, 第一いーを の辷ョ・第 ( 第を いすず製の九四式軽装甲車は , 1934 年 ( 昭和 9 て飛び散るから , 戦車の周 年 ) に採用された 2 人乗りの豆戦車である。 35 馬力の出 力は現在のバスの % にすぎない。キャタヒ。ラつきで , も 囲にいる協力の敵歩兵を追払うことはできる。 ともと牽引車として設計されたものだが , 荷車を引くだ 「距離 500 , 射て ! 」 たちまち敵戦車は「裸」になった。それでも先頭のカ けではもったいないので九七式 7.7mm 車載重機をつけ , 偵察用にも使用された。 ーデンロイド装甲車 2 輛は目の前に迫ってきた。 第 2 , 第 38 , 第 48 師団の 3 コ師団よりなる第 16 軍は , 「 3 台目は俺だそ ! 」 九四式軽装甲車 11 輛と , これを改良した九七式軽装甲車 4 人の水兵がパッと木陰から飛び出し , 三 0 年式銃剣 40 輛を持っていた。なにしろ両方とも , 偵察専門の九五 をつけた小銃を突き出す。この軽戦車は非常に車体が低 式軽戦車と同じ 40 / h のスビードが出るのだから重宝が く , 最前部にある操縦席はムキ出しだから , ものかげに られて , 完全装備の師団では九七式装甲車 2 コ中隊 ( 計 かくれて至近距離からパッと飛び出せば , 操縦士を銃剣 20 輛 ) にトラック乗車歩兵 2 コ中隊をつけ , もちろ で刺し殺すことができるのだ。だが , 3 台目はカーデン ん機械の整備中隊 1 コもっく これで捜索連隊を編成 ロイド装甲車ではなく , クルップ社の装甲自動車だった。 したものだった。 前の 2 輛がパラシュート兵に捕まったのをみるや , 装 なお伊東支隊とは別に , ポルトガル領ディリの飛行場 甲車は機銃を乱射し , 接近した日本兵 2 名を倒した。 占領には , 第 38 師団の第 228 連隊が 2 月 20 日に上陸し の 1 台に 1 コ小隊が寄ってたかって手榴弾を放る。装甲 車は U ターンして逃げ出した。 0 パラシュート兵はパパウ村の兵営を奇襲 , オーストラ 第 38 歩兵団司令部 , 伊東武夫少将 伊東支隊 リア兵を西へ敗走させる。将校 2 名 , 兵 3 名が捕虜とな 右翼 歩兵 1 コ中隊 った。第 1 次降下部隊は戦死 30 名余を出したが , いまク 九二式 7 曲射歩兵砲 1 コ小隊 ( 1 門 ) ーパン飛行場はすぐ目の前に迫ってきた。 中央 歩兵 1 コ大隊 九四式 37E 対戦車砲 1 コ中隊 S 伊東支隊の九四式軽装甲車 7.5 山砲 1 コ小隊 他方 , 海路クーパンの町へ向ったのは陸軍の伊東支隊 左翼 歩兵 1 コ大隊 だった。部隊は第 38 師団 ( 沼兵団 , 静岡の兵 ) の歩兵団 九四式 37E 対戦車砲 1 コ小隊 長 , 伊東武夫少将が指揮する兵力であり , 4 隻の高速貨 7. 5c 加山砲 1 コ中隊 物船に分乗 , アンポン島を 2 月 17 日に出港していた。船 九四式軽装甲車 1 コ中隊 ( 11 輛 ) 団は島の西方から南岸へ接近して , 2 月 20 日の早朝に上 砲兵隊 7.5 山砲 1 コ大隊 ( 2 コ中隊欠 ) 陸を開始する。編成は右の表のとおりであった。 101
クルクス戦て初め て実戦に投入され たパンター D 型 配備を急ぎすぎた ためにトラブルが 多く , クーデリア ンの予言は的中し 北方部戦区て 80 輛 が投入されたエレ ファント。縦深陣 地の突破に大いに 期待されたが , 大 きな損害を出した およびダス・ライヒの 3 コ機甲師団が属し , 第 48 機甲軍 トーテンコーフ S 機甲軍団には , アドルフ・ヒトラー , に第 48 機甲軍団 , 右翼に S S 機甲軍団を配していた。 S 第 4 機甲軍の主力は , トマロフカの両側において左翼 切断し , 内部のソ連軍を撃滅しようというものである。 双方がクルスクの東方で合流することによって突出部を つけ根を第 4 機甲軍が南から , 第 9 軍が北から攻撃し , 作戦計画は非常に簡単であった。すなわち , 突出部の 運命の日せまる いに作戦の発動は 7 月 4 日と決定された。 強硬に作戦の中止を具中したが却下された。そして , っ レを実施することは馬鹿げていると考えており , 元帥は び配下のすべての指揮官たちは , いまとなってはチタデ 南方軍集団総司令官フォン・マンシュタイン元帥およ 師団を正面から投入する決心をしたのである。 したクルスクに対してようやく再建されたばかりの機甲 団には , 第 3 および第 11 機甲師団と GD 師団が配属され ていた。また第 4 機甲軍とは別に , 機甲 1 コ軍団と歩兵 1 コ軍団を持っケンプフ集団が第 4 機甲軍の東 , ベルゴ ロドから北東に進出し第 4 機甲軍の右翼の掩護にあた ることになっていた。 G D 師団は特別編成の強力な師団で , 約 180 輛の戦車 のうち , 80 輛のパンタ戦車がライへルト中佐のもとに パンター支隊を編成していた。また 2 コ自動車化連隊を 持っていたが , そのうちのひとつは火力のすぐれた装甲 擲弾兵連隊であった。その他に 1 コ砲兵連隊 ( 大部分が 自走化 ) , 1 コ突撃砲部隊 , 1 コ工兵大隊および通信・ 管理部隊からなっていた。 独ソ戦においては最初にして最後のことであったが , 各師団は攻勢をまえにして数週間の休養を与えられ , さ らに兵員 , 装備の面でも定数に近づいていた。第 3 およ び第 11 機甲師団においては , 戦車連隊は各 80 輛の戦車を 持ち , 砲兵連隊の火砲も定数が配備されていた。この結 67
OF KURSK 実弾射撃は規則正しく実施された。 「攻撃失敗を許さず / 」 3 月 31 日、第 48 機甲軍団に有名なグーデリアン上級大 将が訪れた。彼は 1941 年におけるモスクワ攻略に失敗し 1943 年 3 月末、東部戦線で雪どけがはしまった。 た後、予備役に編入されていたが、そのすばらしい才能 「冬将軍」はよりすさましい「泥将軍」にそのバトン をもはや無視できなくなり、ヒトラーは再度彼を起用し を渡す。積極的な作戦は自動的に終わりを告げ、すべて て機甲軍総監ーグーデリアン自身がその設置を提唱ーと の機甲師団と若干の歩兵師団は戦線から後退させられて ハリコフ地区の戦車部隊は第 48 機甲軍団の下に集結させ して現役に復帰させた。 グーデリアン将軍は、とくに最近の反撃作戦 ( ハリコ られた 第 48 機甲軍団の下には、第 3 、第 6 および第 11 機甲師 フの奪回 ) におけるグロス・ドイッチュラント師団 ( 以 団ならびにグロス・ドイッチュラント装甲擲弾兵師団が 下 G D 師団 ) のティーガー戦車大隊の戦いについて討議 するこをを希望し、勇敢な戦車連隊長シュトラハヴィッ 編入された。この作戦の休止期間中は、訓練計画を立て て平時の場合に近い状況で部隊の演練を行える利点があ ッ伯は新戦車の性能およびその限界に関する、多くの興 味深いデータを将軍に報告した。この来訪の結果をもと った 訓練は、小隊および中隊レベルではじめられ、次第に に、グーデリアン将軍はティーカ・一とバンターの生産進 師団規模へと進んでいった。行動は実戦状態で行われ、 行を命したのである。 煙幕の間をぬってドイツ軍陣地にせまるソ連軍歩兵と S 7 6 自走砲。ドイツ軍の攻勢停止と ともにはじまったソ連軍の攻勢は、 1 943 年中に南部ロシアからドイツ軍を駆逐してしまった ド 1 イ ' いみ
車が 牽車 連 トた 、。工れ れは 一、、第さに 破付 : 、を三をい第 ある。全戦線にわたって撃破されたソ連戦車の数も莫大 機甲師団と交代をはじめたが , 歩兵連隊は不安を抱きな な数に上ったのは事実であったが , 代って新品の戦車が がら移動を開始した。交代の最終段階においてはげしい たえず戦闘に加入してきた。その戦闘原則を忠実に守っ ソ連軍の砲撃を浴び , また銃砲声を耳にしながら壕をあ てソ連軍は新しい部隊を投入しつづけ , その予備兵力は とにした。 GD 師団の将兵が抱いた恐れは不幸にも現実 となった。すなわち , その夜第 3 機甲師団は , GD 師団 無限かと思われた。 7 月 13 日午後 , 第 48 機甲軍団長フォン・クノーベルス の移動によってあいた跡を埋めることができなかったの ドルフ大将は G D 師団の戦闘指揮所に姿を現し , 北方へ である。 の進撃についてはもはや望みはなくなったと述べた。 7 月 12 日の朝 , G D 師団はノヴォセロフカの北で 13 日 早朝にはじめられる北方への突破攻撃の発動を待ちなが 7 月 12 日と 13 日の両日 , 第 3 機甲師団はすさまじいソ 連戦車の攻撃を浴びてべレソフカを失い , ラコヴォとク 7 月 12 日は師団の将兵にとっ ら道路上に集結していた。 ルグリク間の道から撃退され , 247 高地を捨てざるを得 て初めて戦闘がなかった日であった。この戦闘の休止時 ない状況に立たされた。ソ連軍はさらに増強されていた 間には , 弾薬や燃料を補給し , 前線基地では行える限り が , 第 3 機甲師団は戦力を消耗し , 西からのソ連軍の攻 の修理を装備に対して施した。 撃を阻止することはできなくなっていた。 北方へ出た偵察隊の報告によれば , ノヴォセロフカに 7 月 14 日 0600 時 , G D 師団は再び西に向けて進撃をは はわずかな兵力の部隊が残されているものと思われた。 じめた。右翼においては , 偵察隊 , 突撃砲部隊 , 歩兵 1 はげしい砲声が西より轟き , 第 3 機甲師団からの報告に コ中隊 , 戦車 1 コ中隊からなる戦闘団が 247 高地に進撃 よると , これからの突撃にあたっては勇気がわいてくる するために編成された。中央正面では戦車連隊と歩兵部 ような状況ではなかった。 隊が 243 高地に突進し , 左翼正面においては , 歩兵部隊 7 月 13 日 , 北方に対するパトロールは強化されたが , がヴェルホペニエの北を攻撃し , べレソフカの北にある 予想された進撃命令は出す , その代り隣接部隊から悲し 小さな森を最終目標として突進することが予定されてい むべき報告がもたらされた。最も北に進出していた SS 機甲軍団および第 11 機甲師団に対して強力なソ連軍の反 た。 師団が行動を開始したときからはげしい砲撃を浴び , 撃が行われ , とくに戦車部隊が大きな損害を受けたので
戦闘団は 7 次にわたるソ連戦車の反撃を撃退し , 21 輛の になっていた。 T34 戦車を撃破した。これに対して , 第 48 機甲軍団司令 一方 , 第 11 機甲師団は G D 師団の前衛部隊が到達した 部は GD 師団の攻撃重点を西方に移すように命し第 3 線とほぼ平行する線に達していたが , GD 師団とともに 機甲師団に対してこれの支援を行うよう指示した。当時 左翼方面からの砲撃と逆襲により , それ以上の前進はな 第 3 機甲師団の正面においても , 左翼からする圧迫が非 かなか進まなかった。 常に強まっていたのである。そして 243.0 高地もヴェル 7 月 8 日 , GD 師団の偵察隊と突撃砲からなる戦闘団 は , 主道上を前進して 260.8 高地に達した。そして西方 西郊も , その日のうちに占領することはできな ホペニエ に方向を変え , ヴェルホペニエを東に迂回した戦車連隊 かった。もはやドイツ軍の攻勢は息が切れ , その勢いは と自動車化連隊の進撃を支援した。この部落にはまだ強 力を失っていることは疑いなかった。 力なソ連軍が立てこもっており , これに対しては歩兵部 しかしながら , 7 月 9 日には第 3 機甲師団はラコヴォ , 隊が南方から攻撃を行った。 クルグリク間の道路の西方に進出することができ , べレ ソフカに対する側面攻撃を行う態勢をとることができる ヴェルホペニエのすぐ北にある 243.0 高地にはソ連戦 7 月 9 ~ 10 日の夜 , 第 3 機甲師団の戦車 車部隊が布陣しており , すさまじい火網を形作ってい ようになった。 た。戦車連隊と歩兵部隊が行った攻撃は , 高地正面で喰 は西からべレソフカに侵入したが , 攻勢は部落北方にあ る小さな森の前面でついに停止してしまった。第 11 機甲 止められてしまった。ソ連戦車はいたるところにいるよ うに思われ , 休みなく GD 師団の先鋒をみつけては叩い 師団もそれ以上は全く進出できず , 一方 , 第 48 機甲軍団 の東方で作戦中の s s 機甲軍団は , 全戦線にわたる強力 ていたのである。 その日の午後 , GD 師団の正面右翼に配置されていた な戦車による反撃を撃退しなければならず , 第 48 機甲軍 ソ連空軍の Yak 戦闘 機。ソビエトはチタデ レ作戦をつうして大体 制空権を保持していた 農家を砲撃て炎上さ せるドイツ軍砲兵。 彼等の敵は無数にい た 0 71
機いし攻 むし耗に 進け消よた てはんきれ し。とっさ 指隊んい返 目部とてし カ輛は撃押 フ車カ反に ロの戦の点 ホ団に軍動 ロ軍い連発 プ甲戦ソ勢 中部ロシアの原野 に残骸をさらす T 34 戦車。しかし彼 らにはこののち後 退はなかった 1 ← 第一 減少した。 7 月 10 日には , 師団は南および南西に向きを を示している。この情景はしばらくの間くり返されて 変え , 左翼のソ連軍部隊を掃討するよう命令された。戦 車連隊 , 偵察隊および自動車化連隊は 243.0 高地方面に すさまじい航空部隊の支援を受けて , GD 師団はその 後進撃のスビードが上がった。 243 高地と 247 高地を奪い 進出し , そこから北へ向かうことになっていた。 これらの部隊はクルグリク南方の 247.0 高地を奪取し , とり , ソ連軍歩兵部隊と機甲部隊はドイツ戦車の猛攻を 次いでそこから , ソ連軍が第 3 機甲師団の進出を阻止し 受けて退きはじめ , べレソフカの北にある森の中に逃げ ているべレソフカの北方の森に向かうことが予定され こんでいった。 GD 師団と第 3 機甲師団に挾撃された結 た。この攻撃にあたっては空軍が強力な地上支援を行う 果 , ついに産翼のソ連軍は掃討され , ドイツ軍は北方へ の進撃を再びはじめることができたかに思われた。 ことになっていた。 7 月 11 日 , 第 48 機甲軍団司令部は GD 師団の部隊がそ 航空攻撃はすさまじい効果をあげた。偵察隊の戦闘日 の夜のうちに第 3 機甲師団と交代するよう命令を発し 誌には , この攻撃について次のように記されている。 た。すなわち , G D 師団は 260.8 高地の南方を走る道路 ー感嘆のまなざしで , われわれはスツーカ ( 急降下爆 上に集結し , 北方への攻撃を準備するよう命令された。 撃機 ) が連続して , そして驚くべき正確さでソ連戦車 第 9 軍の攻勢が失敗した点からみると , この地区におけ を攻撃するのを見つめていた。次から次へとスツカ る進撃が成功することに作戦の望みが託されたのだ。 の編隊がソ連戦車の頭上に爆弾を叩きこんでゆく。ビ 7 月 11 ~ 12 日の夜 , GD 師団は計画にしたがって第 3 ッと光る閃光は , また別のソ連戦車がやられたこと 73
た。戦闘正面の全域にわたって地雷が埋められており , さらにソ連軍防衛線の全域は , 高地を利用して戦う戦車 に支援されていた。 ドイツ軍突撃隊は大きな損害をこおむり , 第 3 機甲師 団は逆襲を撃退しなければならなかった。 ドイツ軍によ って何回もソ連軍砲兵陣地に対して集中爆撃が加えられ たにもかかわらす , ソ連軍の狙止砲撃はあまり衰えをみ せなかった。 7 月 7 日一攻撃第 4 日一 , ついに戦況はわすかづっ動 きはじめた。 GD 師団は , スシルゼワの両側でソ連軍防衛線の突破 に成功 , ソ連軍はグレムトゥーシイおよびスシルゼワに 後退した。退却する部隊は , ドイツ砲兵に捕捉されて大 損害をこおむった。 ドイツ戦車は勢を増して北西へ進撃 した。だがその日の午後 , スシルゼワにおいて強力な防 禦砲火を浴びせられ , さらにソ連戦車の反撃によって進 撃は停止してしまった。 しかしながら , 右翼正面においては大きな戦果を上げ た。 GD 師団の自動車化連隊が , ベルホペニエに達した との報告をもたらしたからである。この成功を拡大する ために右翼に戦闘団が編成された。この戦闘団は , 偵察 隊と突撃砲部隊からなり , ノヴォセロフカの南にある 260.8 高地まで進出するよう命ぜられた。 この戦闘団がグレムトウシイに到着したとき , 自動車 化連隊の所属部隊がその村にいるのをみつけた。彼らは ノヴォセロフカにいるという錯覚に陥入っており , そこ がグレムトウシイだということを信じようとしなかった という悲喜劇が演じられた。こうして連隊の突入成功の 報告が誤りであることがわかった。このようなことは戦 場ではよく起こることであるが , とくに東部戦線では多 かったのである。 グレムトウシイ北方の . 丘は , ドイツ軍がその日の夕刻 に頑強な抵抗を排除して奪取し , 戦車連隊はソ連戦車を 230.1 高地から追い落とした。夜の帳りが戦場に下りる ころ戦闘は終った。部隊はすでに戦力を消耗した状況に 陥入っており , 第 3 機甲師団はこれ以上の前進が不可能 ソ連軍のタコッホ陣地を越えて進むドイツ軍戦車隊 以外の部隊は , ほとんと対戦車陣地との戦いたった 70 S S 機甲軍団
たびに編成するのが普通だったが , ついこのあいだ , 西ドイツ製のレ すでにこれは過去のものとなり , ソ オパルト 1 をリビアから入手して , 連製の車輛を使った、オプ・フォー ソ連兵が乗りこんでエチオビアで実 戦テストし , 本国に持帰ったことが ( オポジション・フォース , つまり 敵対軍の略 ) が編成されるように 報道されたが , これ以外に西側の新 鋭軍用車輛を入手したという証拠は なって , 事態は一変した。 これらの車輛は , いわずと知れた ない。 1973 年の第 4 次中東戦争のときの捕 しかし , 戦車兵の訓練にシュミレ 獲品で , イスラエルが主にシリア軍 ーターを導入し , 乗員の精鋭化を計 からぶん捕った車輛を , アメリカが こから先はあくまでも想像にな っているソ連軍が , アメリカの、に 入手したものである。 せソ連軍洋の出現をだまつみている るが , ソ連が、にせアメリカ機甲部 アメリカに送られた車輛は , はじ 隊洋を保有するにはなんの苦労もい だろうか。 めは形どおりにアパディーンやフォ ここに重大なヒントを与えるのは らない。これら機甲部隊は , 広いウ ート・ノックスなどの試験場でテス 最近のソ連とベトナムの熱烈な密月 ラルかシベリアのどこかで極秘のテ トを受けたが , なにしろ数が多かっ ぶりである。ソ連の艦船はベトナム ストをおえて , ソ連軍の訓練に , 特 殊部隊として活動しているのではな のハイフォンやカムラン湾にどんど 0 テストが一応終了したところで , ん出入りしているし , 輸送機の定期 いか。 これが、にせソ連軍洋に変身しはじ あたかも , アメリカとソ連のスパ 便がある。そのうえ , 4 月にはシベ めたのである。部隊はテキサス州の イ合戦が公然の事実であるように。 リアから発進した Tu -95 べァ偵察機 フォート・フッドにおかれ , 現在の さらに推理を進めれば , アメリカ がついにベトナムの基地に着陸して 規模は戦車中隊 2 コ , 自動車化狙撃 数日後に帰投した。 とソ連の両国は , ともに、にせ機甲 中隊 1 コである。 部隊の存在を偵察衛星で探知して ソ連は , 物心両面でベトナムを援 いるに違いない。直径 10 の物体な 変身といっても , そこはさすがア 助している。これは , 正にアメリカ らばなんでも探知できるという偵察 メリカ。塗装はもちろん , 兵士の服 とイスラニルの関係である。 衛星の実力をもってすれば , その存 装 , 細かい装備やマーキング , 部隊 そのベトナムには , ベトナム戦争 在はもちろん , 編成の内容から活動 の編成から戦術 , テクニックまで , で捕獲した多数のアメリカ製兵器が の状況まで , 互いに筒ぬけになって ソ連軍になりきっている。 ある。サイゴン陥落の前後だけに限 これは , 貴重なソ連製兵器をでき いるに違いない。 っても , 南ベトナム解放戦線の手に るだけオリジナルのまま保って行こ ただ , これらの、にせ部隊洋でい 落ちたアメリカ軍の車輛は数百を下 うという、狭い、考えではなく , 軍 ちばんこまるのは , 保有車輛が旧式 らないといわれる。 の訓練に最大限の効果を発揮させよ 化しても , 世界のどこかで戦争が続 これは , イスラエルが捕獲したソ うという読みがある。 き , 新型の車輛が手に落ちないかぎ 連製の車輛の数にまさるとも劣らな 、限りなくソ連軍に近い つまり , ソ連軍洋を持っことは , 攻撃や守備 の研究と訓練に最大の効果を発揮す るというわけで , これはまた第 2 次 大戦中に連合軍とドイツ軍が互いに 捕獲した敵の戦車を使って実行した ことのくり返しでもある。 しかし , それから 35 年たった今日 では , 本物の、敵、戦車を手に入れ ることは容易ではなくなった。 昔は , 稼動できるものは実戦に投 B T 60 P B 。塗装はもちろん , 兵士の服装までミソ連軍になリきっている 入したり , 部品がなくなればスクラ り , 部隊の装備の更新がままならな ップにしてしまったが , いまはそん し、 0 いということだ。 なぜいたくなことはできない。アメ もちろん , F ー 111 , F—4, F—5 などの新鋭機の実物や , ミサイルな 、にせソ連軍洋の出現 ともかく , リカ陸軍では , これらの貴重品をク で , アメリカ陸軍の戦闘訓練法が一 どがすぐにソ連に送られたことは , ラシック・カーなみに大事に手入れ 歩大きく前へ進んだことは前述した いまでは疑う余地がないが , M60 や して使っている。 M551 , M48 などの戦車が送られな とおりである。これが , 陸戦の戦術 アメリカ陸軍は , 強力な、ソ連軍 や新兵器の開発に新しい影響を与え かったという証拠はどこにもない。 を味方にしたことといえよう。 むしろ , 「送られなかった」とする ることは , 時間の問題だといっても 、本物ソ連軍の動き〃は 方に無理がある。 対するソ連軍の動きはどうか。 よさそうだ。 、ア OP ー CS 109
も重要なことである。 は , 地雷原の中に通路を開くため楔型隊形の前の部分に ( 5 ) 装甲車輛に搭乗した工兵は , 戦車部隊に続行しな 戦車とともに進んだ。このようなタイプの攻撃は , 攻撃 部隊がすべての兵科との密接な協同行動の訓練を受けて ければならない。 ( 6 ) 軽戦車部隊は , 戦果拡張のために手近にいなけれ いる場合には , たいてい成功をおさめた。 ばならない。 夜間攻撃については , 攻撃にさいして対象となる地域 が戦車の行動に適していなければならず , また天候が良 ( 7 ) 戦車部隊に対する燃料ならびに弾薬などの補給は 好であることが必要であり , 月明が適当でなければなら 戦闘の間 , 装甲補給車輛が行わなければならないが , なかった。さらにその地域について , 日中 , 関係将校に この困難な作業を行うには相当な熟練が必要となる。 よる偵察が行われていなければならなかった。当時 , 戦 ( 8 ) 戦車には , 敵の対戦車火器の照準を困難にするた 車用コンパスに適当なものがなかったので , 夜間 , 明瞭 めの発煙装置と , 小隊長が進行方向を指示するための に視認できる通路または砂上の軌跡が方向を指示するた 信号弾を持っ必要がある。 めに用いられた。そして , これらの条件が整っていれば ( 9 ) 夜間攻撃のため , 戦車には方向探知器を装備する 吊鐘型隊形は大いに有効であることが立証されていた。 必要がある。 進撃は密集隊形で行われ , 戦車同志の車間距離は昼間 ( 了 ) の場合より短くとられた。そして , このような攻撃は , 暗いために防禦側の砲の照準が非常に困難なので , じゅ うぶんに準備された夜間攻撃 はほとんど損害を受けること なしに成功するのがふつうで あった。ただこの夜間攻撃に は , じゅうぶんに訓練を受け た将校と熟練した操縦士が不 可欠な条件だった。 その他 , 対戦車陣地に対す る戦車攻撃の成功の条件には 次のようなものがあると思わ れる。 ( 1 ) 航空偵察および地上偵 察については , あらゆる機 会をとらえてこれを行わな くではならない。 ②攻撃を行う戦車部隊 は , 重点に攻撃を向ける重 戦車が主力となり , 他の車 輛はその戦力の発揮にじゅ うぶんな掩護をする必要が ある。 ( 3 ) 戦車砲による砲火の集 中は , 迅速かつ効果的でな ければならない。戦車は常 に機動することが必要で , 射撃するときだけ停止す る。 ( 4 ) 攻撃を支援するすべて の重火器の観測兵は , 戦車 部隊とともに移動し , 中で も戦車部隊指揮官と上空の 航空部隊との無線連絡は最 80 クルグリク ノヴォセロウカ ヾ 260.8 G D 師団 ノ釜。、ノ 甲 第 くノレガく′くニエ グレムトウシイ ーシノレツエウ ペレソウカ ラコウ・オ ノレチ・ヤニノ アレクセイウカ サウイドウカ クルスク戦 ( 2 ) ー 7 月図日一 マイルー 2 3 十
攻撃の発動地点に集結するⅢ号戦車以下の機甲部隊 集 中度はかってないほどたったが・ 進撃をはじめた突撃砲部隊。いす れもⅢ突 G 型て , かなりの数が参 加し , 戦車の不足を補っていた→ ていたが , それは , ソ連軍陣地の縦深や規模を示しては 果 , 第 48 機甲軍団は突撃砲 60 輛 , 戦車 300 輛以上を持ち , いたが , その細かい点や問題のソ連軍兵力についてはあ 1 コ軍団の打撃力としてはこの後 , これ以上のものは現 まり正確な情報をもたらさなかった。このことは , ソ連 われなかった。 軍が偽装 , 迷彩について卓越した手腕を持っていたこと 進撃が行われることが予定された地域は広い平原で , に他ならない。このため , ドイツ側はソ連軍の兵力を過 そこには無数の谷が走り , 雑木林が点在し , あちこちに 少評価していたことがあとになって明らかになる。 村落があり , 小川が流れていた。とりわけペナ川は , け 航空部隊と地上部隊の協力については , 非常に念入り わしい崖を両岸に配した急流で , 地形は全体に北に向っ な方法がとられた。空軍においても , かってこれほどじ ていくぶん上り気味に傾斜しており , 防ぐ方に有利であ ゅうぶんに準備された作戦はなかった。 った。通路は砂地の踏み跡からなっており , 雨が降ると 自動車による交通は不可能となった。 またソ連側の航空偵察に対処するため , 地上部隊の昼 また背の高いとうもろこし畑がみわたす限り広がり , 間の移動はすべて禁止され , このため大量の車輛の発進 視界は非常に悪かった。その地形は , 決して戦車戦に有 点への集結は , 通路の悪さもあって困難をきわめた。担 利とはいえなかったが , 戦車の行動に不利だともいえな 当の幕僚は何日も引続いて通路や交差点に立って交通整 かった。 理をしなければならなかった。そのうえ雨や豪雨により そして歩兵は , 何週間も攻撃の出発位置についてい 予定が狂わされたこともあったが , 部隊と軍需品の集結 た。そこからソ連軍陣地の詳細をすべて偵察し , 地形と は一応完了し , この間 , ソ連軍からは全く妨害を受けな か防衛施設に注意を向けていた。攻撃部隊の指揮にあた かった。 る将校は , 中隊長級にいたるまで , それらに慣れるため 7 月 4 日 , 天候は暑くうっとうしかったが , 戦線は緊 に第一線で起居していた。 張につつまれていた。攻撃部隊の士気は高く , いかなる 砲兵の掩護射撃と歩兵との協同計画は綿密に立てられ 損害にも屈せず与えられた任務を果たす心構えができて ていた。さらに突出部全域にわたって航空写真が撮られ いた。だが , 不幸にも彼らは最強の敵と向かい合ってい 68