司令部 - みる会図書館


検索対象: PANZER 1979年4月号
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1. PANZER 1979年4月号

ざド ′ンレ ンに無血上陸していた。 しかし船団はマレー半島の南を 3 ノットでわざわざ迂回し細いマ ラッカ海峡をとおる手間は筆舌につ くし難い。おまけに , 帰路はイギリ スの潜水艦 , トルーアントにより八 重丸 ( 国際汽船 , 6780 総トン ) , 春 晴丸 ( 大同海運 , 4949 総トン ) の 2 隻が撃沈されてしまった。 今後の補給問題はすぐ対策をたて なければならない。さもないと 1 ~ 2 年後に予想されるイギリス・イン ド軍の大反攻に間にあわないのだ。 第 2 鉄道監司令部 , 工事を開始 「どうしても鉄道を敷設せんといか んばい」 南方軍鉄道隊司令官 ( = 第 2 鉄道 監 ) , 服部暁太郎少将はタイ国のバ ンコク体育専門学校にある司令部で 地図をながめていた。 彼はめずらしくエ兵 , それも鉄道 科の出身であった。日露戦争のとき いくら馬で引張ってもビクともしな い巨大な 28 榴弾砲を軽便鉄道の蒸 気機関車で運んで全軍から感謝され て以来 , 日本の鉄道部隊の士気は高 力、った。 服部暁太郎少将は , 5 カ月前に仏 印に到着したとき一一つまり太平洋 戦争がはじまる前一一一すでにタイよ りビルマへ鉄道を敷設する必要性を 認めていた。研究の結果 , それが可能だと思われたので をぬう単線の鉄道 , 世界で最も鉄道技術の進んでいる国 南方軍総司令部 ( 在サイゴン ) に意見書を提出したが , と自慢していたイギリスも , 以前この鉄道を計画したこ それつきりになってしまった。しかし 1942 年 ( 昭和 17 年 ) とがある。だが , あまりの難工事に尻ごみし , 結局計画 3 月 12 日一一開戦から約 3 カ月後一一一ラングーンにいる 倒れにおわってしまったのだ。 第 15 軍司令官 , 飯田祥二郎中将はバンコクの服部中将に 服部少将は , 1942 年 ( 昭和 17 年 ) 1 月一一第 15 軍より 対して , 「鉄道敷設の可能性を調査せよ」と下命される 2 カ月前 , 「タイ , ビルマ間に鉄道を敷設する準備 , 調査を開始せ 第 2 鉄道監司令部の一参謀に「歩いて調査してこい ! 」 よ ! 」と命令してきた。 と命じてあった。 この鉄道は , 当時のむずかしい漢字を用いて泰 ( タイ ) 命令を受けたこの少佐はタイの第 2 鉄道監司令部から ~ 緬旬 ( ビルマ ) 鉄道とよばれていた。両者の頭文字を ジャングルを西にぬけ , 400 余の全行程を歩きとおし とって泰緬 ( たいめん ) 鉄道である。 たのである ! ノートと地図と磁石とをカバンに詰め , タイにもビルマにも , それぞれゲージ 1 の簡単な鉄 携帯用の食糧だけを持って銃声のひびく戦場を歩くのも 道はあった。だが国境を越えて両国を結ぶ鉄道はない。 難行苦行だった。 それもそのはず , 両国の国境付近には海抜 1 0 もの山 「可能性はあります」 がそびえたち , 行く手をはばんでいるのだ。山と谷の間 この報告に服部少将は喜んだ。だが , もっと立体的な 99 ク / ツ / イ / / ロ 0

2. PANZER 1979年4月号

ハ・い、 0 実際には , 7 月 5 日 , 資料が欲しい。 / くンコク西方 40 のノンフ・ラド 南方軍鉄道隊の下には 200 万分の 1 の地図しかなかっ ック駅に , 赤と白をした測量用の起点標柱が立てられた た。そこで , 第 5 飛行集団の飛行第 8 戦隊に依頼して航 のが着工の第 1 歩だった。作業は東のタイ側と西のビル 空写真を撮ってもらうこととなる。・ビルマのドームアン マ側の両方から同時に行う。兵力は以下のごとくであっ 飛行場には固定脚の九七式司令部偵察機が進出した。そ た。 して小西六の小型手持ち写真機 ( 斜め式 ) を載せて機体 第 2 鉄道監司令部 ( / くンコク , 50 名 ) タイ側 : 鉄道第 9 連隊 ( 2500 名 ) の底に穴をあけ , レンズを下方に突き出した固定写真機 第 5 特設鉄道隊 ( 770 名。民間の鉄道員 ) ( 垂直式 ) の 2 種により , 航空写真が撮影された。 ビルマ側 : 鉄道第 5 連隊 ( 2000 名 ) これはただちにノくンコク - に送られてきた。フィルムの 第 1 鉄道材料廠 ( 140 名 ) 長さは 20 にもおよぶ。 鉄道第 5 連隊は , 太平洋戦争の直前に中国南部の作戦 「いや , 第 3 案がいちばんよいと思います」 に協力した部隊だった。そして 1942 年 3 月 , ビルマのラ それそれ長短のある 5 つの鉄道敷設路のうち , 参謀の 提案どおり第 3 案に対して服部少将はうなずいた。これ ングーンに上陸後 , 第 56 師団をトングーの町に進出させ はビルマ最長の川 , サルウイン河の激流をわたらずにす るため , 1 日 2 本の列車を動かしてきた。鉄道第 5 連隊 むルートだからだ。第 3 案はその支流の小さな渓谷に鉄 にとって幸いだったことが 3 つある。その第 1 はラング 橋をかけさえすればよい。ところが , この案は地勢上有 ーン郊外のインセン鉄道工場が無傷で入手できたこと。 利であっても , 実は恐ろしい流行病の慢延する地区をと 次はイギリス・インド軍が退却を急ぐあまり橋のいくっ かを爆破し忘れたこと , 第 3 は 1000 台余の各種貨車をビ おらなければならないとは , まだわからなかったのであ ルマ全土で捕獲できたことであった。ラングーンに上陸 した鉄道第 5 連隊は , ビルマの前線から後方へ向って鉄 同年 4 月 , 服部暁太郎少将は内地への帰還命令を受け 道を敷く格好である。 とった。後任は東大の機械工学部出身の下田宣カ少将で 他方 , 鉄道第 9 連隊は , もとジャワの第 16 軍 ( 治集団 ) ある。 の指揮下にあり , 北スマトラの鉄道を動かしてきた部隊 下田少将が着任して 2 カ月目の 6 月 7 日 , サイゴンの である。彼らは蘭印作戦が一段落ついたので船で北上 , 南方軍総司令部 ( 威集団 ) から , タイにある第 2 鉄道監 6 月 , タイに上陸した。鉄道第 5 連隊が 3 コ大隊の編成 司令部に対して正式に命令が下りた。 であるのに対し , 第 9 連隊は完全装備の 4 コ大隊よりな 「泰緬鉄道を敷設せよ ! 完成は来年末とす」 100

3. PANZER 1979年4月号

C56 内」 0 て 56 引 . も 走ることができる。 クワイ川にかける橋 さて , 労働力の不足のため , 下田少将は現地人の労働 力を使うこととした。人夫はマレー 南東に流れてタイ湾にそそぐメクロン川という大河が ビルマ , タイて集 められたが , 彼らはもともとあまり働く気がない。 ある。レールはタイ領カンチョンプリーの町をすぎたと 「とても 1 年半では完成しそうもない」 ころでメクロン川を渡り , メクロン川の支流であるクワ 第 2 鉄道監司令部では心配になってきた。 イ河 ( 現名ケイノイ川 ) に沿って鉄道は北西のビルマへ 「やむをえん , 捕虜を使え ! 」 と続く。だがそのためには , まずメクロン川に永久橋を 工事を急がせるため , 東京の大本営は下田少将に命令 渡さなければならない。 これが映画になった「戦場にかける橋」である。この した。シンガポールの収容所からイギリス人捕虜がつぎ つぎと鉄道輸送され , タイの前進基地 , ノンプラドック あたりは , まだ平野地帯だったのでコンクリートで橋ゲ に送られる。この鉄道がビルマ作戦のためだったために タを 8 本立て , その上に鉄橋が立てられることとなる。 捕虜を労務につかせた点が問題となり , 軍事裁判の対象 「架橋技術者が到着した ! 」 となったのは戦後の話である。 当時 , すでに日本国鉄の各種の技術ーーとくに架橋 , 数カ月後 , タイ側で働いていたイギリス人捕虜の中か トンネル掘削技術は世界的な水準に達していた。 ら , 食糧と医薬品の不足のために , 多数の死者が続出す 映画では , 「失敗ばかりしている日本人に , われわれ る。他方ビルマ側の捕虜はずっと少なく , 日本兵も彼ら 先進国の技術をみせてやろう ! 」などというシーンがあ と同じ柤食に甘んじたため捕虜は協力的だった。 るが , 少くとも橋に関する限り , 素人の捕虜の助けなど 泰緬鉄道の建設に投入された労働力は 借りなかった。ましてやパラシュートで降りたアメリカ 日本兵および軍属の鉄道員 兵に爆弾を仕掛けられる光景など , 全くのフィクション 6000 人余 約 55 , OOO 人 である。 現地人労務者 25 , 80 人 メクロン鉄橋ができるとあとはクワイ川に沿ってレー 86 , 000 人 ルは北西に敷かれた。他の橋は木製の臨時橋だった。年 意外なことに , イギリス人捕虜の多くはミルク・コー 間 5000 という世界最大の多雨地帯での工事である。 ヒーを飲む代金をかせぐため , よく働いた。彼らは日給 415 という距離は東京から岐阜県関ガ原までの距離だ。 制度で , 残業を希望すれば割増金もついたという。夜業 ジャングルでは大蛇や虎も出た。 にはオヤツもでた。 1943 年 ( 昭和 18 年 ) 1 月 , 下田宣カ少将は作業状況を 「まだ機動力が足りない ! 」 視察のため機上の人となった。ところが , やがて入った 第 2 鉄道監司令部の要求に , 南方軍総司令官寺内寿一 報告は参謀たちを驚かせるのにじゅうぶんだった。 大将は自動車 1 コ中隊 300 台をまわしてくれた。大部分 「なに ! 閣下の飛行機がビルマ山中に墜落したと ? がトヨタ K B 型 , ニッサン 80 型 , いすず九四式自動貨車 間違いないか ! 」 などのトラックである。 事故によるものか , イギリスの戦闘機によるものかは さらにシンガポールを平定した近衛師団 ( 戦史シリー わからない。 ズ No. 32 参照 ) のうち , 工兵 1 コ連隊がタイ側に入り , 代って 3 代目の第 2 鉄道監 , 高崎祐政少将が着任し 列車で作業現場に到着した。 た。だが彼も極度の栄養不足とマラリア蚊のため , 病死 幸い , 枕木にする木材はシャン高原に多く産出する。 してしまう。日本兵だけが上等なものを食べていたわけ タイ人の使う象もよく働いた。生きたクレーン車や牽引 でもない。だいたい南方軍の支給する食糧や給料は 1 ケ 車として 300 頭の象は申し分のない働きを示した。 タ少なかったのである。 102

4. PANZER 1979年4月号

1 9 4 3 年 7 月再編時の第 2 1 戦車師団 第幻 戦車師団 師団司令部 機甲偵察大隊 司令部中隊 第 200 対戦車大隊 第 22 戦車連隊 第 200 通信大隊 第に 5 機械化 弾兵連隊 第 200 工兵大隊 第四 2 装甲 擲弾兵連隊 第 305 高射砲大隊 第 5 機甲 砲兵連隊 第 200 補給大隊 第 200 管理大隊 第 200 衛生隊 修理隊 第 200 第 200 野戦憲兵隊 第 200 野戦郵便局 指揮下に入り , 連合軍の上陸に備えて北フランスを防衛 する任務につくことになった。 1944 年 6 月 6 日 , 連合軍がノルマンディに上陸したと 第 5 軽機甲師団および第 21 機甲師団の師団長 第 5 軽機甲師団 ( 1 ) ヨハネス・シュトライヒ少将 ( 騎 ) 1941 年 2 月 20 日 7 月 22 日 ( 2 ) ヨハン・フォン・ラヴェンシュタイン少将 1941 年 7 月 31 日 10 月 1 日 第 21 機甲師団 ( 歩 ) ( 歩 ) ( 1 ) ② ( 3 ) ( 4 ) ( 6 ) ( 7 ) ( 8 ) ( 9 ) ( 5 ) 76 ヨハン・フォン・ラヴェンシュタイン少、将 1941 年 10 月 1 日 11 月 30 日捕虜 グスタフ・クナーベ中佐 ( 歩 ) ー臨時一 1941 年 11 月 29 日 11 月 30 日 カール・べットヒャー中将 ( 歩 ) 1942 年 1 月 30 日 1941 年 11 月 30 日 ゲオルク・フォン・ビスマルク少将 ( 甲 ) 1942 年 1 月 30 日 8 月 31 日戦死 カール・ハンゼン大佐 ( 参 ) 1942 年 8 月 31 日 9 月 18 日 ハインツ・フォン・ランドフ少将 ( 甲 ) 1942 年 9 月 18 日 12 月 21 日戦死 ハンス・ヒルデブラント大佐 ( 甲 ) 1943 年 1 月 1 日 4 月 25 日 ハインリヒ・フォン・ヒュルゼン少将 ( 甲 ) 1943 年 4 月 25 日 5 月 13 日降伏 E. フォイヒティンガー少将 ( 甲 ) 1943 年 7 月 マックス少将 ( 甲 ) 1945 年 1 月 1944 年 12 月 4 月降伏 きには , 第 15 軍第 1 S S 機甲軍団に配属されていたが , 第 7 軍戦区に移され , 連合軍が攻略をねらっていたカー ン南方に進出した。師団ではその主力であった第 22 戦車 連隊 ( フォン・オッペルン・プロニコフスキー大佐 2 コ大隊 , 8 コ中隊 , Ⅳ号日型戦車 150 輛 ) は使用 できる全力 120 輛をイギリス第 2 軍団の上陸地点で あるジュノーとスウォード両海岸地区の中間に投入 することが決定していたが , 国防軍最高司令部から の命令の遅れによって , 上陸直後の敵を撃破すると いうチャンスを逃がしてしまった。 上陸地点へ進行中 , 最初に接敵したのは第 192 装 甲擲弾兵連隊第 8 重装備中隊のⅡ号 75E 対戦車自走 砲であり , ビエヴィルの付近でイギリス第 3 師団第 185 旅団を支援する第 27 装甲旅団の M4 中戦車と戦 闘を交じえた。続いて連隊長に指揮された第 22 戦車 連隊の 2 コ大隊は 98 輛のⅣ号 H 型戦車で第 3 カナダ 師団の戦区に突入したが , 第 8 カナダ旅団および第 9 旅団の対戦車火器によって多数の戦車が損害を受 けて進出は阻止された。 こうして , 第 21 機甲師団はカーン付近の防衛線に 撤退し , さらに 7 月のグッド・ウッド作戦時にはイ ギリス第 3 師団の攻撃を支えたが , 主力である第 22 戦車連隊 , 第 125 および第 192 装甲擲弾兵連隊の戦力 の消耗は大きく , カーンの防衛を果たせなかった。 その後 , 第 21 機甲師団は第 47 機甲軍団に編入され て , アプランシュを奪回するリュテイヒ作戦に参加 したが , 連合軍に圧倒されて作戦は失敗し , 逆にフ ァレーズで包囲されそうになった。同師団は第 200 工兵大隊の支援でかろうじて包囲陣を脱出し , 機甲 集団 ( 第 5 機甲軍に改編 ) の他の部隊とともに , セ ーヌからマース河を経て , ジークフリート線まで撤 退した。フランスの戦いもこうして連合軍の勝利に 終った。

5. PANZER 1979年4月号

と改称され , 師団長には第 5 軽師団の 2 代目の師団長で 充を受けると , 再びトプルクに対する攻撃を予定し , そ あったフォン・ラヴェンシュタイン少将が任命された。 の主力であるアフリカ軍団は , 11 月 15 日までに作戦準備 編成内容は , 師団司令部 , 1 コ戦車連隊 , 1 コ自動車 を完了した。 しかし , イギリス軍のほうもドイツ戦車部隊を撃破し 化連隊 , 1 コ対戦車自走砲大隊 , 1 コ偵察大隊 , 1 コ工 トプルクの解放とキレナイカの再占領を目的とするク 兵大隊 , 1 コ通信大隊および師団直轄部隊からなってい ルセイグー作戦洋を 11 月 18 日に開始するための準備を行 0 っており , 新任の中東方面軍司令官サー・クロード・オ 師団の主力である第 5 戦車連隊は , 連隊本部 , 通信小 隊 , 本部戦車小隊 , 修理中隊および 2 コ戦車大隊で編成 ーキンレック大将は第 8 軍司令官サー・アレン・カニン され , 戦車大隊は 4 コ中隊編成であった。また , 自動車 ガム中将の下に戦力の補充を急いでいた。 当時の第 8 軍の兵力は , 第 13 軍団 ( 第 4 インド師団 , 化連隊は , 連隊本部 , 本部中隊 , 3 コ自動車化大隊 , 重 第 2 ニュージーランド師団 , 第 1 戦車旅団 ) , 第 30 軍団 歩兵砲中隊および対戦車砲中隊で編成されていた。 ( 第 7 装甲師団 , 第 1 南アフリカ師団および第 22 近衛旅 そして同時に , アフリカ部隊の上級指揮機関も改編が 団群 ) , トフ・ルク守備の第 70 歩兵師団 , 第 32 戦車旅団 , ポ 行われた。ロンメルは大将に進級して , その指揮下にア ーランド連隊 , そして , 軍予備として第 2 南アフリカ師 フリカ機甲集団が編成され , その下にアフリカ軍団 ( 第 団および第 29 歩兵旅団などからなり , 戦車戦力は 336 輛 15 , 第 21 機甲師団 ) , 第 90 軽師団 , イタリア第 20 機械化 の巡航戦車 , 225 輛の歩兵戦車および 195 輛のアメリカ製 軍団 , 第 21 軍団およびサポナ歩兵師団などが編入され M3 軽戦車の計 756 輛であった。 た。その戦車戦力は , 70 輛のⅡ号 , 139 輛の皿号 ( 半数 これに対して第 21 機甲師団は , トフ・ルク前面のガンフ・ は 37E 砲装備 ) , 35 輛のⅣ号戦車および 5 輛の歩兵戦車 ート地区で , 第 8 軍の行動をけん制する準備を行ってい マチルダ ( 捕獲 ) の計 249 輛に , 146 輛のイタリア軍の戦 た。そして , この作戦の間に , 第 21 機甲師団はアフリカ 車を加えて合計 395 輛であった。 機甲集団 , アフリカ軍団などから兵力の増強を受け , 6 一方 , イギリス軍もこの時期に部隊の改編を行い , そ れまでの西部砂漠軍を増強して第 8 軍とし , その下に第 コ戦闘群を編成して戦闘に参加した。 11 月 18 日 , 第 21 機甲師団は第 8 軍の行動を探知するた 13 および第 30 軍団その他を配属した。 1941 年 11 月 21 日 , 新設のアフリカ機甲集団は兵力の補 め , 長距離偵察を行うヴェッマー戦闘群が , ノくルディア 誉第一 : →を亠 4 トプルクへ向って進むアフリカ軍団の戦車隊。第 5 軽機甲師団の第 5 戦車連隊と第 15 機甲師団の 第 8 戦車連隊はエジプト国境へ殺到した

6. PANZER 1979年4月号

く戦史シリーズ No. 44 > 真説戦場にかける橋」 タイ、ビルマをつなぐ鉄道 木俣滋郎 The true story of Mek10hng Bridge 翌 3 月 9 日 , 54 歳の第 15 軍司令官 , 飯田祥二郎中将 ビルマの第 15 軍 ( 陸軍士官学校第 20 期卒業 ) は馬にまたがり , 壮大なラ 1942 年 ( 昭和 17 年 ) 3 月 8 日 , 第 15 軍 ( 林集団 ) の第 ングーン入城式を挙行した。 33 師団 ( 弓兵団 ) は , ビルマの首都ラングーンに突入し こうして , 米の産地 , 「黄金のパゴダの国」ビルマは た。イギリス軍ビルマ第 1 師団 , 第 17 インド師団 , アメ 日本軍の侵入するところとなったのである。 リカ製の M 3 スチュアート軽戦車を持つイギリス第 7 装 だがイギリス・インド軍もいつまでも退却したままで 甲旅団などは装備を放り出し , 鉄道や船で命からがら西 はない。彼らは巻き返しを計って , 3 月 , 上層部の首を 方へ脱出した。 すげかえた。つまりビルマ方面軍司令官ハットン中将が 日本の戦車第 2 連隊の九五式軽戦車は , スチュアート 責任をとって解任され , かわりにハロルド・アレキサン 軽戦車の 37 新砲に射すくめられてかなりの出血をみたが ダー大将が任命されたのだ。 それでも大勢は日本軍の圧倒的な勝利におわった。 彼は 2 年前 , 有名な「ダンケルクの撤退」のさい , イ ギリス第 1 師団長として部下をうまく退却させた功績を 買われていた。 51 歳のアレキサンダー大将は , 疲れきっ た兵力をカキ集め , 日本の第 15 軍を喰止めようと計画し ていた。 イギリス・ビルマ方面軍 第 17 インド師団 ビルマ第 1 師団 第 63 インド旅団 第 7 装甲旅団 ( Mk. Ⅳ軽戦車 , スチュアート軽戦車 ) 第 28 飛行中隊 ( 固定脚のウェストランド・ライサンダ 一地上協力機 ) 中国第 5 軍 ( 応援 ; 北方より ) これらの部隊の将校は皆イギリス人であり , 兵の大半 はインド人やビルマ人であった。 これに対し , 日本の第 15 軍は次の兵力である。 第 56 師団 ( 竜兵団 , 北九州の兵 ) 第 18 師団 ( 菊兵団 , 北九州の兵 ) 第 33 師団の一部 ( 弓兵団 , 北関東の兵 ) すでに海上交通もひらけ , 第 33 師団の先鋒は 3 ~ 4 月 に貨物船に分乗 , インド洋に出てビルマの首都ラングー 98

7. PANZER 1979年4月号

アラメインから後退してきたアフリカ機甲軍 ( ドイツ・ 第 5 軽機甲師団の戦闘序列 ( 1941 年 2 月 ) イタリア機甲軍と改名 ) も合流したので , 第 5 機甲軍と 合わせてアフリカ軍集団 ( 総司令官ロンメル元帥 ) が編 第 5 軽機甲師団司令部 第 200 特別任務司令部 成されたが , その実兵力はビーク時のアフリカ機甲集団 第 5 戦車連隊 にも及ばなかった。 第 33 対戦車大隊第 1 中隊 ( 第 15 機甲師団へ ) チュニス , ビゼルタ付近に圧迫されたチュニジア戦の 第 39 対戦車大隊 最終段階では , 第 5 機甲軍およびイタリア第 1 軍などの 第 2 機関銃大隊 ( 第 15 機甲師団へ ) 残余部隊で編成されたイルケンス戦闘群 ( 第 8 戦車連隊 第 8 機関銃大隊 長イルケンス大佐 ) に戦車ミューラーと呼ばれたゲルハ 第 75 自動車化砲兵連隊第 1 大隊 、ユーラー大佐の第 5 戦車連隊本部および第 1 戦 ノレト・ 0 第 605 自動車化高射砲大隊 ( アフリカ機甲軍へ ) 車大隊がわずかに戦力を残して米英軍に対抗したが , 補 第 606 自動車化高射砲大隊 ( アフリカ軍団へ ) 給が途絶えていたためにしだいに戦力が細って行った。 第 14 戦車連隊軍団直轄第 2 偵察大隊本部 またプファイフア戦闘群は 5 月 13 日まで抵抗したが , つ 第 3 自動車化偵察大隊 北アフリカ・一リビア有線通信構成中隊 いに弾薬がっきて降伏し , 第 21 機甲師団はかい滅した。 第 39 自動車化工兵大隊 1 コ中隊 ( 第 15 機甲師団へ ) ヨーロッパにおける第 21 機甲師団 第 668 自動車化特殊任務兵站本部 第 532 自動車化補給大隊 1943 年 5 月 , チュニジアでかい滅した第 21 機甲師団は , 第 533 自動車化補給大隊 ( アフリカ機甲軍へ ) 同年 7 月 , 東部戦線に投入されるために北フランスのノ 第 39 自動車化補給大隊第 3 中隊 ルマンディ地区で再編成され , 師団長には E ・フォイヒ 自動車化補給大隊 ( 部隊番号なし ) ティンガー少将が就任した。 第 122 自動車化車輛修理工場中隊 編入された部隊は , 第 22 戦車連隊 , 第 125 , 第 192 装甲 第 129 自動車化車輛修理工場中隊 擲弾兵連隊 , 第 155 砲兵連隊および師団直轄部隊などで 自動車化衛生中隊第 1 小隊 ( 以下略 ) あり , 第 22 戦車連隊の編成は連隊本部 , 本部中隊 ( 中隊 本部 , 通信小隊 , 戦車小隊 , 対空班 , 整備班 , 補給・輸 型自走 150 重歩兵砲 , Ⅱ号 105 榴弾砲車ヴェスペ , Ⅱ 送隊 ) , 2 コ戦車大隊 ( 8 コ中隊 ) で編成され , 第 1 大 号自走 75 対戦車砲および 300 輛の Sdkfz. 250 または 251 隊は第 1 ~ 第 4 中隊 , 第 2 大隊は第 5 ~ 第 8 中隊で , 各 装甲兵車などを持っていた。 中隊に 17 輛 ( 小隊は 5 輛 x 3 ) , 大隊の本部中隊に 6 輛 , そして , ノルマンディ地区で訓練や占領業務などを行 連隊の本部中隊に 2 輛の合計 150 輛の戦車定数であった。 っていたが , 1944 年 2 月 , 西部機甲集団 ( ガイル・フォ また他の部隊を合わせて 60 輛のⅢ号 G 型突撃砲 , Ⅱ号 c ン・シュヴェべンフ・ルク上級大将 ) が編成されるとその 第幻 戦車師団 1941 年 11 月第 21 戦車師団の各種戦闘群 砲兵支援 戦闘群 第 2 幻砲兵連隊 第 408 重砲兵連隊 部 第Ⅱ包兵連隊 第Ⅱ 5 砲兵連隊 第 2 大隊本部 第 6 砲兵中隊 第 362 第 528 重砲兵大隊 砲兵中隊 部 第 902 第 533 砲兵中隊 砲兵中隊 カオテンフェルト べ群一隊 ナ 第兵第兵一 工 ク戦一歩 ウュッマ シュテファン 戦闘群 戦 闘 群 偵察大隊 戦車大隊 第 33 砲兵中隊 偵察大隊 ( 田榴弾砲 ) 第 15 戦車師団 砲兵中隊 から抽出 い 05E 榴弾砲 ) 重高射砲中隊 戦闘群 機関銃大隊 第 408 重砲兵大隊 に砲兵中隊 第 200 工兵大隊 ーコ工兵中隊 本 本 ツ 群 (88mm 高射砲 ) 第田 4 歩兵連隊 第一大隊 75

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0 0 0 キレナイカ進攻のために集結した第 5 戦車連隊のⅡ号およひⅢ号戦車。ドイツ軍にとっては初めての砂漠戦に彼等は勝利をかざった 射砲中隊 , 2 コ工兵中隊などからなる前回より強力なキ ルヒハイム戦隊を編成して再びトフ・ルクに対する攻撃を イ丁った。 だがこの攻撃も , 4 日間の戦闘の後すべて阻止され , 第 5 軽機甲師団でトプルクを包囲したまま作戦を中止し 0 一方 , ドイツ・アフリカ軍団の攻勢によってエジフ。ト 国境に後退したイギリス軍は , ハルファヤ峠に進出した 第 15 機甲師団を中心とするドイツ軍を撃破して再びリビ アに進出し , トプルク守備隊を救出する作戦を計画して いた。そして , その第一段階であるフ。レビティ作戦用の 兵力として , w. ゴット准将の指揮下に第 7 装甲師団と 西部砂漠軍直轄の第 7 装甲旅団 , 第 22 近衛旅団 ( 機械化 ) などの部隊が集結した。この作戦部隊は , 98 裲の Mk. I 巡航戦車 (A9), Mk. Ⅱ巡航戦車 ( AI のおよび 26 輛の 歩兵戦車マチルダを装備していた。 トプルクをめぐる戦闘 1941 年 5 月 15 日 , イギリス軍は国境付近のドイツ軍に 攻勢をかけたが , トフ・ルク包囲から転進したクラマー中 佐が指揮する第 5 戦車連隊第 2 大隊とこれに協力する空 軍の第 605 高射砲大隊は , フォト・カフ。ツツオにおい 64 て第 22 近衛旅団を撃破し , さらに第 15 機甲師団の第 8 戦 車連隊と協力して一度うばわれていたハルファヤ峠の陣 地を再占領した。 この戦闘における第 2 戦車大隊の編成・装備は , 大隊 本部 , 本部中隊 , 第 5 ~ 第 8 戦車中隊 , 補給中隊および 輪送部隊からなり , 第 5 中隊にはⅡ号戦車 5 輛 , Ⅲ号戦 車 10 輛 , 第 6 と第 7 中隊には各 5 輛のⅡ号および各 17 輛 のⅢ号戦車を , また第 8 中隊には 22 輛のⅣ号戦車を装備 していた。なお , 本部中隊にはⅡ号戦車 5 輛が配属され ており , 戦車の総数は 86 裲であった。 さらに各中隊内の小隊は , 第 5 が 3 コ小隊編成 , 第 6 ~ 第 8 が 4 コ小隊編成で , 第 8 中隊は火力支援を任務と していた。 西部砂漠軍のフ。レビティ作戦は , アフリカ軍団の果敢 な反撃によって失敗したが , 中東方面軍司令官ウェイベ ル大将は , その後の補給の成功によってイギリス本国か ら 135 輛のマチルダと 82 輛の Mk. Ⅱ巡航戦車および 21 輛 の Mk. Ⅳ軽戦車の供給を受けると , 再びトプルク解放の ための / くトル・アクス作戦の計画を立てた。 この作戦の参加部隊は , 西部砂漠軍司令官サー・ノエ ル・ビアスフォ - ード中将の指揮下に第 7 装甲師団と第 4 インド師団第 11 歩兵旅団 , および第 22 近衛旅団などであ

9. PANZER 1979年4月号

占領したフォート・ カブツツオのまえを 進む第 5 軽師団の Sd fz. 251 装甲兵車 ェシプトから増援さ れたイキリス西部砂 漠軍の A13 巡航戦車 と M にⅣ軽戦車 った。 逐することにあった。そして , 国境地帯を確保したのち 西部砂漠軍で唯ひとつの機甲戦力である第 7 装甲師団 トフ・ルクへ突進するのが第 7 装甲師団の主な任務であっ は , 第 4 装甲旅団 ( 第 4 , 第 5 および第 7 戦車連隊 = マ た。 チルダ歩兵戦車 90 輛 ) , 第 7 装甲旅団 ( 第 2 , 第 6 戦車 作戦は 6 月 15 日午前 4 時に開始されたが , ロンメル中 連隊 = 32 輛の Mk. I および 50 輛の Mk. Ⅱ巡航戦車 ) と第 将をはじめとするアフリカ軍団司令部も , この作戦とそ 7 支援群 ( 第 3 , 第 4 騎馬野戦砲兵連隊 , 第 1 軽高射砲 の発動日を予測しており , これに対して第 15 機甲師団 連隊 , キングス・ロイヤル・フザーズ第 1 大隊 ) などか ( フォン・エーゼべック少将 ) をバルティア ~ ・一、ルファ らなっていた。 ヤ地区に集結させるとともに , 第 5 軽機甲師団をトプル , くトル・アクス作戦における基本的な戦略目標は , ク南部地区に配置して反撃の態勢をとっていた。 ルファヤ峠を奪回してトプルクを守っている第 13 軍団と そして , 西部砂漠軍の攻勢に対応して , 15 日午前 11 時 連絡をつけることであり , 同時にファイド高地 , フォー に行動を開始した。第 15 機甲師団は , ハルファヤ峠を守 ト・カブツツオをも攻略して国境地帯からドイツ軍を駆 備する , 、ルファヤ支隊を救援するために国境に向って進 65 ノ、

10. PANZER 1979年4月号

0 Ⅳ & ON ・二イを 樋口好太郎 ー、ニを この作戦の主体であるエジプト侵攻は、グラツィアー ニ元帥の指揮下に、 9 コ師団、黒シャッ 3 コ師団および 現地土民軍 2 コ師団からなる 25 万名が投入され、サハラ 砂漠から吹く熱風、、カムシーン " の終った 1940 年秋にリビ アとエジプトの国境を越えた しかし、イタリア軍の進撃はスローで、サー・アーチ ポルト・ウェーベル大将に指揮されたイギリス西部砂漠 軍 ( 兵員 36 , 000 名 = 西部砂漠軍司令部、第 7 装甲師団、 第 4 インド師団およびニュージーランド師団 ) の反撃を 受け、逆にリビアに撃退され、要地ェル・アゲイラまで 占領された。 この情勢をみたヒトラーは、イタリア軍を支援するた め、ドイツ・アフリカ軍団を編成して指揮官にエルヴィ ン・ヨハネス・オイゲン・ロンメル中将を任命し、部隊 とともにリビアのトリポリに派遣した。 このとき送られた師団は、第 15 機甲師団と第 5 軽機甲 師団であったが、この第 5 軽機甲師団がのちの第 21 機甲 師団である。この師団は北アフリカ戦の最初から、 1943 年 5 月のチュニジアにおけるアフリカ軍団の降伏にいた るまで奮戦をつづけて壊滅し、その後北フランスで再編 成されたが、 1944 年夏、上陸してきた米英軍を迎えうっ てサン・ローの戦闘、アラス会戦などに参加し、最後は 東部戦線に投入されて 1945 年春、ドイツ第 3 帝国と運命 をともにしたのである。 第 5 軽機甲師団は、 1941 年 2 月 20 日、北アフリカへ送 る部隊としてベルリンの第 3 軍管区で編成された。基幹 初期の戦闘において捕獲したイギリスのマチルタ M k. 戦車と I 号 B 型戦車。北アフリカにおけるドイツ軍は、 その戦力のかなりをイギリス軍からの捕獲によってまか なっていた。 I 号戦車の後部には燃料缶かつまれている を・、・ - ヤ第を議