イギリス第 51 ハイランド歩兵師団 だけになり下っていた。しかしヒトラー総統のお気に入 ポーランド第 1 機甲師団 り , S S の機甲師団だけは優先的に戦車を配置され , 80 カナダ第 4 機甲師団 輛で 1 コ大隊を編成していた。 このうち , カナダ第 3 歩兵師団はノルマンディーのジ つまり S S 第 12 機甲師団の戦車は 80 輛 X2 コ大隊 = 160 ュノー海岸に第 1 陣として上陸した部隊であり , イギリ 輛を定数とした。それがたった 50 輛に減ってしまったの ス第 51 ハイランド歩兵師団はエル・アラメインの砂漠で ロンメル大将の戦車を破った経歴を持ち , 第 2 カナダ師 だから , この 2 カ月間の戦いのすざましさがうかがえよ 団の半分は , 2 年前にチャーチル戦車 1 コ大隊をつれて ディエップ上陸に失敗した経験を持っ , 例の部隊だった マイヤー少将は腹をたてながらもフォルクスワーゲン ( 戦史シリーズ N 6 参照 ) 。 の人となり , 師団司令部へ帰ってきた。彼は 2 週間ほど このほかイギリス軍の特殊戦車部隊 , 第 79 機甲師団の 前の 7 月 , B 軍集団総司令官ェルウイン・ロンメル元帥 一部も応援に駈けつけた。その中にはチャーチル架橋戦 からいわれた言葉を忘れてはいなかった。 「マイヤー君。いそがしくて君の部隊を視察できないの 車 , チャーチル・クロコダイル火焔放射戦車 , 対地雷爆 が残念だ。しかしいずれ連合軍がカーン市から南へ進軍 破のシャーマン・スコービオン戦車などの部隊もふくま してくるに違いない。そのときにそなえてくれたまえ ! 」 れ , ものものしい限りだった。 事実 , ロンメル元帥の予想は当っていた。 8 月 4 日 , トータライズ作戦の発動 イギリス第 21 軍集団のモンゴメリー大将はカナダ第 2 軍 南のアメリカ第 15 軍団は , 1944 年 8 月 9 日 , 自動車レ 団に対し ースで名高いル・マン市に到着 , そこから東へ進出し 「 4 日後 , カーンから南へ打って出よ」 た。すでに 2 日前 , カナダ第 1 軍のうちの第 2 軍団が北 と命令していたのである。 のカーン市からファレーズ市へ南下し , ハウサー上級大 いわゆる「トータライズ作戦」だ。 将のドイツ第 7 軍をハサミ打ちにしようとする。あたり ドイツ軍は南に退いてこの 1 カ月間に防衛を固めてい 一面はよく実った小麦の畑だ。 た。地雷原も広く , あちこちには 88 対戦車砲もかくさ すでに 8 月 7 日 , 641 機の重爆撃機がドイツ軍陣地を れているらしいことが偵察機の写真で判明した。 爆撃している。夜の 11 時 , イギリス第 2 軍団の砲兵はい しかしそれを承知で , あえて南進しなければドイツま 93

4. PANZER 1978年7月号

, 晉 : 畍 5 洋 く戦史シリーズ No. 35 > IHIISTOIQY ー最後のかなめ ノノレマンティ ファレーズの突破 木俣滋郎 Falaise Break Through 甲師団は第 21 機甲師団 , 教導機甲師団とともにノルマン S ノルマンディー上陸のあとに ディーの南のカーン市の防衛にあたったものだった。だ ドイツ SS 第 12 機甲師団長 , クルト・マイヤー少将は が彼の部隊は燃料がなくなり , やむなく南へ敗走してき 自分の部隊を誇りに思っていた。なにしろ , 隊員の平均 た。あのときのくやしさといったら筆舌 ( ひっぜっ ) に 年齢は 18 歳と陸軍の機甲師団の兵員に比べて若く , 皆元 つくしがたい。それから 2 カ月が経過したのだ。 気で張りきっている。そのかわり , 将校や下士官にはべ わずか 35 歳の機甲師団長クルト・マイヤー少将は若い テランをあてていた。 ときからヒトラーに心酔し , 彼を神様のように尊敬して 士気は高く , 師団のあだ名は「ヒトラー・ユーゲント いた人物だった。 24 歳のとき , ヒトラー総統の親衛隊 , ( 少年団 ) 」だった。 1943 年に編成されたばかりの新鋭 SS に入隊したすじガネ入りである。 で , 戦車や火砲なども他の部隊より優先的に配置されて 「早くグーデリアン大将のような戦車戦の権威になりた いた。そして , ベルギーでⅣ号戦車の最新型や V 号戦車 い ! 」これが彼の望みであった。 パンターを教材に , 訓練を終えたばかりのドイツのエリ マイヤー少将はカーンの南東 30 にあるファレーズ市 ート部隊なのだ。 の S S 第 1 軍団司令部を訪れた。ところが驚いたこと 5 コ師団が全てオルヌ川の西岸に配置され , 東岸に クルト・マイヤー少将自身は , オートノくイや偵察用の に あるのは彼の S S 第 12 機甲師団と疲れきった第 89 歩兵師 装甲車に乗って対ソ戦を経験してきただけで , 機甲師団 を指揮したのは 2 カ月前 ( 1944 年 6 月 ) のカーン市の防 団だけだというのだ。 「そんなバカなっ ! 」 衛戦がはじめてだった。 あのノルマンディー上陸阻止のとき , 彼の SS 第 12 機 腹を立てるマイヤー少将に対し , 参謀のひとりがとり 袈 ' 舷 2 92

5. PANZER 1978年7月号

いた。だがこれまた先ほどの空襲で反撃の余力を失って めた。ところが戦闘機は混乱の中で敵味方の区別がつか いる。 ず , 8 月 8 日の午前中には味方を爆撃してしまったのだ。 カーンの南東 30 の古都ファレーズにあったドイツ S 恭一ランド兵 8 名が戦死し 28 名が負傷しただけはなく , S 第 12 機甲師団長 , クルト・マイヤー少将はさけんだ。 予備兵力のカナダ第 3 師団長ケラー少将までが負傷して 「偵察隊を出せっ ! 。第 89 歩兵師団と連絡をとれッ ! 」 後送されたほどだ。 やがて疲れきった第 89 師団の歩兵があちこちから逃げ てきた。このままだと戦線はすぐ崩壊してしまう。 「ドイツ軍の地雷はないようです。偵察機の報告は誤っ マイヤー少将は車の中から鞭を振ってさけんだ。 ていました」 「馬鹿めッ ! 戦線はあっちだそ ! 」 「よし , じゃまになるから地雷除去戦車を下げろ」 逃げ腰だった歩兵たちは , やっとわれに返った。彼ら ところがこの最中に , 西の森からティーガーが , 東か はたがいに顔を見合わせて , 数名ずつ北へ向ってしぶし らはパンター 15 輛が現われた。彼らは必死に防戦 , シャ ぶと U ターンしていった。 ーマン戦車をつぎつぎと破壊した。吹飛んだ M4 はあち やがて , 敵戦車がやってきたという報告で , マイヤー こちで黒煙をあげはじめた。いまこそチャンスである。 少将はすかさず歩兵 200 名をつれたティーガー 2 コ中隊 早く味方の歩兵がきて戦果を拡大し , 敵を北へ押し返さ を北上させた。さすがティーガーは劣勢にもかかわらず なくては ! よく頑張り , カナダ軍を喰止めた。 「師団長 ! ノルウェーから来た第 85 歩兵師団の参謀か 「タイガーだッ ! 」 ら電話であります ! 」 カナダ第 4 機甲師団の戦車兵の顔がサッと青ざめた。 クルト・マイヤー少将を喜ばせたのは , このときタイ 彼らのシャーマン戦車の 7.5c 加砲は最厚部 IC のティー ミングよく ガーの装甲には歯がたたない。 「新着の第 85 歩兵師団の先頭 , オートバイ 2 コ中隊がや 「わが師団随伴中隊もポーランド第 1 機甲師団の先頭を がて戦場に近ずく」 敗走させました ! 」 というニュースだった。オートイで駈けつけた部隊 よいニュースにクルト・マイヤー少将はニッコリとう は軽装備だが戦車と協力し , 8 月 8 日の昼には , ポーラ なずく。ポーランド部隊はあわてて戦術空軍に救援を求 ンド第 1 機甲師団のシャーマンとチャーチルとを撃退し 95 を、

6. PANZER 1978年7月号

「 7 月 10 日より 15 日までの間 に , フォン・マンシュタイン 元帥の率いる兵団は , ドネッ 河 , プゼル河 , サイム河 , ヴ ォルスカラ河の分水界にまで 到達することに成功したが , 攻勢はそこでカつきた。攻勢 は , ベルゴロド / オポャン道 路上のシェベキノとゴンキの 森林付近で停止した。 後にコーネフ将軍は , ドイ ツ戦車部隊の『白鳥の歌』に ついて述べている。 攻勢を行える最後の部隊は 炎上し , 屑鉄と化した。ドイ ツ戦車部隊の背骨は断ち折ら れたのだ」 命中 / ソ連軍の対戦車砲火に撃破されるⅢ号戦車 これに関連することで , 戦 後の西側史学で広く信じられ ている考え方についてここで言及するのが適切だろう。 よ , 待ちに待ったソ連軍の大反撃がはじまるのである。 クルスクの戦いに関する事実を論証するにあたり , 外国 ソ連軍の反攻 の歴史家の一部は , アメリカ , イギリス連合軍が 1943 年 クルスクの突出部に , 強力な防衛陣地を構築するのと 7 月 10 日にシシリー島上陸を行ったために , ドイツ統帥 部がクルスクにおける攻勢作戦を中止したと主張してい 同時に , ソ連軍司令部はオリョール地区とハルコフの北 方に集結した敵部隊を撃滅するための反撃部隊の準備を る。実際の状況は , ドイツ軍の攻撃部隊がソ連軍の防衛 行っていた。この反攻は , すでに直接敵にぶつかってい 線で撃破され , 西部およびプリャンスク両方面軍の反攻 る部隊 ( ヴォロネッおよび中部両方面軍 ) だけでなく , のために独ン戦線で戦略的守勢をとらざるを得なかった 防衛作戦地域から離れて準備された部隊 ( 西部 , フ・リャ ことを示しているのである。 ンスク , ステップ各方面軍 ) も加わった大部隊によって 西側の歴史家の主張の背後にある目的は , 地中海にお 行われる予定であった。 ける限定された規模の作戦の重要性を誇張し , その作戦 をョーロッパにおける実際以上に重要な戦いとみせかけ ソ連軍はクルスクの作戦で , これまでのどの作戦にも ることにある。 増して大きな兵力を投入することが可能になっていた。 事実はこの考え方が嘘でぬりかためたものであること モスクワやスターリングラードでの攻勢のときには , そ を暴露する。ドイツの政治および軍事指導者は , 独ソ戦 れそれ 3 コ方面軍で闘われたのに対し , クルスクの攻勢 線に大きな重要性を与えていた。そのために , 鹹塞作戦 作戦には 5 コ方面軍が投入され , しかも , その当時ソ連 に大きな希望をかけ , 最後までそれを遂行しようと戦っ 軍が持っていた 5 コ戦車軍の全てが含まれていた。 たのだ。 細部までよく練られた計画により , ソ連軍部隊は防衛 独ソ戦線からイタリアに兵力を移動させた問題は , ド 戦闘の終了と反攻作戦の開始との間に , 空白期間をおか ィッ軍がソ連軍の攻撃を受けて後退している時期に生じ ずにすんだ。西部方面軍とプリャンスク方面軍の左翼の た。しかし , その時期においてすら , ドイツ軍が非常に 部隊は , これまでの戦闘には参加していなかった新しい 限られた兵力で戦闘を行っていたイタリアに兵力移動を 部隊で , 7 月 12 日に攻勢をはじめ , 中部方面軍右翼の各 行う代わりに , 独ソ戦線に兵力を残しておく決定が行わ 部隊は 7 月 15 日に攻勢を開始した。ヴォロネッ方面軍は れている。 予備部隊により増強され , 7 月 12 日 , 強力な反撃に転 ドイツ軍の最精鋭部隊から編成された , 恐るべきドイ じ , 8 月 3 日にはステップ方面軍とともにベルゴロド / ツ戦車部隊の突撃を阻止したのは , ソ連軍兵士の忠誠と ハルコフ方面に対する反攻に突進した。 勇気と戦闘技術であった。その成果は , 独ソ戦線におけ クルスク突出部におけるソ連の反攻と呼応して , 突出 るドイツ軍の攻勢戦略に終止符を打ったことであった。 部の南北でも 2 つの大規模な攻勢作戦が行われた。すな そして戦いはこれで終わったのではなかった。いよい わち , 7 月 12 日から 8 月 18 日までの間に行われたオリョ 85 洋ご

7. PANZER 1978年7月号

を、を : ( をミ第一 から , ほんとうに , みんな耳がガーンとしてしまってい 戦闘の推移を見守っていたソ連軍司令部は , 時期をみ たのだ・ はからって後続の歩兵部隊と第 5 機甲軍団を投入した。 南の方では , 爆発の土煙で地平線は見えなくなった。 この結果 , 攻勢第 1 日が暮れかかるころまでに , ソ連軍 砲弾の炸裂で , 大きな土の塊が空中に投げ上げられ , 引 は敵の防衛第 1 線を突破し , 深さ 8 ~ 10 の進出を行な 力の法則に逆って空中にとどまっていた。爆発で空中に い , ウリヤノヴォ地区にある敵の第 2 線陣地に達するこ 吹き上げられた土の粒子が地上に舞い降りる前に , 次の とがでぎた。 ポルコフ方面に向かっていたプリャンスク方面軍所属 騨着が巻き起こす爆風と土の塊が , それをもっと上空に の第 61 軍は , ドイツ軍の死にものぐるいの抵抗に遭遇し 吹き上げてしまうのだった」 準備砲撃は午前 6 時 5 分まで 2 時間 45 分も続いた。め た。だが幾度となくくり返される敵の逆襲をはね返しつ ん密に作られた計画にしたがって , 砲弾はスキ間なく敵 っ , 第 61 軍はじよじょに前進した。 陣に落下した。そして , ソ連軍の歩兵と戦車の突入路を フ・リャンスク方面軍所属の第 3 軍と第 63 軍の進攻地区 開くため , 2 ~ 3 分ごとに弾着点が 100 川ずっ伸ばされ でも , 強力な準備射撃が行われた。 4000 門をこえる火砲 て行く。 と迫撃砲が投入され , 同時にソ連空軍が敵に猛撃を加え すさまじい砲撃と航空攻撃のおかげで敵軍は圧倒され た。砲兵の掩護下でソ連軍歩兵はズーシャ河を渡り , 敵 の前方防禦線に接近し , 戦車の支援を受けて敵の第 1 線 てしまい , 第 11 親衛軍の攻撃担任地区では , 全く組織的 陣地に突入 , ざん壕内を掃射した。 な抵抗はできなかった。敵の防禦施設の大部分は破壊さ 猛砲撃のために , はじめのうち敵の抵抗は弱かった れ , 対戦車陣地は粉砕され , 砲兵は沈黙した。 が , まもなく戦闘機に護衛されたドイツ軍爆撃機の大編 大地をゆるがす砲撃とびったり呼吸を合わせて移動し 隊が戦場上空に姿を現わし , 次から次にソ連軍地上部隊 ていた歩兵と戦車からなる攻撃隊は , 敵の陣地に躍りこ に攻撃を加えた。すさまじい空中戦が展開された。同時 んだ。すばやく突進し , 敵のざん壕に掃射を加える。 にドイツ軍司令部は予備隊を駆り立て , 部隊を戦闘隊形 進攻地区では敵の抵抗は弱く , 組織的ではなかった。 に展開する時間をおしむかのようにどんどんと戦闘に加 敵の断固とした抵抗がないことを利用して , ソ連軍は猛 入させていた。ソ連軍の進撃速度は急速に低下した。 攻を続け , 間もなく敵の第 1 防衛線の抵抗中心を奪取し 7 月 12 日の夜まで , ドイツ軍の第 2 防衛戦をめぐる戦 た。ソ連空軍は戦場上空の航空優勢を確保していた。 いがくりひろげられた。ソ連軍の猛砲撃に耐えぬいた砲 しかしながら , その日の後半になるとドイツ軍の抵抗 兵陣地や防衛拠点がそーーーに現われ , 投入された予 は突如として力を盛り返した。敵はその予備兵力を戦闘 部隊といっしょに , ソ連軍部隊の前進をはばむ。それで に投入しはじめたのである。ドイツ空軍もしだいに活動 を開始した。第 11 親衛軍の進撃地帯における地上戦闘 も , ソ連軍の前進は続いた。 ( つづく ) は , 苛烈を極わめてきた。 前進するティー ゲル I 型。ソ連 軍の強力な防禦 障地に対して , ドイツ軍は再三 突破をこころみ 87

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ュース 第 参加することを望んでいる。 S P 70 に対して , アメリカがどの 程度のことを考えているかは明らか でないが , この中し入れは好意的に 受け入れられ , 近々最初の会談が持 たれるはずである。 ◆ N A T 0 の演習を ソ連の将軍が視察 ! 伝えられるところによれば , 今年 の秋に行われる予定の NATO 軍定 期演習を , ワルシャワ条約機構を代 表するソ連の将軍とポーランドの高 級将官が見学するという。 これはワルシャワ条約 , N A T 0 側ともはじまって以来のことだが , 昨年のソ連軍の演習が西側の軍人に M60A1 砲塔後部のスズキのオートバイ 公開されたことに対する見返りの意 架 , 射撃統制装置や砲塔駆動関係の 改造 , 砲弾をはじめとした車内配置 味もあるかもしれない。 スズキのオートバイが採用に アメリカの戦車部隊の元じめ , 機 の調整などである。 甲学校 ( 在フォート・ノックス ) で 生産の分担は , 砲と砲尾はウォー スエーデン陸軍は , アメリカから かねてから試験中だった戦車部隊へ タープリート工処が , X M 1 の主生 TOW 対戦車ミサイルを買入れると 産会社であるクライスラー社が砲架 公表した。ミサイルの総数 6700 発 , のオートバイ導入がこのほど決定 , と駐退機関係となっているが , 砲弾 そのメーカーに日本のスズキが選定 ランチャーが 340 基にのぼるこの買 のメーカーはまだ決まっていない。 物で , スエーデンは , イタリア , 西 された ( 昨年 11 月号参昭 ) 一方 , 先月号のカラー・ページに ドイツ , トルコに続いて , T 0 W を これは , 中隊長 , 小隊長の乗る指 揮官車の砲塔後部ススケットに小型 も載った X M 1 のパイロット・モデ 購入する 4 番目の国となる。 ル 11 輛は , つい最近完成して試験が ◆在東ヨーロッパのソ連陸軍 のオートイを積むというもので , はじめられている。テストは , テキ 機械化師団の装備を更新中 戦場に展開した部隊間の連絡や報告 サスリ、日のフォート・プリス , メリー 西側の情報筋によると , このとこ に使うもの。無線の使用が制限され ランド州のアみ、ディーン試験場ケ ろ東ョーロッパに配備されているソ たり , どうしても直接報告や確認を ンタッキーナ日のフォート・ノックス 連軍の師団のうち機械化歩兵師団の 行わなければならないとき , いまま 戦力の増強が目立っているという。 で今年いつばいは続けられる。 でのようにテクテクと歩いていたの ひとつには , 新型の T72 戦車の配 ◆ S P 70 計画にアメリカも参加 ? ではとてもたまらないとして , オー トバイがとり入れられた。 西ドイツ , イギリス , イタリアの 備が機械化師団を中心に行われてい 3 国が共同で開発している SP70 ・ ることが指摘されているため。これ なおこのオートバイは , 125CC ク 155E 自走砲の計画に , アメリカが は , いままで機械化師団の戦車戦力 ラスのものである。 ◆アメリカ , 120E 砲のテスト開始 アメリカ陸軍が , XMI 戦車に搭 載する予定の西ドイツ , ラインメタ ル製 120E 滑腔砲のテストを , いよ いよ開始することになった。もし , テストと改修が予定どおり進めば , 1984 年からの生産型に搭載されるこ とになっている。 XM 1 戦車にこの砲を搭載するに あたって , システム全体にいくつか の改修が行われるが , そのための予 算は総額 1 億 4200 万ドルにのぼると みられる。改修の内容は , 新しい砲 試験用砲架にのせられた 120 滑腔砲 1 OO ◆アメリカの戦車部隊に ◆スエーデンが TOW を購入

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10. PANZER 1978年7月号

ール作戦と , 8 月・ 3 日から 23 日までに行われたベルゴロ 車 , 自走砲 2360 輛 , 航空機 3000 機で , 兵力で 100 % , 火 砲が 200 % , 戦車 , 自走砲では 170 % , 航空機が 200 % , ド / ハルコフ作戦である。 とそれそれドイツ軍に勝っていた。 オリヨール作戦 クルスクの攻勢をはじめるずっと以前に , ドイツ軍は 7 月 12 日 , クルスク戦の流れが変わった。ソ連軍が攻 オリョールの攻撃開始地区を , 重要地域とする指定を行 撃に転じ , ドイツ軍は防禦態勢に入ることを余儀なくさ い , 強力な防禦陣地を構築していた。主防禦線は , 非常 に強固に要塞化された抵抗中心と , 全周防禦用に設計さ れた。 ドイツ軍にとって , とくに危険な状況がオリョール地 れた砲兵陣地で構成されており , これが , 小さく区分さ ーを守備するドイツ軍部隊は , 奇 れたざん壕と相互に連結していた。主防禦線は 5 ~ 7 区で展開していた 襲攻撃をかけたフ・リャンスク方面軍と西部方面軍左翼部 の縦深をもち , 重要な地点ではその縦深は 9 におよん 隊の強力な圧力をまともに受けることになった。 でいた。 敵は , オリョールにおける攻勢開始地区に強力な部隊 ソ連軍最高司令部は , まずオリョール攻撃開始地区の を持っていた。ソ連軍の反攻が開始されたとき , この集 防禦陣地を撃滅し , そこを守備する敵の第 2 戦車軍と第 団は 37 コ師団で構成されており , その内訳は歩兵 27 コ師 9 軍を殲滅することから , 攻撃を開始することに決定し 団 , 戦車 8 コ師団 , 機械化 2 コ師団だったが , 歩兵師団 たのである。 の 3 分の 1 以上と戦車師団の大部分は , 攻勢作戦中にそ カコロフスキー将軍の率いる西部方面軍は , ポルコフ の戦力を消耗しぎっていた。オリョール地区の敵集団の 方面に第 11 親衛軍を投入することにより , 左翼に猛攻を 兵力は 40 万名 , 火砲約 6000 門 , 戦車 , 突撃砲 1000 輛で , I ・バグラミャン将軍の率いる第 11 親衛軍 加えていた。 1000 機以上の作戦機の支援を受けていた。 は , フ・リャンスク方面軍の右翼部隊とともに , 敵集団を この集団を撃滅することは大変な任務であった。しか 包囲・殲滅することになっていた。さらに , 第 11 親衛軍 し , 反攻開始時までに , ソ連軍はオリョール戦区におけ の一部をもってカチューネッ地区の鉄道とオリョール / る敵に対して数的な優勢を確保していた。作戦を行う西 フ・リアンスク間の道路を遮断するため , 南方に攻撃を加 部方面軍の左翼部隊 , プリャンスク方面軍および中部方 えることも計画された。 面軍の右翼は , 兵力 80 万名以上 , 火砲約 19 , 500 門 , 戦 M ・ポポフ将軍の率いるプリアンスク方面軍は , 東方 でオリョール付近の敵防禦線を突破するための準備にあ たっていた。第 11 親衛軍の一部とともに , 第 61 軍 (P ・ ・べロフ将軍 ) はポルコフ方向に攻撃を行い , 前方地域 における敵の包囲・殲滅にあたることになっていた。第 3 軍 (A ・プルトフ将軍 ) と第 63 軍 (V ・コルパキ将 軍 ) は , オリョールを南北より包囲し , ノヴォシルから オリョールにかけて敵に猛攻を加えつつあった。 反攻を開始するにあたり , K ・ロコソフスキー将軍の 指揮する中部方面軍は , その右翼軍により , ソ連軍陣地 に深く侵入している敵を圧迫して退却させ , 次いで南方 および南西方向でオリョール地域の敵集団を包囲するた めに , クロミイ方面から北西方向に攻勢を行うこととな った。そして , プリャンスク方面軍と西部方面軍ととも に , 中部方面軍は敵集団を潰走させる予定であった。 7 月 12 日午前 3 時 20 分 , 西部方面軍の進攻地域に対し て , すさまじい砲撃と航空機による事前攻撃が開始され た。砲撃は , これまでに前例のないほどよく計画された 強力なものであった。このはげしい準備射撃を目のあた りにした戦時報道班員 Y ・ヴォロフ・イエフは次のように 描写している。 「斉射する砲門から吐き出される爆風はすさましいもの だった。みな , 岸に投げ出されて気絶した魚のようにロ をあけたままでいる。人間の聴覚は地獄のような騷音 , 轟き , ものすごい振動に耐えるようになっていないのだ をー名を 4 雨あがリのドロ道を戦線へ向かうドイ ツ兵。大機甲部隊同士がぶつかったク ルスクでも , 馬は責重な戦力だった 86