射撃 - みる会図書館


検索対象: PANZER 1979年7月号
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1. PANZER 1979年7月号

1 門だけあった 九 0 式 24 列車 砲。その最後は よくわかってい した ( フランス製 , 砲車が 100 トンもあり , 動力車と弾 「昭和 17 年 7 月 , 私の配属されたのは 24C 加列車砲中隊で 出され , 満州の虎頭地区後方の水克陣地に配備された。 ないといわれた秘密大要塞を背後から援護するために引 は永く富津射撃場におかれていたが , マジノ線にも劣ら が開始され , 数年ののちほぼ完成をみた。列車カノン砲 年 ( 1937 年 ) からソ満国境の虎頭山の地下永久要塞築造 北方のソ連軍に対する配備を固めるようになり , 昭和 12 関東軍によって満州の治安がよくなるにしたがって , 力によった。 架に対して後座し , その復座は 5 。の傾斜を持っ準梁の重 し , 砲身が後座すると同時に , これらを支える小架が大 薬車が付属 , 日本には 1 門しかなかったもの ) 。虎林線 で虎頭駅から約 1 時間の水克駅西方に陣地が完成しまし たので , 水克陣地に移り ( 列車砲の射程距離があまり長 いので後方にさがったのです ) , 遠くソ連領の攻撃目標 に対する射撃諸元により訓練を行いました」高知 , 吉良 好史氏の手紙 , 「北満永久要塞関東軍の最期」岡崎 哲夫著より重引 関東軍が誇った巨大な地下要塞も , 昭和 20 年 ( 1945 年 ) 8 月 10 日 , ソ連軍の迫撃砲弾に援護されながらジリジリ と攻めよった歩兵のため , ほとんどその威力を発揮せず 破壊されてしまった。 水克陣地の九〇式列車カノン砲も , ほぼ同様の攻撃を 強力な装甲に多数の銃眼 , 本格的な砲塔まである試製装甲列車 受けたか , またはソ連軍に捕 獲され , ソビエト領内に持ち 去られたと考えられる。 口径 240E , 砲身長 12 , 823 mn, 砲身重量 35 , 000 , 閉 鎖機様式螺式石線塞環 , 砲 架様式鉄道車輛式 , 駐退復 座機様式水圧・空気・分離 2 重後座式 , 後座長砲身 475 ・小架 1400 簡 , 放列砲車重 量 136 , 000 , 高低射界 50 ~ 0 。 , 方向射界 360 。 , 弾量 164 , 995 ん 9 , 初速 1050 川 / 秒 , 最大射程 50 , 120 襯 ( 了 ) 89

2. PANZER 1979年7月号

攻撃の発動地点に集結するⅢ号戦車以下の機甲部隊 集 中度はかってないほどたったが・ 進撃をはじめた突撃砲部隊。いす れもⅢ突 G 型て , かなりの数が参 加し , 戦車の不足を補っていた→ ていたが , それは , ソ連軍陣地の縦深や規模を示しては 果 , 第 48 機甲軍団は突撃砲 60 輛 , 戦車 300 輛以上を持ち , いたが , その細かい点や問題のソ連軍兵力についてはあ 1 コ軍団の打撃力としてはこの後 , これ以上のものは現 まり正確な情報をもたらさなかった。このことは , ソ連 われなかった。 軍が偽装 , 迷彩について卓越した手腕を持っていたこと 進撃が行われることが予定された地域は広い平原で , に他ならない。このため , ドイツ側はソ連軍の兵力を過 そこには無数の谷が走り , 雑木林が点在し , あちこちに 少評価していたことがあとになって明らかになる。 村落があり , 小川が流れていた。とりわけペナ川は , け 航空部隊と地上部隊の協力については , 非常に念入り わしい崖を両岸に配した急流で , 地形は全体に北に向っ な方法がとられた。空軍においても , かってこれほどじ ていくぶん上り気味に傾斜しており , 防ぐ方に有利であ ゅうぶんに準備された作戦はなかった。 った。通路は砂地の踏み跡からなっており , 雨が降ると 自動車による交通は不可能となった。 またソ連側の航空偵察に対処するため , 地上部隊の昼 また背の高いとうもろこし畑がみわたす限り広がり , 間の移動はすべて禁止され , このため大量の車輛の発進 視界は非常に悪かった。その地形は , 決して戦車戦に有 点への集結は , 通路の悪さもあって困難をきわめた。担 利とはいえなかったが , 戦車の行動に不利だともいえな 当の幕僚は何日も引続いて通路や交差点に立って交通整 かった。 理をしなければならなかった。そのうえ雨や豪雨により そして歩兵は , 何週間も攻撃の出発位置についてい 予定が狂わされたこともあったが , 部隊と軍需品の集結 た。そこからソ連軍陣地の詳細をすべて偵察し , 地形と は一応完了し , この間 , ソ連軍からは全く妨害を受けな か防衛施設に注意を向けていた。攻撃部隊の指揮にあた かった。 る将校は , 中隊長級にいたるまで , それらに慣れるため 7 月 4 日 , 天候は暑くうっとうしかったが , 戦線は緊 に第一線で起居していた。 張につつまれていた。攻撃部隊の士気は高く , いかなる 砲兵の掩護射撃と歩兵との協同計画は綿密に立てられ 損害にも屈せず与えられた任務を果たす心構えができて ていた。さらに突出部全域にわたって航空写真が撮られ いた。だが , 不幸にも彼らは最強の敵と向かい合ってい 68

3. PANZER 1979年7月号

前線に急ぐソ連軍 T34 部隊。ソ連軍は豊富な 予備の機甲部隊を持 ち , 戦闘の消耗をとん とん補った たのである。 突撃 撃して突破することになっていた。だが不運なことに 第 3 および第 11 機甲師団は , GD 師団の両翼正面を攻 チャニノの間に進出するよう命ぜられていた。 くなってから発進し , G D 師団は翌朝 , スシルゼウとル ソ連軍第一線に突入することに成功した。戦車部隊は暗 4 日の夕刻 , 突撃砲と工兵に支援された歩兵部隊は , ていたのである。 てもソ連側は , ドイツ軍の攻勢開始の日まで正確に知っ れに対抗して射撃をはじめた部隊もあった。いずれにし 攻撃を察知したソ連軍の砲撃を受けたところがあり , しまわった頃に予定されていたが , 一部では午前中に 攻撃は , 通常と違って明け方に発動されず , 午後も少 ウイドフカの南約 4.8 のところにあった。 ては , ソ連軍第一線はルチャニノ , アレクセイフカ , サ 砲撃と航空攻撃が行われた。第 48 機甲軍団の正面におい この攻撃に先立って , 短くはあったがすさまじい準備 対する攻撃ではじまった。 クルスクの戦いは 7 月 4 日 1500 時 , ソ連の前進拠点に その夜はげしい降雨があり , スシルゼウとサウイドフカ の間を流れる川の両岸の土地は一面の泥海となってしま った。これによりソ連軍が川の北側に設けた第 2 防衛線 は非常に有利な立場に立っこととなり , すでに相当強力 であった防禦陣地はより強固なものになってしまった。 攻撃第 2 日 , ドイツ軍には最初の攻撃停滞が生じ , 死 力をふりしぼって攻撃を行ったにもかかわらず , ソ連軍 防衛戦の手前でくい止められてしまった。 密集隊形で , しかも最前線近くの湿地帯に集結してい た G D 師団はソ連軍砲兵の猛砲撃を浴びた。工兵隊は適 当な渡歩資材を作ることができず , 多数の戦車が立ち往 生してソ連軍の餌食になった。この戦闘中 , ドイツ空軍 はこの地区の制空権を握っていたにもかかわらず , ソ連 機はすさまじい殴りこみをかけてきたのだ。攻撃第 1 日 でドイツ軍が奪取した地区においてすら , ソ連軍歩兵は 各所に出没し , GD 師団の偵察隊はこれに立ち向かわな くてはならなかった。 7 月 5 ~ 6 日の夜 , 川と湿地帯を渡ることができずに 朝を迎えた。左翼正面においては , サイドフカに対する 第 3 機甲師団の攻撃は , GD 師団の行ったアレクセイフ カおよびルチャニノに対する攻撃と同様に失敗におわっ 69

4. PANZER 1979年7月号

た。戦闘正面の全域にわたって地雷が埋められており , さらにソ連軍防衛線の全域は , 高地を利用して戦う戦車 に支援されていた。 ドイツ軍突撃隊は大きな損害をこおむり , 第 3 機甲師 団は逆襲を撃退しなければならなかった。 ドイツ軍によ って何回もソ連軍砲兵陣地に対して集中爆撃が加えられ たにもかかわらす , ソ連軍の狙止砲撃はあまり衰えをみ せなかった。 7 月 7 日一攻撃第 4 日一 , ついに戦況はわすかづっ動 きはじめた。 GD 師団は , スシルゼワの両側でソ連軍防衛線の突破 に成功 , ソ連軍はグレムトゥーシイおよびスシルゼワに 後退した。退却する部隊は , ドイツ砲兵に捕捉されて大 損害をこおむった。 ドイツ戦車は勢を増して北西へ進撃 した。だがその日の午後 , スシルゼワにおいて強力な防 禦砲火を浴びせられ , さらにソ連戦車の反撃によって進 撃は停止してしまった。 しかしながら , 右翼正面においては大きな戦果を上げ た。 GD 師団の自動車化連隊が , ベルホペニエに達した との報告をもたらしたからである。この成功を拡大する ために右翼に戦闘団が編成された。この戦闘団は , 偵察 隊と突撃砲部隊からなり , ノヴォセロフカの南にある 260.8 高地まで進出するよう命ぜられた。 この戦闘団がグレムトウシイに到着したとき , 自動車 化連隊の所属部隊がその村にいるのをみつけた。彼らは ノヴォセロフカにいるという錯覚に陥入っており , そこ がグレムトウシイだということを信じようとしなかった という悲喜劇が演じられた。こうして連隊の突入成功の 報告が誤りであることがわかった。このようなことは戦 場ではよく起こることであるが , とくに東部戦線では多 かったのである。 グレムトウシイ北方の . 丘は , ドイツ軍がその日の夕刻 に頑強な抵抗を排除して奪取し , 戦車連隊はソ連戦車を 230.1 高地から追い落とした。夜の帳りが戦場に下りる ころ戦闘は終った。部隊はすでに戦力を消耗した状況に 陥入っており , 第 3 機甲師団はこれ以上の前進が不可能 ソ連軍のタコッホ陣地を越えて進むドイツ軍戦車隊 以外の部隊は , ほとんと対戦車陣地との戦いたった 70 S S 機甲軍団

5. PANZER 1979年7月号

戦闘団は 7 次にわたるソ連戦車の反撃を撃退し , 21 輛の になっていた。 T34 戦車を撃破した。これに対して , 第 48 機甲軍団司令 一方 , 第 11 機甲師団は G D 師団の前衛部隊が到達した 部は GD 師団の攻撃重点を西方に移すように命し第 3 線とほぼ平行する線に達していたが , GD 師団とともに 機甲師団に対してこれの支援を行うよう指示した。当時 左翼方面からの砲撃と逆襲により , それ以上の前進はな 第 3 機甲師団の正面においても , 左翼からする圧迫が非 かなか進まなかった。 常に強まっていたのである。そして 243.0 高地もヴェル 7 月 8 日 , GD 師団の偵察隊と突撃砲からなる戦闘団 は , 主道上を前進して 260.8 高地に達した。そして西方 西郊も , その日のうちに占領することはできな ホペニエ に方向を変え , ヴェルホペニエを東に迂回した戦車連隊 かった。もはやドイツ軍の攻勢は息が切れ , その勢いは と自動車化連隊の進撃を支援した。この部落にはまだ強 力を失っていることは疑いなかった。 力なソ連軍が立てこもっており , これに対しては歩兵部 しかしながら , 7 月 9 日には第 3 機甲師団はラコヴォ , 隊が南方から攻撃を行った。 クルグリク間の道路の西方に進出することができ , べレ ソフカに対する側面攻撃を行う態勢をとることができる ヴェルホペニエのすぐ北にある 243.0 高地にはソ連戦 7 月 9 ~ 10 日の夜 , 第 3 機甲師団の戦車 車部隊が布陣しており , すさまじい火網を形作ってい ようになった。 た。戦車連隊と歩兵部隊が行った攻撃は , 高地正面で喰 は西からべレソフカに侵入したが , 攻勢は部落北方にあ る小さな森の前面でついに停止してしまった。第 11 機甲 止められてしまった。ソ連戦車はいたるところにいるよ うに思われ , 休みなく GD 師団の先鋒をみつけては叩い 師団もそれ以上は全く進出できず , 一方 , 第 48 機甲軍団 の東方で作戦中の s s 機甲軍団は , 全戦線にわたる強力 ていたのである。 その日の午後 , GD 師団の正面右翼に配置されていた な戦車による反撃を撃退しなければならず , 第 48 機甲軍 ソ連空軍の Yak 戦闘 機。ソビエトはチタデ レ作戦をつうして大体 制空権を保持していた 農家を砲撃て炎上さ せるドイツ軍砲兵。 彼等の敵は無数にい た 0 71

6. PANZER 1979年7月号

戦区を移動する 機械化砲兵部 隊。機甲部隊の 進撃について行 き , その掩護に あたった 第礬を第第い こでも占領した土地はほとんどなか 団と同じように , 装備していなかったことがそれに拍車をかけた。いっ たん敵の歩兵部隊の戦闘地域に突入するや , 文字どお つ 0 りその主砲をもって威嚇射撃を行うことをよぎなくさ 攻勢くいとめられる れた。このため , 敵の狙撃兵や機関銃座を事前に無力 このように , 南方より行われた進攻作戦のスローベー 化できなかったので , 歩兵部隊はポルシェ・ティーガ スぶりは , 当初の期待を裏切ったものであったが , 北方 ーに続行することができず , ポルシェ・ティーガーは よりする第 9 軍の進撃ぶりに比べるとまだしもましだっ 単独で突き進むことになった。勇敢さと大きな犠牲に たといえる。 もかかわらず , ワイドリンク将軍の率いる師団の歩兵 グーデリアン将軍が第 9 軍を訪れたときの模様を次の 部隊は , 戦車の切り開いた突破口を拡張することがで きなかった。こうして第 9 軍の攻撃は , 約 10 進出し ように述べている。 ー第 9 軍に配属された 90 輛のポルシェ・ティーガーは ただけでストップしてしまった一 じゅうぶんな弾薬がなかったため , 近接戦闘を行うこ 一週間にわたるはげしい , ほとんど連続的な戦闘の結 とができなかった。この欠陥に加えて , 車体に機銃を 果 , GD 師団は相当な消耗ぶりを示し , 兵員数は非常に

7. PANZER 1979年7月号

M60 の予言は実際のものとなった。それも再び 5 月 1 であり , また仰角は 45 。で固定されているといわれる。 日のメーデー行進のときにである。 1975 年のことであっ 遠距離の攻撃および対戦車攻撃の主力となるサガーの 発射機は , 独立して俯仰ができるようで , 最大仰角は 45 。 0 西側諸国は , M60 のとき以上に胆をつぶした。 M980 ていどとみられる。サガーの有効射程は 3000 川といわれ るから , M980 を相手としなければならない敵にとって はまさに M I C V の性格を持つもので , ソ連の B M ・ P や は大きな脅威である。車内に 2 ~ 4 発の再装填用サガー 西ドイツのマルダー , そしてフランスの A M X 10 p など を搭載するとみられ , そのときは砲塔内の砲手がハッチ に比べても , それほどひけをとらない優秀な内容を持っ を開き体を出して行うのだろう。被弾の危険は多いが , ためである。アヒルの子がとつじよ白 . 島になったような えら・ぐ小さ - な次発サガー用のハッチを砲塔上に持っ BM もので , その大きな飛躍に各国は目を見張ったのであ P 上、りは , よほど速く再装填できるであろう。 る。 ニ B P とよべるよう M980 の全体のアレンジは , しかも連装発射器だから , BMP の 2 倍の攻撃力 ( 1 な , ソ連の BMP の設計思想を多分に引きついでいるよ 度には 1 発しか発射できないだろうが , すぐ続いて発射 うにみえるが , ひとまわり小型で , かっ各部にユーゴス できるから , 再装を行う必要のある B M P に比べれ ラビアの独自性を発揮している。 ば , 単位時間内では 2 倍の攻撃力を持っ ) を持っことに その最たるものが武装であろう。車体の中央部に全周 なる。これに加えて , サガーの発射と 20m 機関砲の射撃 回転式の砲塔を持っているが , ーこに 20E 機関砲と 7.92 とは同時に行え , 別々の目標も狙えるから , BMP のよ 新機関銃を装備し , しかも砲塔の後面から上方に架台を うに砲かミサイルかではなく , 機関砲もミサイルもとい 設けて , サガー対戦車ミサイルを連装で搭載するという う優位性を持つのである。うまい方式というべきだ。 もので , 極めて強力な打撃力を備えている。 車体は防弾圧延鋼板の熔接構造と思われる。寸法は長 砲塔の前面から上面にかけて 2 本のスリッ トが入り , こから 20E 機関砲 ( 左 ) と 7.92 新機銃 ( 右 ) を突き出すという , 昔なっかし いスタイルをしている。 20 簡機関砲は , ユーゴスラビアでもライセ ンス生産されたことがある ( 現在でも生産さ れ続けているかもしれない ) イスパノ・スイ ザ 804 型 20E 機関砲と考えられている。もし そうだとすると , 砲ロ初速度 850 / sec , A P 弾を用いて射距離 1000 川で 20 ~ 30E の厚さ の防弾鋼板を貫徹できるから , たいていの国 の A P C /M I C v なら容易に撃破できる。 有効射程は地上目標に対して 2000 対空射 撃で 1500 川であり , うまくするとソ連の BM p の 76 低圧砲とも渡り合えるかもしれな い。 7.92E 機銃は M60 に装備されているのと 同じ M53 とみられる。 弾丸の搭載数は不明だが , 20E 機関砲は 50 発入りのドラム弾倉を使用しているので , も しベルト給弾式に改められていないとすれば 内部容積を食って , あまり数多くは搭載でき M980 の砲塔 ( 手前は車長用展望塔 ) ないだろう。 M53 の方は 50 発の箱型弾倉で も , 300 発入りベルト弾倉 ( コンテナ ) でも使用できる。 さ 6.25 川 , 幅 2.85 川 , 車体上面高 1.73 川で , 車輛重量 11 両方とも 85 。の仰角がかけられるというから , 対空射 t, 全備重量 12t と伝えられるが , 少し軽すぎる気がす 撃も可能で , その照準器と思われるものが , 砲塔左前面 る。装甲の厚さは車体前面で 20E というが , これが事実 の凹みにみられる。地上射撃用の照準器ははっきりしな とすると , 車体の他の部分は相当に薄いか , あるいは広 いが , 伝えられるところでは新型の , かなり複雑で高度 範囲にアルミ合金を使用しているものと思われる。それ なものらしく , 機関砲の打撃力を一段と高めている。な にしてもまだ重量としては軽すぎはしないだろうか ? お対空射撃用の照準器は砲塔と独立して旋回できるよう 乗員は車長 , 砲手 , 操縦手の 3 名に , 歩兵を 6 ~ 8 名 93 0

8. PANZER 1979年7月号

その日の朝 , 北および西より行われた数次にわたるソ連 方部戦区では 80 輛のパンター戦車が投入されたが , 7 月 軍の反撃は撃退された。そして GD 師団の進撃は予定ど 14 日にはわずか数量しか残っていなかった。 おりはじめられ , 243 高地を再び奪いとることに成功し 戦線は , 北部戦区における第 9 軍が 11 , 南方部は S S 機甲軍団の進撃が 140 の地点に達したが , いずれに 一方 , ソ連軍の逆襲で激戦にまきこまれた右翼の戦闘 しても力がつきて立ち往生してしまった。第 4 機甲軍と 団の攻撃はあまり進まず , 中央部および左翼においては 第 9 軍が合流するには , なお両軍が 100 近く進出しな 多数のソ連戦車が撃破され , ソ連軍歩兵は大きな損害を ければならなかった。第 48 機甲軍団は , 南方部戦区では 受けて西方へ後退した。 最も防禦の厚い正面に突入し , 装備と士気にすぐれたこ その日の午後 , べレンフカにおいて G D 師団はようや の軍団も , 最初の目的地であるオポャンのはるかかなた く第 3 機甲師団と連絡がとれ , べレンフカ村の北にある で戦力を消耗しつくし停止してしまった。 小さな森を確保するのに成功した。しかし , クルグリク チタデレ作戦っいに中止 のすぐ南方にある丘からソ連戦車を追い払うのは不可能 であることが明らかになり , ン連軍はここから強力な反 では , 第 48 機甲軍団のとなりの戦区を受持ち , 南方部 撃をかけてきた。日没までにソ連軍は莫大な損害をこう 最大の機甲戦力を持っていた S s 機甲軍団の戦況はどう むったと見られ , 重要な地点は再びドイツ軍の手に帰し であったのだろうか。 この部隊は , 第 1 s s 機甲師団アドルフ・ヒトラー , 0 こうして左翼における危険な状況は緩和され , 第 3 機 第 2 S S 機甲師団ライヒ , 第 3 s s 機甲師団されこうべ 甲師団に対して支援を行うことができるようになった。 の精鋭 3 コ師団よりなり , 戦車 , 突撃砲約 700 輛をもっ しかし GD 師団の戦力は , ソ 連軍の打撃力が目にみえるほ ドイツ軍前線 7 月 4 日 ドイツ軍の最大進出地 ど低下していないのに対し , 攻撃計画 10 日間にわたる激闘の結果 , 危険なほど低下していた。か えってソ連軍の打撃力は相対 的に強化されていたといえよ 7 月 14 日の夕刻までには , ドイツ軍の攻勢が完全に失敗 したことが誰の目にも明らか になった。攻勢の初期におい て予期されていたよりも , 縦 深が深く , かっぴっしりと地 雷が敷きつめられたソ連軍の 防衛戦を突破することは困難 であることが判明した。大量 の兵員と資材を冷酷に投入す る恐るべきソ連軍の反撃は , ドイツ軍に脅威を与えた。 ドイツ軍の損害は大きく , とくに戦車の喪失はどの戦線 においても莫大な数に上っ た。また , グーデリアン将軍 の予言どおり , パンター戦車 は期待にそうものではなかっ たことも明らかになった。潤 滑油および燃料などの給油装 置の防禦が不充分で簡単に炎 上した。攻撃の初期には , 南 オリョール ミ 4 大 第 9 軍 クルスク ヴォロネジ・ セイム川 フ。ショル川 タマロフカ 第 4 機甲軍 ケンプフ集団 / 、リコフ 0 ビエルゴロド ツイタテル作戦 ウォロシロフグラード・ 7 5 5 0 0 マイノレ 75

9. PANZER 1979年7月号

戦闘位置へ進む S れ v. 1 ( 3A 。前面の面積はきわめて小さく , ものかげに身をひそめると発見が非常に困難になる 大幅に短縮できる。 置と操縦・砲射撃統制装置によって , 射撃性能 , 火力機 ( 3 ) レーサー測遠機 動が一段と向上した。 L . M. ェリクソン社の小型 , 軽量のネオジム・レーザ (1) 光学式照準具 ー測遠機を組みこんだジャングナー社の OPS2 車長用 車長用 , 砲手 / 操縦手用に , ジャングナー社が開発し 照準具が装備された。このレーザー測遠機は波長 1.06 フ た安定装置っきの p s 1 光学式混合視察・照準具が装備 アラッドで , 従来のルビー・レーザーと異って人間の目 される。この照準具は , 双眼鏡型の潜望鏡で , 選択レバ に障害を与えることがなく , 数秒間で正確な測距が行え ーを操作して , 倍率は 1 倍 , 6 倍 , 10 倍 , 18 倍の 4 段切 る。最大測距離は 5000 川である。従来の光学式視察・照 換が可能である。視界は 102 。 , 一般地形 , 近距離目標 , 遠距離目標に対しての視察・照準と , 測距 , 未来修正角 準潜望鏡は , レーザーの測定値が正しいかどうかをチェ ックする誤測防止装置としても使用され , Strv. 103 の 量を決定できる , 現在最も進歩した照準具である。 初弾命中率を著しく向上させている。 ( 2 ) 照準具安定装置 照準具安定装置は , ポフォース社が安定装置と操縦 ( 4 ) 操縦・射撃制御装置 砲射撃統制装置を組合わせた 型式で , 砲手用は照準具だけ 安定だが , 車長用照準具上部 のフ。リズム機構は水平方向に 安定化された車長用天蓋にと りつけられ , 同時に俯仰角も 安定化されている。さらに砲 は照準具に従属して安定化さ れ , 走行間の射撃で照準具の 視軸方向と砲の方向が一致し ていても , 砲の俯仰角が射程 に応じて安定化されるまで射 撃はできない。また安定装置 のジャイロで見越し角の計算 が可能で , 走行時の目標捕捉 に有効で , 複雑な地形の戦場 でも敵戦車の撃破所要時間は る え 行 っ と が 撃 射 ス ク ロ ン コ かよ ク ン コ 27

10. PANZER 1979年7月号

車が 牽車 連 トた 、。工れ れは 一、、第さに 破付 : 、を三をい第 ある。全戦線にわたって撃破されたソ連戦車の数も莫大 機甲師団と交代をはじめたが , 歩兵連隊は不安を抱きな な数に上ったのは事実であったが , 代って新品の戦車が がら移動を開始した。交代の最終段階においてはげしい たえず戦闘に加入してきた。その戦闘原則を忠実に守っ ソ連軍の砲撃を浴び , また銃砲声を耳にしながら壕をあ てソ連軍は新しい部隊を投入しつづけ , その予備兵力は とにした。 GD 師団の将兵が抱いた恐れは不幸にも現実 となった。すなわち , その夜第 3 機甲師団は , GD 師団 無限かと思われた。 7 月 13 日午後 , 第 48 機甲軍団長フォン・クノーベルス の移動によってあいた跡を埋めることができなかったの ドルフ大将は G D 師団の戦闘指揮所に姿を現し , 北方へ である。 の進撃についてはもはや望みはなくなったと述べた。 7 月 12 日の朝 , G D 師団はノヴォセロフカの北で 13 日 早朝にはじめられる北方への突破攻撃の発動を待ちなが 7 月 12 日と 13 日の両日 , 第 3 機甲師団はすさまじいソ 連戦車の攻撃を浴びてべレソフカを失い , ラコヴォとク 7 月 12 日は師団の将兵にとっ ら道路上に集結していた。 ルグリク間の道から撃退され , 247 高地を捨てざるを得 て初めて戦闘がなかった日であった。この戦闘の休止時 ない状況に立たされた。ソ連軍はさらに増強されていた 間には , 弾薬や燃料を補給し , 前線基地では行える限り が , 第 3 機甲師団は戦力を消耗し , 西からのソ連軍の攻 の修理を装備に対して施した。 撃を阻止することはできなくなっていた。 北方へ出た偵察隊の報告によれば , ノヴォセロフカに 7 月 14 日 0600 時 , G D 師団は再び西に向けて進撃をは はわずかな兵力の部隊が残されているものと思われた。 じめた。右翼においては , 偵察隊 , 突撃砲部隊 , 歩兵 1 はげしい砲声が西より轟き , 第 3 機甲師団からの報告に コ中隊 , 戦車 1 コ中隊からなる戦闘団が 247 高地に進撃 よると , これからの突撃にあたっては勇気がわいてくる するために編成された。中央正面では戦車連隊と歩兵部 ような状況ではなかった。 隊が 243 高地に突進し , 左翼正面においては , 歩兵部隊 7 月 13 日 , 北方に対するパトロールは強化されたが , がヴェルホペニエの北を攻撃し , べレソフカの北にある 予想された進撃命令は出す , その代り隣接部隊から悲し 小さな森を最終目標として突進することが予定されてい むべき報告がもたらされた。最も北に進出していた SS 機甲軍団および第 11 機甲師団に対して強力なソ連軍の反 た。 師団が行動を開始したときからはげしい砲撃を浴び , 撃が行われ , とくに戦車部隊が大きな損害を受けたので