先頭に戦車を立てた第 10 軍団は , ポーランドのポズナ だ ! 」 事実 , ポーランド戦におけるドイツ戦車の喪失の % 近 ン軍団を包囲した。他方 , 最も南のドイツ第 14 軍はクラ くが , 機械的な故障とか操縦のミスとか自分自身の不注 カウの西方にある工業地帯に向い , 第 2 機甲師団を先に 意による原因だった。グーデリアン大将は自己の機甲 2 立てて進む。ポーランドは飛行機や大砲を国産できるか コ師団のうち , 第 10 機甲師団を命令により他の部隊へっ ら , 早くここをおさえてしまわないと戦いが長びくから けてしまったので , 自己の兵力としては第 3 機甲師団と だ。ポーランドのポメラニア軍団もルージ軍団も , 総く 第 2 , 第 20 自動車化師団の合計 3 コ師団しか手持ちがな ずれとなって退却を開始した。 かった。グーデリアン大将がこの 3 コをうまく結びつけ 「早く逃げろ ! さもないと , ポズナン軍団のように包 てフ・ラーエ河まで来てみると , 兵士は勝手に休んでおり 囲されてしまうそ ! 」 一向に河を渡ろうとする気配もない。 確かにドイツ軍の追撃は早かった。軽機械化師団や 5 「第 3 機甲師団長ガイル・フォン・シュべンプルク中 コの機甲師団には多数の Sd. kfz. 222 や 221 4 輪装甲車 はどこへ行った ? 」「わかりません」グーデリアンの怒 が偵察中隊に配備されており , それがポーランド歩兵の りは天に冲するばかりだった。河の対岸にはポーランド 敗走するさまを報告してきたからだ。自動車化師団の歩 の砲兵が手ぐすね引いて待っているような気がしたし , 兵も大半がクルップ社の K fz. 81 6 輪トラック ( 52 馬力 ) 橋を破壊されたために強行渡河を命ずる責任者がいない に乗っていたから , 足にマメを作らずにすんだ。「機甲 師団と自動車化師団のコンビは最高だ」とへフ。ナー , グ のだ。 たまたま若い戦車小隊長が「破壊されていない橋を発 ーデリアンの 2 人は大いに気をよくした。 不思議なことに , ポーランド戦車の精鋭 , フランス , 見しました ! 」と報告してきた。 グーデリアン大将は第 3 歩兵旅団長と相談し , 勝手に ルノー社の R 35 軽戦車は 1 輛も反撃してこなかった。 R 第 3 機甲師団を渡河させてしまう。ポーランド兵の反撃 35 にせよポーランド国産の 7TP 中戦車にせよ , 3. 7c 加 砲を持ち , 20E 機銃のドイツⅡ号戦車より攻撃力が強 は意外ゃない。のちに , 第 3 機甲師団長は第 4 軍の作戦 い。装甲もドイツ戦車の方が劣っていた。しかし戦争は 会議のために後退していたものと判明したが , 自分のる ただの数字の上の比較ではない。ひとたび勢いづいてし すに上級指揮官が自分の頭越しに師団を指揮してしまっ まうと , もはや手がつけられなくなるのは戦場の常であ たとして , シュペンベルク中将はグーデリアンを何年も 恨むのである。 交通兵監部出身 , 50 歳のハインツ・グーデリアン機甲 S ヒトラー総統の訪問 兵大将は , ドイツ陸軍における戦車戦術家の第一人者で あった。彼は , 北方軍集団の第 4 軍の下 , 第 19 機甲軍団 ポーランド現役師団のうち % , つまり 30 コ師団ははじ めの 2 ~ 3 日で多大の損害を出した。それでも歴史的に を指揮して新型の無線っき装甲車に乗ってポーランド軍 と戦かっていた。大将クラスの大ものが , 陣地をかまえ 有名な騎兵部隊は初陣のドイツ兵に恐怖を与えずにはお ず装甲車の上から戦車集団の 指揮をとるのは , 史上はじめ てのことである。 ところが彼の指揮装甲車の 前後左右に , 突然大口径の砲 弾が落下してきた。どうみて もポーランド砲兵のものでは ない。 「ノくカめっ ! 味方射ちだ ! 」 後方の砲兵が , 初陣に興奮 し , 朝もやの中でメチャメチ ャに射ち出したのだ。そのた め , 装甲車の操縦士は砲弾を 避けようとしてハンドルを切 りそこね , 車は溝に落ちてし まう。車体がかなり破損して しまった。 「どいっこいつもへマばかり 9 ドイツのⅣ号戦車 C 型。侵攻部隊は自軍識別用の白い十字を画いていた
かなかった。 ドイツ歩兵将校の中には戦かわないうちに 「敵の騎兵が突撃してきたら , どれくらいもちこたえら れるだろうか ? 」と心配している者があとを絶たなかっ た。 11 コのポーランド乗馬騎兵旅団の全てに 1934 年型 w Z 4 輪装甲自動車が配置されていた。この装甲車は 3.7 0 加砲を持ち , 6n の装甲を張ったものでイタリア , フィ アット社系の 20 馬力のエンジンで走る。あまりにも兵士 の恐怖心が強いので , グーデリアン大将は部下の師団長 や幕僚に会うごとに 「だいじようぶ , ポーランドの騎兵 , おそるるに足らず ! 」と激励して歩かなければならなかった。 やはりポモルスカ騎兵旅団がドイツ第 3 機甲師団に突 撃してきた。彼らは小銃を肩にかけ , 何と長槍をフリか ざして勇敢にも前世紀的な横陣でいっせいに斬りこんで きたのである ! だがⅡ号戦車の機関銃の乱射の前に , 彼らは , くタノくタ倒れていった。それでも開戦 2 日目の 9 月 2 日 , 第 3 機甲師団はフ・ラーエ河の東岸でポーランド のボラメニア軍団の一部のため , 2 つに分断されてしま った。たまたま燃料が切れていたからである。 しかしポーランド側の勝利は一時的なものにすぎなか った。何しろ戦闘がはじめてのことで , 補給が円滑を欠 き , ドイツ側はヘマばかりやっていたけれど , ュンカー ス 87 急降下爆撃機とⅡ号戦車のコンビは全世界が驚ろく ほどの戦果をあげ , 「ドイツ軍の電撃作戦」の名をほし いままにしたのである。 K ー YA マイクロ・アーマー 9 月 5 日 , べンツの 6 輪オープンカー G4 / W ー 31 ( 100 馬力 ) に乗ったヒトラー総統が , 戦線の視察にやってき た。メチャクチャに破壊された敵の砲兵陣地に目をやり 上気嫌のヒトラーはグーデリアンにたずねた。 「これは急下降爆撃機の戦果かね ? 」「いや , 戦車であ ります ! 閣下 , この 5 日間におけるわが第 19 機甲軍団 の損害は , たったの 150 名であります」 グーデリアンの言葉に , ヒトラーは , 将来陸上戦の主 役となるのは戦車に違いないと考えた。 グーデリアンはヒトラー総統のかたわらに立つ司令部 の護衛隊長に目をやった。 「この男が『歩兵攻撃』という本を書いて注目を浴びた ェルヴィン・ロンメル少将か ? わしより 6 歳若いがな 首都ワルシャワ , 陥落す ド軍の抵抗は , もはや下火となった。 9 月 5 日 , 北のダンチヒ市への回廊にいたるポー り 1 年半後のことである。 ロンメルがアフリカ軍団長に任命されるのは , かなか切れ者らしい」 ラン これよ を通過するドイツ戦車に多大の出血をもたらしたのであ この 37E 砲と 7.92E 対戦車小銃は森にかくれ , 至近距離 ト社系の 4 輪野戦車 508 型で 37E 対戦車砲を引いていた。 損害も大きかった。ポーランド軍は , 国産したフィアッ しかし破竹の勢いで進んだといっても , ドイツ戦車の バトル・シリーズ第 1 弾ノノレマンティ ・シリーズ A セット = モデル 25 コ、塗装・編成などの資料入り定価田 000 円 ( 〒込み ) B セット = モデル 12 コ、塗装・編成などの資料入り定価 5000 円 ( 〒込み ) ☆モテルの個別販売は、包装と郵送料の都合から 5 コ以上の御注文に応じます。単価 400 円 ( 〒込み ) 。御注文のさいは品名の左にあるナンパーをお書き下さい。 ☆御希望の方にはセットに入っている塗装・編成の資料を販売いたします。 200 円 ( 切手可 ) をそ ☆通信販売用の上記セットと資料は 5 月 25 日から発送を開始いたします。 し込み下さい。 ☆セット、個別を問わす御注文のさいは御希望の品名をはっきりと書いて、現金書留にてお申 えてお申し込み下さい。 中込先を 東京都中央区京橋をトを第籖〒朝 4 木屋通商株式会社々イクロ第アトマ係 KIYA マイクロ・アーマーは 下記のお店でも販売しております。 Tel. 03 ( 476 ) 57 引 ( 代 ) 東急ハンズ渋谷店 ( 4 階 ) 〒汚 0 東京都渋谷区宇田川町に - 田 T 吐 052 ( 582 ) 6993 T 吐 045 ( 引 4 ) 75 訂 T 乢 03 ( 409 ) 3434 ( 代 ) キデイランド大阪梅田店 . 〒 450 名古屋市中村区名駅ーー 2 ー 4 名鉄ターミナルメルサ 6 階 キデイランド名古屋店 〒 220 横浜市西区南幸 2 - 丐ーロニチイデノく一トー キデイランド横浜西口店 〒汚 0 東京都渋谷区神宮前 6 - ー - 9 キデイランド原宿店 ( 4 階 ) Tel 06 ( 372 ) 77 引 〒 530 大阪市北区芝田一 - ーー 3 阪急三番街北館 発売中の製品 くドイツ > Ⅳ号 F2 / G 型戦車 シュレッ′く一 155 自走砲 ベスペ IO. 5 。第自走砲 パンター A / G 型戦車 Sdk .250 / 1 装甲車 Ⅲ号 D 型突撃砲 マルダー対戦車自走砲 Sdkfz. 222 装甲車 8.80 第円 ak ー 36 胞 門。第 F H 機弾砲 ー 0.50 第 FH18 欄弾砲 エレファント自走砲 一号 47- 対戦車自走砲 Sdkfz.231/ 1 装報装甲車 Sdkfz. 2引/ 1 装甲車 38 ( T ) 戦車 ティーガー 1 型戦車 Ⅳ号 D 型戦車 川号 F / G 型戦車 Ⅲ号 E 型戦車 日号日型戦車 1 号日型戦車 G47 G48 G 50 G 49 IV 号突撃砲 プラムペア突撃砲 IV 号駆戦車 ( 長 ) Ⅳ号駆戦車 ( ) くアメリカ〉 G 2 G 3 G 4 G 5 G 6 G 8 G 9 G G い G G ロ G G 朽 G 炻 G G G 四 G 20 G 幻 G 22 A A 日 A A 日 G 23 G 24 G25 G26 G 27 G 28 G 29 G 30 G 引 G 32 G 33 G 34 G 35 G 36 G 37 G 38 G 39 G 40 G 引 G 42 G 43 G 44 G 45 G46 川号長 7 . 阯第突撃砲 川号 .55 突撃砲 オペル・プリツツ・トラック ャークト′、ンター駆逐戦車 川号 M 型戦車 川号 N 型戦車 川号火災放射戦車 マルダーⅢ対戦車自走砲 ドイツ歩兵セット ティーガーⅡ型戦車 Sdkf み 2 引 / 間装甲車 A 日 A A 日 A A 日 A A U S 20 M 20 装装甲車 u S21 M 加継逐戦車 tJ S 22 ジャンポ M 4 A 3 E 2 戦車 くイギリス〉 tJ 525 3in 対戦車皰 u S24 M36 駆運戦車 リ S 23 M 4 A ーシャーマン戦車 Sdkfz. 250 / 8 火力支援ハーフトラック Sdkfz. 233 装報装甲車 フンメル 155 自走砲 シュタイヤー・ダイムラー・トラック A ャークトティーガー駆逐戦車 ナスホルン対戦車自走砲 キューベルワーケン ケッテンクラート 7 . 5 。第 Pak40 対戦車砲 ヘッツアー駆逐戦車 号 H 型戦車 ヴィルベルヴィント対空自走砲 オストヴィント 3.7 。第対空自走砲 A A A 日 A 日 A B u S 1 tJ S 2 u S 3 u S 4 u S 5 リ S 6 u 5 7 tJ S 8 tJ S 9 u S 10 u S い u S に u S tJ S u S u S リ S け S 18 リ S 円 M 4 A 3 E 8 シャーマン戦車 M 3 リー戦車 M 3 ハーフトラック M 3 スチュワート軽戦車 M 7 プリースト自走砲 M 4 A 4 シャーマン戦車 2 リ t トラック 加 5 “弾砲 M 2 ミ t トラック 1552 描弾胞 ( 後期型 ) ジープ ()G またはパズーカ砲装備 ) ジープ ( トレーラーっき ) M 3 A レ、一フトラック ( ウインチ ) M4 A 3 間第砲戦車 M 4 A 3 シャーマン戦車 2 リ t ガソリン運搬車 M36 日 1 駆逐戦車 カリオペ・シャーマン ( ロケット砲 ) M8 装確装甲車 U K ー tJ K 2 u K 3 u K 4 u K 5 u K 6 u K 7 リ K 8 リ K 9 u K リ K u K 12 u K 1 3 tJ K 14 リ K クルセイダーー戦車 クルセイダー日戦車 クルセイダーⅢ戦車 マチルダⅢ戦車 ダイムラー装報装甲車 5.5in 描弾砲 M 3 グラント戦車 25 ポンド弾砲 17 ポンド対戦車砲 チャーチルⅢ戦車 M 3 ハニー軽戦車 イギリス歩兵セット ファイフライ戦車 A 日 A 日 A 日 ユニバーサル・キャリアー製甲車 A 日 アキリーズけポンド砲戦車 ( A = A セット、 B = 日セットに組まれているもの ) 98
< 戦史シリーズ No. 45 > ドイツ機甲部隊、電撃作戦の勝利 ホーランドの崩壊 木俣滋郎 The Break 0 設 t of WW 2 ポーランド人は名誉を重んずる国民だ。あえて戦いも辞 S あわれホーランド さないぞ ! 」 「ダンチヒの町をドイツに返還せよ ! と国会で演説 , 割れるような拍手をえた。 こはもとドイ ツ領だったのに , ポーランドは第 1 次大戦で負けたドイ だがドイツは次のとおり陸上兵力でポーランドの 2 倍 ツから火事場泥棒のように奪ってしまった。いまでも住 近くもあり , 航空機は 5 倍も持っていたのである。まし 民の 9 割がドイツ人ではないか ! 」 てやドイツはすでに I 号 , Ⅱ号戦車を 6 コの機甲師団に 1938 年 10 月 , ナチス・ドイツのアドルフ・ヒトラー総 配属 , 20E 機銃を備えた 6 輸装甲車 Sd. Kfz. 232 と 4 輪 装甲車 222 を偵察大隊に配って戦備は完了している。 統は , 突然ポーランドに対しムチャクチャな要求を突き つけた。数カ月前のオーストリア併合でも , チェコスロ ドイツ軍 パキアの占領でも , ヒトラーの大芝居は成功し , イギリ 自動車化師団 ストとフランスは「あまり乱暴なことをするな ! 」と顔 軽機械化師団 をしかめたが戦争をはじめる勇気がなく , ヒトラーを思 機甲師団 い上らせてしまったのである。 歩兵師団 ポーランド外相べック陸軍大佐は , 翌 1939 年 5 月 , 航空機 「ダンチヒは 1919 年のベルサイユ条約によってポーラン 戦車 ドに正式に委任されたものだ。われわれはおどかしにお ポーランド軍 びえて土地をヒトラーに返すなどという弱虫ではない。 歩兵師団 訓練を視察するグーデリアン。彼の育てた機甲部隊はポーランド戦で力を証明する 4 コ 4 コ 6 コ 44 コ 2000 機 2500 輛 29 コ 騎兵師団 11 コ 機械化旅団 2 コ 航空機 400 機 戦車 190 輛 ( ソ連の資料を中心に作 製。のちのドイツ側資料 とは数字がやや異なる ) ドイツ軍はポーランドとの 国境に南 , 北 2 つの軍集団を 配しており , 南方軍集団は長 老ルントシュテット大将が指 揮し , 北方軍集団はレニング ラード包囲戦に失敗してヒト ラーから解任されるポック大 0 94
補給を待つ優攻部隊。想像を越えた進撃のスビードに補給が追いっかず , ドイツ軍はしばしば停止したのだが T K 3 , T K 5 693 輛カーデンロイド型豆戦車 当時まだこれほど装甲車を縦横に駆使した前例はない。 WZ34 装甲車 100 輛シトロエンを改造して国産 Kfz. 13 は日本のダットサンに相当する小型の 4 輪乗用 「もはや祖国の運命は風前の灯だ ! 」 車のシャシーの上に , 機銃 1 丁を積せたものである。そ ポーランド軍総司令官スミグリー・リツッ将軍の心は して小銃弾防禦のため , 8 の装甲を張ったオープン・ 沈みきっていた。 カー式の , 中しわけのような歩兵用偵察車である。それ でも意外によく働いた。 奇襲成功 「ポーランド兵の抵抗弱く , 敵を追って進撃中 ! 」 ドイツの旧式戦艦 , シュレスウィッヒ・ホルスタイン などという報告が同型の無線車 Kfz. 14 から大隊本部 ( 13 , 200 トン ) は / くルチック海のシュイネムンデ港を 8 にとどく。 月 25 日に抜錨 , ポーランドへ親善訪問に向った。これに このほか 5 コの機甲師団と 4 コの軽機械化師団には , より , トゲトゲしくなった両国の仲を少しでもよくしよ 次のごとき合計 2980 輛の戦車が東に向ってい。 うというのが表向きの理由である。そしてはたせるかな I 号戦車 1445 輛 9 月 1 日の早朝 5 時 45 分 , ダンチヒ港外から市内に対し Ⅱ号戦車 1226 輛 28C 加砲の火フ・タを切ったのである。これこそ第 2 次世界 Ⅲ号戦車 98 輛 大戦の第 1 弾であった ! とんでもない親善訪問だ。 Ⅳ号戦車 211 裲 同時にドイツ第 1 および第 4 航空軍の爆撃機が飛来 , 2980 輛 計 アッという間に滑走路上のポーランド空軍ーー主として 他にチェコ製の 35 ( t ) , 38 ( t ) も投入された。 国産の P11 上翼戦闘機や P23 固定脚偵察爆撃機ーーを枌 ボラメニア地方よりのドイツ第 4 軍は , ダンチヒのウ 々にしてしまう。ポーランド空軍は , 開戦第 1 日目でも ェステルフ。ラット要塞を守る 150 名のポーランド兵を孤 ろくも全滅してしまったのである。宣戦布告もヘッタク 立させてから , ビスワ川の両岸に沿って南東へ向う。他 ソもない。まったくの奇襲 , だまし打ちであった。同時 方 , 東プロシャからもドイツ第 3 軍が南下した。 に南北 5 つの方面から地上部隊が国境を突破する。 南方軍集団では第 10 軍が真っすぐ東の首都ワルシャゾ ドイツ軍はまだ馬を主に使って大砲を引いており , 進 へ向う。この部隊がドイツ軍の主力であり , 17 コ師団も 撃速度はおそい。しかしその歩兵師団は BMW 社のオー 持っていた。この第 10 軍にはグーデリアンとならぶ戦車 ト / くイ小隊と Kfz. 13 , 14 型 4 輪装甲車を偵察大隊につけ 将軍 , 第 16 機甲軍団の司令官ェーリッヒ・ヘブナー大将 て行く手をさぐらせた。さすが機械化部隊と誇るわけで , がⅡ号戦車の大群を指揮している。 96
アパディーンにおかれている L 型。砲塔防楯のスペースド・アーマー M 型仕様の発煙弾発射機がわかる E, F 型は , 実戦場において , 2 つの欠点を暴露する。 新の対戦車砲であった 38 式 50E 60 口径対戦車砲 P ak38 ひとつは , 搭載する 45 口径 37E 戦車砲が , 敵の重戦車 を , 戦車砲に改装して搭載するようにとの命令が出され に対して無力だったこと , もうひとつは , 厚さ 30E の前 ていた。しかし , 当時すでに 50E42 口径砲搭載のⅢ号戦 面装甲で , これはフランス軍の 25E 対戦車砲によって中 車が完成して生産ラインに乗り , しかもごく少数ながら 距離においても容易に貫通されてしまった。 対フランス戦の末期に戦線へ投入されてあるていどの威 搭載砲に関しては , すでに 39 式 50m 戦車砲 ( 42 口径 ) 力を発揮し , 兵器局の当事者を満足させる成果を挙げて が開発されており , Ⅲ号戦車は , 当初からこれの搭載が いた。戦車の増産という至上命令にせつつかれていた兵 可能なように設計されていたので , 問題はすぐに解決し 器局の担当者は , 新型砲の開発による生産の遅れをきら た。しかし装甲の厚さに関しては , ことは簡単には運ば うあまり , ヒトラーの命令を無視して 42 口径砲型の生産 なかった。 を続行したのである。また 42 口径砲用の砲弾が大量に生 前面の装甲厚を増加すれば , 車重の増加と重量配分の 産されていたことも , 60 口径砲の搭載を遅らせた一要因 変化をきたす。とうぜん機動性能や , 超壕能力は低下す となった。 る。またサスペンション・スプリングの強度も問題と 1941 年の 4 月 18 日 , Ⅲ号戦車 J 型は , 新型戦車のひと なろう。加えて , 車室前面の 30 式機銃のポールマウン っとしてヒトラーの供覧に出される。自分の出した命令 ト (Kuge1b1ende 3 のと操縦手用の展望窓は , 30E 装甲 が無視されたことを知ったヒトラーが激怒したという話 板用の設計になっていて , 装甲の厚さを増加した場合 , は , すでに幾多の書籍に詳しいが , 兵器局の担当者はこ これらも新設計して造り直さなければならない。しかし れに対して , 60 口径砲の開発に時間がかかったといって ながら , 実戦部隊におけるⅢ号戦車の配備状況は , 慢性 弁解したらしい。 H. グデーリアンの「ある兵士の回想」 的に不足ぎみで , 生産を中止して新型の車体を設計する ( 本郷健訳 , フジ出版 ) には , この事件のすぐあとの 4 月末 , シュバンダウのアルケット社が , ヒトラーの要求 ことは , 当時の状況からみても不可能であった。 どおりのものを製作したという記述がある。おそらく , これらの理由から , 42 口径 50E 砲を搭載した G 型 , 続 いて厚さ 30E の増加装甲板を車体 , 車室前面に増設した 兵器局の担当者達は , 左遷ぐらいではすまなかったので H 型が , 新型車体完成までのつなぎとして生産された。 はなかろうか。 このような事情から , 39 式 60 口径 50E 戦車砲を搭載し H 型では , 重量増加対策として上部第 1 支持輪の位置の 移動 , 履帯幅の増加 , 新型変速器の採用などの処置がと たⅢ号戦車 J 型の生産は , 6 月の対ソ戦開始には間に合 わず , 8 月になってやっと開始された。 1941 年の内にお られた。 1941 年 3 月になって , 新型車体の設計が完了し , ただ ける完成数は 40 輛と少いが , 戦局の緊迫にともなって , ちに生産が開始された。Ⅲ号戦車 J 型の誕生である。 同年 12 月末には早くも東部戦線へ投入されている。 1942 年 1 月には , 月産数も 190 輛と増加し , 6 月ごろまでに これに先立っこと 7 カ月の 1940 年 8 月 , 新型Ⅲ号戦車 約 1300 輛が造られた ( ただし , この内 % は突撃砲車台へ の設計にさいして , ヒトラーより兵器局に対し , 当時最 44
将が指揮した。彼は 54 歳でル ントシュテット大将より 10 歳 年下であった。 2 コのドイツ 軍の編成は以下のとおりであ る。 北方軍集団 ( ポック上級大将 ) 第 3 軍 ( キュヒラー大将 ) 歩兵 8 コ師団 第 4 軍 ( クルーゲ上級大将 ) ーー第 19 機甲軍団 ( グ ーデリアン大将 ) 第 3 機甲師団 , 第 10 機甲師団 歩兵 10 コ師団 南方軍集団 ( ルントシュテッ ト上級大将 ) 第 8 軍 ( フ・ラスコヴィッツ 上級大将 ) 歩兵 7 コ師団 第 10 軍 ( ライへナウ上級大 ポーランド陸軍の誇リ , 騎兵部隊。しかしドイツ戦車に対しては歯がたたなかった ーー第 16 機甲軍団 ( へ フ。ナー上級大将 ) たがほとんど予備軍がない。 第 1 機甲師団 , 第 4 機甲師団 西部国境のポーランド軍 ( 5 コ軍団 ) 歩兵 15 コ師団 北から南へ , ポメラニア軍団 , ポズナン軍団 , ルー 第 14 軍 ( リスト上級大将 ) ジ軍団 , クラクーフ軍団 , カルバチア軍団 第 2 機甲師団 , 歩兵 13 コ師団 首都ワシャワの防衛 第 5 機甲師団はフランスへにらみをきかし , ポーラ モドリン軍団 ンド戦に参加していない。第 6 , 7 , 8 , 9 軽機械化 背後 ( 東 ) のソ連に対して 師団は各戦車連隊 1 コずつを持っ ( 機甲師団の半分 ) 。 ナーレフ軍団 上の表では , 軽機械化師団 , 自動車化師団とも , 歩兵 合計 7 コ軍団 師団に含めて計算してある。 ポーランド兵は祖国を死守する闘志に燃え , ドイツ モーゼル社式の 1898 年型 7.92mK 騎兵銃を手にして配置 軽機械化師団とは , 従来の騎兵師団を改名して I 号 , についた。これは第 1 次大戦後 , ワルシャワ郊外に造ら 号戦車を機甲師団の半分だけつけたものだが , ポーラ らた造兵廠で国産したものである。 ンド作戦では戦車が少ないうえ歩兵の協力がなくて失敗 ポーランドは , 昔からドイツとロシアとの間にハサま と判明 , 翌 1940 年に第 6 ~ 第 9 機甲師団に改編されるも れて苦労してきた国であり , 近世のはじめにはその騎兵 のだ。 隊の勇猛さは有名だったこともある。そして騎兵のホン いよいよベルリンのヒトラーから南北の両軍集団司令 の 1 部が第 10 機械化騎兵旅団とーーー名目だけーーー改めら ・部に最高機密命令がとどいた。 れ戦車を持っていたのである。だが軽戦車 TK3 はあま 「来たる 8 月 26 日を期して全軍侵入せよ ! 」 りにも小さく , 残りはあちこちから少しずついろいろな しかし実際には 6 日後に変更になり , 攻撃の開始は 9 月 1 日の未明となった。他方 , ポーランド側は国境に大 型の戦車を購入したというだけであり , 次表のごとき 6 種の戦車が全て作戦可能というわけではなかった。 兵力を集めるとまたヒトラーからどんないいがかりをつ けられるかわからないと心配し , あぶないなあ , と思い 開戦時のポーランド戦車 つつも国境に強固な防衛陣地を築こうとはしなかった。 169 輛 ビッカース 6 t を国産 7 T P いとも簡単にドイツ戦車に防衛線を突破され , あわれポ 50 輛 37m 砲 1 門 , イギリスから ビッカース 6 t ーランド兵が東へ東へと敗走を続けた理由も実冫冫 53 輛 フランス製の新鋭 , 37m 砲 ルノー R35 第 1 次大戦型 , フランス製 67 輛 ある。彼らは西部を中心に次のような兵力を配置してい ルノー F T 将 ) 95