なんだかめまいがしてきた。頭の中がからっぽだ、おかし、 し、ふだん心理療法のあいだは、吐き出 したいことが山ほどあるのに。夢 : : : 記憶・ : ・ : 連想 : : : 悩み : : : でもいまの私は孤独で空虚だ。 鈍感なストラウスだけが枕もとで息をしている。 「変な感じです」私は言った。 「話してみたらどうだ ? 」 おお、なんという才気、なんという鋭敏さ , いったい私はこんなところで何をしている、連想を 天井の小さな穴と治療者の大きな穴に吸いこませているなんて ? 「話したいのかどうか」私は言った。「きようはいつになくあなたに敵意を感じるそれからいま考 えたことを彼に話した。 見えなくとも彼がうなずいているのがわかる。 「説明しがたいんですが私は言った。 「こんな感じは前にも一、一一度ある、ちょうど気を失う前だ めまい : なにもかも張りつめて : : : それなのに体は冷たく、麻痺している : 「続けなさい彼の声には興奮のひびきがあった。「それから ? 」 「もう肉体か感じられない。 麻痺している。チャーリイがそばにいるような気がする。ぼくの眼は開 いているーーーそれはたしかだーーーそうでしよう ? 」 「ああ、ばっちり開いている」 「それなのに壁や天井から発する青白い光りかチカチカ光る球になっていくのが見える。それは宙に 浮いている。光りが : : ばくの眼にもぐりこんでくる : : : それからばくの脳髄へ : : : 部屋の中のあら ゆるものが光りを放っている : : : ふわふわ浮かんでいるような感じ : : : というよりまわりにむかって 膨張していくような : : : でも、下を見なくても、自分の体はまだ寝椅子の上にのっているのはわかっ
る透明なビニールのおおいの上に同じ間隔をおいて並べてある。二つのエンド・テープルの上には雑 ー・レヒー 誌が背表紙をこちらにむけてきちんと積まれている。ひとつのほうは、レポーター、サタデ ウス・ビューティフルとリータ ニューヨーカーの三冊。もうひとつには、マドモアゼルと、ハ ーズ・ダイジェスト。 ソフアの向かい側の壁には、凝った細工の額縁に入ったピカソの〈母子像〉の複製がかかっている。 その真向かい、つまりソフアの上の壁には、ルネッサンス風の絵がかかっている。仮面をつけ剣を持 った廷臣が、薔薇色の頬をした怯える乙女を護っている構図である。部屋全体が、ちぐはぐな感じが する。まるでアリスは、自分が何者なのかどんな世界に住みたいと思っているのか、きめかねている というようであった。 「この二、三日、研究室に来なかったわねー彼女はキッチンから声をかけた。「ニーマー教授が心配 してらしたわ」 「みんなに顔むけができなくて」と私は言った。 「なにも恥ずかしがる理由はないんだけれども、毎 日、仕事にも出ないでーーー店や窯や仲間たちに顔も合わせずにいるというのが、なんとも空虚な感じ でね。耐えがたいんだ。ゅうべもおとといの晩も、溺れる夢を見た」 彼女はコーヒー・テープルの真中に盆を置いたーーーナプキンはきちんと三角にたたまれ、クッキイ はきれいな円形に並べてある。「そうむずかしく考えてはいけないわ、チャーリイ。あなたにはもう 関係がないことですものね 「自分にそう一言いきかせてもだめなんだ。あのひとたちは これまでずっとーーーほくの家族だった。 なんだか自分の家からほうりだされたような感じなんだ」 「つまりそれよ」と彼女は言った。「これはあなたが幼児期に体験したもののシンポリックな反復な
うことは、私たちにはわかっていた 「彼女が必要だった」と私は言った。「彼女もぼくを必要とした、おたがい隣り同士ということで、 ぼくたちのあいだにあるもの 手近かだったというだけのことだ。けれどもあれを愛とは呼べない と同じものではない」 彼女は手を見つめながら眉をひそめた。「あたしたちのあいだに何があるのかしら」 「奥深い重要なものがあるから、ほくの中にいるチャーリイは、ぼくかきみを抱きそうになると、恐 怖に駆られてしまうんだ」 「彼女のときは、そうならないの ? 」 私は肩をすくめた。 「だからこそ彼女との関係はそれほど重要なものじゃないことがわかるんだ。 チャーリイかハニックにおそわれるほどのものじゃないんだ」 「たいしたものね ! 」と彼女は笑いながら言った。「それになんて皮肉。あなたが彼女のことをそん なふうに言うと、あたしたちの邪魔をする彼が憎いわ。いまに彼が、あなたに : : : あたしたちにさせ てくれるのかしら : 「わからないな。そう望んでいるが」 彼女とは戸口で別れた。私たちは握手をしたが、不思議なことに、それは抱擁よりもはるかに親密 な感じかした。 帰宅してフェイと愛しあったが、アリスのことばかり考えていた。 七月一一十七日ーーー昼夜兼行で仕事をしている。フェイの反対を押しきって研究室に寝台を持ちこん 彼女は独占欲がいっそう烈しくなり、私の仕事を敵視している。相手が女なら我慢もしようが、 24 )
「ぼく。きみが帰ってくるのを待ってたんだよ」 彼女は体を引いた。「あら、ちょっと待ってよ、チャーリイ君。この前、もうやってみたじゃない。 だめだってことかわかってるじゃよい。 あたしはね、あんたを高くかってる、チャンスがありやすぐ にで、もべッドに 引っぱりこんじゃいたいと思ってるの。でも骨折り損のくたびれもうけはいや。公平 じゃよいもん、チャーリイ」 「今晩は違うよ。誓っていい」抗うすきを与えずに抱きしめ、接吻し、愛撫し、私を裂こうと湧きあ がってくる昻ぶりで彼女を圧倒した。プラジャーのかぎホックをはずそうとしたが、強く引っぱりす ぎてホックがとれてしまった。 「だめだったら、チャーリイ、プラジャ 「プラジャーの心配なんかするな 私は手を貸しながら息を詰まらせた。「新しいのを買ってや る。いっかの埋めあわせをしてやる。今夜は一晩じゅうかわいがっちゃうぞ 彼女は体を引いた。「チャーリイ、そんな喋り方をするあんたってはじめて。あたしを丸呑みしそ うな顔して見ないで」椅子にかけてあったプラウスを引きよせて胸もとにあてる。「丸裸にされたみ たいな感じ」 「きみとやりたい。 今晩はやれる。わかるよ : : : 感じるんだ。逃げないでくれ、フェイ」 「さあ、もう一杯飲んで」と彼女はささやく。 私はグラスを取り、彼女にも注いでやった。彼女が飮むあいだ、その肩ゃうなじにキスを浴びせる。 興奮が彼女にも伝わって、息遣いか荒くなる。 「ねえ、チャーリイ、あたしをその気にさせといて、またできなかったら、あたし、どうしたらいいリ のよ。あたしだって人間だもんね」
るお医者さまのところへ行くのよ」 帽子のべールはまるで、彼を金網ごしにのぞきこんでいるような感じだ。彼らがこんなふうに外出 着に着がえると、彼は怖くてたまらない、なぜかというとそういうときは、よそのひとに会わなけれ こ怒りだすにきまっているからだ。 ばいけないときで、ママはきっと気違いみたい ( ・伎は逃ヂ」しこ、ゞ、 ( オオし力とこに、も何くところかない。 「なぜそんなことを言う必要があるんだ ? とマットが言う。 「だってほんとうのことですもの。ガリノ先生は直してくださいますよ マットは、あきらめてはいても最後にもう一度説得を試みようというのか、部屋のなかを往ったり 来たりしている。「どうしてわかるんだ ? その男の何を知っている ? もし打つ手があるのなら、 他の医者たちがとっくに教えてくれているはずじゃない ) 「そんなこと言わないでよーと彼女はわめく。「打つ手がないなんて言わないで」彼女はチャーリイ をまえてその頭を胸に押しつける。「この子は正常になるわ、どんなにお金がかかっても、どんな 苦労をしたって」 「金で買えるもんじゃないんだ」 「あたしは、チャーリイのことを言ってるのよ。あなたの息子よ : : : たったひとりの」彼女はチャー リイを左右にゆさぶる、ヒステリーが起きかけている。「そんな話は聞きたくない。あの連中は知ら ないのよ、だから打つ手がないなんていうのよ。ガリノ先生はあたしにちゃんと説明してくだすった わ。あの連中は、ガリノ先生の発明を後援しようとはしないんだって、そんなことしたら、あの連中 か間違ってたことかわかっちゃうからよ。。ハスツーレゝ ノとカシェニングズとか、ああいう科学者が同じ 7 目にあったじゃないの。おえらい医者たちは進歩ってものを恐れているんだって、先生はおっしやっ
「ほっといてくれ。ぼくはもうぼくじゃないんだ。ぼくはばらばらに崩れていくんだ、だからきみに ここにいてもらいたくないんだ」 それは彼女を泣きださせた。その日の午後彼女は荷造りして出ていった。ア。ハートの部屋は静かに なって、がらんとした感じがする。 十月一一十五日ーー退化進行。タイプライターの使用をあきらめた。総合作用が非常に衰えている。 これからはこの報土ロも手書きにしなければならないだろう。 アリスがいったことをよく考えてみた。するとこんな考えがうかんだ、もしこのまま新しいものを 読んだり学んだりしていったら、たとえ古いものは忘れていっても、わずかな知能でも引きとめてお けるか、もしれない。 ぼくはいまくだりのエスカレーターに乗っている。そのままじっと立っていれば、 一番下まで行ってしまうが、もし上へ上へと駈けあがっていれは、少なくとも同じ場所にいることは できる。大切なことは、どんなことが起ころうと、上へむかって走りつづけることだ。 そこでぼくは図書館へ行って読む本をたくさん借りてきた。いま本をたくさん読んでいる。たいて いの本がむずかしすぎるが、それでもかまわない。本を読んでいるかぎり新しいことをおぼえるし、 本の読み方だって忘れない。それが一番大切なことだ。読書をつづけていれば、持ちこたえられるか 、もしれよい。 アリスか出ていった次の日にストラウス博士がやってきた、きっと彼女がほくのことを話したのだ ろう。彼は、欲しいものは経過報告だけだというような顔をしていたけれども、報告ならこっちから 送るといってやった。彼にここへ来てもらいたくない。、 ほくのことは心配いらない、自分のめんどう 9 がみられないことかわかったら、汽車に乗ってワレンへ行くからといった。
十月十八日ーー最近学んだことを忘れていく。典型的な。ハターンを踏んでいるようだ、最後に学ん だことを最初に忘れるという。それともあれはじっさいに。ハターンといえるものなのか ? もう一度 しらべたほうがいい。 アルジャーノン・ゴードン効果に関するほくの論文を再読、自分がそれを書いたのだということは わかっているのだけれども、だれか他の人間が書いたのだという感じがしてならない。 大部分、理解 すらできない。 でもどうしてこんなにいらいらしているのか ? アリスかこんなによくしてくれるというのに ? 彼女は部屋をいつもきちんときれいにしておいてくれ、ぼくのものを片づけたり皿を洗ったり床を磨 いたりしている。けさみたいに彼女をどなったりしてはいけよい、泣かせたりしたくなかったのに、 泣かせてしまったから。でも彼女はこわれたレコードや破いた楽譜や本をかきあつめて、きちんと箱 に詰めこんだりしてはいけなかったのだ。それでばくはかっとしたのだ。ああいうものにはなにも手 を触れてもらいたくない。ああいうものはそこに積みあげておきたいのだ。それで、ぼくが後に何を 残してきたかということを思いたさせてもらいたいのだ。ばくは箱をけとばし、中のものを床にばら まいて、元どおりにしておけと彼女をどなった。 おろかしい。そんなことをする理由はない。 ほくがしやくにさわったのは、彼女が、こんなものを とっておくのはばかげていると考えていながら、そう思っていることを口に出さないからだとおもう。 ごくあたりまえのことだというようなふりをしている。彼女はばくをうまくあしらっている。あの箱 を見たときおもいだした、ワレンのあの少年と彼がこしらえた不細工なスタンドと、素晴しくもない のに素晴しいものをこしらえたというふりをして彼をほめてあげたことをおもいだした。 彼女がしていることはそれと同じで、ばくにはそれがかまんならない。 304
、、、チャーリイの膝にそれを投げてよこし、そしてびつこを 「それとジンピイはつつけんどんにしし ひきひき行ってしまう : こんなことはこれまで一度も考えなかったが、彼のあの行為はりつばだ。なぜ彼はくれたのか ? ともあれこれは当時の記憶で、ぼくかこれまで経験したなによりも鮮明で完璧だ。明け方、空が白み はじめたころ台所の窓から外をのぞくみたいだ。あれ以来ぼくは長い道のりを歩んできたが、これも みんなストラウス博士やニーマー教授、そしてビークマンの人々のおかげだ。しかしフランクやジン ピイは、ばくの変わり方を見てどう感じ、どう考えているのだろうか ? 敵意を感じ 。ハン屋の人たちは変わってしまった。ぼくを無視するだけではない。 四月一一十一一日 る。ドナーは製バン組合に加入するようにはからってくれ、新たに昇給もした。やりきれないのは、 みんながぼくに腹を立てているために前のように楽しみがなくなったことである。彼らをいちかいに ぼくの身になにが起こったか彼らには理解できないのだし、ぼくも話すわけには、 非難はできない。 少しも。 みんなは、ぼくか期待していたようにぼくを誇りにおもってはくれない 、カオし しかし話し相手は必要だ。明日の晩、昇給のお祝いにキニアン先生を映画にさそうつもりである。 勇気をふるいおこせたらであるが。 ニーマー教授はストラウス博士とばくの意見についに同意をあたえた。つまり、 四月一一十四日 書いたものが研究室の人たちにすぐ読まれることがわか「ていては、すべてを書きしるすことが不可 能になるだろうということだ。これまでは、だれのことを記そうと、洗いざらい忠実に書くように努
どうしたらよいかどこへ逃げればよいかわからない。彼女が体をこすりつけてくるので妙な感じが した。みんながげらげら笑っている。とっぜんぼくは裸にされたような気がした。みんなに見られな しようにどこかに隠れたい。 ぼ / 、はアバートか , ら逃げ - だす % 大去」なアバート で廊下がたくさんあって 階段へ出る道がわからなかった。エレベーターのことはすっかり忘れていた。それから階段が見つか ったので通りへ逃げだしてしばらく歩いてから自分のア。ハートに帰った。ジョウやフランクたちかほ くを連れあるいたのはぼくを笑いものにするためだったなんてちっとも知らなかった。 みんなが「チャーリイ・ゴードンそこのけっていうときどういう意味でいっているのかようやく わかった。 ぼ / 、はは【す - 、かーレい それからもうひとつ。エレンという女がぼくとダンスをして体をこすりつけてきた夢を見て目がさ めてみたらシーツがぬれて汚れていた。 四月十三日ーーーまだバン屋の仕事には戻らない。 下宿のおばさんのミセス・フリンにドナーさんに 電話して気分が悪いと伝えてくださいとたのんだ。ミセス・フリンは近頃まるで怖いものを見るよう にぼくを見る。 みんながばくを笑っていたことがわかってよかったと思う。このことをよく考えてみた。それはぼ くがとてもばかで自分がばかなことをしているのもわからなかったからだろう。ひとはばかな人間が みんなと同じようにできないとおかしいとおもうのだろう。 とにかく自分が毎日少しずつりこうになっていくのがわかる。ぼくは句読点も知っている、字も上 手になった。むずかしい一一 = ロ葉は辞書でひいて覚える。それからこの経過報告もていねいに書くつもり
に浮かびあがっている。私はそれらをみんな呑みこんでしまいたいと思った。 、ヾージニアのニューポート・ニュ そう、と私は言った、ぼくはニューヨーク生まれです。いや ズには行ったことがありませんね。彼女はそこの出身で、そこで船員と結婚した、夫はいま航海に出 ていてもう一一年半も会ってない。 女はハンカチをねじったり、結び目をつくったりして、ときどきそれで顔ににじみでた汗を拭う。 池のほの暗い照りかえしでも、厚化粧しているのがわかるが、黒いまっすぐな髪を肩にたらしたとこ もっとも顔は腫れぼったくて、起きぬけというような感じがした。女は身の上 ろは魅力があった 話をしたがり、私は聞き手にまわった。 あたたかな家庭、教育、その他、富裕な造船業者が一人娘に与えうるもろもろを父親は与えてくれ だが寛容だけは別だった。船員と駈けおちした彼女を決して許そうとはしなかった。 丿ーとあたしの初夜はね」と女はささやいた。 話しながら私の手をとり肩に頭をのせた。「ゲー 「あたし、怯えてる処女だったのよ。だのにあのひと、ただ狂ったみたいになって。はじめに、あた しをぶったり、なぐったりしたわ。それから愛撫もしないでいきなりやったの。いっしょに寝たのは それが最初で最後よ。あたし、それつきりあのひとには指一本触れさせなかった」 手の震えで、私が驚いていることに気づいたのであろう。女の話はあまりにも強烈で生々しすぎた。 私の手が動くのを感じて、女は手をはなされてしまわないうちにどうしても話してしまわなければと で、もい , つよ , つに、、 しっそう強く握りしめた。それは彼女にとって重要なことだった。私はじっとして 掌から餌をついばむ小鳥の前にいるように。 「男が嫌いなわけじゃないのー彼女は目を見開いてあけすけに言った。「他の男となら寝たことある 9 わ。あのひとじゃなくて、他のひとなら大勢。たしかいの男は女にはとってもやさしいの。はじめは