主力戦車 - みる会図書館


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1. PANZER 1979年5月号

が起り国勢は落ち目になる。 ソロモン王の死後 , 同国は北 のイスラエルと南のユダの 2 つに分かれ , 以降 2 世紀の間 血て血を洗う戦いがくり返さ れた。 この時代 , イスラエル王ア ハプはダマスカス ( シリアの 一部 ) 王べン・ハダット 2 世 と組み , 南東の脅威 , アッシ リア王シャルマンスール 3 世 と戦った。しかしアハフ・は異 教徒の女を妻にめとった上 , パアルの神を拝したので兵士 戦車から降リて戦かおうとしているギリシアの兵士 たちの間で不平不満がみなぎ り , ひいてはイスラエル部隊の士気を低下させる結果と きおい平野は少ない。つまり戦車を飛ばすには地域的な 制約があったのである。また農民の発言力が強かったた なった。 め , 他国のように戦車に乗る貴族が奮わなかったとも田 彼はラモスの町の奪回のため , 紀元前 854 年 , カルカ われる。 ルの平原に戦う。その兵力 1 万名 , 戦車 2000 台というか だからギリシャにおける陸上戦の花形は重装歩兵であ ら , 戦車の黄金時代であったことがうかがえよう。しか った。重装兵とは長さ 2.4 ~ 3 メートルもの槍をもち , し相手は名にし負う強豪アッシリア兵である。 羽のかざりのついた胄 ( かぶと ) をかぶり , 胴と胸だけ あわれアハプは敗北 , 戦死してしまった。 をカバーする鎧を着用する歩兵であり , スカート式の服 このとき , 隣りのアラム王ハサ工ルが , とつぜんイス を着ていた。ギリシャの重装歩兵は縦に 8 ~ 16 人の深さ ラエルに攻めこんだ。簡単に降伏してしまったイスラエ で四角くならび , この四角い方陣を基礎として集団で戦 ルに保有を許された兵力は , 歩兵 1 万名 , 騎兵 50 名 , 戦 うのである。彼らは青銅製の丸い楯の裏側にある把手へ 車 10 台ときびしいものであった。 室手をはめ , 自らの身を防いだという。裸の軽装歩兵か ↑ギリシャ兵は戦車が嫌い ? ら長槍の重装歩兵への時代的要求がひいては , ギリシャ それなら世界史に西洋文明のあけぼのをもたらしたギ およびローマ時代に戦車の衰退をもたらしたともいえよ リシャ人は戦車をどのように考えていたのだろうか ? それが意外や , 戦車に関心を示さなかったのである。 もちろん , ギリシャにも戦車隊はあった。そして , ギ ギリシャの国土は海に突き出た山地と考えてよい。 リシャの戦車はもつばら速度の向上にポイントがおかれ 0 だから紀元前 680 年の第 25 回オリンピックのさい , ギ リシャ人が 4 頭立て戦車のスビード・レースを競技品目 の中に入れたのも不思議なことではない。のちにのべる ベルシャのクナクサの戦いより 279 年も前のことである。 賞金は戦車の所有者 , つまり馬主に与えられたので , 金持ちは金に糸目をつけずよい戦士を雇って養成した。 うまく 1 等になれば投資金額は何倍にもなって帰ってく るからだ。こうなるともう戦車は国を守る兵器ではなく 競馬の代りをするスポーツ・カーにすぎない。 このようなこともあって , 紀元前 7 世紀にはギリシャ では重武装の歩兵が陸上戦の主力をなすようになり , 戦 車は次第にすたれる傾向がみえてきた。中国の戦国時代 に戦車がすたれはじめるよりなお 100 年余も前のことで ある。 それでもギリシャ人は国内の平地では自由に戦車が走 85 右から従来の歩兵 , 左がギリシャの重装歩兵。 重装歩兵の密集隊形がギリシャ軍の戦法だった

2. PANZER 1979年5月号

AMX30 戦車とそのファミリー Production リ 2 われ 0 一 MX30 ねれん the element of ん″ 0 田 0 ar ね″ 0 れ s. フランスの主力戦車 AMX30 は、 1963 年に NATO 軍の共 通装備戦車を目ざして西ドイ ツのレオバルトとともに開発 された。そして各種のテスト が行われたが、性能的には一 長一短があり、フランスも西 ドイツも自国のものを主張し てゆすらす、結局フランスは AMX30 、西ドイツはレオバ ルトを採用して N A T 0 軍の 戦車共通化は流れてしまった。 その後フランスは AMX30 の 改修と近代化につとめ、輸出 も伸びていまや西欧側の代表 的戦車のひとっとなっている。 そしてフランスでは AMX30 の量産とともにその車体を利 用したファミリーも開発され、 現在、ここで紹介するような 輿味ある車体が作られている。

3. PANZER 1979年5月号

チャリオット物語その 5 騎兵、歩兵との協同作戦 松井史衛 The Chariot Story 、 0. 5 イスラエル人にはかなわなかった。 ↑イスラエルの戦車隊 サウル王の息子が有名なダビデ王 ( 紀元前 1004 ~ 965 2 年前 , 歩兵の輪送車も兼ねるメルカノく戦車を発表し 年 ) だ。彼はあたりを平定して統一国家を安泰にした。 て世界を驚かせたイスラエル陸軍の先祖も , 独特の戦車 さて , 問題は「鉄の戦車」という言葉である。車体全 隊を持っていた。彼らは自分たちを「神に選ばれた者」 部が鉄製なのか , あるいは軸をはめる中心部 ( コシキ ) と と自認し , 鉄製の戦車を縦横に駆使して南のガザ地区や 外輪だけ , またはこれに人員を保護する操縦席の「箱」 ネゲフ・砂漠 , 古戦場として有名なカデッシュの平原など を加えた部分までが鉄製だったのか ? 旧約聖書の「サ で戦車戦を展開したのである。 ムエル記 , 第 8 章第 4 節」によると , へフ・ライ王国 , つまりイスラエル国の最初の統一王朝 「ダビデ王は捕えた敵の戦車を破壊した」とある。 を確立したサウル王 ( 在位は紀元前 1006 ~ 1004 年のたっ もし多くの木材が使われていたら「焼いてしまった」 た 2 年間 ) は , 南のべリシテ人と戦ったが , この蛮族は と記録されるはずだ。『だからペリシテ人の戦車は全部 何と 30 , 80 台もの戦車を持っていたという。それに対し 鉄製だったに違いない』とドイツ人の学者べックは「鉄 イスラエル軍は歩兵を中心とする兵力であった。ペリシ の歴史」の中で書いている。 テ人の軍隊は海戦にも長じ , 100 人と 1000 人を単位とす ダビデ王は次にシリア人と戦って勝ち , はじめて鉄の る大陸軍を持っていたが , さすが「神様のついている」 戦車をイスラエルの軍隊に採用した。 ダビデの息子ソロモン王 ( 紀元前 970 ~ 930 年 ) はイス カデッシュ ラエル第一の賢王として知られる。彼は防衛力の強化に 意を用い , 各種の軍事制度を確立したうえ , 戦車のため の道路を整備した。鉄製の戦車は , 平時はエルサレムの 大神殿の東の丘に設けられた大武器庫に格納されたとい う。イスラエル人は「鉄などという下品なものは戦車や 武器のための素材であり , 神殿に使ったら神様のバチが ダマスカス 当る」と考えていたらしい。 父ダビデは歩兵を重視したが , 息子のソロモン王は戦 車に主力を注いだ。彼は戦車 1400 台と 12 , 000 名の乗車 ( 馬 ) 部隊を持っていたという。 1 台につき 9 名の兵士 という計算だが , イギリスの学者 H. S . クー ーによる と「この 9 名の中には , 馬丁 , 御者 , 車上の戦士 , 楯持 ち , 乗車歩兵などは入っていると考えるべきではない」 という。つまりイスラエルの戦車隊は大騎兵部隊の一部 として行動したらしい。だから古代へプライ史で騎兵の 出撃があったら , その中には戦車も入っているとみてよ いことになる。またこれら戦車はいくっかの大都市にそ の所有権を与えていたという。 しかしさすが栄華をきわめたソロモン王の時代も , 末 期になるとリビア人の外人部隊の隊長によるクーデター 0 地中 海、 0 首都イエルサレム 0 ガザ ダビデ , ソロモン王時代のイスラエル王国

4. PANZER 1979年5月号

この部隊編成を核戦争遂行能力を持たせ るように改めたのが , タイフ。 67 師団であ る。 タイプ 67 師団の特色は 1 コ師団を 3 つ の旅団で構成し , 旅団が , それ自体でひ とつの戦闘単位となるようにした点であ る。つまり , 従来師団を基本戦闘単位と していた編成を旅団単位に小型・分割し て , 核戦争下での兵力 ( まとまった戦闘 単位として ) の離合集散を迅速に行える よう運用の柔軟性を図ったものである。 1 コ機械化旅団は 3 つの主要能力を持 っとされる。 ①核戦争下での作戦遂行能力 AMXIOP AMXIOP AMXIOP AMXIOP ②柔軟性に富む運用能力と効果的な衝 性を与えようとしたからだと伝えられる。 撃行動を与える能力 一方機械化連隊は , 大佐の司令官と司令部小隊の下に ③高度の戦闘速度を得られる能力 軽戦車 2 コ中隊とミサイル戦車 2 コ小隊 , および 2 コ A また 1 コ旅団は 5 コの主力連隊と , 司令部 , 補給部隊 PC/MI CV 中隊で構成される。 よりなる。 軽戦車中隊は 3 輛の AMX13 で編成される小隊 4 コよ ①准将を指揮官とする旅団司令部大隊 りなり , ミサイル戦車小隊は S S 11 対戦車ミサイルを装 ② AMX30 戦車連隊 ( 1 コ ) 備する AMX13 を 4 輛持つ。また APC 中隊 ( 機械化中 ③機械化連隊 ( 2 コ ) 隊 ) は各 4 輛の AMX-VTT ( 現在は AMXIOP) を ④野砲連隊 ( 1 コ ) 持つ機械化小隊 3 コで構成される。したがって 1 コ機械 ⑤工兵中隊 ( 1 コ ) 化連隊は AMX13 を 26 輛 , S S11 装備の AMX13 を 8 主力はもちろん②の AMX30 の戦車連隊で , 大佐を指 輛 , AMX—VTT ( または AMXIOP) を 38 輛 , その 揮官とする司令部中隊の下に , 戦車中隊 4 コと機械化中 他の車輛を含めて総計 180 輛を持っことになる。 隊 1 コで構成される。 支援の野砲連隊は , 3 コ中隊で構成され , それそれに 1 コ戦車中隊は 4 コ戦車小隊よりなり , 小隊は 3 輛の AMX30 で構成されるから , 戦車連隊は司令部中隊の戦 観測 , 連絡 , 通信部隊を持っ独立部隊となっている。 もうひとつの支援部隊である工兵中隊は AMX13 の改 車も加えて 54 輛の AMX30 を持つ。また 1 コ機械化中隊 造車輛を装備して , 機械化連隊に完全な工兵支援を与え は 3 輛の A P C /M I C V を持つ小隊 4 コよりなる。連 隊の AMX—VTT または AMXIOP の保有数は 13 輛で られる能力を持つ。この部隊も装備を AMXIO 系列の工 兵車輛に更新しつつある。 ある。 特色は , 1 コ小隊が 3 輛 , 4 コ小隊で 1 コ中隊という 以上を総合するとタイフ。 67 機械化旅団は , AMX 30 戦 占であろう。小隊数を多くしたのは作戦運用上の柔軟性 車 54 輛 , AMX13 軽戦車 52 輛 , AMX13 ミサイル装備型 155E 自走榴弾砲 15 輛 , AMX-VTT または AM を増大させるためで , 兵力の組合わせの上で大きな選択 16 輛 , フランスの主力 戦車 AMX30 。 タイプ 67 師団の 中核である タイプ 67 旅団機械化連隊 機械化連隊 ミサイル軽車 ( 2 コ ) 軽戦車中隊 ( 2 コ ) 機械化中隊 ( 2 コ ) A M X ロ A M X ロ A M X ロ A M X ロ 機械化小隊 S S ーⅡ S S ーⅡ S S ーⅡ S S ーⅡ 軽戦車小隊 ( 4 コ ) ( 3 コ ) A M X ロ A M X ロ A M X ロ 1 89

5. PANZER 1979年5月号

Ⅲ号戦車 J . L M に搭載された 5c 60 口径対戦車砲 Pak38 戦車第 6 中隊長よりの報告 : 「第 2 大隊の戦車小隊偵 た。戦闘終了後 , 戦場には 32 条の黒煙がたなびいていた 察班より , ソゴチェコト付近の敵戦車に関する報告を , スターリングラードの救援に向う第 6 機甲師団第 11 戦 正午過ぎに受く。わが大隊は、大隊長べーケ少佐の指揮 車連隊 , 第 2 大隊の 1942 年 12 月 14 日 , ウェルヒニュ・ク の下に この敵に向い前進を開始 , サリフスキャにつう ムスキャ付近における戦車戦の 1 シーンで , 長砲身Ⅲ号 ずる道路の西側と , 東に対して遮蔽しつつ南下 , 次いで 4 ほど東方の小道に向って旋回し , 2 コ中隊先頭の楔 戦車による戦闘状況を示す , 貴重な記録のひとコマであ 状体形をとって注意深く前進した。 る。 ュから , ソ連南部の わが第 6 中隊は , 右第一線を進む。このとき , 先刻の 12 月初旬 , フランスのフ・ルター コテリニコヴォへと移動してきた同師団の主力装備は , 偵察小隊 ( Ⅱ号戦車装備 ) が , T34 を主力とする敵と戦 実に , 75 輛の長砲身Ⅲ号戦車と , 54 輛のⅣ号戦車 ( 長砲 闘を開始 , 無線により支援を要請してきた。わが大隊は 身型は 24 輛のみ ) であった ( この他 , 42 口径 50E 砲装備 ソゴチェコトを包囲せんとして小道を通過 , 約 2 東進 の指揮用Ⅲ号戦車 9 輛 , Ⅱ号戦車 21 輛も保有 ) 。 する。やがて , 1 前方に戦車 40 輛を発見 , その砲塔に プラウ作戦における戦車師団群 , 北アフリカにおける は黒字でナンバーを記入しており , 乗員達が車外で休憩 2 コ戦車師団など , 1942 年夏から秋にかけて , ドイツ機 中なのが見えた。 甲部隊の勝利の原動力となったのは , 装備戦車の半数以 私は , 最初 , これらの戦車は偵察小隊の報告した敵で 上を占める長砲身Ⅲ号戦車群であった。戦後 , T34 やシ はなく , わが第 23 機甲師団のものと考えた。が , 思い返 してみると , はたして第 23 機甲師団がここまで進出して ャーマンなどと比較され , 弱装甲 , 弱武装などといわれ るⅢ号戦車だが , 1942 ~ 43 年にかけて , ドイツ戦車戦力 いるであろうか ? 砲塔の天蓋形状からみて , 敵のよう の中心となった戦車であることは , はっきりとした事実 にもみえる。われわれは各戦車間で , 敵か ? 友軍か ? と交信しつつ , 徐行しながら前進する。万一の場合 , 直 なのである。 Ⅲ号戦車自体に関しては , 本誌 76 年 5 月号 , 増刊「第 ちに射撃ができるよう , わが中隊は全戦車砲をこれに向 こでは , 前述 けて照準を合わせた。 2 次大戦ドイツ戦車」などに詳しいが , やがて両者の距離は , 600 川にまで短縮し , 私の緊張 の 1942 ~ 43 年の主力戦車 , 長砲身Ⅲ号戦車に的を絞って も最高に達する。このとき , 向うの戦車 2 輛がこちらへ みて行くこととする。 向けて走り出した。私の車の無線機は , このとき「保留 ( 1 ) Panzerkampfwagen III (5cm Ausf. J 状態」にあり , 大隊系で交信が可能であった。と , 向っ (Sd. Kfz. 141 / 1 , 141 ) てくる戦車が射撃を開始した。私の発砲命令より先に , 50E60 口径 39 式戦車砲を搭載した長砲身Ⅲ号戦車の最 2 発の弾丸が雪煙を上げる。 初の型は , 1941 年 11 月から生産された J 型である。しか 「射撃開始 ! 」 しその前に , 42 口径砲搭載の J 型が同年 3 月より生産さ 敵味方とも行進射撃を続けながら , たちまち接近 , わ れているので , 便宜上ここでは短砲身型を初期型 , 長砲 が第一線 2 コ中隊は , ほとんど機動の余地がないままで 戦闘を開始した。わが 50E 長砲身砲は , T34 に対して 身型を後期型とよぶことにする。 600 川まで有効であり , また重装備中隊 , Ⅳ号戦車の 75 J 後期型の開発に関しては , 初期型以前からの経緯が 長砲身砲は 1000 川で敵戦車の前面を貫徹できた。おか からんでくるので , 話は 1940 年までさかのぼらなければ げでわが中隊は , 接近した混戦状態の中で多数の敵戦車 ならない。 を撃破 , 敵はついに後退しはじめたが , わが軍は追撃の 1940 年 5 月 , 西部戦線において , ドイツ戦車部隊待望 手をゆるめす , 敵の残余を , 湿地帯へ圧迫してせん滅し の新型主力中戦車として華々しくデビューしたⅢ号戦車 43

6. PANZER 1979年5月号

機械化旅団 戦車大隊 西ドイツ陸軍機械化旅団 野砲大隊 1 機械化大隊 ( 2 コ ) イギリス・ライン軍団 対戦車小隊 対空中隊 野砲大隊 ( 2 コ ) 工兵中隊 工兵中隊 戦車連隊 ( 2 コ ) ライン軍団 ( 2 コ ) 機械化歩兵大隊 部隊の編成の特徴をひと口に いえば , 「できるだけ小さな」 大編成をとるということで , それがアメリカ , ソ連では師 団であり , フランス , 西ドイ ツでは旅団 , イギリスではそ の中間という形となって現わ れたのである。 フランスのタイプ 67 師団 0 特色は , 1 コ旅団を基本戦闘 単位として独立した戦闘能力 を持たせ , 戦車と装甲兵員輪 送車を統合し , ひとつの指揮 系統に収めたことにある。 A XIOP 装甲兵員輸送車 89 輛の装軌戦闘車輛 226 輛と , 兵 隊 ( 大体フランス , 西ドイツの旅団に相当する ) は 3 コ 団は 3 コ機械化歩兵 ( 自動車化狙撃 ) 連隊よりなり , 連 同じく師団を基本単位としているのはソ連である。師 自由に部隊を組合わせて投入される。 柔軟性に富む運用ができることで , 任務に合わせて実に 基本は 3 単位だが , アメリカ陸軍の編成の特色は非常に ランス , 西ドイツの連隊に相当する ) よりなる。編成の いえば , 4 コ戦車大隊と 6 コ機械化歩兵大隊 ( 大隊はフ みているヨーロッパ地域に展開する機械化師団について 兵部隊は師団のレベルで配備されているのである。いま リカ陸軍は師団戦闘単位をとっている。つまり野砲 , 工 フランス , 西ドイツが旅団戦闘単位である一方 , アメ 300 輛である。 1 コ旅団の兵力は人員約 4000 名 , 戦車 100 輛 , AP C されている。 は常に特定の戦車連隊と機械化大隊とが組むように配慮 だ相互の協同作戦を円滑に行うように , 日ごろの訓練で と歩兵部隊が固定的に編入されているわけではない。た フランス , 西ドイツのような形の統合指揮下に戦車部隊 ると , 2 コ戦車連隊と 2 コ機械化歩兵大隊で構成され , イギリス陸軍では , 第一線部隊のライン軍団を例にと ルト 1 ) は 71 輛である。 隊 2 コを中心に , 旅団の人員は約 4000 名 , 戦車 ( レオパ まず西ドイツの機械化旅団は戦車大隊 1 コと機械化大 これを他の陸軍と比べてみると次のようになる。 MX30 である。 模では 15 , 700 名で , 戦車が 336 輛 , そのうち 162 輛が A 員約 5000 名で構成されることになる。タイプ 67 師団の規 90 前おきが大部長くなったが , 核戦争下における機械化 ☆ AMXIO ファミリーの意義 約 12 , 000 名である。 機械化歩兵大隊と 1 コ戦車大隊よりなる。師団の兵力は MXIOP とその系列車輛は , 全てこうしたタイフ。 67 師団 / 旅団構想から要求が生まれ , 開発されたものなのであ る。 AMXIOP は , タイプ 67 旅団中の機械化連隊の主力と なるべきものである。機械化連隊の任務は多岐にわたる もので , 地域の制圧の他に戦車の側面防護 , 地域偵察 , 対空防衛 , 対戦車攻撃など , 一種の多目的・万能部隊の 性格が要求されている。脅威のいちばん大きな敵の戦車 に対する攻撃用には , AMX13 と S S11 装備の AMX13 が主力となるが , 全ての攻撃活動をこれらの軽戦車に期 待してはならず , とうぜん A p C (M I C V) にもある ていどの打撃力が要求される。また戦車連隊もタイフ。 67 ・ の機械化旅団の中に含まれて主火力を形成し , 戦車連隊 ロ は ー与ミ込 0 AMXIOP の兵員室 攻撃下での作戦能力も必要である。 なければならない。またできるだけ大きな防禦力と , 核 (AMX3 のに随伴して協同作戦をとれる機動力を持た と機械化連隊とは共に行動するため , A p c は主力戦車

7. PANZER 1979年5月号

しい ) と蹄鉄がベルシャで発明された。ベルシャ人の軍 のクナクサの戦いに限らず , 当時の戦闘のパターンを述 隊は 50 人で 1 コ小隊をなしていた。 50 人の射手隊 , 50 人 べよう。 敵味方は正面にじっと向い合ったまま対陣する。主力 の槍兵隊 , 50 人の重または軽騎兵隊である。しかし戦車 の場合 , 何台を単位として行動したかは , 明らかではな の歩兵が中央であり , 戦車や騎兵は両翼につく。場合に よると戦車や騎兵が正面の最前線に出ることもあり , ど ベルシャの戦車は馭者と弓手の 2 人乗り。馬はやはり ちらの陣型をとるかは将軍の好みや , 地勢上の判断によ 4 頭が多かったらしい。車輪はこれまたスポークのつい った。主力の歩兵が次第に近づき , 衝突しそうになる直 前 , 左右から戦車と騎兵とがワーツと突撃し , 敵の先峰 た型だが中国の戦車のように弱々しくはなく , 頑丈に作 を破るのだ。あるいは 10 ~ 30 列をなす敵歩兵集団の横に られていたようだ。注目すべきはベルシャ戦車が両側に 生じた隙間をみつけて戦車と騎兵がとおりぬけ , 敵陣の 敵の歩兵を殺傷する「肉切り包丁」をつけていたことで 後方を攪乱することも多かった。こうしてみると戦車と ある。車軸の外側には大きくカープした鎌が装備されて 騎兵とはしばしば同じ目的に使用されたことがわかる。 いた。車輪が回転すると鋭利な刃のついたナギナタのよ さて反乱王キュロスの信頼するのは , ギリシャの外人 うな鎌がグルグル回転するから , いきおい敵歩兵は戦車 部隊司令官クレアルカスである。重装歩兵の外人部隊は に近づけないことになる。アッシリアやエジプトの戦車 戦車こそ持っていなかったが , さすが武門の誉 ( ほまれ ) には , こんな恐ろしい鎌などっいていなかった。肉切り 高きスパルタの将軍である。キュロス王の右翼に位置し 庖丁をつけた戦車は , 古代フ・リトン軍 ( イギリスの原住 た外人部隊は , ベルシャ政府軍の左翼を総くずれにさせ 民 ) とベルシャ軍とに多くみられる。 た。反対側ではなかなか勝負がつかない。 さてダリウス 1 世の死後 , 紀元前 401 年 , ベルシャ王 このとき中央陣のキュロス王が戦死したため反乱軍は アルタクセルクセス 2 世の弟キュロスは , 自分が王位に 戦意を失ない , 騎兵も戦車も歩兵も退却してしまった。 つこうと反乱を起こし , 首都に向った。総兵力 5 万人の それでもギリシャ人の外人部隊だけが密集隊型を保った うち 13 , 000 人はギリシャ人の外人部隊である。この外人 まま , アルタクセルクセス王の右翼を破り , かろうじて 部隊はペロポネソス戦役のべテランを両方の陣営からス 戦闘を引き分けに持ちこんだ。 カウトしてきたものであった。 「あつばれな指揮ぶり ! 」 即位してまだ 3 年目のベルシャ王アルタクセルクセス 感動したアルタクセルクセス 2 世は敵をほめたうえ , は , 10 万の兵をもってビロンに近いクナクサで待ちう クレアルカス将軍以下大隊長たちを酒宴に招待した。そ けた。両軍ともに歩兵 , 騎兵 , 2 人乗り戦車の 3 兵科で ( つづく ) して毒杯で殺してしまったのである ! あり , たがいに奇襲をくり返す。平原の大遭遇戦だ。 べ ) いッ 「王の道」を行 くべルシャの 4 頭立で馬車。戦 車の構造もこれ と大差がなかっ た ( 当時の金属 細工よリ ) ノ 87

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ドイツⅢ号 J / L / M 型戦車 1942 年のドイツ東部戦線と 北アフリカの主力戦車 藤山 ~ 登 、 GERMANN Pzkpfw.lIIE Ausfs.J,L AND M

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射撃準備中の BM-21 ロケ ット・ランチ ャー。兵はガ スマスクをつ けているのに 注意 隊 , ロケット砲兵大隊 , 対戦車ミサイル大隊 , 高射砲大 ったと予想されている。 隊 , 機甲偵察中隊 , 工兵大隊 , 通信大隊 , 衛生大隊 , 補 その編成は連隊本部 , 本部・管理中隊 , 機甲偵察中隊 , 給輪送大隊 , 化学戦防護中隊および後方勤務隊からなり 対空中隊 , 通信中隊 , 工兵中隊 , 化学戦防護中隊 , 整備 推定兵力は 9000 ~ 10 , 000 名であり , 主要装備はソビエト 中隊などの支援・兵站管理部隊の強化や , 3 コの戦車大 . 地上軍の戦車師団に近いものと思われる。 隊の打撃力をじゅうぶんに発揮させるため 1 コ自動車化 ( 1 ) 戦車連隊 : 師団の主力である戦車連隊は , 連隊本 中隊が増強されたのではないかと判断されている。その 部 , 本部・管理中隊 , 通信中隊 , 機甲偵察中隊 , 対空中 結果 , 戦車連隊の主要装備は 6 輛の z SU57 ー 2 , 4 輛 隊 , 工兵中隊 , 化学戦防護中隊 , 3 コ戦車大隊 , 1 コ自 の Z S U23 ー 4 , 7 輛の B R DM 2 / S A 7 対空ミサイ 動車化中隊 , 輸送中隊および整備中隊からなり , 主要装 ル搭載車 , 4 輛の B R DM 2 / S A 9 対空ミサイル搭載 備は 6 輛の Z S U57 ー 2 , 4 輛の Z S U23 ー 4 , 6 輛の P 車 , 3 輛の PT76, 95 輛の T54 / 55 , 10 輛の BMP 1 , T76 , 95 輛の T54 / 55 , 3 輛の BRDM1/2rkh, 6 23 輛の BRDMI および多数の BTR60P または装輪車 の B T R 50 P , 16 輛の B T R 60 P , 10 輛の B M P 1 , 輛を持っていると推定されている。 1 輛の T54 / MTU 戦車橋 6 輛の戦車回収車および多 このようにワルシャワ条約統一軍の主力であるソビエ 数の装輪車輛を持っている ト地上軍と東ドイツ陸軍は , N A T 0 統合軍と隣接する 他のワルシャワ統一軍の連隊に比べて編成が少し異って 位置にあるので , 国境付近には装備の強化と改編が行な おり , 連隊本部 , 本部中隊 , 対空中隊 , 通信中隊 , 整備 われた精鋭部隊を配置していると予想されるが , 他の東 中隊 , 輸送中隊 , 装甲偵察小隊 , 工兵小隊 , 化学戦防護 ョーロッパ諸国軍は編成・装備の面から推定して , NA 小隊および 3 コ戦車大隊からなると一般に認められてい T 0 統合軍に対する攻勢の場合でも第 1 線級の戦闘部隊 るが , 最近 , 西ドイツ連邦軍の機甲師団の戦力増強に合 として投入されることはないと考えられる。 わせて増強に着手し , 戦車師団および戦車連隊はソビエ ト地上軍の第 1 級戦闘体制の師団および連隊と同じにな 砲兵中隊 ( ソ連の一例 ) 0 砲兵小隊 砲兵小隊 中隊本部 管理班 M 円 73 X 3 M 円 73 X 3 75

10. PANZER 1979年5月号

1 操縦手席前のようす。装甲板はクラッペの型に切リぬかれている され , 2 枚の開閉式フラップがとりつけられた。このフ シュルツェンは厚さ 5mn の鋼板製で , 砲塔の周囲と , ラップは水密式で , 戦闘室内より口ッドにより開閉でき 車体両側面に細いステーを介してとりつけられた。もち ろん , 前述したソ連軍の対戦車銃の猛威から , 車体側面 る。車体両側の吸気グリルにも , 手動式の防水蓋がつけ の装甲の弱い部分を守るための処置である。砲塔側面の られた。 水中に入るには , 吸気グリルに蓋をして , 後部フラッ ハッチ部分の扉が , Ⅳ号戦車のものと違って取外し式な プも閉める。この場合 , 機関への吸気は , 全て砲塔の開 のが , Ⅲ号戦車用シュルツェンの特徴である。 ロ部から戦闘室を経て行われる。 1943 年に , イギリス軍 「いまやⅢ号戦車は , 集団をもってしても , T34 を主力 として攻撃してくる敵に対しては , 劣勢をくつがえせな がチュニジアで捕獲した車輛をテストしたときの徒渉水 深は , 約 130C 加だったが , いことが明らかとなった。また戦車だけでこの敵を撃破 ドイツ側の記録によれば , 約 し得る可能性もほとんどなく , 砲兵と空軍の組織的な援 150C 加までの徒渉が可能だったとある。 助を絶対的に必要とするようになった・・ この他 , 外形上の変更点としては , 車体の上面砲塔前 冒頭に述べた第 11 戦車連隊の , 12 月 15 日における戦闘 のスプラッシュ・ガードの廃止 , 機関室後部点検蓋上の ・カバーの大型化などがあるが , これは 報告の一部である。この時点で , すでに劣性のはっきり べンチレータ としていたⅢ号戦車は , それから半年後のクルスク会戦 L 型からの処置である。 搭載弾薬は側面脱出口の廃止により , その部分にも砲 においても , いぜんとしてドイツ軍戦車部隊の中核的な 弾用ラックがとりつけられることによって増加し , 98 発 パンター , ティーガーといった強 存在であった。Ⅳ号 , となる。ただし機銃弾は再び減少して 2550 発となった。 力な主力戦車は , まだ絶対的に数が少く , 20 コを越える 機甲師団の装備定数を充足するには , Ⅲ号戦車は絶対に M 型の生産は 1942 年末からはじめられ , 1943 年初頭に は 122 輛が完成したが , この内 100 輛は火焔放射戦車に 必要だったのである。 改造のため , カッセルのヴェクマン社へ送られる。 あの合理性の見本のようなドイツの軍人たちが , かな 1943 年 1 月 1 日から , 5 月 12 日までの間に完成した , わないのを承知の上で , 不ざまなシュルツェンに身を包 535 輛の 50E60 口径砲Ⅲ号戦車に対して , ヒトラーは , んだⅢ号戦車で敵に立ち向ったとき , 戦争の勝敗はすで 235 輛を突撃砲車台へ , 100 輛を火焔戦車へ ( 前述 ) , 56 に明らかだったのである。 < 参考資料 輛をトルコ向け供給用に , 144 輛を 24 口径 75E 砲搭載型 に改造するようにこの命令を出しているが , この内 , ト Podzum : Die 6 Panzer Division ルコへの援助は立ち消えとなる。 Motorbuch : Der Panzerkampfwagen Ⅲ und sine M 型の生産は , 結局夏ごろまで続けられたが , 8 月を abarten もって打切られた。ただし , シャシーの生産は突撃砲用 Be110na : MiIitary vehcle prints NO. 20 , 32 として 1945 年まで続けられた。 M 型の総生産数は , 上記 Motorbuch : Kraftfahrzeuge und Panzer der のような事情もあってはっきりとはわからないが , 大体 Reichswehr, Wehrmacht und Bundeswehr 4 ~ 500 輛ていどだったと思われる。 J. F. Lehmans VerIag : Die Deutschen Panzer 1926 ー 1943 年 3 月 19 日づけの命令により , Ⅲ号戦車にもシュ 1945 サンデーアート社 : 第 2 次大戦のドイツ戦車 ルツェンがとりつけられることになった。