てわずらわしく , 戦闘室もせまくて野戦向きでなく , 単 依頼して改良を施し , 新たにルノー乙型戦車として戦車 なる偵察戦車と判断された。 隊に配属した。これ以来旧型のルノー FT 戦車をルノー その後 , サンシャモン併用戦車は 1932 年 ( 昭和 6 年 ) 甲型戦車とよび , ルノー NC 戦車をルノー乙型戦車とす に満州事変がぼっ発するとともに第 2 師団に配属されて るようになった。 海を渡っているが , 戦果は明らかでない。 ところが 1931 年 ( 昭和 6 年 ) に満州事変が起り , 引ぎ 続いて起った第 1 次上海事変にルノー乙型戦車と国産の 八九式戦車がともに実戦に投入されたため , はからずも 実戦における比較テストを行う結果となった。 結局 , 搭載火砲の威力 , 地形踏破性能などに八九式戦 車が抜群の優秀さを示し , ルノー乙型戦車はエンジンの 過熱や懸架装置が弱かったりなど機械的な故障が続出し て , 戦車兵に不評を買い , 国産戦車の信頼性はいやが上 にも高まって行った。 ルノー乙型は甲型よりやや速度を増したが , 戦場での 運用は変らず , 故障が多くて実用に適さないとして , そ 中国大陸に運ばれるルノー乙型戦車 ルノー N C 戦車 日本の戦車隊に装備する戦車を諸外国に 求めるため , 陸軍の緒方勝一 ( のち大将 ) を長とする視察購買団はフランスのルノー 社と話し合いをした結果 , 新たに試作を行 いつつあったルノー NC 戦車が提示された ので , この戦車を購入することにした。 その後 , 戦車が日本へ送付されてきたの で , 戦車隊に命じて各種のテストを行って いるが , テスト時にエンジンが過熱して定 められた速度が出ず , また懸架装置がもろ くて故障が続き , 満足の行くテスト状況で はなかった。 さっそくこれらの欠点を陸軍技術本部に 鉄条網破壊テスト中のルノー乙型戦車。砲塔には機銃を装備している めすらしいサン シャモン装輪装 軌戦車。陸軍自 動車学校での撮 影で , うしろに Mk. Ⅳ戦車も みえる
さまで , 車長以下の合図が一 致しないと操縦がうまく行か ないという戦車であった。戦 車は超壕や走行テストを行っ たのち , 九段の遊就館に展示 された。 ホイベット A 戦車 1919 年から 1920 年 ( 大正 9 年 ) にかけて , イギリスから ホイベット A 中戦車 , フラン スからルノー FT17 軽戦車が 相ついで輸入された。 日本陸軍では , 当初イギリ スのビッカース Mk. I 中戦車 を希望したが , イギリスでは 開発したばかりで自国の戦車 隊も完全装備しておらず , と フランスが大量産し , 多くの国て使われたルノー F T 17 軽戦車 ' 、、 3 輛をもって参加している。 ・防演習にはホイベット A 中戦車 2 輛 , ルノー FT 軽戦車 - ~ ・・千葉歩兵学校に所属していた戦車隊も , 各師団との攻 : ' 、、・、のだった。 く , 1 本のポルトやナットも町工場へ注文するというも 。ご朝進などだったが , いちど故障すると部品 , 工場すらな ても日本の戦車装備を引き受けられないと断わられた。 またフランスでは , 日本の希望するような戦車の開発 はまだ行われていず , 第 1 次大戦用に多数生産したルノ ー戦車があり , この在庫処分に困っていたところだった ため喜んで購入に応じた。 日本陸軍の関係者も , すでに 30 / h の高速戦車が走行 している現状で , 時速 3 を / h のルノー軽戦車では戦車隊 の将来性は疑わしく , 時代遅れではないかの声もあった ビッカース C 中戦車 1927 年 ( 昭和 2 年 ) 2 月 , 日本の試作戦車第 1 号が完 成した。 第 1 号戦車は , 総重量 18 トン , v 型 8 気筒 140 馬力で , 時速 20 のスピードで走行し , の斜面を登ることがで きた。この年の 6 月 , 御殿場駅から板妻廠にいたる約 8 の道を試運転している。 実はこれ以前にイギリスのビッカース社から新たに開 発した 10 トンの高速戦車の売りこみがあり , 陸軍ではす でに国産戦車の開発を計画しつつあったが , 戦車先進国 が , 国産戦車の開発にはまだ ほど遠く , 一応部隊訓練用と して必要な数をフランスから 輸入することにした。 このホイベット A 戦車とル ノー F T 戦車は , 1925 年 5 月 , 戦車隊が発足してからは 主に演習や訓練用に使用され ている。 当時の戦車隊訓練は戦車の 操縦と整備 , 内部構造の研究 が主で , ホイベット , ルノ の野外活動は鉄条網の破壊 , 障害物や壕の通過 , 夜間の行 千葉の歩兵学校におかれたホイベット A 戦車 89
日本も 6 トン戦車に目をつ け , さっそく購入して陸軍歩 兵学校でテストを行ったとこ ろ , 不整地などの走行性は中 し分なく , サスペンションが 良好で乗員は乗心地がよい が , 一方の銃塔を進行方向に 対して直角に操作した場合 , 片方が射撃不可能となり , や やアイデア倒れのきらいがあ った。 このため歩兵学校では指揮 通信用の戦車に改良し , フラ ンス陸軍制式の E13 無線電信 中国大陸で活躍中のルノー乙型戦車 の後部隊への供用を中止して内地戦車隊の訓練用として 使用した。しかし中国戦線が広がるにつれ , 一部の戦車 隊に配属されて中国大陸を転戦した。 ビッカース・アームストロング A 戦車 1928 年 ( 昭和 3 年 ) にイギリスのビッカース社は , そ れまでの戦車と異った 6 トン戦車を発表した。この戦車 は一対の砲塔を備えた独創的なデザインであり , 2 つの 砲塔にはビッカース機銃を 2 丁備えていた。また特別に 設計されたアームストロング・シドレー・エンジンを採 機を範として試作した一五年式二号無線電信機を搭載し 用し , 路外走行性能を重視した新式の懸架装置など , 速 た。しかし無線空中線は車外に展張し , 戦車の行動中は 度と攻撃力の / くランスのとれた当時としては画期的な戦 通信が不能とあっては , 戦車隊と歩兵部隊との通信はう 車だった。キャタヒ。ラもそれまでのフ。レート・キャタヒ。 まく行かず , せつかくのアイデアも立消えになってしま ラからマンガン鋼キャタヒ。ラをとり入れ , キャタビラを 交換せずに約 4800 を走行できた。 った。 この戦車の独創性と性能のよさにひかれたソ連陸軍 ただサスペンションやキャタビラなどの面では大いに は , T26A 戦車として採用し , アメリカ陸軍もテストを 参考となり , のちの日本の戦車開発にとり入れられた。 ( つづく ) 行った。 参考文献「日本の戦車」 兵器学教程 戦車将校必携 92
のイギリス戦車を技術面の参 考として 1 輛購入することに 0 これがビッカース C 中戦車 で , 1926 年 ( 大正 15 年 ) 7 月 に発注し , 翌 1927 年 ( 昭和 2 年 ) にわが国に到着した。そ してさっそくビッカース社か ら派遣されたエンジニアの運 転によって , テストを行うこ とになった。 ところがこのテスト運行 千葉の歩兵学校戦車隊に配属されたルノー F T17 軽 戦車 ( 上 ) と , その後陸軍大演習に参加したときの姿 中 , 急斜面登行時に燃料タンクからもれたガソリンが車 体内に気化充満し , これに / くックファイアによる火花が 引火して火災となり , ェンジンはおろか 2 名のエンジニ アも火傷を負うという災害を引きおこした。 このためェンジン部を新たにとり寄せて修理し , 後日 改めて走行テストを行ったが , その結果はやはりメカニ ックや性能上の参考とするところが非常に多いことがわ かった。欠点としては , 懸架装置のコイルバネは不満足 なもので , キャタヒ。ラは鋳鋼製で舗装道路を傷つけやす く , やや滑りやすかった。また高速戦車として製作され たため走行性能は優れてはいたが , 装甲が弱く , 植民地 軍向けに設計されたものと思われる。のちに , 八九式中 戦車開発の手本となった。 サンシャモン M21 装輪装軌併用戦車 1920 年代末 , フランスのサンシャモン社がはじめて試 作した車輪式と装軌式の両特性を活かした戦車がある。 これは車輪とキャタヒ。ラを備え , 道路の上では車輪で 走行し , 悪路や不整地の通過 には車輪を引き起して , キャ タヒ。ラをおろして運行する。 両機構の切換えはレバーで行 い , わずか数分で変換ができ 0 このサンシャモン M21 装輪 装軌併用戦車は , 当時フラン ス陸軍が一時的に採用してお り , わが国でもこの戦車を参 考に 1 輛だけ購入した。戦車 は 2 名のエンジニアとともに 陸軍自動車学校に配置され , 種々の走行テストを行った結 果 , 両用の便があるとはい え , 余計な機構が多いため他 の戦車と比べてみるとかえっ ビッカース C 戦車。イギリスで開発されたばかリの最新型だったが・・ 90