① 之 : おロ呀 ② ◇ 4 お願いして , 陸上自衛隊用のスフ。レーカラーでも発売し 導団の 74 式である。 てもらいましようか ? 北海道の第 7 師団などでは , 冬期に雪中での迷彩効果 さて , 陸上自衛隊の車輛は , 車体前部右側と後部左側 を高めるため砲塔を白布でおおったりするが , 白色塗料 に車輛登録番号 , その反対側に部隊標識が記入され , 車 を用いた迷彩塗装はあとで落とす手間をきらうためか , 体前面中央に陸自をあらわす桜の花が描かれている。 行われていないようだ。 の桜は中央に描けない場合は右側に描くようになってい それでは , ひとつひとつの解説に入ろう。 るが , とうぜん戦車 , 自走砲 , A p C などではこのよう なことはなく , 中央部に輝いている。色はいずれも白。 第 1 師団は関東地方に展開する東部方面隊の主力とも 登録番号は 6 ケタの数字で書かれ , 最初の 2 ケタが車 いうべき部隊で , 74 式戦車は第 1 戦車大隊の本部と , 第 種 , 次の 1 字が個々の車種 , 最後の 3 ケタが車輛番号に 2 戦車中隊に配属されているが , 今後 74 式戦車の増加と なっている。例を見ると , 最初の 90 が戦車 ( ちなみに 91 ともにこの編成も拡大されるものと思われる。同隊の 74 は APC, 92 は自走砲となる ) を示し , 次の 7 が 74 式戦 式戦車には固有のマーキングはなく , 砲塔に日の丸が描 車をあらわす ( 7 は M42 にも使われていたが , 74 式にも かれているだけである。車輛登録番号は 90 ー 7010 , 部隊 重複して使用されている。これは M42 の数が少く , 近く 標識は 1 戦ー 2 となっている。なお , 大隊本部車の例をあ 退役するということも手伝っていると思われる ) 。そし げると , 90 ー 7016 , 1 戦一本というのが確認できる。 て最後の 073 が車輛ナンバーというわけだ。これらの数 ②第 2 師団 , 第 2 戦車大隊 , 第 4 中隊所属車 字はアラビア数字で , 直立ゴシック体が使われている。 第 2 師団は第 5 師団 , 第 7 師団 , 第 11 師団とともに北 部隊標識は , その車輛がどの部隊に所属しているかを 部方面隊 ( 北海道 ) に属し , 北の守りを担当している。 示すもので , 略字が用いられるが , これは個々の例を見 北海道では全師団とも 74 式の戦車中隊を持っという強力 ていただけばおわかりになると思う。写真の例は戦教 4 なものである。現在第 2 戦車大隊は 3 コ中隊に 74 式戦車 で戦車教導大隊第 4 中隊を示すわけだ。字体は J 1 s 規 が配備されており , 塗装例は第 4 中隊所属車をとりあげ 格の丸ゴシック体となっている。書かれている位置はや てみた。砲塔右側にはターレットナン / く一が 468 と記入 や変っているので注意を要する。これは後部についてだ され , 左側には 2 本の棒が入ったヒシ型と , 4 の数字が が , 他の戦車と富士教導団の 74 式以外は総て左側に登録 書れており , どちらも色は白。ターレットナンバーは最 番号 , 右側に所属部隊が記入されているが , 富士の 74 式 初の 4 が第 4 中隊を示し , 次の 68 は車輛番号を意味して 戦車だけはこの左右が入れ違い , 左に部隊 , 右に番号と いる。ヒシ形のマークは 2 本線で第 2 戦車大隊を表わし なっていることだ。写真の例は , その例外となる富士教 4 は中隊のとおし番号となっており , 車番は 90 ー 7168 , 101 ①第 1 師団 , 第 1 戦車大隊 , 第 2 中隊所属車
敵障に必殺の砲弾を射ちこむ日本軍の 81 迫撃砲。オーストラ リア軍は戦車を前面に押し立て , 日本軍は苦戦を強いられた。 だった。そこで安達中将は第 20 師団に対し , 話は 6 年前の 1937 年 ( 昭和 12 年 ) にさかのぼる。イギ 「 38 式小銃はしばらくおき , 全員スコップを持ってラエ リス陸軍技術部は , 「スヒ。ードは人の歩く早さでよいか にいたる山の中の道路の設営にあたれ ! 」と命令した。 ら , そのかわり装甲がじゅうぶんに厚くて敵の弾をハネ 将来 , 戦車やトラックが縦横に走れるようにするため 返すことのできる」歩兵協力用の戦車 , Mk. Ⅱを設計し だ。マラリヤ蚊と食糧不足とに悩みながら , 朝鮮からや た。 Mk. Ⅱは 3 年前の Mk. I を改めたものだが , 外観は ってきた第 20 師団は不平をこぼす。 似ても似つかないものとなってしまった。 「俺達は土方じゃあないぞ ! 」 はじめ A12 とよばれていたこの歩兵用戦車は , 1940 年 この間 , ラ / くウルから軍需品を積んで西航してくる船 に北フランスでドイツ軍と戦ったとき , 最大 78 新の装甲 団は , ポートモレスビーから発進するアメリカ第 5 空軍 のおかげでドイツの軽い対戦車砲弾などにビクともしな のため片端から撃沈されてしまう。いまや第 18 軍全体が かったため , ドイツ兵を恐怖に陥入れた戦車として知ら 島流しとなった格好だ。第 18 軍は戦う前に食樶不足と風 れている。先の Mk. I は時速 15 という鈍速だったため 土病とで疲れきってしまった。 アヒルのようにタ / くタ歩くことから「マチルダ姫」と 第 6 飛行師団 ( 洋兵団 , 板花義ー中将 ) の一式戦闘機 アダ名された。 Mk. Ⅱの方も , さほど遅くはないのだが 隼も進出してはいたが , 数が少いうえガソリンや整備用 Mk. I と同じくマチルダとよばれてしまう。もしかした ら , その昔ヘンリー I 世のお后は足が遅かったのかもし の部品が到着しないので活動は思うにまかせなかった。 れない。 ドロ沼と化した東ニューギニア ( パプア島 ) の戦線を 強化すべく , 南西太平洋方面連合軍司令官ダグラス・マ 1942 年 , マチルダは北アフリカの砂漠でイタリア軍や ッカーサー大将はオーストラリアで新設の第 6 軍司令官 ロンメル軍団を相手によく活躍した。しかし日本軍がオ クルーガー中将と作戦を練っていた。第 6 軍ははじめ ーストラリア北方にあるニューギニア ( パプア島 ) に迫 ったため , イギリスは貴重なマチルダを船に積んでオー アメリカ第 32 , 41 師団 ォーストラリア第 7 , 第 9 師団 ストラリアに派遣したのである。 の 4 コ師団だけからなる小兵力だった。 マレー半島で日本軍に降伏したオーストラリア第 8 師 団は , 戦車を全く持っていなかった。けれどもニューギ ワルツを踊るマチルダ姫 ニアの第 7 , 第 9 オーストラリア師団は , ほんの「雀の 95
は天子の行列に加えられたと いう。つまり道を誤らないた めだが , 中国人は方角を一種 の縁起ものとして重要視した ことから生じた車輛だろう。 現在 , 北京の歴史博物館には 指南車が模型となって復元さ れているという。 インドでは , いぜんとして 象の重戦車が続いた。西遊記 のモデルとなった玄弉三蔵 ( げんじようさんそう ) の「大 唐西域記」によれば , 「イン ドのハルシャ ( 戒日 ) 王は象兵 イタリアの水陸両用戦車。大きな水力キが車体横についている 6 万を持つ」と書いている。 を水密構造にできるか ? が問題であろう。 玄弉の旅は紀元後 629 年 ~ 645 年だが , 645 年といえば 1916 年 , イギリスに初のタンクが出現したとき , 「陸 日本の大化の改新の年だ。注目すべきは 900 年前のアレ 上軍艦 ( ランド・シップ ) 」とよばれたことを考えると , キサンダー大王時代と異り , 象自身が装甲を張っていた 帆船の下に車輪をつけたこの近世初期における木造の水 ことだ。つまり象が鎧を着ており , 矢を防げるよう考案 陸両用戦車は , まさに「ランド・シッカの言葉そのも されていたのである。もちろん目の部分は穴が開いて前 のといえよう。 方が見えるし , 首や鼻のあたりは自由に動けるようにな っていた。ただし脚の部分は「裸」の無防禦である。 ↑東洋の場合 の象戦車は 18 世紀までインドで使用されたという。イン 中国でも , チャリオットが活躍したのは春秋時代まで ド象はアフリカ象よりおとなしいし , いうことを聞くか であり , 次の戦国時代に入るとあまり使用されなくなっ らであろう。 たことはすでに述べた。しかし戦車ではなく指南車 ( し 戦象はひとりインドのみならず , 他の地方でも使われ なんしゃ ) が戦国時代より 400 年ものちの南北朝の時代 た。 17 世紀の初頭にシャム ( 現在のタイ ) に渡って大守 紀元後 470 年ごろー - ーーに出現したことは注目に値し となった山田長政も , 敵の象戦車に悩ませられたことが よう。 ある。 指南車とは方向を知る機械を乗せた 2 輪車である。ロ ↑朝鮮役における日本の戦車 ンメルのアフリカ軍団の例をあげるまでもなく , 砂漠の 戦いで正しい方向を知ることは戦術上重要なことであっ た。中国の宿敵である北方の異民族 , 匈奴 ( きようど ) との戦いも , やはりモンゴル高原やゴビ砂漠が戦場とな る。したがって , 南の方向を指さす人形を乗せた指南車 は , 野戦指揮車として必要不可欠な兵器といえよう。こ れは戦闘用車輛ではないから , 各方面部隊の司令官に 1 台づつあればよろしい。 人が引いて走る指南車は , 永い間磁石の原理を応用し たものだと思われていた。だが実際には磁石と無関係で あり , 南に向っていた車輪が東を向くと変化した角度だ け歯車をつうじて逆方向に人形が向くように工夫された 機械てあった。 一般に指南車は 470 年よりももっと古くからあったよ うだ。後漢時代 ( 紀元後 1 ~ 2 世紀 ) の張衡や , 三国志 でおなじみの三国時代 ( 220 ~ 280 年 ) の馬釣により作ら れたともいわれ , 晋の時代 ( 紀元後 316 年まで ) 以降に 0 軍艦に車輪をつけた水陸両用戦車。もちろん考えだけだ
造ってしまった。だから , 陸軍には予算がまわされなか ったのである ! なおこのころ , 大砲は大いに発達したので参考のため 性能の一例をあげておこう。砲身の長いサーベンタイン 砲 ( 小砲 ) の場合 , 重さ 200 ん 9 , 砲弾の重さ 0.25 , 砲 の内怪 37E , 砲身の長さ 90 , 有効射程 220 川 , 最大射 程 900 といった具合であった。 ↑水陸両用戦車のアイデアも現われる ゆ・、イ第心 このように , 16 世紀に入っていろいろな型の戦車が出 現すると , 「もし河に出会ったら使いものにならない」 という問題に直面した。以前 , アッシリアのチャリオッ トが渡河のさい , 羊の皮で作った浮き袋を右に結んで 浮力を得たことをのべたが , 近世に入るともうこんなコ ソクな手段では不可能となる。 そこで , 水陸両用戦車の概念が生まれた。 1588 年とい えばスペイン無敵艦隊が全滅した年だが , この年 , ある 4 輪戦車隊を作リ上げたヘンリー 8 世 イタリアの技術者が , 図のような水陸両用戦車を考案し 用サーベンタイン砲でたたく。スコットランド兵の突撃 た。この戦車は 4 輪車で , 右に水かきがついており , は何回もくり返されたがこれを撃退し , 1 万人のスコッ これで水上を前進する。動力としては人力が用いられ トランド兵を戦死させたという。 た。武装は軽砲 2 門が車体の前面に並べて装備されてい これまた戦車がどのように活躍したかの記録はない。 るが , この種の装備方法は 1915 年のイギリス戦車第 1 号 一説には戦車ではなく , 18 名までの歩兵を乗せる輸送車 ( ただしリトル・ウィリーの場合は砲 リトル・ウィリ だったともいう。 ではなく機関銃だが ) と同じであった。大砲はよほど小 イギリス側の犠牲も大きかったが , 危機はどうやら回 さなもの一一船でいえば甲板の手スリに固定して射つ型 避された。それならへンリー 8 世は例の戦車隊を拡充し でなければ発射のときの反動で車体が傾いてしま たか ? というとさにあらず。海の向うのフランスとの う。とにかく小さな軽砲でも敵兵に与える心理的影響は 戦いを経験した王は , ありったけの予算を投じて海軍を 大したものに違いない。 また左右からくる敵兵に対 しては , 側面の上部に 6 コの 銃眼がうがたれている。側面 より上方へ上る階段などは中 世の城にみられる型だ。しか し多くの夢想的な戦車デザイ ンと同様 , アイデアはよいが これを動かしうる機械力に欠 けるため , 人力推進のイタリ ァ水陸両用戦車は単なる空想 におわっている。 もっと巨大なのは帆船の下 に 4 輪をつけた水陸両用戦車 である。「水の上で走れるの だから , 車をつけさえすれば 陸上でも走れるに違いない」 という単純な論理を進めたも のであろう。 2 本の車軸にか かる数百トンという重量を無 視しているし , 車軸のあたり い・ 第 ヘンリー 8 世の戦車。馬も装甲でおおい , 兵士は銃を持っ了 2 階に乗る 90
の域を出なかった。 また F k38 と同様に 4 連装化し たものもあり , これは 3 Flakv:- erling 103 / 38 として少数が生産さ れている。 ( 4 ) 3.7 Flak 43 ラインメタル・ポルジーク社によ って開発されたもので , 前記した M K103 を大型化して , 3. 7c 加 Flak36 の砲架に載せたものである。 MK103 より砲身はやや長くされ , ライフリングのヒ。ッチも多少急にな った。また , 砲耳は砲の重心近くに 下げられたため , 砲耳の近くになっ た給弾ロへの送弾は砲がどのような 角度になっても楽に行えるようにな り , また弾丸クリップが発射によっ 8.8 礪臼 ak41 を搭載した試作車。 1943 年に造られた て減っていくことから起こる / くラン Flak43 ( ならびに連装型 ) は当 砲の 2 本柱としていたが , その中間 スの変化も少なくなり , 操作 , 照準 初ウーベークノくイザー 43 を照準器と をカバーする中口径砲の必要性が生 ともに楽になったのが特徴といえよ していたが , 1944 年なかばからはよ じたため , 1935 年からラインメタル り簡単で , 低空を高速で飛行する攻 社で開発が開始されたのが 5 F lak FIak43 の開発がはじまった直後 撃機に追従が可能な十字型のシュべ で , 1939 年に完成 , F 1ak41 として に連装型の開発も開始されている ーベクライ / くイザーに交換されてい 限定生産が行われた。 が , 従来の左右連装とは異り , 上下 る。 しかし実戦で使用してみた結果 , 2 段に装備したもので , 形態的には 弾丸の発射速度は最大分間 250 発 , この 5 cm F 1ak41 ではやや威力の不 かなりめずらしくはあるが , 実際に 実用 180 発となっており , 初速は 820 足が感じられたため ( 数も少なかっ 使用してみるとなんら不具合はなか 川 / 秒だった。 た ) , ルフトヴァッフェは , より高 ったといわれる。単装型の生産数は ( 5 ) 5. 5c 加 Gerät5S Flak 初速で強力な破壊力を持つ中口径対 不明だが , この連装型は 390 門が完 ドイツ軍では , 大戦がはじまるは 空砲の仕様を提示した。 成し , 1945 年になって配備がはじめ るかに前から , 2 ~ 3. 7c 加といった ラインメタル・ポルジーク社カ : られた。 小口径砲と 8. 8c 加の大口径砲を高射 れに応え , 口径を 5. 5c 加にアッフ。す ればこの要求を満たすことが可能 , という提案を軍に提示し , 軍がこれ を受けて開発を命じることになった のが器材 58 号 , この 5.5 F lak であ ラインメタル社では 1943 年いつば いを砲と弾丸の開発に費し , 1944 年 の春にはフ。ロトタイプが完成するに いたった。 砲そのものは FIak41 の改良型で 機構はほぼ同じ , 砲架も FIak41 の ものを改造したものである。 計画では発射速度が分間実用 140 発 , 初速 1050 / 秒とされていた が , フ。ロトタイプを使って試射した 射撃姿勢の 5.5 ご第 Ge ⅲ t58 対空砲。結局完成にはいたらなかった 86
第 2 次大戦の火砲 ドイツの戦車搭載対空砲 水野靖夫 German AA Gun on SP Chassis の簡単なものとなり , 戦局が悪化し グを新型に変え , ポルト機構に若干 の改修を施すといったていどだった た 1944 年ごろになるとただの十字式 ドイツの対空戦車が装備していた が , 新たに採用した新型の消炎制退 のシュべーベクライ / くイザー 38 へと 対空火器は , 小は 2 から大は 8.8 器 ( マズル・フ・レーキとフラッシュ 変化していった。 まで各種の口径に分かれ , また単 部隊配備は 1940 年から開始され , ハイダーをひとつにしたもの ) の 装 , 連装 , そして 4 連装と , その装 終戦までに 17 , 589 門が完成してい 力も手伝って , 分間最大 450 発 , 実 備法もこれまたバラエティに富んで 用でも 220 発という高い発射速度へ る。 移動には専用のトレーラーが使わ と変貌した。 Flak30 ではこの値が こでは , これらの火砲を , 口径 れたが , 車載タイプでは関係がない の順を追ってみて行くことにしよ ので , 他のものについてもこれはす べて省略させていただく。 ( 1 ) 2 cn Flak 38 ( 2 ) 2 cm FIakvierling 38 大口径砲の代表ともいえる 8. 8c 加 このように 2 F 1ak38 はかな F lak とならんで , ドイツで使用さ り優秀な砲で , 部隊側としても満足 れた対空砲としては最もポヒ。ュラー のいくものではあったが , いかんせ かっ優秀なもので , 戦車のみならず ん 2 1 門というのでは効果もいま 装輪車 , 半装軌車にも搭載されてい ひとっというわけで , この 2 砲を いっぺんに 4 門装備した 4 連装機銃 る。 口径 2 としては前作 Flak30 に の開発が望まれたのも無理はない。 魔の 4 連装 , 2 cmFlakviering38 それそれ 280 発 , 120 発だから , 同じ 続くもので , F 1ak30 をスペイン内 これには , より大口径の 3.7cmFlak 戦で使用した戦訓により , より高い 砲とは思えないほどの飛躍をとげた 18 , 36 の威力不足ということも手伝 発射速度が必要だと痛感したルフト っていた ( 発射速度が遅く , 高速化 ことになる。 ヴァッフェは , FIak30 の改良型の また , プレス加工部品を多数導入 していく航空機についていくのが困 した結果 , 軽量化だけでなく生産性 難になったということ ) 。 開発を決定した。ちょうどそのこ ろ , Flak30 の開発メーカー も大いに向上し , 大型化された防 この連装機関砲は , 左側には通常 ライ ンメタル社は他の計画にたずさわっ 楯 , より操作しやすくなった機構と のまま , 右側には上下を逆にして装 ていたため , 同じ小口径砲の名門で 合わせて , 実戦ではかなり多用され 備したので , 4 門とも全く同じもの あるマウザー社にこの開発を依頼し たようだ。旧型 FIak30 の弾丸がそ を使うことができた。これはもとの のまま使用できるというのも見逃せ 砲の機構には手を加える必要がな 0 この命によってマウザー社が 1934 く , また部品の互換性も完全という ない。 ~ 1938 年にかけて開発したものが , 照準は砲と連動する ( これはとう 実に賢明な処置といえる。 F 1ak38 というわけだ。 ぜんのことだが ) 電動式算定機つき 操作は中央に砲手が , 左右に装填 改良はわずかなもので , 発射速度 反射型フラックバイザー 38 が用いら 手がそれそれ陣どり , 対角線上の砲 を高めるためにリターン・スプリン れていたが , のちに手動算定機つき をそれそれ発射ペダルで連動させて
装輪装甲車もこ こまできたかと いう感じの A M X10 飛 C 。 105 砲を備え , な まじ軽戦車ては 歯が立たない 車というジャンルが世界的に消滅しつつあるのはひとつ や有利だ。また一部の装輪車輛にしかできないが , の事実のようだ。そして偵察部隊においては , 軽戦車は ( 9 ) 前進も後進も自由自在 MBT と装輪装甲車におき代えられつつある。 なことも任務によっては便利だ。 ただこれは軽戦車に限らず , 兵器全般にいえることだ ⑩自動車と共通点が多いので , 乗員や整備兵の訓練 が , 兵器の要求される能力はその国の政治 , 経済 , 地 が容易 理 , 用兵思想など , さまざまな条件で決まってくること なことも長所だろう。 だ。だから今後もある国が軽戦車を熱心に開発したとこ もちろんシュライアー氏の挙げた個々の数字には装軌 ろで , それを単純に時代遅れと決めつけることはできな 車輛側から反論が出るかもしれないが , 全体としてはこ のようなものだろう。 ョーロッパ中央部は道路網が発達し , 地理的な障害も 火力の点では AMXIORC のように 105E 砲を搭載し 少く , 装輪車輛の活躍の場といえる。戦車の開発にあれ た装輪車輛すらあるのだから , 両者の間に差はない。 ほど熱心な西ドイツが軽戦車には目もくれず , イギリス 防禦力の点では , 装輪車輛のタイヤやアクスルは一見 やフランスが軽戦車と並行して装輪装甲車輛を採用して 弱々しそうに見える。しかし現在の装輪車輛のタイヤは いる理由はここにありそうだ。 簡単にはパンクしないし , パンクしても走れるラン・フ 軽戦車の生き残る道は存在するだろうか。そのひとつ ラット・タイヤの採用が常識となっている。それにパナ はアメリカの国防省高等研究計画局 (DARPA) が開 ール E R B 75 の中央の車輪のようにソリッド ( 鋼鉄性 ) 発を進めている H I MAG ( 高機動性 / 敏捷性 ) 実験車 なら絶対にパンクしない ! 輛や H s T V-L ( 高生存性テスト車輛ー軽 ) 実験車輛の 4 輪以上で全輪駆動 , 4 輪以上で操向する現代の装輪 線だろう。とくに H s T V-L は , その名のとおり重量 車輛は , ひとつ , 場合によっては 2 つ以上のアクスルを 14.5 ~ 17. 0t , 車体長 5.4 , 全幅 2.7 , 全高 2.3 加のコ やられても走行不能にはならない。それに比べて装軌車 ンパクトさで , 高初速の 75 簡砲と進歩した射撃統制シス 輛の履帯は , ーカ所切断されれば全体が動かなくなる。 テムを持っことになっている。 こと地雷に関しては , 装軌車輛の方がむしろ脆弱だとい もうひとつは軍事小国への輪出をめざすもので , びと えよう。 昔前の M47 ぐらいなら買えた国も , いまの X M 1 やレオ 路外機動性に関しては装軌車輛がリードしていること パルト 2 にはとうてい手がとどかない。そこで軽戦車ク は明らかだ。しかし , 装輪車輛もタイヤ , サスペンショ ラスの戦車を M B T の代わりに売りこむわけで , ティッ ン , 駆動系統 , 操行系統などの進歩で , 差をつめている セン・ヘンシェルの T A M, F S C V, A M X 10 P A C ことも確かといえる。また軽戦車の自慢の機動性が , 肝 90 あたりもこんな狙いで造られたものだろう。 心の不整地走行のときに額面どおり発揮できないことも しかしこれらは単に軽戦車と重量的に同クラスという 多い。不整地乗り切りにはあるていどの重量や大きさが だけで , 性格的には全く違ったものとなる。やはり軽戦 必要だとの説もあるくらいだ。 車は消え去るのだろうか。 〔注 1 〕 lnternational Defence Review, 1977-2 00 冒頭で述べたように軽戦 このようにしてみてくると , 83
TOW VehicIe) のような , 対 戦車ミサイルを装備した AP C や MICV の方が適してい るかもしれない。少くとも , 軽戦車に同じ装備をさせるよ り安上りなことは確かだ。 なお , カタログ性能的には 軽戦車の 75 ~ 90E 級の主砲か ら発射される HEAT 弾は M BT の前面装甲をフ・チぬく威 力があるはずだが一一貫徹量 を口径の 4 倍とすれば 300 ~ 360 になる一一一化学工ネル ギー ( 成形炸薬 ) 弾の性質か らして , 貫徹イコール破壊と はならないことは注意してお フランスの A M X 1 3 。供与を受けた旧植民地なとでは , 主力車輛として使われた例も多い いた方がよいだろう。これを 忘れて数字を鵜呑みにすると , 化学工ネルギー弾万能 , 注意しなければならないことは , 空挺と聞くとわれわ 対戦車ミサイル万能の落とし穴にはまる ( 専門家と称す れは「見よ落下傘・・・・・・」と , パラシュート降下を考えて る人にも結構落ちこんでいる人が多い ) 。軽戦車のタン しまうが , 現代の空挺ドクトリンからすればパラシュー ク・デストロイヤー用法は , 単に防禦力の問題だけでな ト降下は特殊な場合で , 着陸場を確保して輸送機を直接 く , 主砲の有効射程 , 威力 , 命中精度の点からも MBT 着陸させる方が常道だということだ。いや , 空挺作戦あ と対等に戦えるはずもなく , どうしても奇襲的 , ゲリラ るいは空挺部隊そのものが性格を変えてきたといっても 的なものにとどまると考えられる。また , その機動力は よく , 現代の空挺は昔のような決死の斬りこみではなく 防禦力を補うことはできない。 緊急時の急速展開を主眼においている。マーケット作戦 ( 遠すぎた橋 ) のような大規模な空挺作戦は今後行われ 火力支援についても , 現在ではクラウス・マッファイ の F S C V (Fire SUPP0rt Combat Vehicle) やティッ ないのではないだろうか。 セン・ヘンシェルの護衛戦車のように , A p C や M I C 空挺部隊には金がかかる。とくに部隊を作戦地まで運 V から発達した火力支援専門の車輛が生まれている。歩 ぶ輸送機と , それを援護して航空優勢を確保する戦闘機 兵が APC/MI CV に搭乗するのが普通になってきて まで考えればなおさらだ。だから戦車まで必要とするよ いる現在 , 火力支援を同系の車体を持った車輛が行う方 うな大規模な空挺部隊を持てるのは , ごく少数の軍事大 が合理的だろう。 国だけといってもよかろう。 空挺部隊の火力支援 , 対戦車戦闘のための車輛の必要 上陸作戦についても同じようなことがいえる。大規模 性は存在する。ただしそれは必ずしも軽戦車でなくても な上陸作戦用部隊 ( 海兵隊など ) を持てるのは一部の国 よいわけで , 上に述べたような APC / MI CV から発 だけだろう。ソ連の宣伝写真にはよく何輛もの PT76 が 海岸線に向けて水面を走って行くシーンがあるが , 実際 達したものであってもよいだろう。 戦後の軽戦車 ワわ 全高工ンジン最高速度主武装 国 乗員車輛重量全備重量車体長全幅 航輸 出力 km/h 性性 h x 〇 60 7 冊石包 AMX13 ス 3 15 , 000 250 13 , 000 フラ 4.88 ン △〇 87 7 誦包 スコーピオン ス 3 7 , 960 195 イギリ 2.096 4.388 2.184 72 7 包 23 , 495 500 M41 カ 4 18 , 457 X X アメリ 5.819 3.198 2.726 15 砲 / △〇 M551 300 70 アメ カ 4 13 , 589 15 , 830 リ 6.299 2.819 2.272 ランチャ 〇 76. 可包 PT76 14 , 000 240 44 6.91 3.14 2.255 〇 44 8 誦包 ASU85 14 , 000 240 6.0 X 〇〇 7 師包 ソ 連 4 十 6 55 9 , 000 BMD 2.65 1 .85 9 師包 〇 69 lkv 引 スエーデン 4 15 , 500 ー 295 2.355 X 6.41 3 9 師包 〇〇 65 AMX10PAC90 14 , 500 276 フランス 3 十 4 2.78 5.778 ( 注 ) 浮航性の項で△とあるのは、スクリーンの展張により浮上航行できることを示す。 、 = ' を物、。、、第第学 , 第 , 第響験 : 第第を , 、薹第を、物第 ~ 0000 し
ら発展した MBT と , MBT には不可能な任務を遂行す 発された M26 が , 戦後中戦車に分類し直されたことは , 重 , 中 , 軽の分類が時代により , 国により変わり得るも る軽戦車とが残ったわけだ。では , 軽戦車にしか行えな い任務 , あるいは軽戦車に適した任務とは具体的にどの のであることを示している。 一方 , T43 は M103 ファイティング・モンスターとな ようなものだろうか。 ったが生産は少数にとどまった。理由は明らかで , 要す ( 1 ) 偵察ーーーこれが軽戦車の最も代表的な任務で , だ るに鈍重な M103 の巨体は高度に機動化した現代戦に適 から多くの軽戦車は偵察戦車とも分類される。軽戦車の 小型で発見されにくく , 高速で軽快な運動性を持ってい 応できない , と判断されたのだ。例えば M103 の最大速 度は 34 / h , 行動距離は 170 をにすぎない。 るといった長所を生かした用法だ。 ( 2 ) 水陸両用ーーーイギリスやスエーデンではスクリー この運命は他の国の重戦車にとっても同じであって , 第 2 次大戦後のイギリスのコンカラー , ソ連の T 10 はい ンを使って MBT 級の戦車を水面に浮上させる手法を好 ずれも本格的に生産されたとはいい難い。 M103 とコン んでいるが , その実用性を他の国々は疑問視している。 まして付加物なしで浮上航行できる戦車となれば , 物理 カラーはソ連軍のスターリン重戦車を意識したものだろ うが , 本家のソ連では , そのころフルシチョフがスター 的に軽戦車以下のサイズに決まってくる。具体的にいっ リン批判を行っていたのだ ! ? て , 戦車ではないが 28t のマルダーは浮上航行できない。 冗談はともかく , イギリスでは大戦中歩兵戦車と巡航 浮上航行性能が役に立つ場面としては , とうぜん上陸 戦車の 2 分法 ( 軽戦車も別に存在したが ) を行っていた 作戦や渡河作戦などが考えられる。もっと重要なのは河 ・を豫い、第、は物 ン連の戦後派軽 戦車 PT76 。ソ 連では偵察戦車 として使われ , 多くの国に供与 された 川や湖沼を含む地域の偵察行動で , 水を乗り切るのにス が , やはり機動性の低い歩兵戦車は消滅する運命にあっ クリーンやシュノーケルの助けを貸りるようでは , 偵察 た。モンゴメリーは , 1944 年にこのような 2 分法を廃止 して単一の戦車 ( 彼の用語法では Capital Tank= 主要 は行えないのだ。 ( 3 ) 空挺 ( ヘリポーンを含む ) ーーー今日でこそロッキ 戦車 ) を採用すべきことを提唱していた。 MBT の思想 ド C— 5 A ギャラクシー , アントノフ An—22 コックの は第 2 次大戦中からあったのだ。 ように MBT を搭載できる超大型輪送機も存在するが , 実際今日の目でみれば , アメリカの M 4 シャーマン , 1960 年代なかばまでは空輸可能な戦車といえば軽戦車だ ソ連の T34 , ドイツのⅣ号戦車やパンターは , いずれも けだったし , パラシュートをつけての空中投下となれば M B T に相当するものだと考えられる。ソ連はこれに早 やはり MBT には不可能なことだろう。輸送機への搭載 ・く気づき , T34 の思想を発展させて T54 / 55 を送り出し を制約するのは単に重量のみでなく , そのサイズ , とく たが , アメリカは重 , 中 , 軽の 3 分法の形の良さ , 語呂 に全幅である点は注意しなければならない。 の良さ ? に引きずられてまわり道をしたといえよう。 ( 4 ) 歩兵部隊の火力支援ーーー徒歩や機械化した歩兵部 軽戦車の任務 隊と行動をともにし , 一般的な火力支援や対戦車戦闘を 担当する。軽戦車のコスト , 性能 , 大きさなどさまざま トリオの一角から重戦車が落伍したあとは , 中戦車か 79
Has わ ~ たれ々ル 0 ド〃加 ? 80 年代戦車のめ。すもの軽戦庫 軽戦車い消、 つつあるとも考えられる。 M551 シェリダン軽戦車が退役し , スクラップにまわ そういえば , いま各国がさかんに 1980 年代の主力戦車 されるという。シェリダンは 7039 系アルミ合金装甲の車 (MBT) の開発を進めているのに , それとともに行動す 体 , 152 砲 / ミサイル・ランチャーの主武装など , 数々 るはずの軽戦車の開発についてはほとんど聞かれない。 の点で革新的な軽戦車だったが , そのユニークさがかえ 軽戦車というジャンルは世界的に消え去りつつあるのだ って兵器としての寿命を縮めたともいえよう。引退の直 ろうか。そうだとしたら理由は何か。今回はそれを考え 接の理由となったのは , 信頼性上の欠陥とコスト高だっ てみたい。 たようだ。 しかし , シェリダンの引退を単にひとつの戦車の開発 重戦車が先に滅びた の失敗とみるべきではない。なぜなら , アメリカ陸軍は 現代では MBT の思想が支配的だが , 同時にわれわれ 知られている限りではシェリダンの後継となるべき軽戦 は戦車を重戦車 , 中戦車 , 軽戦車の 3 つに区分する方法 車の開発を行っていないからだ。アメリカ陸軍の兵器体 も用いており , この 3 分法はとくに昔の戦車をみるとぎ 系のなかから , 軽戦車というひとつのジャンルが消滅し には有効だ。しかしこの 3 分 法は , 一般に言葉として通用 しているほど , 実際に普遍的 なものではない。 3 分法にしたがったいちば んはっきりした例は , アメリ カ陸軍の第 2 次大戦終了直後 の戦車開発だろう。このとぎ は軽戦車 T41 , 中戦車 T42 , 重戦車 T43 がトリオで開発さ れている。ご存知のように T41 は M41 ウォーカー・フ・ル ドッグとしてすんなり完成し たが , T42 は朝鮮戦争の勃発 でコスを曲げられ , 結局 M 26 パーシングと折衷されて M 47 パットンとして実現した。 なお大戦中に重戦車として開 アメリカの戦後派トリオ。左から T41 中戦車 , T43 重戦車 , T41 軽戦車。後方は M48 中戦車