歩兵 - みる会図書館


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1. PANZER 1979年9月号

そのため , ドイツ軍の一部はセーヌ方面に脱出した であった。これにはフライへア・フォン・フンク中将の が , 装備はほとんど失ない , 5 万名の捕虜と 1 万名の戦 もとに 8 コ機甲師団 , 7 コ装甲擲弾兵師団および 1 コ降 死者が残され , 結果はじゅうぶんにひどかった。 下猟兵師団を投入して , 連合軍戦線にくさびを打ちこん 第 12 s s 機甲師団ヒトラー・ユーゲントの師団長であ でいっきょにアヴランシュに迫った。 ・マイヤ - ーことクルト・マイヤー少将 だが , 連合国空軍の反撃によってドイツ軍の進撃は阻 ったノくンツア は , 包囲から脱出したのち , われわれは , もときた道 止され , 逆に突出したドイツ軍はアメリカ第 1 軍 , イギ をふり返って 2 コ軍をかくも無意味に犠牲にした人々を リス第 2 軍 , カナダ第 1 軍のしめつけによって包囲され 呪いました洋といわせた。 5 コ機甲師団と 9 コ装甲擲弾 る危険な状態になった。当時 , 第 3 軍の第 15 軍団は自動 兵師団が壊滅し , 戦車 24 輛をふくむ 100 輛の車輛と各種 車レースで有名なル。マンを攻略し , セーヌ川への進攻 を準備していたが , ファレーズの東を北進し , アルジャ の火砲 60 門がセーヌにたどりついただけであった。 この戦闘の結果 , ドイツ西方軍の機甲部隊はその戦力 ンタンの付近でカナダ第 1 軍と接触せよとの命令を受け た。すなわちリュテイヒ作戦のために突出したドイツ軍 を消耗してしまい , 以後 , 連合軍は急速にフランス全土 をファレーズ周辺において包囲しようというのである。 の解放に向って快速進撃を続けることになった。 8 月 9 日から開始された第 15 軍団の北転は , 有名なア ☆セーヌへの進撃とパリ解放 ルジャンタン一ファレーズ包囲戦のはじまりで , 第 15 軍 アルジャンタン一ファレーズ包囲戦の終了とともに 団はアランソンを経て , ェーベルバッハ機甲集団の抵抗 第 3 軍は当初の目標であるパリおよびセーヌ方面への進 を排除しつつ 8 月 13 日には第 1 の目標であるアルジャン 出を再開した。 タンを攻略した。しかし , カナダ軍の南下が思いどおり 8 月 15 日に作戦を開始した第 12 軍団は , 州兵第 35 , 第 進まなかったので , 第 15 軍団単独の北進は危険と判断さ 80 師団および第 4 装甲師団をもって , ル・マン , オルレ れて停止が命令され , ファレーズ東側のネックをふさぐ アン , モンタルジーを経て , 8 月 30 日までにトロア , ビ ことができなかった。 第 3 軍の 第 79 歩兵師団 ( アイレー・ワイシェ少将 ) 第 80 歩兵師団 ( ホレイス・マクプライド少将 ) ー 1944 年 8 月 1 日一 第 4 装甲師団 ( ジョーン・ウッド少将 ) 第 XV 軍団 ( ウェイド・ヘイズリップ少将 ) 第 5 歩兵師団 ( スタンフォード・アーウイン少将 ) 州兵第 35 歩兵師団 ( ポール・バーデ少将 ) フランス第 2 装甲師団 ( ジャック・ルクレール少将 ) 第 XX 軍団 ( ウォルトン・ウォーカー少将 ) 第Ⅷ軍団いロイ・ミドルトン少将 ) 第 8 歩兵師団 ( ドナルド・ストラウ少将 ) 第 5 歩兵師団 ( スタンフォード・アーウイン少将 ) 第 79 歩兵師団 ( アイレイ・ワイシェ少将 ) 第 90 歩兵師団 ( レイモンド・マクレイン少将 ) 第 4 装甲師団 ( ジョーン・ウッド少将 ) 第 7 装甲師団 ( リンゼー・シルベスター少将 ) 第 6 装甲師団 ( ロバート・グロー少将 ) 第軍団 ( ギルバート・クツ・ク少将 ) ー 1944 年 12 月 22 日一 直轄 第 80 歩兵師団 ( ホレイス・マクプライド少将 ) 第 xv 軍団 ( ウェイド・ヘイズリップ少将 ) 州兵第 42 歩兵師団 ( ハリー・コリンズ少将 ) 第 83 歩兵師団 ( ロバート・メイコン少将 ) 第Ⅲ軍団 ( ジョン・ ミリキン少将 ) 第 90 歩兵師団 ( レイモンド・マクレイン少将 ) 第 4 歩兵師団 ( ハロルド・プレイクレイ少将 ) 第 5 装甲師団 ( ランスフォード・オリバー少将 ) 州兵第 26 歩兵師団 ( ウィリャード・ポール少将 ) フランス第 2 装甲師団 ( ジャック・ルクレール少将第 80 歩兵師団 ( ホレイス・マクプライド少将 ) 第 4 装甲師団 ( ジョーン・ウッド少将 ) 第Ⅷ軍団 ( トロイ・ミドルトン少将 ) ー 1944 年 9 月 1 日一 州兵第 28 歩兵師団 ( ノーマン・コータ少将 ) 直轄 第 9 装甲師団 ( ジョン・レオナード少将 ) 州兵第 26 歩兵師団 ( ウィリャード・ポール少将 ) 第 11 装甲師団 ( チャールズ・キルバーン准将 ) 第Ⅷ軍団 ( トロイ・ミドルトン少将 ) 第 101 空挺師団 ( マクスウェル・テイラー少将 ) ートソン少将 ) 第 2 歩兵師団 ( ウォルター ロノ、 第刈軍団 ( マントン・エディ少将 ) 第 8 歩兵師団 ( ドナルド・ストラウ少将 ) 州兵第 29 歩兵師団 ( チャールズ・ゲルハート少将 ) 第 5 歩兵師団 ( スタンフォード・アーウイン少将 ) 第 83 歩兵師団 ( ロバート・メイコン少将 ) 第期軍団 ( マントン・エディ少将 ) 第 6 装甲師団 ( ロバート・グロー少将 ) 州兵第 35 歩兵師団 ( ポール・バーデ少将 ) 42

2. PANZER 1979年9月号

州兵第 35 歩兵師団 ( ポール・バーデ少将 ) 第 6 装甲師団 ( ロバート・グロー少将 ) 第 10 装甲師団 ( ウィリアム・モリス少将 ) 第 XX 軍団 ( ウォルトン・ウォーカー少将 ) 第 90 歩兵師団 ( ・ シェームズ・ヴァ ・ル・フランソワまで進出した。 また第 15 軍団は , アルジャンタンからドルーおよびマ ント・ガンクールを経てセーヌ川に到達した。そして , 第 79 師団はラ・ロシュ・ギョン ( ロンメル元帥の司令部 があった ) に橋頭堡を確保し , 第 90 師団はシャト・テ ィエリーーランス方面に進出した。 さらに第 5 装甲師団は , 一時 , 第 1 軍に配属されてい たが , 8 月 30 日に第 3 軍に復帰し , パリ郊外のコンヒ。ェ ニュに達した。一方 , 第 3 軍に配属されていた自由フ ランス軍の第 2 装甲師団は , パリ守備のドイツ軍とパル チザンとの戦いの激化を憂慮したドイツ軍司令官フォン ・コルティッツ中将の中し入れにもとづき , パリ進駐の 特別任務が与えられ , 8 月 25 日朝 , パリ市民の歓呼の中 ドルレアンからパリに入城した。そして , フ をホルト オン・コルティッツ中将は師団長ルクレール少将に降伏 し , パリは破壊をまぬがれたのである 第 20 軍団は , 8 月 16 日 , シャルトル地区からフォンテ ーヌプローに , 23 日にはセーヌを渡河し , マルヌを経て ランスーベルダンの線に到達した。そして 8 月 31 日には , いよいよドイツ領への第一歩として , ジークフリート線 への攻勢のために , 第 12 , 15 , 20 の各軍団の編成替えを 第 2 歩兵師団 ( ウォルター パットン大将 ( 1945 年撮影 ) 師団編成 第 95 歩兵師団 ( へ ー 1945 年 3 月 1 日一 第Ⅷ軍団 ( トロイ・ ンフリート少将 ) トウワッドル少将 ) ドルトン少将 ) 第 87 歩兵師団 ( フランク・キュリン少将 ) 第 8 歩兵師団 ( ドナルド・ストラウ少将 ) 第 4 歩兵師団 ( ハロルド・プレイクレイ少将 ) 第 90 歩兵師団 ( ローウェル・ロックス少将 ) ( ウィリアム・ホッジ少将 ) 第 5 歩兵師団 ( スタンフォード・アーウイン少将 ) 第期軍団 ( マントン・エディ少将 ) 第 11 装甲師団 ( ホルムズ・ダガー少将 ) ト・グロー少将 ) ( ロノヾーー 第 4 装甲師団 第 6 装甲師団 ー 1945 年 5 月 9 日一 ( アルバート・スミス少将 ) 第 99 歩兵師団 ( ウォルター・ロウアー少将 ) 第 70 歩兵師団 ( アリソン・バーネット少将 ) ンエームズ・バンフリート少将 ) ( ジョン・レオナード少将 ) 第 97 歩兵師団 ( ミルトン・ハルジー准将 ) ロノ、 ートスン少将 ) = 第 1 歩兵師団 ( クリフト・アンドラス少将 ) 第 14 装甲師団 第Ⅲ軍団 第 9 装甲師団 州兵第 26 歩兵師団 ( ウィリャード・ポール少将 ) : 第 5 歩兵師団 ( アルバート・プラウン少将 ) 第期軍団 ( スタンフォード・アーウイン少将 ) 第 4 歩兵師団 ( ハロルド・プレイクレイ少将 ) 第Ⅷ軍団 ( トロイ・ミドルトン少将 ) 第 16 装甲師団 ( ジョン・ヒ。アース少将 ) 第 V 軍団 ( クラレンス・ヒューブナー少将 ) ー少将 ) 第 65 歩兵師団 ( スタンレイ・ラインハート少将 ) 州兵第 26 歩兵師団 ( ウィリャード・ポール少将 ) 第 XX 軍団 ( ウォルトン・ウォーカ 第 10 装甲師団 ( ウィリアム・モリス少将 ) 第 94 歩兵師団 ( ハリー・マロニー少将 ) 第 80 歩兵師団 ( ホレイス・マクプライド少将 ) 第 76 歩兵師団 ( ウィリアム・シュミット少将 ) ラインノ、 ート少将 ) 第 69 歩兵師団 ( ェミリー 第 90 歩兵師団 ( ハ ート・アーネスト少将 ) 第 4 装甲師団 ( ウィリアム・ホッジ少将 ) 第 11 装甲師団 ( ホームズ・ダガー少将 ) 第 XX 軍団 ( ウォルトン・ウォーカー中将 ) 第 65 歩兵師団 ( スタンレイ・ラインハート少将 ) 箋 第 69 歩兵師団 ( ェミリー ラインノ、 ート少将 ) 第 71 歩兵師団 ( ウイラード・ワイマン少将 ) 第 13 装甲師団 ( ジョン・ミリキン少将 ) "IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIT 43

3. PANZER 1979年9月号

旅団司令部では , はじめて体験する極東での戦いのき 南岸 , 釜山に上陸 , 北進を開始した。べレー帽の上に赤 い毛糸の玉をつけ , カーキ色の袋を背負った第 27 旅団の びしさを , はじめて知った。陸軍大学で教わった教科書 など全く役にたたなかった。勝手の違う相手との戦闘に 兵士の姿は , アメリカ兵の目に奇異にうつらないわけは 当惑し , イギリス軍将校はやっとアメリカ軍の苦労がわ ない。 「なんだい , あいつら ? 」 かったのである。 「ジョンフ・ルらしいや」 当時 , アメリカ・韓国軍は北朝鮮軍にはげしく押され イギリス軍の兵力は以下のとおりであった。 ていたが , 仁川上陸作戦でようやくもり返し , 急追撃が グロースター歩兵連隊 はじまっていた。 イギリス第 27 旅団が参戦したのは , ちょうどこのころ ウルスター歩兵連隊 第 8 アイルランド軽騎兵連隊 だったのである。 ( センチュリオンおよびクロムウェル戦車 ) そのためアメリカ第 8 軍からの指令も , 「歩兵だけで 第 7 王国戦車連隊の C 中隊 ( チャーチル歩兵戦車 ) もよいから大急ぎで来い / 」とのことであり , イギリス 第 47 野戦砲兵大隊 兵は , 10 月 5 日に南東部の大邱市の飛行場からアメリカ 第 11 スフィックス高射砲大隊 軍輪送機の人となった。部隊は奪回したばかりの韓国の ( ソ連製のヤク戦闘機に対するため ) 首都 , 京城に着陸 , そこから臨津江の西岸に向った。 第 170 迫撃砲大隊 ( 4.2 インチ迫撃砲 ) ままっ子あっかいのセンチュリオン戦車 第 55 工兵大隊 第 27 旅団は勝手に戦ったわけではない。国連軍の一翼 第 26 野戦病院 である以上 , アメリカ軍から食糧やガソリンを支給さ 第 8 アイルランド軽騎兵連隊は , もと第 7 装甲師団に れ , アメリカ第 8 軍のうち第 1 軍団 ( ミル , く一ン少将 ) 所属していたものであり , 今回は 52 トン , 20 ポンド砲の の指揮下で行動した。当時の編成は次のとおりである。 センチュリオン Mk. Ⅲで武装していた。また第 7 王国戦 ーアメリカ第 24 師団 車連隊は歩兵の掩護にあたるものであり , チャーチル戦 第 ーアメリカ第 1 騎兵師団 車を配していた。 軍 ーイギリス第 27 旅団 (). コード准将 ) イギリス第 27 旅団は , 9 月 1 日にはじめて戦いを経験 団 ー韓国第 1 師団 した。相手は北朝鮮第 2 軍団の第 10 師団である。将校の ー韓国第 7 師団 斤候が送られた。ところが斤候はいつまでたっても帰っ てこない。 第 8 軍の任務は , 北朝鮮の首都 , 平壌を攻略すること 「やられたのか ? 」 だった。ところが , その南には北朝鮮軍の歩兵 3 コ師団 101

4. PANZER 1979年9月号

こ、↓ー チャリオット物語その 9 戦車に悩まされたシーザー 松井史衛 典的な戦車隊などない。 ↑シーサーのイキリス遠征 さらに外人やとい兵や従属民からなる補助部隊も編成 古代ローマの将軍であり , 政治家であったジュリアス された。 さて , プリタニア ( 現在のイギリス ) に住んでいたケ ・シーザーもまた , アレキサンダー大王と同様敵の戦車 ルト人は , しばしば大陸のケルト人に加勢してローマ軍 に悩まされたひとりである。 と戦ったので , シーザーは紀元前 55 年の 8 月に , フ・リタ そのころ , 現在のフランス , ドイツ西部 , イタリアの 北部はガリア地方とよばれ , 文明の進んだローマ人から ニア上陸作戦を計画した。伝説によると , フ・リタニアに すれば , 蛮人ケルト族の住んでいる地域であった。 は黄金や真珠がザクザクあると信じられていたので , ガリアの住民はローマにしばしば反抗したので , 紀元 れがシーザーの「食欲」を誘ったのだ。 シーザーは , 第 7 , 第 10 軍団を 80 隻の運送船に乗せて 前 55 年 , 45 歳のシーザーは出陣した。シーザーの戦記が 真夜中にフランス北岸を出発 , 翌朝 8 時半には対岸ドー ローマ文学史上名高い「ガリア戦記」である。 パーの断崖の下に到着した。後年ニジプトに渡り , クレ 当時 , ローマの軍隊は軍団 ( レギオ ) を単位に編成さ れていた。 6000 人の 1 コ軍団は 10 コの大隊 ( 1 コ大隊 オパトラを後援するジュリアス・シーザーも , まだプリ 1 コ大隊は一糸乱れずに集団行動を トン人については情報を欠いていた。ローマ人はフ・リタ 600 人 ) からなり , ニアの蛮族がいかに戦車戦に巧みであるかを知らなかっ とる 100 人隊 6 コで編成されていた。この 100 人隊の隊 長はセンチュチオンとよばれていた。軍団は重装歩兵で たのである。 あり , 1 日 22h の割で行進した。 プリトン人は大昔から戦車に長じていた。アイルラン ドのタインに伝わる民話によると , 昔 , クーフリンとい たとえ歩兵でも , ローマの軍にはあらゆる種類の土木 う英雄がいて , こわれた戦車の車輪を振りまわして豹や 工事が課せられていた。つまり歩兵が工兵を兼ねたわけ 毒蛇やグリフィンという怪物 ( 身体がライオンで顔が鷲 ) だ。このほか騎兵が少数あったが , ローマにはすでに古 をやつつけたという。日本の桃太郎や , ノくイキングの話 には , 戦車など全然出てこないから , イギリス人が先天 的に戦車愛好民族であったことがうなずけよう。 さて上陸作戦に話をもどす。 シーザーの歩兵隊は無事上陸したが , 騎兵を乗せた 18 隻の別の船団は風待ちで港をいつまでたっても出港でぎ ず , 結局シーザーは騎兵なしの戦いを強いられる結果と なった。 浜辺に降りたばかりのロ - ーマ兵は , とつじよフ・リトン 人 ( ケルト人 ) の大戦車隊に奇襲される。その数は千台 を越したという。まだ上陸したばかりであり , さしもの ローマ兵もお得意の大集団陣型をとるヒマもない。だい たい上陸軍は上陸直後がいちばん弱いものなのだ。 「味方があぶない / 」 このとき , 沖のガレー軍艦から投石隊 ( カタバルト ) の艦砲射撃が開始された。石は , 鉄の鎌を車輪につけた The Chariot Story No. 9 貨幣にきざまれているシーザーの横顔 94

5. PANZER 1979年9月号

「鶏を割くに牛刀を用いる」 と言うことわざもあるが , た とえ戦車にとって重大な脅威 ではあっても , その強力な主 砲を ATM を持った歩兵や軽 車輛ていどにふり向けるのは 浪費ではないだろうか。筆者 としては , やはり主砲は対戦 車戦闘用にとっておいて , A TM の制圧には適当な副武装 をあてる方がよいと思う。 現在の副武装では不じ ゆう : ん K 70 は , 対空射撃が可能な 20 砲を砲塔に備えていた。 戦車の副武装は , 戦後ほと んど進歩しなかったといってよい。 いる。 ATM の有効射程は 308 以上もあるので , これ 現用の MBT は , 副武装として主砲と同軸に , また多 を制圧するには 7.62 ~ 12.7" 級 MG では有効射程が不足 くは砲塔の上面にも 7.62 ~ 12.7 級の機関銃 (MG) を する。 一方軽車輛についても , これらが ATM を搭載してい 装備している。その口径 , 使用法などには各国の考え方 る今日では , やはり 3000 以上の距離で制圧できる火力 があって , 例えば砲塔の上面の MG では車長キューボラ が必要である。また APC や I FV の普及で , 戦車はこ にとりつけられるもの , 外部に露出してついているが車 内から遠隔操作で射撃が可能なもの , 射撃するには身を れらにも対応しなければならなくなった。 乗り出さなければならないもの , などがある。また操作 また航空機も ヘリコプターを含めて一一一速度はこ する乗員が車長であったり , 装填手であったりする。 れまで以上に速くなり , 装甲板は厚くなり , ミサイルや これらの副武装は , 主砲を用いるまでもない , あるい ロケット弾による攻撃距離は遠くなる傾向にある。いず は主砲を使うのに適さない目標ー一歩兵 , 軽車輛 , 航空 れを考えても , 12.7n 級以下の MG では威力も有効射程 機などに対する攻撃に使われるものであった。歩兵に対 も不足といえるだろう。 航空機の脅威に対抗する手段としては , 小型の地対空 する威力からすれば , 現在の 7.62 ~ 12.7mn 級 MG でもじ ミサイルを戦車に装備することが考えられる。戦車では ゅうぶんである。なにしろ人間の装甲 ( 皮膚 ) の厚さ は , 数十万年来変っていないのだから。 ないがソ連軍の戦闘兵車 , BMP では , 搭乗する歩兵の 標準装備の中に S A- 7 、グレイル ( ソ連名ストレラ ) 洋 しかし , 戦車にとってただ目ざわりなだけだった歩兵 が入っている。 SA ー 7 は直径 7 , 長さ 135C 加 , 重量 が , いまでは強力な ATM を持って大きな脅威となって 代表的な車載型自動火器 有効射程 全長 重量 発射率注 1 主な使用車両 ( 注 2 ) 名 ( m ) ( k9 ) (rpm) FV432 ( P ) 、ベルギーー・レオパルト (P,C) 7 . 62 125.5 10.1 600 1000 1200 FN M AG T ・ 55 ( C ) 、 T ・ 62 ( C ) 、 BMP(C) PKT 7 . 62 116 650 M60 ( C ) 、 M551 ( C ) M73 7.62 89 14 500 625 900 74 式戦車 ( C ) 74 式車載 7 .62E 機関銃 700 / 1000 7 . 62 108.5 20 .4 M41 ( P ) 、 M48 ( T ) 、 M551 ( P ) 、 M113 ( P ) プラウニング M 2 HB 12 . 7 165.5 38 . 1 450 ー 550 1000 M60 ( T ) 、 LVTP7(T) M85 400 / 1050 12 . 7 138.5 27 .9 1000 テグチャレフ DSh K T55 ( P ) 、 T62 ( P ) 、 BRDMI(P) 12 .7 158.8 35.7 575 1500 TIOM(C,P) KPVT 14 . 5 200.5 49 . 1 600 2000 M6 幻 ト切冫・ AMXIOP(T) 20 テ・ユア′レ・・、ル・ 220.5 45 . 5 300 / 700 M693 ( F2 ) AMX30 後期阜 ( C ) 20 ト切替 テ・ユア′レ・′、 , ン 260 80 700 ー 780 ラインメタル MK20Rh202 ト切替 . こ マルダー ( T ) 、フィアット 6616M ( T ) 20 デュアル・ベル 261 81 . 5 800 ー 1000 2000 工リコン KAD - 日 ( HS820 ) SPZ12-3(T) 、コマンド V150 ( T ) 20 256.5 57 1000 工リコン KAA(204GK) 20 ′く第レト 87 1000 ヒラー・ 工リコン KA 日 -0 田 (5TG) Pz61(C) 20 8 発ポックス / 50 発ドラム 109 1000 ZU-23 23 ′く′レト 255.5 75 800 ー 1000 工リコン KBA ・日 25 デュアル・ベルト切替 . こ トルナード ( T) 280.5 108 570 XM242 チェインガン 25 1 / 100 / 200 / 550 XM2/3(T) デュアル・ベルト切替え 274.5 95 .3 工リコン KCB 30 5 発クリップ X 8 個 357 136 600 ー 650 30 3 発クリッ -:rx 2 個 フォックス (T) 、シミタ—(T) 296 95.3 90 XM230 チェインガン 30 攻撃へリコプター用 ( AH -64 ) ・ヾ′レト 160 40 1 ー 800 3000 工リコン KDE 35 デュアル・ベルト切替え 4000 ピラーニャ (T) 250 ( 注 1 ) / は発射阜可変を示す ( 注 2 ) P : ピントル・マウント、 C : 主武装と同軸、 T : ターレットあるいはキューボラ 口径 弾 給 くノレト く′レト ′く′レト のくルト ニャ ( T ) 2500 200 85

6. PANZER 1979年9月号

身で弾道の低伸する砲の意味 に使われるが , 実際には欧米 言葉として使われている。第 日本でいうカノン砲は榴 弾砲の手ごろさに押されてほ とんど消滅してしまっている ので , 現実にもこの区別は意 味を持たない。 だから , 自動キヤノンとは 日本語の「機関砲」にあたる 言葉と思っていただいてよ M60A 1 の 12.7 衂機銃。アメリカ戦車の標準的副武装だが , もはや威力不足は否定てきない い。「機関銃」と「機関砲」の 9.2 ん 9 の / くズーカ型の対空ミサイルで , 高度 45 ~ 1500 , 間の一線をどこで引くかは日本では問題たが一一例えば 距離 3600 以内の航空機を攻撃できる。また別の方法と 英語ではどちらも Gun である一一一一般には口径 0.5 イン して , 主砲から X M 712 カッパーヘッドのような対空用 チ ( 12. 7mm ) あたりで区切っているようだ。いずれにし の誘導砲弾を射ち出すことも不可能ではない。 ろ本稿で言及する口径 20E 以上の自動キヤノンは , 文句 しかし , S A— 7 やアメリカのスティンガーのような なく「機関砲」の部類に入ることになる。 歩兵携行の対空ミサイルは , 射手が肉眼で目標をとら 表は , 現在実用になっている代表的な自動キヤノンを え , 体をハッチから大きく乗り出して発射しなければな らず , 乗員のうち誰かが対空警戒と攻撃に専念する必要 , が出てくる。また主砲からの対空砲弾発射も仰角などの 関係でいろいろと問題がある上 , 先ほどと同じ弾薬搭載 量の配分の問題も生ずる。 やはり対空防禦に関しては「餅は餅屋」 , 専門の対空 部隊にまかせ , 戦車の副武装は自衛用に留めておいた方 がよいだろう。 副武装には何が適当か これまで述べてきた副武装の条件をまとめると , 次の ようになる。 ( 1 ) 歩兵 , 軽車輛に対して 3000 川以上の距離から攻撃 できる 主砲と同軸の 7.62 。近接戦専用の対歩兵用武装である ( 2 ) 航空機の攻撃から身を守れる まとめたもので , 比較のために現用の戦車の副武装に使 さらにまた , 岡田氏の記事にもあったように , A T M われている小口径自動火器 ( 機関銃 ) もいくつか加えて に攻撃された場合 , 戦車は回避運動を行わなければなら ある。 ない。 この表からもわかるとおり , 自動キヤノンはすでに A すなわち , P C や M I C V の主武装として広く使われ , したがって ( 3 ) 行進間の射撃が可能である。 そのマウントや使用法なども多く開発されている。しか ことも条件のひとつになる。また , 対人用には HE , し MBT でこの種の兵器を持っているのは AMX30 ( 後 対空用には HE あるいは AP , 対軽装甲車輛用には AP 期型 ) と Pz61 のみで , しかも Pz61 は Pz68 に発展する と , 目標によって弾種を使い分けられることが望ましい さいにはこの副武装を落としてしまった。 から , これらの自動キヤノンは , かっての機関砲のイメージ ( 4 ) 複数の弾種を切り替えて射撃できる からは考えられないほどコムパクトでスマートになり , ことも必要である。 とり扱いも容易になっている。ほとんどは A P C /M I 以上のような条件を満たす兵器に , 口径 20 ~ 35 級の CV のキューボラ装備を前提とし , 車内へ突き出るレシ 自動キヤノンがある。キヤノン ( カノン砲 ) という単語 一部を極力小型化し , また打殼薬莢を車外に排出す は , 日本では榴弾砲 ( ハウィッァー ) と区別して , 長砲 るようになっているものも多い。 86

7. PANZER 1979年9月号

攻撃の開始はおそくとも 23 日以前とされたが , 当時すで ジの戦い」といわれている有名な作戦で , ドイツ軍が戦 に第 3 軍の各部隊は . 司令官の GO サインがあればすぐ 略単位の人部隊を動かした最後の作戦であった。 その兵力は , ヴァルク - ー・モーデル元剖に指揮された 出動できるように準を整えていた。 パットン中将は全軍に反撃命令第 1 号を発 E 軍集団で , 第 5 機甲軍 ( フォン・マントイフェル大 12 月 22 日 , 令し , 第 5 , 26 , 35 , 80 歩兵師団および第 4 , 6 装甲師 将 ) , 第 6 s s 機甲軍 ( ゼップディートリヒ亠級大将 ) , 団はェヒテルナハーアールロンから進撃中のドイツ第 7 第 7 軍 ( プランデンベルガー大将 ) からなり , 機甲 9 コ 師団 , 装甲擲弾兵 2 コ師団 , 歩兵 12 コ師団の計 23 コ師団 軍および第 5 機甲軍の側面に攻撃を開始した。 ガッフィ少将の第 4 装甲師団は , , くストーニュに包囲 が所属していた。 されている第 101 空提師団と第 10 装甲師団の部隊を救出 B 軍集団は , アメリカ第 1 軍の正面 80 にわたる戦線 する任務が与えられ , 師団全力でショーモンに進出し , に猛烈な準備射撃を行った後 , 機甲師団を先頭に攻撃を R 戦闘団 ( ェイプラムズ中佐ー後のベトナム派遣軍司令 開始した。 ュに突 このため , 第 12 軍集団司令部は第 3 軍に対しザール 官 ) がドイツ軍の反撃を撃退しながらバストー 入して , 包囲された部隊と違絡をつけることに成功した。 進攻作戦を中止してドイツ軍の攻撃を阻止するため , ま す第 10 装甲師団を北に転進させるよう指示した。これに その後 , アルデンス森林地帯における戦闘は 1 月 29 日 対してパットン中将は , ザール作戦の中止を軍に指示す まで続いたが , この戦いでドイツ軍は攻撃開始時のに るとともに , 幕僚にアルデンヌ方面のドイツ軍に対する 相当する 10 万名の兵員と , 戦車 890 輛および航空機 1000 反撃作戦の準備をさせて , ベルダンで開かれた連合軍の 機を失って , 西部におけるドイツ軍の戦力はその後つい 司令官会議に出頭した。 に回復できなかった。そして , このことが , その後の連 連合軍最高司令官アイゼンハワー大将 ( 12 月 20 日に元 合軍の進撃を容易にする原因となった。 帥に昇進 ) から , 第 3 軍はルクセンフ・ルクに進出し , 少 第 3 軍の戦闘日誌には , 戦史上まれにみる迅速果敢 くとも 6 コ師団で強力な反撃を行うよう命令を受けた。 な方向転換により , 大部隊を短期間に展開させてドイツ 1944 年 8 月 1 日 ~ 1945 年 5 月 9 日 第 97 歩兵師団 トライデント 第 99 歩兵師団 第 4 歩兵師団 プレークスルー 1945 年 4 月 15 日一同年 4 月 28 日 1945 年 5 月 6 日一同年 5 月 9 日 1945 年 4 月 19 日一同年 5 月 9 日 1944 年 8 月 1 日一 1945 年 4 月 9 日 1945 年 4 月 17 日一同年 4 月 22 日 1945 年 4 月 30 日一同年 5 月 9 日 1944 年 8 月 1 日一同年 8 月 24 日 1944 年 8 月 1 日一同年 9 月 5 日 1944 年 9 月 16 日一 1945 年 3 月 8 日 1945 年 3 月 23 日一同年 4 月 22 日 1944 年 8 月 5 日一同年 9 月 20 日 1945 年 1 月 12 日一同年 2 月 1 日 1944 年 12 月 20 日一同年 12 月 30 日 1945 年 5 月 6 日一同年 5 月 9 日 1944 年 10 月 10 日一 1945 年 1 月 25 日 1945 年 2 月 10 日一同年 3 月 23 日 1944 年 12 月 23 日一 1945 年 5 月 9 日 1945 年 3 月 17 日一同年 3 月 24 日 1945 年 4 月 8 日一同年 4 月 10 日 1945 年 4 月 21 日一同年 5 月 9 日 1945 年 4 月 23 日一同年 5 月 9 日 1945 年 4 月 17 日一同年 5 月 9 日 1945 年 4 月 19 日一同年 4 月 25 日 1945 年 1 月 1 日一同年 2 月 10 日 1944 年 12 月 17 日一 1945 年 1 月 20 日 1944 年 8 月 1 日一同年 8 月 24 日 1944 年 8 月 29 日一同年 9 月 29 日 第 5 装甲師団 ビクトリー 第 6 装甲師団 スーノヾー・シックス 第 7 装甲師団 ラッキー・セプンズ 第 8 装甲師団 アイアン・スネーク 第 9 装甲師団 ファンタム 甲 第 10 装甲師団 タイが一 第 11 装甲師団 サンダーポルト 第 12 装甲師団 ヘルキャット 第 13 装甲師団 プラック・キャット 甲 第 14 装甲師団 リべレイター 第 16 装甲師団 第 20 装甲師団 第 17 空挺師団 サンダー・ファームへヴン 第 101 空挺師団 スクリーミング・イーグル フランス第 2 装甲師団 47

8. PANZER 1979年9月号

といえば「毛並みのよいイギリス産の競走馬」の代名詞 な動物におびえ , たちまち御者のいうことを聞かなくな だが , 当時の原産の馬は貧弱だったのである。 る。たった 1 匹の象がシーザーを勝利に導いたのであ さて前回の失敗にかんがみ , シーザーは騎兵隊も 2000 る / 。 騎ほどっれ , 第 6 , 7 , 11 , 12 軍団 ( 22 , 000 名 ) という このときのフ・リトン軍の戦車は 2 頭立てであり , 車体 大兵力だった。上陸は無事におわったけれど , 台風のた は大きく , 御者以外に 6 人も乗ったという。 6 人はチー めに船の修理が必要だった。 ムを編成して戦車から飛降りて戦い , その間御者は戦車 他方 , フ・リタニア各地の蛮族は団結してローマ軍にあ を U ターンさせておき , 危なくなったらいつでも退却で たる。多くの酋長 ( チーフテン ) の中でもいちばん人望 きるよう用意して待っているわけだ。これは中国やオリ のあるのは , テームズ川の北に住むカシヘラヌスだっ ェントで用いられてきた戦車 = チャリオットとやや概念 た。カシヘラヌスは全英軍の総司令官に祭り上げられ , が異り , 歩兵用の戦闘車 ( 戦闘兵車 , M I C V) の先駆 テームズ河畔で戦車と騎兵でローマ軍を奇襲してきた。 をなすものといえよう。すぐに退却できるように 皮の上着を着 , 楯と槍とを持ったフ・リタニアの戦車兵は ろを向いて待っている点がややこつけいだが , 後部に操 いっせいにトキの声を上げ る。従来は得意のゲリラ戦法 を愛用してきたのだが , 今回 だけは正攻法の大軍団による 突撃を敢行したのだ。 ローマ歩兵の大集団もすか さず反撃にでる。たまたまロ ーマ軍の先頭に 1 匹の象がい た。もうこのころ , ローマ兵 は象をクレーン車や射撃台と して自由にこなしていたので ある。だが北方系のフ・リトン 人は象などみたことがない。 「あれは何だ / 」 だが人間以上に敏感なのは 戦車を引く馬だった。神経質 な「戦車のエンジン」は奇妙 ロンドン , テームズ川のほとリに立っケルト族の戦車の齣像 96 ヴァチカン博物 館におかれた古 代ローマの 2 頭 立戦車。かざリ たてたパレード 用の戦車である

9. PANZER 1979年9月号

ー 80 年代戦車のめざすもの ( 4 ) : 副武装 ・一臧にう ~ 対読する ' か ? What Type of Secondary Weapon Needed ? 了里木 ~ 意 対戦車ミサイルにとう対抗するか かっては , 戦車に対抗できるのは戦車だけという時代 があった。その時代には , 戦車の武装は敵の戦車を撃破 できる砲のことだけを考えていれば , あとは弾丸の選択 だけで他の目標にもこと足りたのである。 しかし現在では 2 つの新たな脅威ーー航空機 ( 攻撃へ リフフ。ターを含む ) と対戦車ミサイル (ATM) が 大きく立ちはだかっている。戦車は敵戦車の他に , これ らに対抗する手段をも持たなければならない。 もちろんこの問題は戦車だけで解決できることではな く , 機甲部隊全体の装備 , 編成 , 用兵などの視野で考え なければならないことである。例えば , 戦車部隊への装 甲歩兵部隊 , 対空砲・ミサイル部隊の編入などが一案で あろう。しかし戦闘兵車や対空砲車輛 , 対空ミサイル車 輛との協同運用を図っても , 戦車だけが孤立する場面 , 戦車だけが突出して使われる場面は常に考えられる。戦 車の対空・対 ATM 防禦を , 他の車輛に全面的にまかせ るわけには行かない。 ATM の防禦については , 本誌 78 年 12 月号で , 岡田光 也氏がアメリカ陸軍 TRADOC ( 訓練教義司令部 ) 0 教本を紹介している。この記事の結論 , すなわち戦車は さまざまな手段により A T M に対抗し得るということに は , 全く賛成である。 この記事に示された対抗手段のひとつに , 主砲から 0 HE 弾発射による ATM 陣地の攻撃がある。同様に主石包 からフレシェット弾を発射することも有効であろう。ア レシェット弾とは , 釘のような形をした小さな弾丸を多 数束ねた砲弾で , 砲口を出るとシャワーのように飛び故 る。いわば戦車砲のショットガン化である。 しかし岡田氏も指摘しているように , 主砲による A T M 陣地の制圧は , 敵の戦車に不意を襲われたときに対抗 する手段がなくなるという問題を生ずる。また弾薬の 載数は限られているので , この種の砲弾を積むことはそ の分対戦車用の砲弾を減少させることになる。もっとも これらの問題は対人 , 対装甲双方に使える HE SH ( (P), あるいは MP ( 多用途 ) 弾を使うことで解消で きるが 歩兵の携行する対戦車ミサイルに加えて , 戦車はヘリコプターの襲撃からも身を守らなければならなくなった

10. PANZER 1979年9月号

銃塔にはラインメタル製 20 機関砲、 MG3 7.62 機銃、スモーク・ディスチャージャー、赤外線投 光器などが集中装備されている。車体前部には渡河用トリムペーンがたたまれているのがみえる 強力な武装を兼ね備えた装輪式の装甲偵察車である。 に代わる新型の装甲偵察車として、経済的で整備性がよ れらの装輪式装甲偵察車は、どれも水陸両用性を備えた く、高い機動力を持っ 4 x 4 、 6 x 6 、 8 x 8 の駆動方 高い機動力、火力、装甲防護力を誇り、 NBC 防護もしゅ 式で水陸両用、多用途の装輪式装甲車系列の開発を計画 うぶんに考慮されている。代表的なものにはフランスの した。翌 65 年の末、国防省国防技術調達局 (BWB) は、 A M X 10 R C ( 105mm 砲 ) 、イキ・リスのフォックス ( 30mm 新型装輪式装甲偵察車の開発を、西ドイツの 2 つの会社 、ハンガリーの FUG70 ( 14.5mm 機関銃 ) 、イタリア グループに指令した のフィアット /OTO メララ 6616 M ( 40 mm 砲 ) 、ソ連の この 2 っとは、タ、、イムラー・べンツ社と、アウグスプ BRDM 2 ( 14. 5mm 機関銃 ) などがあるか、なかでも最も ニュルンベルク機械製作会社 ( MAN) 、クルツッ ュニークな車輛か西ドイツの装甲偵察車 2 掣、ルックス クナー・フンポルト・ドイツ社 ( KHD) 、クルップ社、 である。 ビュッシンク社、ラインシュタール社の共同企業体で、 BWB は両グループと、 16 カ月間で新型車を軍当局に引き 開発経過 渡すことを条件に、開発契約を結んだ 1964 年、国防省は機甲、機甲歩兵、歩兵、山岳兵師団 1967 年 ~ 68 年の間に、両グループは 8 輪駆動方式の装 に配属されている機甲偵察大隊の主装備だった 85 口径 20 甲偵察車を試作し、試作車はミュンスターの第 2 戦闘部 mm 機関砲 HSS820 装備の SPZII ー 2 装甲偵察車 ( 全装軌式 ) 隊学校におかれた第 9 機甲教導旅団第 11 機甲偵察教導大 Thyssen-HenscheI