ッパーヘッドの誘導部にあるスイツ チをそのコードに合わせる。この他 発射前にすべきことは射距離に合わ せたタイマーのセットと , 天候によ って発射角度を決めることだけであ る。 もし戦場に雲が低くたれこめてい るような場合には , カッパーヘッド は雲の下をくぐるような低い弾道で 発射される。これは , 砲弾が雲の中 に入ってしまうと , シーカーがレー ザーの反射を捕捉できなくなるから である。天候が良いときには , 通常 の砲弾と同じわん曲した弾道が選ば れる。 発射の手順は通常の砲弾と全く同 じである。発射の瞬間まで , カッパ ーヘッドは , 機構的に冬眠状態にあ る。発射の 12 , 000G に達するショッ クで先ず / くッテリーが目覚めて活動 をはじめ , その電流でタイマーが作 動し , 主翼とフィンの展開 , シーカ ーの作動を順次行って行く。 これらに一定の時間がかかるため カッパーヘッドは射距離 3 を以下で 距離では , 従来の HEAT や HES Ⅱが役に立つから , こまることはな カッパーヘッドの目標追尾能力が どれくらいか , つまりどのくらいの 速度で動いている戦車に命中できる かについては , はっきりした数字は 発表されていない。しかし 1976 年 2 月の試射のとき目標となった M48 は 13 を / h で走っていたといわれる。 方発射時の許容誤差 , つまり目標か ホワイト・サンズ試射場でのテスト。 C L G P カッパー らどのくらい離れたところに向けて ヘッドは標的となった M47 の砲塔にみごと命中した 撃っても , カッパーヘッドが自分で 方向を修正して命中できるかについては , 飛行高度や射 陸軍は , いまのところ M109 1 輛につき 2 発の C L G 距離が知らされていないが , 1 というデータがある。 P を積み , 誘導は当面地上から行うことを考えている が , 無人機を使った誘導も積極的に検討中と報じられて XM712 の現在までの成果をもとに , 陸軍とマーティ ンでは将来の発達型を考えている。とうぜん考えられる いる。予定のとおりに計画が進めば , 1980 年の 9 ~ 10 月 のは CLGP の大口径化で , 8 インチ砲への適用が考え には月産 200 発の線に達し , 1981 年 7 月 1 日には第一線 られている。もうひとつ考えられるのは戦車以外の目標 部隊への展開がはじまっているはずである。 の精密攻撃用に , HE 弾頭を持った CLG p を作ること である。この他ロケット補助推進による射程延長 , 赤外 線誘導なども検討されているようだ。 85
大砲から飛び出す誘導砲弾 0 し 0 P 0 れ CLGP 岡田光也 陸軍ミサイル軍団 , ビカティニーエ廠 , それに海軍兵器 開発 研究所も加わって実用化の研究が行われた。その結果 , これまで , 対戦車攻撃は砲兵の専門外とされてきた。 陸軍は 155E 榴弾砲から発射する C L G p の採用を決定 通常の H E ( 高性能炸薬 ) では , ほとんど直撃しなけれ し , 一方海軍も艦艇用の 5 インチ ( 127E ) , 8 インチ ば戦車を倒せないからである。もちろん砲兵は HEAT ( 203E ) 砲用を開発することになった。 あるいは HESH のような対戦車砲弾を持っているが , 陸軍の C L G P 開発契約は , マーティン・マリエッタ これらは命中精度からして , 直接照準射撃以外には使え 社オーランドー部門とテキサス・インストルメンツ社に ず , いわば緊急時の自衛用といってよかった。 対する競争試作として , 1972 年 2 月に結ばれた。それぞ 砲兵の本領である間接照準射撃において戦車を撃破す れのメーカーは 12 発ずつの CLGP 試作弾を製作し , 同 この理想を実現するために生れたのが , CL じ条件で試射を行うことになった。 G P (Cannon Laun— この契約を受ける前に , マーティンでは自社の費用で ched Guided Projec— CLGP の基礎研究を行い , すでに 40 回も実験弾の試射 tile) , つまり砲発射誘 を行っていた。これがものをいったのか , マーティンの 導弾である。 CLGP 試作弾は 1974 年 3 月からはじまった試射で , 最 c L G P は , 要する 初の 3 発こそ目標に命中しなかった ( うち 1 発は発射手 に推進機関を持たない 順の間違いによりノーカウントあっかい ) ものの , それ 対戦車ミサイルと考え 以後の 7 発は , 別表に示すとおりの目覚しい成績を示し ればよい。普通のミサ た。このうち 1974 年 11 月 4 日のテストでは , 照準点を わざと目標より数百ずらし , C ル G p の運動能力を試 イルのようにロケット で加速される代わりに した。また射距離 4 をの 2 回のテストは , 目標捜索時間 C L G P は砲弾と同じ が短かくなる困難なものであった。 ように榴弾砲から撃ち 一方 , テキサス・インストルメンツの C L G P 試作弾 出され , 慣性飛行で目 は , 12 回の試射で 1 回だけ , それも射距離 16 をで目標は 標に向うのである。誘 静止中というやさしい条件で成功した以外 , 全て失敗に 導はレーザー・セミア おわるというみじめな成績しか示せなかった。このため クティヴ・ホーミング 圧倒的な優位でマーティンの勝利が決定 , 陸軍は未使用 つまり目標に当てられ の試作弾 2 発を残したまま , 1975 年 7 月 18 日マーティン ているレーザー光線の と 4450 万ドルで技術開発契約を結んだ。 反射をたどって命中す 余った 2 発の試作弾は , あとで行われるはずだった空 るわけだ。 中からの目標指示の実験に用いられることになった。こ CLGP の構想が最 れまでは地上に設置したレーザー目標指示器が使用され 初に誕生したのは 1970 たのに対し , 今度は空中に浮かぶヘリコプター , あるい 年ごろ , アメリカ陸軍 は遠隔操縦無人機 (RPV) が用いられたのである。 ロドマン研究所におい の 2 回の実験にも成功し , 最終的にマーティンの CLG てであった。この構想 アは 13 発 ( 1 発はノーカウント ) 中 , 命中 8 回 , 失敗 3 にもとづいて , 1971 年 回という成果を挙げたわけである。 155nCLGPo 開いた翼 , 先端 には同研究所をはじめ マーティンの C L G P にはその後 X 712 カッパーへ のレーザー , シカーがわかる 82
PANZER 4 月号 ・目 フロントカバー : M60A 1 戦車 ( アメリカ ) ロ絵 XM-I 試作車のあゆみ CLGP カッ / ヾーヘッド 74 式戦車の射撃訓練 イギリスの APC FV432 シリース FV439 * * FV432 FV432 Rarden FV438 FV431 自衛隊車輛の渡河テスト イギリス砲兵隊の装備く解説・城島健二 > ー M 田 7 自走砲 M Ⅱ 0 自走砲田 5mm 砲車アポットオネス ト・ジョン地対地ミサイル FH70 榴弾砲 5mm 軽カノン 砲 5mm 軽榴弾砲 88mm 榴弾砲 Mk. Ⅱー 第 2 次大戦のアメリカ装輪装甲車く解説・木田雅也 > ☆ T ロ E ー T ロ E 3 T22 T ロ E 2 T22E 2 T 円 E ー☆ T34 / 76 インアクション see page 4 see page 集 . FV432 シリーズく野木恵一 > 特 ー 14 ドイツ第 21 機甲師団く樋口好太郎〉 ー 58 see page 82 本文 : 誘導砲弾 CLGP く岡田光也〉 -82 XM- 1 、エンジントラブルと苦戦中く中島日出矢 > 一 86 中国人民解放軍とその装備 くキマタジロウ > ー 88 チャリオット物語 4 古代戦車戦のたそがれく松井史衛 > ー 92 戦史シリーズ 44 タイ・ビルマを走る鉄道く木俣滋郎 > スケールモデル・ I 号指揮戦車く山田卓司 > ー 104 トピックス ( アメリカの次期戦車 他 ) ー 108 ニュースー 110 ペリスコープー 112 ー 98 see page 58
最新最強の X ー 工ンジントラプノレと XMI in Engine Trouble ・世界最強の戦車として , アメリカの期待をになって登 場してきた XMI が , いま生産開始を目の前にひかえて ェンジン・トラブル戔という難題に引っかかって苦闘 している。 「ガスタービンの不調がすぐには直りそうもない」のが その原因だが , アメリカが国威をかけて開発した画期的 なガスタービン・エンジン装備の戦車でもあるだけに , 1 アメリカ陸軍の希望の星洋 その成否は世界注視のマトになってきた。 86 これは , 1 兆円を越す大ブロジェクトである。 予定ではこの 2 倍強の 7058 輛が生産されるといわれる。 円 ) でまず 3300 輛が造られることになっているが , 今の を造った。 1980 年からは , 1 輛 88 万ドル ( 約 1 億 8 千万 クライスラーはこれまでに 11 輛のパイロット・モデル 感じ入ったものだが , その評価はこれからだ。 とは正に画期的だった。「さすがアメリカ ! 」 , と世界が 性を向上させるためにエンジンをガスタービンにした 幅に上まわっているのはもちろんのこと , 機動力と信頼 その火力・機動力・信頼性・乗員の保護では M60 を大 型は , 世界をアッといわせるのにじゅうぶんだった。 GM と競作し , 審査の結果選ばれたクライスラーの原 アメリカ陸軍の希望の星である。 年には待望の部隊配属が開始されることになっている , の 1973 年に開発が決ったのがこの XMI だ。そして 1980 という陸軍の強力な突き上げに会って , ようやく 13 年目 までは , アメリカの戦車は実戦の役に立たなくなる ! 」 戦車は 2 次的な戦力でしかないかもしれないが「このま 核兵器や航空戦力に全力投球するアメリカにとって , 旧式な M48 や M60 をそのまま保有し続けてきた。 車を開発・配備して対抗したが , ひとりアメリカだけが ソ連はいうにおよばず , 西ドイツやフランスも新型の戦 戦車の敵洋は大幅に戦闘力を向上した。これに対し , その間に , 航空機はもちろん , 対戦車ミサイルなど , リカ陸軍の本格的な主力戦車である。 XMI 戦車は , M60 を 1960 年に導入して以来の , アメ 戦闘中 中島日出矢 画期的なガスタービン しかし , 大ブロジェクトには大問題も発生しやすい アメリカ陸軍は , M60 と X M 1 の間にも , 西ドイツと 共同の MBT70, XM803 などの本格的な戦車を手がけ たが , これらはいずれも重量過大 , 機構の複雑さ , コス ト高で中止となり , XMI ではこれらの教訓と世界の情 勢を読んだうえで , 軽量・小型をねらった新鋭戦車 とした。 その軽量化の焦点が前述のガスタービンである。 これは , 戦車として世界最初という画期的なもので , 現用のディーゼル・エンジンに比べて燃料の消費量が多 くなるが , ディーゼル油 , ジェッート燃料からガソリン , 燃料用の原油まで , 戦場でどんな燃料でも使えるという 魅力は絶大である。 また部品数が 30 % 少ないこともあって故障が少なく , オーノく一ホール間隔は普通の戦車の 3 倍の 12 , 000 マイル と長く , 交換に要する時間もディーゼルの 4 時間に対し て 1 時間と非常に短い。また騷音もディーゼルの半分ぐ らいで , 煙も人の目にはほとんど見えないくらいだ。 X M 1 のエンジンはアプコ・ライコミング A G T1500 という 158 田 , 重量 1050 のもので , 低回転時のトルク が大きいのも特徴である。 普通の自動車でもそうだが , 実用ェンジンとしては , 高回転で大出力が出るものより , 低回転での出力やトル クが大きなものがはるかに実用価値が高い。加速 , 登坂 , 泥地走行などは全てエンジンの回転数が低いときの役目 だからだ。 このため , XMI は重量が 59t もあるのに , 停止から 32 / h に達するまでの所要時間が 6.1 秒と M60 の約半分 であり , それでいて道路上では 70 / h 以上の高速が出せ るし , クロスカントリーでも 50 / h 近く出る。 トランスミッションはもちろんオートマチックで , 前 進 4 段 , 後進 2 段。これに加えてトーション・パーとロ タリー・ショック・アフ・ソーパーを組合わせた新しい サスペンションの威力で , クロスカントリーでは M60 と は格段の差が出る。
対戦車誘導砲弾 CLGP " カッ / ヾーヘット The Copperhead being launched by a 155 ・ mm. るガ主質がまた開いていない。 写真は発射された直後のため、フィンは開きはしめてい め、海軍用の 12 / mm ( 対艦用 ) の開発も考えられている。 産されるのは 155m 砲用の弾体だが、将来は 203E をはし M109 155 砲車から発射されたカッハーヘット。当初生 H. N 0 戸 ma 間接射撃てすむところガ大きな特徴てある。 コースの調節を行う。自己誘導のため、発射するほうは ガついてあり、主質て弾体に軽い回転を与え、フィンで ミンクする。弾体には写真てみるように主質とフィン はレーサー・ホーミンク式て、反射ヒ、一乙をたとってホ 目標の M47 に命中する直前のカッノヾーヘッド。誘導方式 gun 0f MI 09 SPG. H. Na 長 0 / ⅶ 0 いままてにもニュースなどてあ伝えしてきた、砲ガら発 射される誘導砲弾 C し GP は、いよいよアメリカ陸車て 制式に採用されて生産ガはしまることになった。この新 兵器は、その開発に最も技術的実績を持つマーチン・マ リエッタ社ガ契約を獲得し、この 3 月ガら 20 発の量産 にるといわれている。この砲弾はふつうの砲ガら発射 てきるため、従来、対戦申能力の乏しガった野砲ワラス に大きな成力を加えることになるのて大きな期待ガ持た れている。 ( 詳しくは 82 べージ参照 )
進んでいた。注目すべきはア ッシリア人は戦車の構造の一 部に鉄を使ったことである。 紀元前 1114 ~ 1076 年に統治、 したチグラト・ビレセル王の 軍隊は , 早くもシリアより地 中海に到達していたが , 彼の 碑文によると , 「私は山を越え るのに鉄の戦車を使った」と か , 「私は敵エジプト軍の ( 木 製 ) 戦車を軽蔑する」などと 自国の鉄製戦車を自慢する一 節がある。アッシリアの戦車 は , 紀元前 800 年までに武器 も戦車も鉄製となっていた。 ただし鉄製といっても軽い れない。 ことが重要な条件である戦車は骨組みだけであり , 戦車 全国を統一した始皇帝は , 従来 , 各地の大工が勝手に 兵を保護する「装甲」は柳の枝を細かく編んだものだっ 作っていた戦車や乗用車の寸法を統一した。そして道路 た。つまりソフト・スキンだったのである。しかしや の幅も 7.5 と制定して , 幅 2.3 の戦車 3 台がならんで 鎧は鉄製だったから , 兵士自身はかろうじて敵の矢から , 走れるよう命令を下した。何しろ馬に乗った北の蛮族を 保護されていたことになる。軽い柳の枝を編んだ装甲は : 防ぐため , 気の遠くなるような万里の長城さえ作りかけ 非常に軽く , かっ鉄の骨組で丈夫にできていたから , 確 た男である。道幅を統一することなど朝飯前であったろ 文にいうように「台風のごとく速かった ! 」のである。 そして何よりもアッシリア人が強かったのは , プロ分 職業軍人を多数養成していたことである。いまでいう軍 統一国家が形成されたら , もう維持費のかかる戦車な 国主義的な国だったのだ。これに対し , エジプト軍は農 ど消滅してしまったというわけではない。始皇帝が死ん 民に槍や弓を持たせてインスタント兵としたのだから戦、 で翌年の紀元前 209 年 7 月 , 馬に乗った蛮族に対して北 意がまるで違う。エジプト軍は現在のスイス陸軍のよう 辺守備におもむく途中の兵士 900 名が反乱をおこした。 に各人が自宅に小銃を持ち , いざというときになったら 彼らは大沢郷 ( 安徴 ( あんき ) 省の宿県 ) にある政府 それを持って近くの村役場に集合するといった具合だっ の武器庫を襲って戦車 600 台を手に入れ , 騎兵 1000 騎 , た。 兵数万名もの大部隊に膨脹している。しかし , これ以降 アッシリアの戦車もあまり長く走ると , 車軸の軸受 はもはや東洋戦術史の上で , 戦車は重要な役割を果たし が焼けてしまい苦労したという。べアリングの発想はニ ていない。中国史において戦車は秦の時代をもって終焉 ジプト人がビラミッドを建てるとき , コロとしてすでに を告げたといえよう。 実用化されていたが , 工作がはるかに難しいポールべア したがって , これ以後は戦車ではなく騎兵によって戦 リングが実用化されるのは , ずっとあとのことである。 いが決せられるようになった。 スポーク ( 車輪の内の棒 ) を持つアッシリア人の戦車 そのものはむしろ中国のものより小さく , 構造も簡単だ ↑鉄製戦車 , アッシリアに出現 った。そしてこのことは大量生産を容易にする。つまり さて , ここで再び目をチグリス河の上流に向けてみよ アッシリアの戦車が強かったのは大戦車軍団を組織化し う。第 2 回で述べたように , エジプトとヒッタイトが争 たことにあるといっても過言ではない。 っている間に , ヒッタイトの 東 , メソボタミアにはアッシ リアという国がおこった。同 国は紀元前 1320 年の頃 , すで に 2 人乗り , 3 頭立ての戦車 を持ち , その構造は同時代の エジプトの戦車よりはるかに 0 0 、物、第ニネべ アッ , シ ~ リア 0 ) ノぐヒ : ロン 0 フ - 鉄製の戦車はアッシリア王の自慢だった 94
また紀元前 860 年には乗馬 隊も編成されていた。中国に 最初の騎兵隊が出現するより 547 年も昔である。もっとも はじめは鞍もなく毛布を裸馬 の背中に乗せただけだからよ くスペリ落ちたり , 尻が痛く なったりしたという。第 2 次 大戦中でも「騎兵は全員痔病 特ち」といわれたほどだから , 羊の革を浮袋に , 敵前で川を渡るアッシリア兵 アッシリア騎兵たるやおして ロニアを征服してアッシリア王ティクラト・ビレセル 3 知るべしであろう。 世が / くビロン王をも兼ねた。紀元前 670 年にはエジプト 騎兵も戦車兵も , アッシリア人は槍より弓と矢が好き たったらしい。アッシリア人は , 騎兵だけの大軍団を戦 を征服してオリエントを統一したのである。 しかし , これだけの大軍隊を保持するには巨万の富を 車と協力させて敵の歩兵陣型を突破する戦術をよく使っ た。また , 彼らは残忍で敵兵の死体を串刺しにしたり , 必要とする。この資金を確保するため農民に重税を課し 誧虜を虐殺することなど朝飯前だった。紀元前 722 年に たうえ , 他民族を絞めあげたので , やがて各地に反乱が 郵位したサルゴン 2 世は , 「毎日 , 彼の目の前で食事す おこり , これに乗じた連合軍の攻撃を受けてさしもの帝 る 54 名の常備軍」を持ち , いざというときは 5 ~ 10 万 国も紀元前 612 年に滅亡してしまった。あまり軍備を拡 人の大軍団を編成したという。歩兵は 10 人を単位として 張して税金をとりすぎると , 国の存立を危うくするよい 50 人隊 , 100 人隊などと拡大され , 18 人隊は , 後世ロー 例だ。 マのセンチュリオン = 100 人隊長出現のきっかけとなる。 以降 , アッシリアに代って西アジアにベルシャ帝国が さらに注目すべきは , すでに工兵隊が編成されていた これについては次号でのべよう。 誕生するが , ことだ。アッシリア工兵は , 舟を並べてその上に板を渡 し戦車を対岸に渡す渡河法ー第 4 次中東戦争でエジプ ト軍が T62 戦車を渡したように一を考え出していた。ま た , 羊の皮の大きな浮き袋を戦車の室右にしばりつけ , これを漕いで渡河する方式もおこなわれた。もちろん , 小さな羊の浮袋をふくらまして腹の下に入れ , 歩兵が 1 人ずっ渡河することもあったというが , さすが大アッシ リア帝国である。 この中でもアッシリア工兵隊の珍兵器は 4 輪攻城車だ った。戦車や騎兵は平原戦用だったが , もうこの時代に は建築技術も発達し , 石を積み重ねた城があちこちに建 てられていた。敵の城を攻めるには多大の犠牲を出す。 そこで非常に背の高い「戦闘塔」を作り , この上に弓の 射手を乗せる。「戦闘塔」の下には小さな 4 輪がついて おり , 歩兵はこれを押してノロノロ ( 重いからこう見え る ) と敵の城壁に押して行く。塔からは梯子や渡り板を 相手の鹹壁にかけ , 歩兵はこれを渡って城内に斬りこむ という戦法である。押してきた歩兵は , 梯子を上って後 から後からと戦闘塔に上り , 城内に攻鹹部隊のコマンド を送りこむ。この「戦闘塔」の装甲も , 戦車と同じく柳 の枝を編んで板のようにしたものだった。 これらの兵器を持つ大軍国主義国アッシリアは , 紀元 前 875 年にシリアに遠征し , 840 年には海運業に長じた フェニキア人をしてひざまずいて貢物を持ってこさせる にいたった。さらに 730 年にはさしも栄華を誇ったバビ 高い戦闘塔を持っ攻城車 95
く戦史シリーズ No. 44 > 真説戦場にかける橋」 タイ、ビルマをつなぐ鉄道 木俣滋郎 The true story of Mek10hng Bridge 翌 3 月 9 日 , 54 歳の第 15 軍司令官 , 飯田祥二郎中将 ビルマの第 15 軍 ( 陸軍士官学校第 20 期卒業 ) は馬にまたがり , 壮大なラ 1942 年 ( 昭和 17 年 ) 3 月 8 日 , 第 15 軍 ( 林集団 ) の第 ングーン入城式を挙行した。 33 師団 ( 弓兵団 ) は , ビルマの首都ラングーンに突入し こうして , 米の産地 , 「黄金のパゴダの国」ビルマは た。イギリス軍ビルマ第 1 師団 , 第 17 インド師団 , アメ 日本軍の侵入するところとなったのである。 リカ製の M 3 スチュアート軽戦車を持つイギリス第 7 装 だがイギリス・インド軍もいつまでも退却したままで 甲旅団などは装備を放り出し , 鉄道や船で命からがら西 はない。彼らは巻き返しを計って , 3 月 , 上層部の首を 方へ脱出した。 すげかえた。つまりビルマ方面軍司令官ハットン中将が 日本の戦車第 2 連隊の九五式軽戦車は , スチュアート 責任をとって解任され , かわりにハロルド・アレキサン 軽戦車の 37 新砲に射すくめられてかなりの出血をみたが ダー大将が任命されたのだ。 それでも大勢は日本軍の圧倒的な勝利におわった。 彼は 2 年前 , 有名な「ダンケルクの撤退」のさい , イ ギリス第 1 師団長として部下をうまく退却させた功績を 買われていた。 51 歳のアレキサンダー大将は , 疲れきっ た兵力をカキ集め , 日本の第 15 軍を喰止めようと計画し ていた。 イギリス・ビルマ方面軍 第 17 インド師団 ビルマ第 1 師団 第 63 インド旅団 第 7 装甲旅団 ( Mk. Ⅳ軽戦車 , スチュアート軽戦車 ) 第 28 飛行中隊 ( 固定脚のウェストランド・ライサンダ 一地上協力機 ) 中国第 5 軍 ( 応援 ; 北方より ) これらの部隊の将校は皆イギリス人であり , 兵の大半 はインド人やビルマ人であった。 これに対し , 日本の第 15 軍は次の兵力である。 第 56 師団 ( 竜兵団 , 北九州の兵 ) 第 18 師団 ( 菊兵団 , 北九州の兵 ) 第 33 師団の一部 ( 弓兵団 , 北関東の兵 ) すでに海上交通もひらけ , 第 33 師団の先鋒は 3 ~ 4 月 に貨物船に分乗 , インド洋に出てビルマの首都ラングー 98
T77E3 , ex 〃 2 me 記 model ″わ 75 ・ m 川 . M8 SPH んな ~ = = 丁四Éーは一輛だけ試作された本格的な 6 輪装甲車。、原型の T 円は T ロ E 工の砲塔を積んていたが、 それを同じ 37E 砲装備のまま、より低くスマートな溶接砲塔に換えたタイプであるいまからみても なかなか近代的なスタイルだがいこれもカサが大きすぎるためにバッサリと切られた。 9E7 6 w わ d armored c ロ川 0 rn 5 わ c のに e 阨 d.
きミ第にを 中国人民解放軍とその備 キマダジロウ Chinese ′ m / おそらく第 4 次中東戦争でも威力を発揮したこれらの兵 1 中国人民解放軍のあゆみ 器によるものであろう。 2 月 17 日早朝 , 雪崩をうってベトナム北辺の国境を越 しかし強大国中国が思い切りよく 2 週間でサッと兵を 引きあげるところなど , なかなか堂に入ったものだ。 えた中国人民解放軍は 75 , 000 ~ 85 , 000 名であるという。 これを含め , 合計 17 コ師団 , 22 万 5 千名が国境の付近に そこでこの機会に , 中国人民解放軍の横顔に目をやっ 集結したことが , アメリカの偵察衛星の探知するところ てみよう。 1927 年 ( 昭和 2 年 ) , 中国南部の湖南省 , 江西省の境で となった。 ベトナムの正規軍は国境線からややさがって布陣し , 創立された労農紅軍第 4 軍が中国人民解放軍の祖先とい 地形をたくみに利用した陣地や地雷原で中国軍の侵入を える。第 2 次大戦中は , 介石の国民政府軍との対立を 防いだが , 中国兵はこの地雷原を突破するために裸馬を タナに上げて日本と戦っていた紅軍は , 戦争に敗れた日 先に立てたと伝えられる。なかなかュニークな戦法であ 本の武器を接収して , 、近代装備を整え , 2 年後の 1947 年 ( 昭和 22 年 ) , はじめて人民解放軍を名乗った。 る。 それにしてもベトナム軍は意外に強く , 侵入を許しな アメリカの力をックにし 日本名 中国名 がらも中国側にかなりの打撃を与えているようだ。それ た蒋介石に対し , 毛沢東のひ 軍 団 もそのはず , ベトナム軍は長い実戦経験を持つべテラン きいる人民解放軍は農民の絶 師 団 ぞろいで士気も高く , そのうえアメリカ軍が放り出して 師 対的な支持を受け , 悪政に人 いった兵器なども加わって , 評判以上の善戦をみせてい 気を落とした介石軍を台湾 連 隊 団 ベトナムでは農業用トラク る。例の M113APC など , に追っぱらうと , 1949 年 ( 昭 大 隊 ターに改造され , 広く民間に放出されているという。 和 24 年 ) , 新たに中華人民共 中 隊 そのうえソ連がアントノフ 22 4 発輸送機をはるばる 和国を建国したのである。 小 隊 中近東のイラク経由でベトナムへ送り , 対戦車ミサイル 1950 年 , 朝鮮戦争がはじま 分 隊 ・サガーや RPG7 などを迅速に運びこんだ。中国軍の って 4 カ月後の 10 月には , 鴨 戦車が国境の町ランソン付近で多大の損害をみたのは , 緑江を越えて朝鮮に大量の正規軍を送り ( 宣戦布告はな いから名目は義勇軍 ) , 近代装備のアメリカ軍と互角に 中国人民解放軍の兵種と兵力 戦った。このとき , 彼らは T34 / 85 戦車を共産主義の兄 と信頼するソ連から供給されている。その後 , 1959 年 10 121 コ師団 兵 歩 月のインドとの国境紛争にも電撃的勝利をおさめた。 40 コ師団 砲兵 ( 高射砲 = 防空兵を含む ) 12 コ師団 ところが , 4 年後の 1963 年ごろからソ連との仲が悪く 装甲兵 鉄道兵 なり , ソ連の軍事顧問団の引きあげにより , 中国軍の近 15 コ師団 工 代化はビンチを迎える。 3 コ師団 落下傘兵 また , さらに 2 年後の 1965 年 6 月 , 今度は軍に一大改 兵 騎 革を試み , それまで 14 コあった軍の階級を全廃してしま 通信兵 った。これは世界の軍事通をアッといわせたものだ。 防化学兵 近代装備に劣ることを自認する中国は , 1977 年 9 月 , 技術勤務兵 楊成武副総参謀長以下十数名の陸海空軍代表団をョーロ 上記の他、地方部隊として歩兵 70 コ師団がある。 ッパへ送り , フランスや西ドイツで軍事技術の最先端を 88