、。にふ 0 アノヾディーンに展示されている J 型。車体は」後期型であるが砲塔は L 型のものをのせている。砲 Y. Tom ioka 塔直前の車体につけられた三角型の跳弾板、その前方の追加装甲板と車体との問かくなどに注意。 Side view Type J tank being positioned 誂 Averdeen, U. S. J 型戦車後部左側のキャタビラーのアップ。 G 型までは 360 巾であったが、 H 型以降は重量が 円 . 5t から幻 t を越えたために 400 に拡大された。このために接地圧は G 型の 0.99 / から J 型の 0.94 / へと低下している。 Track Type J,. same bcxly ⅲ upper photogl ・ aph ・ 」型の後部 9 機関室の グリル・ / 、ツチの形カ , よくわかる。前方の 3 つがオイル・クーラー とキャプレターのイン テーク、手前の 2 つガ 工ンジン冷却用のイン テークである。車体 面下の中央、一丸い突赴 は消音器で、そこか エグゾーストが左右に のびている。 Rear 、 'ICW, several ments are clearly *. Y. Tomioka
日本の物化部隊 北 . 、オマ師団の成 フォトアノレノヾム 陸上自衛隊の戦闘 陸上自衛隊が装備するすべての 輛を 186 枚の写真て、ピック・アッ ・ B 5 判 1 1 6 ページ ・カラー写真 49 枚 モノクロ写真 1 37 枚 ・定価 1000 円〒 50 円 掲載きれている車輛 74 式戦車引式戦車 M 戦車自走機関砲 M 自走高射機関砲 M 15A ー自走高射機関砲 M42 60 式自走引 迫撃砲 60 式自走田 7 迫撃砲 60 式自走 106 無反動砲田 5 自走榴弾砲 M52A ー 74 式自走田 5 榴弾砲 5 自走榴弾砲 M44A ー 75 式自走丐 5 榴弾砲 75 式自走多連装ロ 0 ロケット発射機 60 式装甲車 73 式装 甲車 M 3A ー装甲車 13t 牽引車 M5 25t 牽引車 M 8 歌牽引車 M 4 73 式牽引車 M32 戦車回収車 78 式戦車回収車装甲作業車 l/4t トラック 6 無反動砲搭載 64 式対戦車誘導弾搭載に . 7 機関銃搭載 73 式小型トラック 3 / 4t トラック 3 / 4t 救急車 2t 救急車 73 式中型トラック、 / 2t トラック 2 ー / 2t トラック ( 長 ) 2 ー /2t ダンプ四 /2t 水タンク車 73 式大型トラック 4t トラック 4t レッカー 4t ダンプ 6t トラック %6t トラクターー 73 式特大型セミトレーラー牽引車 73 式特大型セミトレーラー 74 式大型レッカー M 4 改造架橋車 67 式戦車橋 70 式自走浮橋 67 式 30 型ロケット発射機ーグレーダートラッククレーン 77 式 ドーザ自走コンプレッサーシープフート・ローラー 自走 9 スクレーパー ロータリー・スクレーパー クローラー、クレーン導板橋トラック浮のう橋トラック化学防護車除染車 ( 引 /2t) い特殊運搬車 4t 散水車オートバイ 第 2 次世界大戦のドイツ戦車 。、。第 2 冫大戦の 第 2 次大戦に登場したドイツ戦車 の全タイプを、カラーイラストと 図面、多数の写真て徹底的に解説 ドイツ戦車 ・ A 4 変型 ( 幻 26 ) 1 56 ページ ・カラー写真 1 0 枚モノクロ写真 142 枚 4 面図点側面図 9 点 カラー絵、一 1 1 点スケッチ 14 点 折込解剖図 2 点 第定価 1500 円〒 60 円 掲載 4 面図 I 号戦車 A 型、 B 型 II 号戦車 F 型、 L 型Ⅲ号戦車 型 35 ( t ) 戦車 38 ( t ) 戦車Ⅳ号戦車 FI 型、 H 型 Ⅵ号ティーガー初期型、後期型 V 号パンター D 型、 A 型、 G 型Ⅵ号Ⅱ型ケーニクス・ティーカー 発行ー / サンデーアート社 目 ・ドイツ戦車前史・搭載兵器・ I 号戦車・Ⅱ号 戦車・Ⅲ号戦車・ 35 ( t ) / 38 ( t ) 戦車・Ⅳ号戦 車・Ⅵ号ティーガー戦車・ v 号パンター戦車・ V 号パンター戦車・ティーガー II 型戦車・試作戦 車・テータ表・第 2 次大戦におけるドイツ戦車
も 2 川に低下する。搭載砲弾も 78 発に減少し , 代って機 銃弾が 4950 発に増加しているが , これは戦訓による処置 であろう。 なお , J, L 型の一部には大型冷却ファンを装着し , 防塵機構も強化された北アフリカ向けの T 「叩 ( 熱帯地 仕様 ) があったことを付記しておく。 L 型は , J 型に引き続いて 1942 年末ごろまで生産が続 けられた。総生産数は 1300 輛ていどだが , この内には 75 砲装備の N 型へ転用された車台 447 輛や , 突撃砲にまわ された分も含まれている。シャシー・ナン / く一は 740101 ~ 76000 。 ( 3 ) Panzerkampfwagen III (5cm Ausf. M (Sd. Kfz. 141 / 1 ) M 型は 50E 砲Ⅲ号戦車の最後の型式である。内部機構 面では L 型とほとんど変りないが , 外部ではあい変らず の装甲強化が計られている。主力戦車としての防禦カ , 攻撃力の不足は , 最後までⅢ号戦車を苦しめることにな った。 砲塔前面の防楯とりつけ部の外側に , 厚さ 20E の装甲 板が熔接され , これで砲塔前面の装甲の厚さは 70E とな る。点検ロのある車体前部上面にも 10E の装甲板が増設 され , さらに M 後期型では点検ロは内側ヒンジに改修さ れる。車体両側面の脱出用扉も , 生産性向上と防弾上の Suspension 2 「「 ange 一月 ent 、多第 - 0 理由から廃止となった。 この他 , 機関室後部の構造の変更 ( 後述 ) により , ス モーク。キャンドルは廃止され , 変って 3 連装の 90E 発 煙弾発射器 Nb K. wg が砲塔の両サイドに装備された。 これは , 車内よりの電気点火式だが , これを使用する場 合はほとんど戦場からの離脱が前提となっているので , 再装填は考えなくてもよい。後に車内より発射できる擲 弾 / 発煙弾発射器が開発されたのは , 再装」眞が大変とい う理由からではなく , N 、 ) K. wg が外部に露出している ため , 敵の機銃弾などによって容易に破壊 , 発火してし まうためである。 L 型までは車体の前部につけられていた前照灯と , 産 側フェンダー上の管制ライトも廃止され , 変ってポッシ ・タイフ。の前照灯 2 コが左右フェンダー上につけられ た。 M 型でのいちばん大きな改良点は , 防水キットのとり つけにより , それまでの徒渉水深 80C 加が , 一挙に 130C 加 まで増加したことである。これも道路や橋の不完全な東 部戦線の戦訓による改良である。車室上面までのクラッ ペ , 点検ロなどは全てゴムのシールがとりつけられ , 内 側より口ックできるようにされた。マフラーは , 排気弁 っきの筒型のものが機関室の後部上面に装着され , 排気 は U 字型のパイプによりここへ導かれる。 機関室後部のオーバー・ハング下面は鋼板により整形 0 0 0 0 〇 0 49
0 0 0 左前部のサホート・ローラー。前部の重量増加のため , H 型からやや前に位置がずらされた 初速 1180 川 / 秒 , 貫徹力は前と同一条件でそれそれ 86 , スド・アーマ方式である。これは , 増加装甲を密着さ 120 , 55E である。ただしこの場合 , 砲身の命数は榴弾 せるより防弾効果がある上 , 破損時の交換も容易であっ 使用時の % 以下となる。 0 この他 , 装甲のない目標用として弾量 1.86 ん 9 の 38 型榴 もうひとつやっかいなことは , 東部戦線においてソ連 兵の多用する 14. 5mn 対戦車銃の存在である。この単発 弾 (Sprenggranate) が用意されており , この場合初速 式 , 長銃身の対戦車銃は , 目標が小さいので戦車からの は 550 川 / 秒となる。砲身の重量は 435 ん 9 で , 42 口径砲よ 発見がむずかしく , また命中角と距離によっては 30E の り 35 ん 9 重い。実戦においては , 冒頭の戦記で述べたよう 装甲板をも貫通するという恐るべき威力を持っていた。 に , T34 に対しては約 600 川以内で有効 , シャーマンに - ようだが , この距離 その上 , これを扱うソ連の対戦車狙撃兵は , 信じ難いほ 対しては約 800 川以内で有効だ どの名手がそろっていて , ドイツ戦車のクラッペ , 貼視 では , いずれの敵戦車の砲もⅢ号戦車の前面装甲を簡単 ロ , ヒ。ストル・ポートなどを正確に射ちぬくのである。 に射ちぬけるので , 苦戦はまぬがれなかったであろう。 当時のドイツ戦車兵の戦記には , 必ずとい。てよいほど 搭載弾薬は , H 型の 99 発に比べて , 84 発と減少してい この対戦車銃とモロトフのカクテル ( 火焔ビン ) が登場 るが , これはもちろん砲弾が大型化したためである。機 することをみても , ソ連軍がいかにこれを多用したかが 銃弾は 25 発りのサックに入ったものが 150 袋 , つまり わかる。 3750 発搭載される。 このため , 新しく生産されるⅢ号戦車では , 絶対必要 J 後期型のシャシー・ナン / く一は , 72001 ~ 74100 , 生 でもなく , 狙われやすい砲塔両側面と防楯右側のクラッ 産にはダイムラー べンツ , フアモ , ヘンシェ / レ , 、 IA べは廃止された。これらの処置を受けたⅢ号戦車は , L N, ヴェークマン , MNH, フ。ラガなどの工場が当てら 型として制式化される。 れたが , その他クルッフ。 , ハノマーク , アウト・ウニオ L 型の生産は , 前述の J 型と並行して行われたため , ン , NSU なども部品の製造に携わっている。 L 仕様の J 型 , J 仕様の L 型も存在して , 外形からの識 ( 2 ) Panzerkampfwagen lll (5cm Ausf. 別はなかなかむずかしい。なお , スペースド・アーマー も (Sd. Kfz. 141 / 1 ) が車室 , 防楯前面のみで , 車体前部につけられていない のは , 前 2 カ所より被弾率の少いことと , 車体前部のこ J 型の生産が軌道に乗った 1942 年はじめ , すでに前線 れ以上の重量増加が許されないためである。ただし , 予 においては , 50E の前面装甲をもってしてもソ連の 76.2 備履帯用のラックをこの部分に宀 mm 対戦車砲 , イギリス軍の 25 ポンド砲などには太刀打ち 吊設することにより , 予 備履帯を防弾用としてとりつけられるようになった。こ できなくなっていた。しかしながら , 主力戦車であるⅢ の予備履帯は , 約 10E 分の装甲板に匹敵する効果があ。 号戦車の生産を中止することも , 新型戦車を即時に生産 たという。機関室後部の冷却気排出用の開口部に , マフ することも不可能である。 ラーの防熱板を兼ねた砂塵巻きこみ防止用の整風板がっ さしあたっての対策は , 装甲の強化より他に方法がな けられたのも , L 型からである。 ーうして考え出されたのが , 厚さ 20E の装甲板 かった。 ( 例によってドイツ式の表面硬化加工を施した装甲板で その他の機構面 , 性能に関しては , J 型とほぼ同じだ ある ) を , 車体との間に間隔をおいてとりつけるスペー が , 増加装甲板により車重は 21.3 トンに増加 , 超壕能力 48
転用された ) 。 前述の第 6 機甲師団をはじめとして , 1941 年末から 42 年初頭 , 東部戦線で壊滅的な打撃をこうむったドイツ機 甲部隊は , 順次ドイツ国内やフランスなどへ引き上げら れて , これら新型のⅢ号戦車を中核として , 再編成され 0 アフリカ戦線では 42 年 5 月末に 19 輛の J 型が送られ , 6 月 1 日には戦闘に参加 , トプルクをめぐるガザラ地区 の攻防戦に活躍して , イギリス軍からマークⅢスペシャ ルの異名を受ける。 外形および機構面からみた J 型の特徴はどうであろう か ? ます前述した車体関係だが , 問題の前面装甲は , 車 体 , 車室ともに 50E 装甲板の 1 枚板となり , これにとも なって機銃のポールマウント , 操縦手の展望窓もおのお の 50 式 (Kugelb1ende 50 , FahrersehkIappe 5 のの新型 に変った。車体前部の牽引用フックとりつけ部は , 側面 装甲板と一体に簡易化された。また車体の前上面の点検 用ハッチは片開き式 , プレーキ冷却気の導入口カバは 熔接構造にと , それぞれ簡易化されている。 車体前方の重量増加に対して , 車重配分のバランスを とるため , 車体後面の装甲も増加されて 50E となった。 また同じ理由から , 機関室後部上面が後方へ延長され , 装甲も 50E となる。 H 型までは機関室後部にとりつけら れていた発煙筒 ( これまでいわれているように発射器で はなく , ただのスモーク・キャンドルである ) は , 機関 室後部のオースー , 、ング部分の内側にとりつけられ , 敵 弾による発火から守られている。 H 型から常装の機関室 点検蓋上のべンチレ夕・カ , く一は , J 型では装甲厚 が増加されて少し高くなり , 角の丸みも大きくなって全 体にふつくらとした感じになる。 砲塔部分では , 防楯の装甲が 50E に増加し , 防楯クラ ッペの形状も変った。砲塔自体は , 上面の埋めこみポル トの位置を除いて G , H 型と大体同じである ( このあた りの変化に関しては諸説紛々だが , 私が図面と資料にあ たって詳細に調べた結果では , 砲塔前面装甲 50E , 防楯 部 50E というのが間違いないところである。なお , 砲塔 前面装甲の側面の熔接部分は , 組合わせ方式になってい るので , 露出部分は 30E 厚にしかみえない。また下側の 三角部分の熔接構造も , H 型とは異る ) 。 装甲の増加 , 大型砲の搭載などにより , 全備重量は 21.16 トンとなった。これは H 型より少し軽い。 30E 増 加装甲板っきの車体より , 50E の 1 枚板構造の車体の方 が軽量だからである。ただしトーションバー・スプリン グの直径は , H 型の直径 55E , 44E , 55E 各 4 本づつの 組合わせから , 前 55E , 後 52E 各 6 本に強化された。 東部およびアフリカ戦線の経験から , ェア・クリナ が大型の湿式となり , 変速機の油圧サボは , 故障の少 い機械式に変更された。私の持っているⅢ号戦車マニュ アルのコヒ。ーによれば , クラッチ・フ・レーキ部の材質や 構造なども , H 型に比べて若干の変更がある。 工ンジン関係は , マニュアルのデータでみる限り H 型 車室前部。側板がとれてしまったおかけて , 厚さ 20E のスペースド・アーマーのつけ方がよくみえる
アパディーンにおかれている L 型。砲塔防楯のスペースド・アーマー M 型仕様の発煙弾発射機がわかる E, F 型は , 実戦場において , 2 つの欠点を暴露する。 新の対戦車砲であった 38 式 50E 60 口径対戦車砲 P ak38 ひとつは , 搭載する 45 口径 37E 戦車砲が , 敵の重戦車 を , 戦車砲に改装して搭載するようにとの命令が出され に対して無力だったこと , もうひとつは , 厚さ 30E の前 ていた。しかし , 当時すでに 50E42 口径砲搭載のⅢ号戦 面装甲で , これはフランス軍の 25E 対戦車砲によって中 車が完成して生産ラインに乗り , しかもごく少数ながら 距離においても容易に貫通されてしまった。 対フランス戦の末期に戦線へ投入されてあるていどの威 搭載砲に関しては , すでに 39 式 50m 戦車砲 ( 42 口径 ) 力を発揮し , 兵器局の当事者を満足させる成果を挙げて が開発されており , Ⅲ号戦車は , 当初からこれの搭載が いた。戦車の増産という至上命令にせつつかれていた兵 可能なように設計されていたので , 問題はすぐに解決し 器局の担当者は , 新型砲の開発による生産の遅れをきら た。しかし装甲の厚さに関しては , ことは簡単には運ば うあまり , ヒトラーの命令を無視して 42 口径砲型の生産 なかった。 を続行したのである。また 42 口径砲用の砲弾が大量に生 前面の装甲厚を増加すれば , 車重の増加と重量配分の 産されていたことも , 60 口径砲の搭載を遅らせた一要因 変化をきたす。とうぜん機動性能や , 超壕能力は低下す となった。 る。またサスペンション・スプリングの強度も問題と 1941 年の 4 月 18 日 , Ⅲ号戦車 J 型は , 新型戦車のひと なろう。加えて , 車室前面の 30 式機銃のポールマウン っとしてヒトラーの供覧に出される。自分の出した命令 ト (Kuge1b1ende 3 のと操縦手用の展望窓は , 30E 装甲 が無視されたことを知ったヒトラーが激怒したという話 板用の設計になっていて , 装甲の厚さを増加した場合 , は , すでに幾多の書籍に詳しいが , 兵器局の担当者はこ これらも新設計して造り直さなければならない。しかし れに対して , 60 口径砲の開発に時間がかかったといって ながら , 実戦部隊におけるⅢ号戦車の配備状況は , 慢性 弁解したらしい。 H. グデーリアンの「ある兵士の回想」 的に不足ぎみで , 生産を中止して新型の車体を設計する ( 本郷健訳 , フジ出版 ) には , この事件のすぐあとの 4 月末 , シュバンダウのアルケット社が , ヒトラーの要求 ことは , 当時の状況からみても不可能であった。 どおりのものを製作したという記述がある。おそらく , これらの理由から , 42 口径 50E 砲を搭載した G 型 , 続 いて厚さ 30E の増加装甲板を車体 , 車室前面に増設した 兵器局の担当者達は , 左遷ぐらいではすまなかったので H 型が , 新型車体完成までのつなぎとして生産された。 はなかろうか。 このような事情から , 39 式 60 口径 50E 戦車砲を搭載し H 型では , 重量増加対策として上部第 1 支持輪の位置の 移動 , 履帯幅の増加 , 新型変速器の採用などの処置がと たⅢ号戦車 J 型の生産は , 6 月の対ソ戦開始には間に合 わず , 8 月になってやっと開始された。 1941 年の内にお られた。 1941 年 3 月になって , 新型車体の設計が完了し , ただ ける完成数は 40 輛と少いが , 戦局の緊迫にともなって , ちに生産が開始された。Ⅲ号戦車 J 型の誕生である。 同年 12 月末には早くも東部戦線へ投入されている。 1942 年 1 月には , 月産数も 190 輛と増加し , 6 月ごろまでに これに先立っこと 7 カ月の 1940 年 8 月 , 新型Ⅲ号戦車 約 1300 輛が造られた ( ただし , この内 % は突撃砲車台へ の設計にさいして , ヒトラーより兵器局に対し , 当時最 44
" 、。物匈 " ◎ . ・、・ 00 、物◎、物 0 衄物苟璉物 0 ・・物 0 ・、、 0 、物向を 0 向 0 物 00 物 0 。齟電 0 ー物 0 ・、電 00 物向 0 、・・苟物◎物 0 物、響 0 ・ 0 ・曾ー、 0 物学物学物物、 Ⅲ号 J 型 ドイツⅢ号戦車 Pz. Kpfw.III 囈び ' - ・。←℃”、。いびま 〇〇 〇 0 ◎。◎。 0 0 0 0 / 9 4 日 / Y TOM/OKA DRAW/NG Ⅲ号 M 型 0 〇 ◎。◎。 Ⅲ号 M 型 ( シュルツェン付 ) ◎ DRAW/NG 8 / ゾー OM / OK 0 79 4 4 METRES 〇〇 一〇 0 〇 0 〇 0 0 〇 0 0 〇 0 0 〇 0 0 〇 0 0 〇 0 〇〇 〇〇 〇〇 〇〇 ィ〇〇 〇〇 〇 〇 〇〇 〇〇 〇〇ノ 75 FEET DRAW/NG 8 / / TOM/OKA 79 4 作図・富岡吉勝◎ by Y. TOMIOKA Drawn
第 2 次大戦中のイギリス対空戦車 第ー實ー、羆 A 、賀 A ー TANK ー、、 V. ア語ー Crusader ノ″ AA 俿 .7 early 豆 0 れ , なれれ催 c 斤 0 川 0 ん C ア . クルセーダー Mk. I AAMk• I LCT から兵士とともに上陸するクルセーター AAMk. I 。 AAMk. I はクルセーターの車体にボフォース 40mm 対空機関砲を搭載した対空戦車てあるが、ここに写っているのは、車体の中央に照準装置がみえるのて初期 型てあろう。初期型はオリジナルの防楯を流用し、砲座の周囲は露出していた。うしろに牽引しているのも ボフォース砲てある。阻塞気球もみえず、艦船の信号も揚っていないのて、これは演習の 1 シーンだろう。 解説・内堀博之 クルセーダー Mk. III AAMk. I 前方にだけ防楯を持っていた初期型に対し、こちらは四方を囲んだ型てある。ポフォース砲の 上下動、旋回は戦闘室にすえつけられた 2 ストロークのエンジンを使用し、操作はガンナーが行 うようになっておリ、手動に切リかえることも可能てあった。四方を囲んだシールドの内側には、 124 発の 40mm 弾丸、恤 19 無線装置、手榴弾、発煙弾、トンプソン機関銃の弾倉などが装備されてい Crusader ん″ / ス Mk.I んセ ve パわれ , ん 0 れ 40- m わ 0 ん r s 丸 4 u れ・
Ⅲ号戦車 J . L M に搭載された 5c 60 口径対戦車砲 Pak38 戦車第 6 中隊長よりの報告 : 「第 2 大隊の戦車小隊偵 た。戦闘終了後 , 戦場には 32 条の黒煙がたなびいていた 察班より , ソゴチェコト付近の敵戦車に関する報告を , スターリングラードの救援に向う第 6 機甲師団第 11 戦 正午過ぎに受く。わが大隊は、大隊長べーケ少佐の指揮 車連隊 , 第 2 大隊の 1942 年 12 月 14 日 , ウェルヒニュ・ク の下に この敵に向い前進を開始 , サリフスキャにつう ムスキャ付近における戦車戦の 1 シーンで , 長砲身Ⅲ号 ずる道路の西側と , 東に対して遮蔽しつつ南下 , 次いで 4 ほど東方の小道に向って旋回し , 2 コ中隊先頭の楔 戦車による戦闘状況を示す , 貴重な記録のひとコマであ 状体形をとって注意深く前進した。 る。 ュから , ソ連南部の わが第 6 中隊は , 右第一線を進む。このとき , 先刻の 12 月初旬 , フランスのフ・ルター コテリニコヴォへと移動してきた同師団の主力装備は , 偵察小隊 ( Ⅱ号戦車装備 ) が , T34 を主力とする敵と戦 実に , 75 輛の長砲身Ⅲ号戦車と , 54 輛のⅣ号戦車 ( 長砲 闘を開始 , 無線により支援を要請してきた。わが大隊は 身型は 24 輛のみ ) であった ( この他 , 42 口径 50E 砲装備 ソゴチェコトを包囲せんとして小道を通過 , 約 2 東進 の指揮用Ⅲ号戦車 9 輛 , Ⅱ号戦車 21 輛も保有 ) 。 する。やがて , 1 前方に戦車 40 輛を発見 , その砲塔に プラウ作戦における戦車師団群 , 北アフリカにおける は黒字でナンバーを記入しており , 乗員達が車外で休憩 2 コ戦車師団など , 1942 年夏から秋にかけて , ドイツ機 中なのが見えた。 甲部隊の勝利の原動力となったのは , 装備戦車の半数以 私は , 最初 , これらの戦車は偵察小隊の報告した敵で 上を占める長砲身Ⅲ号戦車群であった。戦後 , T34 やシ はなく , わが第 23 機甲師団のものと考えた。が , 思い返 してみると , はたして第 23 機甲師団がここまで進出して ャーマンなどと比較され , 弱装甲 , 弱武装などといわれ るⅢ号戦車だが , 1942 ~ 43 年にかけて , ドイツ戦車戦力 いるであろうか ? 砲塔の天蓋形状からみて , 敵のよう の中心となった戦車であることは , はっきりとした事実 にもみえる。われわれは各戦車間で , 敵か ? 友軍か ? と交信しつつ , 徐行しながら前進する。万一の場合 , 直 なのである。 Ⅲ号戦車自体に関しては , 本誌 76 年 5 月号 , 増刊「第 ちに射撃ができるよう , わが中隊は全戦車砲をこれに向 こでは , 前述 けて照準を合わせた。 2 次大戦ドイツ戦車」などに詳しいが , やがて両者の距離は , 600 川にまで短縮し , 私の緊張 の 1942 ~ 43 年の主力戦車 , 長砲身Ⅲ号戦車に的を絞って も最高に達する。このとき , 向うの戦車 2 輛がこちらへ みて行くこととする。 向けて走り出した。私の車の無線機は , このとき「保留 ( 1 ) Panzerkampfwagen III (5cm Ausf. J 状態」にあり , 大隊系で交信が可能であった。と , 向っ (Sd. Kfz. 141 / 1 , 141 ) てくる戦車が射撃を開始した。私の発砲命令より先に , 50E60 口径 39 式戦車砲を搭載した長砲身Ⅲ号戦車の最 2 発の弾丸が雪煙を上げる。 初の型は , 1941 年 11 月から生産された J 型である。しか 「射撃開始 ! 」 しその前に , 42 口径砲搭載の J 型が同年 3 月より生産さ 敵味方とも行進射撃を続けながら , たちまち接近 , わ れているので , 便宜上ここでは短砲身型を初期型 , 長砲 が第一線 2 コ中隊は , ほとんど機動の余地がないままで 戦闘を開始した。わが 50E 長砲身砲は , T34 に対して 身型を後期型とよぶことにする。 600 川まで有効であり , また重装備中隊 , Ⅳ号戦車の 75 J 後期型の開発に関しては , 初期型以前からの経緯が 長砲身砲は 1000 川で敵戦車の前面を貫徹できた。おか からんでくるので , 話は 1940 年までさかのぼらなければ げでわが中隊は , 接近した混戦状態の中で多数の敵戦車 ならない。 を撃破 , 敵はついに後退しはじめたが , わが軍は追撃の 1940 年 5 月 , 西部戦線において , ドイツ戦車部隊待望 手をゆるめす , 敵の残余を , 湿地帯へ圧迫してせん滅し の新型主力中戦車として華々しくデビューしたⅢ号戦車 43
は 943 年夏いロシア中部戦区に おけるⅢ号 M 型戦車。 llt 号戦 車最後の生産型で、構造の簡 易化と防禦力の化がはから れ、また渡渉能力のアヅプの 上めに排気管に改良が加えら れている。砲塔と車体側面に , シールツェンがつけられたが、 写真の車体は砲塔のみにつけ ている。ークルスク戦の頃の撮 影と思われるがいこの攻勢の 失敗によっ下 ~ ドイツ軍は貴重 な機甲戦力を消耗し 0 以後は 受け身の戦闘をよぎなくされ 、 0 〒 ! ド M tank'. the Ⅱは ion e on 0 「 long 59 皿呼ド s , at mid -Russias Summer 243.