ー 4 ケベック べ・サン・ポール展 クのあらゆる生態系を含む多様 海岸線にそってスイッチバック 示センター な生態系が生まれた。狭い地域 を繰り返すようになる。クードル 回 23 rue Ambroise- に多様な生態系が存在すること 島行きのフェリーが発着するサ Fafard が評価されて、ユネスコの世界 ン・ジョゼフはかって船造りの 6 引 8 / 43536 引 生物圏保留地に認定された。 町として知られていたが、今で はあちらこちらに古いスクーナ スクーナー博物館 べ・サン・ボール ーが打ち捨てられている。ここ 回 203 Chemin des (BAIE-SAINT-PAUL) がリゾート地として注目され始 Coudriers 芸術家の町として有名なべ・ めたのは 20 世紀の初めのこと お引 8 / 438-2626 サン・ボールに通ずる急な坂を で、エレガントな蒸気船でやっ 0 冬季は休館 9 $ 下りる前に、新しくできたシャル てきた裕福な上流階級の人々は ルヴォワ自然史センター ( ce 血 e シャトースタイルのホテル、リシ シャルルヴォワ博 ュリュー荘館 (Manoir Richelieu) や、 dIHist0ire Naturelle de Charlevoix 、 物館 418 / 435-6275 ) に寄っていこう。 ウィリアム・タフト米大統領のよ 回一 Chemin du Havre バルコニーからは海岸と高台 うに傾斜地に自ら建てた美しい 6 引 8 / 665-44 Ⅱ 月曜および 9 ~ 6 が一望でき、館内では、隕石の 別荘に滞在した。現代風のシャ 月休館 衝撃とその影響をはじめ、この ルルヴォワ博物館 ( Musée de 地域のユ二一クな地形と自然の Ch e 間ⅸ ) もある。 マルべ川峡谷地域 解説が展示されている。 マ丿レベ川峡谷の景観はカナダ 公園 美しい邸宅が立ち並ぶべ・サ 東部でもっとも壮大なものの一 回 Via Rte. 13 8 & Sainte-Aimée- ン・ポールの町は、じっくり時間 つに数えられている。 des-Lacs をかけて散策したい。 1992 年に 現在ではマルべ川峡谷地域公 建てられたユニークなべ・サ 園 (parc RégionaIdes Hautes-Gorges-de- ン・ボール展示センター ( cent 「 e la-Riviire-Malbaie) に指定され、未 diExposition de Baie-Saint-PauI) も - 見 舗装道路を 30km ほど進んだとこ の価値がある。 ろにある峡谷は、この一帯の多 クードル島 (jle-aux-coudres) は伝 様な植生を堪能するのに理想的 コート・ド・シャルル 統的な暮らしで知られ、 60 年代 な場所だ。保護地区の谷間には ヴォワで最も有名な シャトースタイルのホ ニレの大木がそびえ、標高 600m にはその様子をとらえた記録映 テル、リシュリュー荘 画がつくられた。全長 12km のこ 以上の高地には北極高山性植物 館は現在カジノにな の島は古くからスクーナーの製 が自生している。 っている 造で有名で、日常生活に欠かす ことのできなかった小型モータ ーボートに焦点をあてたスクー ナー博物館 ( Mu e les voitures d'Eau では、懐かしいスクーナー型帆 船に試乗できる。平穏と静寂を 求めてこの町を訪れる人も多 く、自転車でゆっくり散策する姿 をよく見かける。 べ・サン・ボールとリゾート地 のラ・マルべ、およびピック岬 ()a MaIbaie-Pointe-au-Pic) の間を結 ぶ、景色のよい 362 号線はやがて
歴史と文化 46 カナダの文化 1 8 世紀以来、カナダの文化には強い郷土愛がにじみでていた。この郷土への思いは、 やがて国家樹立という考えにたどり着く。フランスと英国というカナダ文化のニ大基調 が「郷土国家」のあり方を模索するようになった。 1 867 年の連邦結成によってこの国家意 識は明瞭な姿を現した。 おそらくカナダの現代的な人口構成にあ カナダの詩人たちはカナダ人としての るカナダのモザイク " と呼ばれる民族の 悩みを詩に歌い上げ、画家集団グルー 多様性が個性を育み、独自の文化を発達 プ・オブ・セブンは多様性に富んだカナダ させてきたのだ。現在のカナダ文化の特 の風景を感傷を排した画風で表現した。 色は、その多民族的な側面にある。中国 そこにみなきる郷土愛は、ルーシー・モー 出身のバレリーナやスリランカ出身の作 ド・モンゴメリーがプリンス・エドワード島 家が、英国文化の祭典であるストラトフォ の生活を描いた小説『赤毛のアン』にも息 ード・フェスティバルやフランス文化の祭 づいている。 典であるフェスティバル・デテに、カナダ 近年、カナダの芸術は高い評価を受け、 世界の注目を集めている。その秘密は、 を代表する芸術家として参加している。 一一口コ C ~ ー 1 匸スロ〕ロ〕ロー トト
歴史と文化 先住民の文化と言語 北極圏に暮らすイヌイットら、ファースト・ネーションズと呼ばれるカナダの先住民には さまざまな部族がいる。それぞれ独自の生活様式や言語をもち、その文化遺産は現代に まで伝えられている。 界の文化がイヌイットの間にも浸透し始め カナダの先住民の中で最も特色がある たのだ。 のは北極圏に住む人々だろう。最近まで 現在、イヌイットのほとんどは、第 2 次大 工スキモーと呼ばれてきたこれらの人々 戦中から戦後にかけてつくられた軍事基 は、現在ではイヌイットと呼ばれる。イヌ 地や、以前の毛皮交易所、布教用の拠点 イットとは、彼らの言語で「人」を意味し、 から発展した村落に暮らしている。今も 昔から、クジラやアサラシ、セイウチなど 土地の暮らしを愛し、狩猟やアザラシ狩 の海生哺乳類を捕獲して生計を立て、広 りに出かける者は多いが、生活の基盤は 大なツンドラを移動しながららしてき こうした村に置かれている。村では、衛星 た。だが第 2 次大戦から冷戦時代にかけて やテレビ、電話などの通信技術のおかげ 生活に変化が表れた。北極圏が戦略的に で、商業拠点から数千キロ離れていても、 重要性を帯びるようになって飛行場やレ 現代社会の楽しみをほとんど味わうこと ーダー基地が建設され、賃金労働など外
ナイアガラ滝 在は米国側 ) を建設した。 アメリカ独立戦争と米英戦争 の際は、この地域で多くの戦闘 が繰り広げられた。 1814 年に和平が成立すると、 カナダと米国はこの瀑布がかか える問題やその利用方法につい てじっくり考えられるようになっ た。この滝の存在は水運上の障 害になっていたが、 1825 年には ナイアガラ川の上流とハドソン 川を結ぶ工リー運河 ( p. 192 参照 ) が建設され、さらにナイアガラ 半島を横切ってエリー湖とオン タリオ湖を結ぶウェランド運河 ができたことで、この問題は克 服された。 この滝は、最初に発見された ときから観光客が後を絶たな い。 18 世紀末にはテーブル・ロ ックに粗末な宿屋が建てられた が、本格的に観光地化するのは 1 9 世紀初頭のことだ。 1870 年代に入ると、旅行客の ふところを狙ったけばけはしい みやげもの屋などが立ち並んだ が、委員会 ( 現在のナイアガラ公 園委員会の前身 ) が設けられ、 増える一方の観光客 ( 現在年間 1200 万人 ) に対応した。 展望塔や整備の行き届いたナ イアガラ・バークウェイ ( Niag kway ) に委員会の活動が紹介 されている。 一方、観光客めあてのあざと い商売人たちはナイアガラ・フ ォールス市まで後退し、新婚カ ップル用のホテルからドラキュ ラ城、驚異の美術館など、あの 手この手の客寄せの仕掛けを用 意している。 滝に向かって進む勇敢な霧の乙女号 は、ナイアガラ滝の永遠のシンポルだ
蔘す第安を 夏になると、カリブーの大群が北極のツンドラ地帯を移動する ヌナプート準州 (NUNAVUT) イヌイットが北極海沿岸に移住したのは 数千年前のことだが、現在ここに住んで いる人々は、約 4500 年前にべーリング海峡 を渡って来たチューレ人の子孫だ。北米 先住民のクリー族は、これらの人々を「エ スキモー」と名付けた。工スキモーとは " 生肉を食う人々 " という意味で、クリー族 は不快感を表すのにこの言葉を使った が、年月が経つにつれ、これは軽蔑の言 葉になった。今日では「イヌイット」という 言葉に置き換えられている。イヌイットと は、イヌクテイトット語で " 人々 " という意味 だ。この準州の誕生はイヌイットにとって 画期的な出来事で、彼らはついに先祖伝 来の土地の自治権を得た。荒々しくも美 しいこの地方には、イヌイットがその芸術 や工芸を育んできた集落が点在する。
プリンス・エドワード島のモン・カルメルにあるアカティア村には、大西洋沿岸に暮らすアカディア人の過去 こをで 1 , 0 を三気 第い阯叮冫、 . を物語る品々が展示されている の聖職者がつくるローマ・カトリック教会 しか持たなかった。 しかし、 19 世紀になるとアカディアは復 活した。 1847 年にヘンリー・ W ・ロングフェ ロー ( 180 川 882 ) がアカディア人の追放を物 語にした叙事詩「エヴァンジェリン』を発 表すると、アカディア人の存在が世界に知 れ渡った。アカディア人は投票権を得て、 19 世紀末までには民族旗 ( フランス三色旗 に聖母マリアの星 ) 、民族の祝日 ( 聖母マ リア被昇天の大祝日 ) 、民族賛歌 ( 「アウ ェ・マリア・ステラ』 ) が制定された。 ケベックと同様、 19 世紀初頭に 8500 人で あった人口は、現在、約 30 万人にまで急増 している。 20 世紀に入り、協同組合の設立 により経済格差は縮まり、政治への参画 は改善され、フランス語の使用も法制化 された。農業、漁業、林業から離れ管理職 や専門職へと進出するにつれ、カのある 中産階級も生まれた。 現在、アカディア人は大西洋沿岸全域 に分布している。アカディア人が最も多い 州はニューブランズウィック ( 州人口の 3 分 の l) で、特にセント・ジョン川の谷や「アカ ディア海岸」に集中している。モンクトン はフランス語文化の中心で、フランス語 で授業を行う大学やテレビ、ラジオの放 送局がある。アカディア人は、プリンス・ 工ドワード島西部やケープ・ブレトン島、 ノバスコシアの「フランス海岸」にも多く 住んでいる。 アカディア人とその波乱に富んだ歴史 について知りたければ、グラン・プレ国立 歴史公園 ( p. 80 を参照 ) を訪ねるといい。
大平原 222 ロワー・ガリー交易所国定史跡 ( Lower Fort Garry NationaIH istonc Site ) 1826 年、レッド川の氾濫で、レ 19 世紀そのままの生活を送る 213E2 回 ハイウェイ 9 号線 ッド川とアシニポイン川の合流 人々が住み、レッド・リウアー荷 で Winnipeg の北 32 点にあるフォート・ガリーが大き 車やヨーク・ボートの時代を再 km な被害を受けた。知事のジョー 現している。 お 204 / 785-6050 0 「 ジ・シンプソンは、洪水の被害を この交易所の中心は、高い天 204 / 785-60 月 ~ 5 月中旬は 受けにくい下流に本部を移して 井とべランダが特徴の、ビッグ・ 要塞と交易所を築き、さらにそ ハウスと呼ばれる優雅な石造り 9 こを中心に優雅な別荘地をつく の家だ。だが、この家はシンプ ろうと決意した。 ソンの計画通りに洗練された社 1 831 年、後にロワー・フォー 交界の中心にはならず、 1833 年、 ト・ガリーと呼ばれることにな シンプソンは英国に戻ってしま るこの交易所の建設が始まっ った。 た。現在は開拓時代のテーマパ 家の周囲には、毛皮の保管庫 ークとして保存・修復されてお など、交易所の運営に必要な実 り、当時の姿をとどめる建物に 用的な建物が並んでいる。 閉館 213 日 回 ハイウェ引 2 号 線で Steinbach の 北 この近代的なビジター・セン 場、農家が道沿いに集中する、 お 204 / 326-96 引 ターには、 1500 年の入植以降、メ その独特の街並みは、監督官の ① ~ 4 月は閉鎖 ノ派教徒がたどった苦難の歴史 設計に従って、孤立した農場が が展示されている。その背後に まはらに点在する大平原のたた 広がる 16h0 の敷地には、大平原 ずまいとは際立った違いがあ に点在したメノ派の村の - つが る。ます目にはいるのが、その 伝統的な農家の建 忠実に復元されている。 昔、移民が最初にこの土地に入 物がメノ派教徒伝統 村に移築された 家や教会、学校、店舗、作業 植した時に芝土で建てた、セム リンという急こしらえの家だ。 こうした家に代わって、やがてよ り頑丈な建物が登場した。その 代表的なものが、家と納屋を組 み合わせ、すべての部屋が暖ま るようにつくられた、ホッホフェ ルド・ハウスと呼ばれるレンガ 造りの大きな建物だ。 こうした家は、北海に面した 北方ヨーロッパのフリジア地方 で中世期に生まれたものだ。村 を見下ろす風車は、カナダでも ー基しかない、シュタインバッハ 式風車を復元したもの。 メノ派教徒伝統村 (Mennonite Heritage ViIIage) 図日 : 端 V 岫 MUSEUM ー : み洋毒
先住民の文化と言語 ができる。大きな町では、外部から頻繁 は、共通の拠り所を見つけて自らのアイデ にジェット機もやってくる。北極圏の村落 ンティティーを主張するようになってき を訪れる観光客は、伝統衣装に身を包ん た。教育の管理を連邦政府から取り戻し、 で雪上をスノーモービルで疾走するイヌ 自分たちの言語や文化を反映した学校を イットの老婆のような、伝統と現代文化の 設立することを狙いとした政治活動を繰 奇妙な混在を目にすることだろう。 り広けている。 先住民の多くは、過去の不当な扱いを ファースト・ネーションズ 正すには政治活動が最良の手段だと考え かってインディアンと呼ばれた人々を ている。とりわけ彼らが槍玉にあけるの はじめとする先住民たちは、現在 " ファー は、両親や共同体の悪影響から守るとい スト・ネーションズ " と呼ばれ、今も連邦イ う名目で子供たちを強制的に移住させた ンディアン法で管理されて不満を募らせ 寄宿学校制度である。 ている。民族は異なってもそれぞれ固有 の言語と文化を持っこれらの先住民たち カリブーの皮をかぶったイヌイットのハンターと犬 ぞり。凍てつくカナダ北部で見られる昔ながらの 風景だ 先住民の悩みと誇り 選出された部族の長で構成されるファ ースト・ネーションズ会議は、カナダの全 先住民の代弁機関を目指しており、その 主張は憲法をめぐる議論でも取り上げら れることが多くなってきた。カナダ全土に 2400 ほどある先住民保護区では、アルコー ルや薬物依存症、糖尿病などの病気、暴 力事件がまん延している。先住民を代表 する人々の多くはその原因が寄宿学校制 度の安易な導入にあると主張し、ファース ト・ネーションズ会議などが進める政治行 動の旗振り役を務めてきた。それでも多 くの先住民の集落では、高等教育を受け る若者が増えるなど、寄宿学校制度の成 果が徐々に現れてもいる。 多くの場合、先住民は政治問題に関し ては同じ主張を唱えるが、彼らの文化的 背景は実に多様で、そうした文化の多くは 居住地の資源を基盤としている。こうした 文化の違いは、 50 種余りの言語や芸術作 品を通じた表現手法にも反映している。 イヌイットのソープストーン彫りは、著名 な作家の作品なら高級ギャラリーで高値 で取引されるようになった。西海岸サリ シュ、ハイダクワキュトルなどの部族がつ くるトーテムボールなどの木彫りから、東 海岸の部族ミクマクのかこ編みまで、先 住民は作品を固有の文化の表現手段とし てだけでなく、商取引の重要な基盤とし ても活用しようとしている。
カナディアン ロッキ バンフの町 ことが分かり、駅は現在の位置 一気に 3 万人余りに膨れ上がる。 (Banff townsite に移されたが、定期運行の客車 バンフ国立公園を訪れる年間 243D2 はもう走っていない。反対にホ 400 万人のほとんどが、一度はこ テルの方は急速に名を上げ、増 こに滞在するからだ。観光設備 改築を重、今日ではバンフの が整い、雄大な山々を背に通り シンボルと賞賛され、城のよう を歩いたり、ショッピングをした な建物が華麗にそびえ立つ。 りしてゆったり過こせるが、この 町の本当の役割は、山々に見事 バンフの町 に整備された道路やトレイルの バンフへのメインルートは大 基点。カナダ公園局は詳細に情 カナダのシャト一様 平原を後にしてボウ川沿いを上 報を提供しており、国立公園の 式ホテルの原型とな るトランス・カナダ 1 号線。町の 旅の前にはせひ、ビジター・セ ったバンフ・スプリン 定住人口は 5000 人だが、夏には グス・ホテル ンターに立ち寄りたい。 246
サンド・アイランド・ドレッシング リー砦は、襲撃を受けて砲弾を サウサンド・アイラン ズを訪ねるセント・ロ 放ったことはないが、毎年夏に を考案したという。 ーレンス川クルーズ 行われる軍事バレードと車事演 現在は、週末になるとクルー ザーやカヌーでやって来る旅行 習時に放たれる号砲は、観光客 客でにきわう。このほか水上タ に人気がある。 クシーやキングストン発のクル ーズ ( Kingston 1 , 000 lsland Cruises 、 613 / 549-5544 ) もある。陸路を 行けば、サウザンド・アイラン キングストンからセント・ロー ス・パークウェイ (Thousand lslands レンス川を 60km ほど下ると、丿レ・ parkway) 付近の展望塔から、水上 ラック・デ・ミリルというフラン ス語名で知られるザ・レイク・オ の風景を楽しむこともできる。 ブ・ザ・サウザンド・アイランズ アッパー・カナダ・ヴィレッジ がある。その名の通り、この湖 (UPPER CANADA VILLAGE) には 1000 近い島が浮かんでい 現在のサウザンド・アイラン る。米英戦争時は、米兵がこれ ズ・バークウェイ周辺は、 18 世紀 らの島の中に潜み、セント・ロー 後半に王党派が定住した地域 レンス川を行き来する英国の輸 だ。アッパー・カナダ・ヴィレッジ 送隊を襲った。 は、当時の雰囲気そのままに復 緑豊かな可憐な島々は、もう 1 アッパー・カナダ・ 元された村だ。 世紀半もの間、人々の憩いの場 ヴィレッシ セント・ローレンス・シーウェ となってきた。最初にここを訪 (Upper canada イ計画による水没を逃れた 30 あ れた富裕な人々は、豪華なホテ ViIIage ルに滞在したり、瀟洒な別荘を まりの建物と、初期の素朴な住 7F2 回 モリスパーグか 居から煉瓦や石造の家が立ち並 建てた。とびきり贅沢であった ら 2 号線を東へ び、工場、学校、商店、教会、鍛 のが、ニューヨークのウォルドー 冶場、印刷所、居酒屋もある。 19 フ・アストリアホテルを所有する お 613 / 543-3704 オーストリア人が建てたボルト 世紀当時の服装をまとった人々 0 10 月中旬 ~ 5 月 城 (Boldt castle)o 彼のシェフが、 が、各所で作業の実演をしてい 中旬休み 3 この風景からヒントを得てサウ る。 サウザンド・アイランズ (THE THOUSANDISLANDS)