弾を製造して見事に戦車を撃滅でき いたらなかった。 たあとの白熱ガスが外へ洩れる傾向 アメリカでは , 1944 年になって T る兵器に仕上げている。このタマは があり , フィンをつけるほうが有効 9 105E 榴弾砲 , 57 新と 75 新の無反 火薬だけで 4 ぐらいあり , 命中す であり , また破壊力は命中時のスビ 動砲の生産をはじめ , 大戦末期には ると大きな効果があった。 ードに関係なく , 極めて低速で命中 太平洋で一部が実戦に使用されてい 砲自身の設計に新しい原理を応用 しても同じ効果が得られることが , る。 105E は , ドイツの 105 とほぼ したものには , テーパー・ボア式対 1944 年ごろになるとわかってきたの 同じ原理のものだが , あとの 2 つは 戦車砲がある。 で , H E A T は対戦車砲よりはむし 砲弾のケースを特殊なプラスチック これは前述のようにドイツで実験 ろ歩兵の対戦車兵器に用いられるよ 製とし , 目標に命中すると溶けたプ され , 速度と射程を上げる有効な方 うになった。 ラスチックが張りつき , これを信管 法として 280 衂砲まで造られている。 で点火して効果を上げるという新し まず , 28 21 口径砲が造られ , 42E い手を使っていて , 大戦後もしばら 口径 30 , 75 口径 50 も造られたが , くこの 3 つの兵器はアメリカ陸軍に タングステン・カーパイドが不足し 配備され続けていた。 て実戦に供されるところまではいた イギリスも同じころ , 前述のプラ らなかったようである。 画期的な発明。砲弾についたカバー 2 番目は無反動砲である。これは スチック製砲弾を実用化して , ドイ は砲口を出ると外れ , 弾丸は猛スビ アイデアとしては新しいものでなく ツ軍への攻撃やビルマ戦線での日本 ードで飛出す 軍にこれを使用している。 アメリカ海軍では第 1 次大戦中に生 こうして実用化したのがアメリカ 産され , イギリスではこれをツェッ 軍のズーカだ。 / くズーカはサイ′ べリン飛行船迎撃用に使用したりし ン島ではじめて日本戦車に対して使 用され , 絶大な威力を発揮したこと ている。 無反動砲は , 発射の反動を受けな はよく知られているとおりである。 いので , 大きく重い砲架や駐退復座 ドイツは 1940 年末からホロー・チ 機構をつける必要がなく , 砲の構造 ャージを用いはじめたが , 正に熱狂 が簡単で , ことに航空機の搭載兵器 的といった表現がビッタリするほど この砲弾の生産 , 実用化に力を入れ , として注目された。 大戦末期までには軽対戦車兵器の全 第 2 次大戦でクレタ島を攻撃した ドイツ軍落下傘兵は 75 新無反動砲を てがこれに統一されている。しかし 装備していたが , この砲は 3 脚部分 ソ連への侵攻を開始したときは砲の を含めて重量がわずかに 390 ん 9 で , 生産が間に合わず , フランスで捕獲 した 75 衂砲数百門を急拠改造してこ 標準の 75 衂砲が 1.5 トンもするのに 比べて驚異的に軽かった。この砲弾 れにホロー・チャージ式砲弾を装て んし , 向ってくるソ連戦車を食い止 は標準のものだったが , カートリッ ジはプラスチック製で , 爆発してか めた。それからしばらくして正規の 75E と 88E 対戦車砲が配備になった ら砲弾が砲口を出るまえにガスを横 から吹き出して反動を受けるように が , その一部はソ連軍に捕獲され , なっている。これを発展させた 105 これがソ連のホロー・チャージ砲弾 の le. FH18 のほか多数の山砲や の基礎となった。 歩兵砲がのちに実用化されて , 大い ドイツはまた , 連合軍と同様に に重用されるようになった。 れをパンツアーファウスト , ライフ 前述のパンツアーファウストも実 ル・グレネード , 信号ビストルから 質的には無反動砲で , ドイツはその 発射できるタマなどの歩兵用兵器に も採用したし , 戦前の旧式な 37 新対 後ロ径 380 新の大型のものまで研究 戦車砲 ( 1942 年には対戦車砲として しそのなかには連合軍爆撃機を攻 撃するため戦闘機の下面に懸架する は全く役に立たなくなっていた ) 用 ものまで試作されたが , 実用化には にはフィンっきのホローチャージ砲 パズーカは歩兵に対戦車戦闘力を与えた
小さな体に闘志満々 1 / 35 アメリカ M8 自走榴弾砲《新翆 . 、 5 月下発売 オ戦車の車体を利用して , 各種の大砲に機動性を持たせ た自走砲は , 第 2 次世界大戦中数多く作られています。 ータミヤの 1 / 35 ミリタリー ニチュアシリースに新しく フ。加わるアメリカの M8 自走榴弾砲もそのひとつです。 アメリカ軽戦車のコレクションに , 情景作りに , 幅を ュアートなどと作り較べてみるのも楽しいてしよう さい。先に発売中の M 5 A 1 ヘッジホックや M 3 スチ mm 機銃もセット。細部まて、の仕上げに腕をふるって下 リラックスムードのアメリカ戦車兵の人形 1 体と 1 2 . 7 ならではの再現はメカニカルな魅力も十分です。また , 器も精密にモデル化しました。オープントップモテル どを配置し , 砲塔内には 75mm 榴弾砲の装てん部や照準 いきをリアルに再現。さらに , 床には砲弾や消火器な ツモラスな中にも闘志をみなぎらせたような独特のふん にすんぐりした砲塔 , そして , 極端に短い砲身。ユー ヨーロッパや太平洋で活躍した車輛です。小柄な車体 榴弾砲を搭載 1942 年の 9 月から , 1180 輛が生産され M 5 軽戦車の車体に , M 5 の 37mm 戦車砲に変えて 75mm て、 な、 フ。 ン 広げる 1 台です ツ チ M5 用 乢 & H Ⅱ H M3 ア当 . 明・物・ M3 スチーア・ + TA.MIYA 塗料はパワトラタミヤ 接着剤はタミヤセメント タミヤの戦車資料写真集 ①アハディーンの 4 号戦車・・・ 250 円 ②ドイツ戦場写真集ー 1 ・・ 500 円 ③イギリス・チャーチル戦車・ 450 円 ④ワルップボつサー ・ 350 円 ⑤ドイツ戦場写真集ー 2 ・・・・・・ 500 円 ⑥、 - 七工ト T ー 62 戦車 ( 4 月下句発行 ) ☆上記の値段は送料込です。 タミヤの総合カタログ さい。 1 部 400 円。当社直接 望の方は模型店でお求め下 こ希望の方は当社タミャニュース係迄 年間講読料 ( 6 冊分・送料込 ) 600 円 静岡市小鹿 628 〒 422 タミャニュースを読もう ) 田宮模型 500 円。カタログ係まで。 お申込みの場合は送料込で 新製品☆ T62 ソビエト戦車 ( 1 / 35 ) 1200 円☆ドイツ親衛隊歩兵セット ( 1 / 35 ) 200 円☆ドイツ小火器セット ( 1 / 35 )
IIUSSIIN TINKS ハ料旧 ソビエトにとって「大 祖国戦争」といわれた 独ソ戦にあいては、電 撃戦を展開するトイツ 軍に対してソヒ、エト軍 も 15 , 000 輛の戦車をも って対抗した。そのソ ヒ、エト戦車の活躍の様 子を今月と来月の 2 回 にわたってご紹介する が、今回は救世主的な 存在であった丁 34 / 76 を集めてみた。 歩兵を乗せて進む / 6B1942 年型。鋳造製の砲塔と転輔を装備した 42 年の後期型で、南方部のコーカ サスやスターリングラードなどの戦いてドイツ軍と激戦を交えた。後方に続くのは T26 軽戦車。 カ″わ丁 , 、叫 ) ルイ 3 イお石な、海加 / 厖に〃 em アリ・ / リん市のい . 歩兵を支援する 76B 。 1942 年の南方部戦線にあける光景で、前方の森にひそむドイツ軍に向って戦車 を先頭に叡開して進んでいる。戦車は、左右の 2 輛ガ 1941 年型。中央の 1 輛だけは 1942 年型てある。 イ % 宀
0 Ⅳ & ON ・二イを 樋口好太郎 ー、ニを この作戦の主体であるエジプト侵攻は、グラツィアー ニ元帥の指揮下に、 9 コ師団、黒シャッ 3 コ師団および 現地土民軍 2 コ師団からなる 25 万名が投入され、サハラ 砂漠から吹く熱風、、カムシーン " の終った 1940 年秋にリビ アとエジプトの国境を越えた しかし、イタリア軍の進撃はスローで、サー・アーチ ポルト・ウェーベル大将に指揮されたイギリス西部砂漠 軍 ( 兵員 36 , 000 名 = 西部砂漠軍司令部、第 7 装甲師団、 第 4 インド師団およびニュージーランド師団 ) の反撃を 受け、逆にリビアに撃退され、要地ェル・アゲイラまで 占領された。 この情勢をみたヒトラーは、イタリア軍を支援するた め、ドイツ・アフリカ軍団を編成して指揮官にエルヴィ ン・ヨハネス・オイゲン・ロンメル中将を任命し、部隊 とともにリビアのトリポリに派遣した。 このとき送られた師団は、第 15 機甲師団と第 5 軽機甲 師団であったが、この第 5 軽機甲師団がのちの第 21 機甲 師団である。この師団は北アフリカ戦の最初から、 1943 年 5 月のチュニジアにおけるアフリカ軍団の降伏にいた るまで奮戦をつづけて壊滅し、その後北フランスで再編 成されたが、 1944 年夏、上陸してきた米英軍を迎えうっ てサン・ローの戦闘、アラス会戦などに参加し、最後は 東部戦線に投入されて 1945 年春、ドイツ第 3 帝国と運命 をともにしたのである。 第 5 軽機甲師団は、 1941 年 2 月 20 日、北アフリカへ送 る部隊としてベルリンの第 3 軍管区で編成された。基幹 初期の戦闘において捕獲したイギリスのマチルタ M k. 戦車と I 号 B 型戦車。北アフリカにおけるドイツ軍は、 その戦力のかなりをイギリス軍からの捕獲によってまか なっていた。 I 号戦車の後部には燃料缶かつまれている を・、・ - ヤ第を議
0 0 0 キレナイカ進攻のために集結した第 5 戦車連隊のⅡ号およひⅢ号戦車。ドイツ軍にとっては初めての砂漠戦に彼等は勝利をかざった 射砲中隊 , 2 コ工兵中隊などからなる前回より強力なキ ルヒハイム戦隊を編成して再びトフ・ルクに対する攻撃を イ丁った。 だがこの攻撃も , 4 日間の戦闘の後すべて阻止され , 第 5 軽機甲師団でトプルクを包囲したまま作戦を中止し 0 一方 , ドイツ・アフリカ軍団の攻勢によってエジフ。ト 国境に後退したイギリス軍は , ハルファヤ峠に進出した 第 15 機甲師団を中心とするドイツ軍を撃破して再びリビ アに進出し , トプルク守備隊を救出する作戦を計画して いた。そして , その第一段階であるフ。レビティ作戦用の 兵力として , w. ゴット准将の指揮下に第 7 装甲師団と 西部砂漠軍直轄の第 7 装甲旅団 , 第 22 近衛旅団 ( 機械化 ) などの部隊が集結した。この作戦部隊は , 98 裲の Mk. I 巡航戦車 (A9), Mk. Ⅱ巡航戦車 ( AI のおよび 26 輛の 歩兵戦車マチルダを装備していた。 トプルクをめぐる戦闘 1941 年 5 月 15 日 , イギリス軍は国境付近のドイツ軍に 攻勢をかけたが , トフ・ルク包囲から転進したクラマー中 佐が指揮する第 5 戦車連隊第 2 大隊とこれに協力する空 軍の第 605 高射砲大隊は , フォト・カフ。ツツオにおい 64 て第 22 近衛旅団を撃破し , さらに第 15 機甲師団の第 8 戦 車連隊と協力して一度うばわれていたハルファヤ峠の陣 地を再占領した。 この戦闘における第 2 戦車大隊の編成・装備は , 大隊 本部 , 本部中隊 , 第 5 ~ 第 8 戦車中隊 , 補給中隊および 輪送部隊からなり , 第 5 中隊にはⅡ号戦車 5 輛 , Ⅲ号戦 車 10 輛 , 第 6 と第 7 中隊には各 5 輛のⅡ号および各 17 輛 のⅢ号戦車を , また第 8 中隊には 22 輛のⅣ号戦車を装備 していた。なお , 本部中隊にはⅡ号戦車 5 輛が配属され ており , 戦車の総数は 86 裲であった。 さらに各中隊内の小隊は , 第 5 が 3 コ小隊編成 , 第 6 ~ 第 8 が 4 コ小隊編成で , 第 8 中隊は火力支援を任務と していた。 西部砂漠軍のフ。レビティ作戦は , アフリカ軍団の果敢 な反撃によって失敗したが , 中東方面軍司令官ウェイベ ル大将は , その後の補給の成功によってイギリス本国か ら 135 輛のマチルダと 82 輛の Mk. Ⅱ巡航戦車および 21 輛 の Mk. Ⅳ軽戦車の供給を受けると , 再びトプルク解放の ための / くトル・アクス作戦の計画を立てた。 この作戦の参加部隊は , 西部砂漠軍司令官サー・ノエ ル・ビアスフォ - ード中将の指揮下に第 7 装甲師団と第 4 インド師団第 11 歩兵旅団 , および第 22 近衛旅団などであ
1942 年 10 月 23 日夜 , ェル・アラメインにおいてドイツ軍に向って反攻の火プタを切るイキリス軍 これを境に両軍の攻守はところを変えた 北アフリカ要図 シチリア島 ビゼルタ チュニス \ カセリーヌ テペサ 力、ワサ チュニジア 地中 マルタ島 マレト トリポリ ペン、ガジ 0 トリポリタニア 工ル・アゲイラ リビア
第 2 次大戦の火砲 対戦車砲弾の発達 和田尚夫 AT Shot & Ⅱ 0 Ⅱ ow Charge 信管に神経を使わなければならない 弾をタングステン・カーノくイドなど という不利もあり , ドイツやアメリ のダイヤモンドなみの硬さを持つ合 力は両者を併用したが , イギリスは 金で造ることが考えられたただ めざましかった砲弾の発達 艦砲の経験から対戦車用は徹甲弾だ れは高価で資源が少なく , 製作も困 けに絞った。 前回 , 各国とも大戦の最中に全く 難という問題があったが , ドイツは いずれにしても , 装甲を貫徹する 28E の S ア 41 対戦車砲でこれの実用 新しい砲を開発する手間を惜しんだ ためには砲弾のスビードを上げて強 化に成功している。 と述べた。砲そのものをそのままに 烈にたたきつける必要があるのは両 して , 威力を高めるのに残された道 この砲は口径が先端では 21E にテ 方とも同じで , 装甲が厚くなってく ーしていて , 砲弾は外側が軽合 は , 砲弾を改良することである。 ると口径を増してこれに対抗してい れはとくに対戦車砲に対して活発に 金製で , 発射されると砲身のなかで た。しかし間もなく衝撃だけでは 軽合金部分が削られて細くなり、 , 砲 行われた。 弾がはね返されてしまうようになっ というのは , 対人などの軟目標の 口を出るときはタングステン製の固 た。それだけ装甲が厚くなったので 場合は砲があるていどのレベルに達 い砲弾が非常に高速で射出され , 徹 ある。 するとそれでじゅうぶんのことが多 甲力がまた増大していた。 いが , 対戦車砲の場合は新型ができ 対策として , 砲弾の先端にやわら イギリスは 1940 年末ごろにこの砲 かいキャップをかぶせ , 装甲に当っ るとそれに対抗して戦車が装甲を厚 弾を北アフリカで捕獲しタングス たときに衝撃力が横へ外れないよう テン製の芯洋を特製のアダブター くし , その厚い装甲を破るためにさ でカ / く一して , これを 2 ポンド対戦 らに新型の対戦車砲を完成させる必 にした。 車砲に使えるようにした。ただ , 対 しかし装甲がさらに厚くなってく 要が出てくるからである。 戦車砲部隊は 6 ポンド砲を使用して 大戦がはじまったころは , 対戦車 るとこれでも歯が立たなくなり , 砲 砲弾は「徹甲弾」と「徹甲榴弾」の 2 種類だった。徹甲弾は要するに金 属のかたまりで , 高いスビードによ るパンチカで装甲を貫通し , 貫通後 は装甲の破片が飛び散ったり , 砲弾 が戦車内をはね返って , 損害を与え た。これに対して徹甲榴弾は砲弾内 に高性能の爆薬を入れ , 装甲に当っ て穴を開け , 何百分の 1 秒遅れて爆 発 , 装甲を破壊する。 理屈の上では徹甲榴弾のほうが威 力が大きそうだが , 実際には内部に つまった火薬の分だけ弾丸が軽く , またモ - ロくなり , さらに発射までに ドイツ軍の 37 新対戦車砲。独ソ戦ではもはや使いものにならなくなっていた 79
砲弾を開発中であった。 ホロー・チャーシ弾の登場 徹甲弾と並行して開発が進んだも のに , ホロー・チャージ弾がある。 これは火薬の科学的特性をうまく 利用した方法で , 記録によると 200 年前にすでにノルウェーの技術者が 火薬の先端を中空状態にして岩石の 爆破に使うと , 割る力が強くなるこ とを発見している。 いたので , この 2 ポンド砲弾は , 装 というので , 間もなくこの砲だけは 1880 年代には , アメリカのモンロ 甲車やアメリカの 37E 砲に用いられ タングステンの使用が認められてい ーという研究者が似たような法則を る。 0 発見し , これはモンロー効果と ドイツのとった方法は砲弾ととも いっぽう , イギリスは 6 ポンド砲 呼ばれた。第 1 次大戦前には 2 ~ 3 に砲そのものも新しいものが必要だ に同様な試みを続け , APCR ( 硬 人の発明家がこのアイデアを機雷や ったのに対して , イギリスがとった 芯徹甲 ) 式と呼ぶ砲弾を実用化した 魚雷に応用することを考えたりした 方法は砲自体は既存のものでよいと が , 同じように 1 を以上の目標に対 が , この現象がなぜ起るか , 起った いう大きな利点があり , この系統の しては威力が急減するという問題を 現象が何であるかがわからないまま 弾丸は今日の主流になっている。 解決できなかった。 であり , まして砲弾にこれを利用す 普通の砲にタングステンを用いる 1944 年 3 月に入ると , 今日では常 ることはまだ無理であった。 ときは , ドイツもイギリスもまわり 識となっている A P D s という新型 第 2 次大戦のはじまる直前になっ をほぼ同口径の軽合金でおおったが 砲弾が完成した。これは , 芯をタン て , スイスの技術者がこれを対戦車 このため砲弾全体としてはそれまで グステン製にすることは変りなかっ 砲弾に実用化することに成功し , イ のものより軽量となり , 砲口を出る ギリスとドイツが相次いで実戦兵器 ときの砲弾の初速が上るという効果 に採用した。 が得られた。装甲板を打破るため少 しでも速度を上げたいと願っている ホロー・チャージとはなにか。簡 単にいうと , 砲弾の先端から前方へ 砲の側としては , これは願ってもな 向けて強力な焔を装甲板に対して当 いことだったが , 残念なことに 1 てることで , 焔の中心から装甲板ま くらいまでの短距離では大きな効果 が認められたものの , それ以上の射 での 10C 加くらいの距離のあいだに焔 は秒速 6000 という超音速に達し 程では砲弾が軽い分だけ逆にスビー 37g 砲につくⅡ刃 A T 弾 て , 数千度という高温で装甲板を溶 ドが落ち , これまでの砲弾と効果に たが , 外側の流線形の鉄鋼材が発射 変りはなく , 値段が高くつくだけ損 直後に外れるようにしたのがアイデ かす。これだと , 徹甲弾ではとても であった。 貫通できなかった厚い装甲板でも容 アだった。これだと , 発射までは 6 易に穴があき , その穴から白熱ガス それでもドイツは , 大量に捕獲し ポンド砲弾の直径の割には軽いので が戦車の内部に噴射されて燃料や砲 たソ連の 76.2 野砲を改造して対戦 加速がつき , 砲口を出たあとは外枠 車砲とし , この砲弾を使用したりし が外れるので大きさの割に重く , 流 弾に引火したり乗員を殺傷する。 たが , 1942 年春にはタングステン資 これに勢を得て , イギリスでは % 線型なので空気抵抗も減って , 対戦 材の不足が深刻化して , 夏には砲弾 ポンド砲や 68 グレネードにこの砲弾 車兵器として大きな威力を発揮する を量産し , 1943 年のビルマ戦線では に使用することが禁止になった。そ ことがわかった。 して貴重なタングステンは工作機械 3.7 インチ砲に徹甲弾の代りにこれ これだと , 装甲板に当る速度が秒 の生産に優先的にまわすというのが を使用し , 日本戦車に対して大きな 速 0 から 1000 ( 時速 3240 ~ 3600 国策となったが , これでは東部戦線 戦果を挙げたといわれる。 ん ) という高速で , イギリスは続い で T34 戦車を喰い止めていた Pak38 て 17 ポンド砲弾を 1944 年 9 月に完成 しかし , ホロー・チャージ弾 (H EAT) はスビンを与えると命中し 対戦車砲の威力がなくなってしまう し , 大戦がおわったときは 20 ポンド 80 漸減口径理論を 実用化した 2.8 礪対戦車砲 41 型
装備車輛は、 I 号、Ⅱ号、Ⅲ号、・ - Ⅳ号戦車、 Sdkfz. 221 そしてドイツ軍は、余勢をかってさらに東へ進み、兵 222 装甲車、 Sdkfz. 231 8 輪装甲車、 Sdkfz. 263 装甲通 力を集結するとともに 4 月 11 日からトプルク防衛線に 信車、 Sdkfz. 250 / 1 装甲兵車および Sdkfz. 250 / 3 装 対する攻撃を開始した。 トプル名守備のイギリス部隊は、オーストラリア第 9 甲通信車などである。 師団第 18 旅団およびキナイカから撤退た第挈装甲師 イギリス側は、砂漠に慣れないドイツ軍が内陸を進撃 団第 3 装甲旅団を屮心とする部隊であらなが、岬粁し姿 するのは無理だと思っていなためぐク迅速な進攻作戦 = 。部隊 " もはイ卩日てに第 1 、第、ま第 6 はイギリ軍 0 意表をつき : : オをを房葷団注ーキリで第 2 装甲師団第 3 装 ! 膂おびイッド第 3 機械化旅団の . 隊およ第ま軽翳隊水キ 部隊を撃するも新まキナイカ区きを、 よ 26 輛の巡純車、 15 輛の軽載車い ; ツ、葷当す受 してしま、った霧、をツ : 、 砂漠て敵状偵察を行う Sd. kfz. 233 8 輪装甲車。見通しのきく広大な砂漠ては、通常の野戦 ては考えられない数日間にわたる長距離の偵察か行われるか、これは両軍の部隊そのもの の機動力が高いことからも当然て、ちょうど海戦と同し考え方か適要される
GERMAN 21 引 PANZER , を第物、・をを 4 、 ~ ゾ第の、盛と戦史 の中小型車輛かみえている。 2 輛の Sd. kfz. 10 が引いているものからみて , おそち対戦車中隊であろうの、 い。写真には、オートバイ、ホルヒ kfz. 15 、 kfz. 69 、キ、ベルウ = ーゲン d ま fz. 1 ー t ハナフトラックなど各種 砂丘を越えて進撃するアフリカ軍団の自動車化部隊。広大な砂漢のではい第の移動 ( 輛なし七考えられな ドイツ第 21 機甲団のことについては、その名前とと もにかなりの読者がご存知のことであろう。編集部が数 あるドイツ機甲師団の中からこの師団を最初に特集のテ ーマとして選んだのは、その意味から決して理由なしと しない。戦歴、戦果からみても知名度からみても、また この師団がたどった運命からみても、筆者もこのプラン に大いに共感して調査と執筆にあたったつもりである。 ただ最初にお詫びしておきたいのは、何しろアフリカ 軍団というところは、正規の編成にあまりこだわらすに 必要に応して非常にひんばんに戦隊 ( 現在流にいえば戦 闘団にあたる ) を作ったりくすしたりして状況に対応し ているので、他の師団の部隊との混合編成の場合も多く 第 21 機甲師団の動きを追っていても、結果においてアフ リカ軍団またはアフリカ機甲軍の戦史とあまリ違わない 内容になってしまったことである。したがって、 は第 21 機甲師団の戦史というよりも、この師団を中心と したアフリカ軍団の戦史というつもりでお読みいただき たい 十第 5 軽機甲師団アフリカへ 1940 年 7 月にフランスが降伏すると、ムソリーニに指 導されたイタリア軍は、ソマリランド、スーダン、エジ プトなどのイキ、リス軍を制圧し、地中海を完全にイタリ アの内海にするための進攻作戦を開始した。