なかったら、『セックス・アンド・ザ・シテイ』はここまで文化的影響力を持つにいたっただ つつ , つか ? ・ 以下では、鍵となるポイントをいくつかあげて、『セックス・アンド・ザ・シテイ』とファ ッション記事との特殊な関係について見ていきます。それに際しては、現代のファッション記 事に大衆文化がどんな役割を果たしているか検証し、『セックス・アンド・ザ・シテイ』をイ ギリスのファッション・ライターがどんなふうに利用しているか具体的に見ていきます。そし この番組の持っ魅力を、より広範な文化的コ てそんなファッション紙誌の表現を手がかりに、 ンテクストに照らして考えていきましよう。 ファッション記事と大衆文化 ファッション記事は、文章として特殊化されたジャンルだと言われています。内容には一定 の義務が課せられているし、文章は特定の約束ごとに縛られているというのです。 以下では、ファッション記事が学問的にどのようにとらえられているかを簡単に見ていき、 現代のファッション記事の文体を形作るうえで、大衆文化がどんな役割を果たしているか検証 します。このようにして理論的背景をはっきりさせておくのは有益なことだと思います。文化 的産物の一形態として、ファッション紙誌をとらえなおすのに役に立つからです。 ファッションの学問的研究では、図や写真の方がそれに付随する文章よりも重視される傾向 があります。この分野の研究は近年大きく進展してきましたが ( アメリカとイギリスでは特に 世界で巻き起こる 『セックス・アンド・ ザ・シテイ』旋風 225
で自分をつまらない存在と思っていて、自分たちがどんな状況に置かれていようと気にして いないかのようだ。 これはかなり厳しい意見ですが、ファッション紙誌の役割に関する、非常に有益な問題提起 になっています。ファッション雑誌の文章が、ファッション・システムの現状を無批判に肯定 しがちだというのは、確かにそのとおりかもしれません。しかし、マクロビーが見落としてい ることがあります。果たして読者は、ファッション雑誌で「読みごたえのある」文章を読みた いと望んでいるのでしようか。 「ヴォーグ」の華麗な編集長たち レアード・ポレツリは、一九六八年から九三年までのアメリカ版「ヴォーグ」の記事を研究 していますが、ほかの研究者とは違って、個人の資質を重視した見方をしています。この期間 のアメリカ版「ヴォーグ」では、ファッション記事の内容と文体が変化していると言うのです が、その理由に関しては、連続する三代の編集長が、それぞれ非常に異なる個性の持ち主だっ たせいだとポレツリは考えているのです。 具体的に言うと、ダイアナ・ヴリーランド時代には「高級な」文化への言及が多く、グレー ス・ミラベラ時代には実用性が重視され、アンナ・ウイントウアー時代には「若さとトレンデ セレプリティ ィさ」がもてはやされて、有名人の話題が増えている、ということです。 Seventh Love 228
果的に活字の世界に持ち込まれることになります。 この番組が視聴者の望むライフスタイルを体現しているのは明らかですが、それがたえずフ アッション欄で取り上げられていることからわかるのは、その文化的価値は単に消費財の分野 にとどまらないとい , っことです。 ファッションは、ほとんどその定義として、「新しさ」の一つの形であると広く考えられて います。ファッション紙誌がいつまでもこの番組への関心を失わないのは、それを考えると不 思議な気もします。ファッション・メディアは、変化が速くて競争の激しい環境に置かれてい るのですから、いつまでも『セックス・アンド・ザ・シテイ』に肩入れしていれば、危険な行 為と見なされても仕方のないところです。それでも肩入れするからには、それだけ得られるも のが大きいに違いありません。 ファッション記事は取るに足りないもの ? ファッション記事は女性の大衆文化のごく一部にすぎないのに、それが頻繁に批判の対象に なるのは、社会が女生的なものをうさんくさいと思っているからです。 文化理論家のマージョリー・ファーガスンおよびジャニス・ウインシップが述べているよう 女性の大衆文化は昔から、取るに足りないくだらないものと見なされてきました。実際、 先に見たように、アンジェラ・マクロビーのようなフェミニズム理論家ですら、ファッション 記事の文章についてはほとんど見向きもしていません。 世界で巻き起こる 『セックス・アンド・ ザ・シテイ』旋風 247
取るに足りないと言われながら盛んに批判されるという、この逆説的に低いイメージを考え ると、ライターたちの気持ちもわかるような気がします。より価値の高い文化的産物との関係 をでっちあげることで、ファッション記事の評価を高めようとしているわけです。 フランスの社会学者ピエール・プルデューの言葉を借りるなら、文化的により高級とされる 分野の知識をひけらかすことによって、ファッション記者たちは自分の「文化的資本」を劇的 に増大させることができるのです。 何と言っても、『セックス・アンド・ザ・シテイ』は権威ある賞を受賞した番組ですから、 同じく O の人気番組『ザ・ソプラノズ』や『シックス・フィート・アンダー』と並んで、 イギリスでも情報に敏感な高級紙読者層には一目置かれています。そんな番組を引き合いに出 すことによって、その文章はファッションという取るに足りない世界のみに属するものではな くなり、それによって文化的な評価も高まるわけです。 しかし、ファッション記事はいささか気まぐれな報道ジャンルです。とすれば、『セック ス・アンド・ザ・シテイ』のファッション的な賞味期限も、あとどれぐらい残っているものか と考えすにはいられません。 シーズン 5 では、衣服への関心が以前より目立って薄れており、あまり物質的でない問題の 方へ比重が移っています。これは一つには、サラ・ジェシカと、ミランダ役のシンシアがどち ーや衣装を選ぶこと らも撮影中に妊娠中だったため、体形の変化が目立たないようなストーリ が必要だったせいかもしれません。また、二〇〇一年九月十一日以後の重苦しい雰囲気が脚本 Seventh Love 248
楽産業に関わる女性たちの名がしよっちゅう出てきて、やはり口カモラの主張が正しいことが わかるのです。一九九〇年代前半ごろから、俳優やミュージシャンの名がちらほら見られるよ うになるのですが、それ以降になるとこの傾向ははるかに強くなって、いまではセレプリティ の名が頻繁に、また露骨に利用されるようになっています。 頼りになる評価基準がほかに存在しないため、「ガーディアン」のファッション欄の方針は、 に極端に大きな影響を受けて 具体的に一一 = ロえば、おそらくはセレプリティ文化 大衆文化 いるように思われます。 なぜこんな変化が起きたか理解するには、女性誌市場というより広いコンテクストに照らし て考えるとよいでしよう。 イギリスの定評ある調査会社ミンテルの二〇〇〇年十月付の報告書では、「女性誌全般につ いて、九八年以降わずかながら無視しがたい売上減少が見られる。ただし、有名人の話題を扱 うゴシップ週刊誌のみは例外」とされています。新聞雑誌のファッション編集者が、この手の 報告に気づかないはずはありません。そして、競争が激しく変化の速い市場で生き残るために、 し′ ) う・ 読者の嗜好に合わせてファッション記事の内容やトーンを修正した、というのは大いにありそ うなことです。とすれば、写真主体の短い記事が多用されるようになったのも不思議はありま せん。女性誌市場で大きなシェアを占めるゴシップ誌では、そういう記事が中心になっている からです。 ここで取り上げた刊行物 ( 「ヴォーグ」と「ガーディアン」 ) はどちらもエリート志向であり、した 世界で巻き起こる 『セックス・アンド・ ザ・シテイ』旋風 231
る人も増えてきました。たった六、七年で人々の意識は驚くほど変化したのです。 それもこれも、『セックス・アンド・ザ・シテイ』のおかげです。 一九九八年に O がドラマ化した『セックス・アンド・ザ・シテイ』は、翌年のエミー賞にノミネー トされ、二〇〇〇年にはゴールデン・グローブ賞を受賞しました。それをきっかけに、二〇〇〇年の終わ りに O O での放映が決まりましたが、それでも日本では『セックス・アンド・ザ・シテイ』はマイ ナーなドラマでした。それがシーズンが進むうちに人気が出、評判が高くなり、、 しまでは若い方々を中心 に多くの人がこのドラマに夢中になっています。 では、このドラマの魅力はどんなところにあるのでしよう。多くの人がこのドラマにひきつけられるの はどうしてなのでしよう。ヒロインたちがおしゃれでカッコイイから ? ニューヨークの自由な雰囲気を 味わえるから ? それとも、男女の関係についてヒロインたちが本音で語る爽快感がたまらないから ? 本書 ( 原題『えき Sex and 、 ~ 00 』 ) では、アメリカでこのドラマが受け入れられた理由から、こ のドラマの見所、キャリー ミランダ、シャーロット、サマンサの四人の女性の生き方とセックス観、男 性とのつきあい方、ヒロインたちのファッションにいたるまで、ドラマの魅力をとても鋭く、それでいて 丁寧に説明しています。また、アメリカ文化やアメリカの人々の意識についてかなり突っ込んだ分析がお こなわれていて、アメリカを知るうえでとても参考になるはずです。 本文中ドラマに言及するときには、必ずシーズンとエピソードの数字が入っていますので、 Q > Q でそ の場面を確認しながら読むのも楽しいかもしれません。 いまやひとつの社会現象となった観のある『セックス・アンド・ザ・シテイ』ですが、その魅力を深く 知ればこのドラマがますますおもしろく感じられることでしよう。そして、読者の皆さん一人ひとりがこ 258
そうです ) 、にもかかわらず、ファッション記事の文章というテーマには大した関心が払われ ていません。そのため、ファッションの記述はよくて付け足し、へたをすれば無意味なものと いう認識が強化される結果になっています。何しろ、ファッションというテーマに積極的な関 心を持っている学者にさえ無視されているのですから。 学者の関心はいまも、衣服という実体の記号論的解釈に向いています。例えばディック・ヘ ( 『衣服の記号論』 】スタイルの意味するもの』未來社 ) や、アリソン・リュリー プディジ ( 『サプカルチャー 文化出版局 ) の研究がその例です。比較的最近に出たポール・ジョブリングの『、 & r きト ( ファッション記事の意 ) ですら、ファッションの文章についてはおざなりにしか扱っておらす、 学問的な関心はおもにファッション写真に向けられています。 このことが暗に示しているのは、ファッションの記述にはわざわざ取り上げるほどの価値は ない、新聞雑誌に掲載される「読み捨て」の文章はなおさらだ、ということです。 しかし、この学問的盲点となっているテーマを取り上げて、ファッションの文化的構造が形 成されるプロセスを解明しようとする研究も、まったくないわけではありません。有名なのが、 ロラン ・バルトの著作『モードの体系』 ( みすす書房 ) です。 バルトは、初版一九六七年のこの独創的な著作において、みずからの言う「書かれた衣装」 ( 「エル」や「ル・ジャルダン・デ・モード」などのフランスの雑誌で、ファッションの図や 写真に添えられている文章のこと ) を文字どおり脱構築し、一つの体系を定式化して、そのよ うな文章がどんな言語的規則に縛られているか説明しようとしました。 7 S eve nth Love 226
・レットの言葉 ) 。 まりフェミニズムのだ」 ( イギリスの作家キャシー 普通は fuck のこと アーストリッド・ ヘンリーは、フェミニズム運動の非政治化の影響で生じた不安について検証していま す。フェミニズムの第三の波をめぐる議論を手がかりに、『セックス・アンド・ザ・シテイ』は独身を選 択する新たな現代女性像を描き出すとともに、女性の自立と性的アイデンティティの新たな表現形式を提 示している、と彼女は論じています。 次の寄稿者、アシュリー・ネルソンの主張は、この番組を批判する人々は、独身者および現代女性に関 する表現を十分に理解していないということです。文学に見える先例のほか、女性の生き方における最近 の社会・文化的な変化に照らして考えたとき、現代の独身女性にまつわるバラドックスを描くうえで、 『セックス・アンド・ザ・シテイ』は極めて説得的なのではないかとネルソンは述べます。 彼女はさらに進んで、決まった恋人や家族に期待するのは、そろそろ考え直した方がいいのではないか とまで言っています。ある女性ファンによれば、「「『セックス・アンド・ザ・シテイ』の女性たちが」言 ってることは、本当はみんなが思ってることなんじゃないかしら」。 ファッションと文化的アイテンティティ 「キャリー カっしを 、こ決まった恋人を見つけられるかどうか、みんなほんとに気にしているのだろうか」と エミーン・セイナー ( 二〇〇三年四月二日「イプニング・スタンダード」 ) 。 1 いに対する彼女の答えは 「実はあんまり」です。なぜなら「みんなが本当に知りたいのは、『セックス・アンド・ザ・シテイ』の 六番目にして最後のシーズンで、「彼女が〕何を着ているかということ」だから。 高級なデザイナーズプランドやオートクチュールのデザイナーたちが、この番組のおかげで有名になっ この日旧
最近の記事で大衆文化の比重が高まっているのを、ポレツリはウイントウアーの影響と見て いるわけです。しかし、ほかの研究者たちの論を見ると、どうもこの文化的傾向は、そんな個 人的な影響だけではとても説明しきれないように思います。 それを最もよく示しているのが、アニエス・ロカモラの研究です。彼女が研究対象にしたの は、フランスの高級紙「ル・モンド」とイギリスの高級紙「ガーディアン」のファッション記 事でした。 一年以上の期間に開かれた三十五のファッションショーについて、それをこの二紙がそれぞ れどのように報じたかをロカモラは分析しました。そしてそれによって、ファッションがどの ように記述され得るかを調べ、文化的判断基準が違うために、同じファッションから非常に異 なる文章表現が生まれていると述べています。「どちらの新聞も、ファッション面の構成は一 つの思想に基づいているが、その思想が異なっている。すなわち、『ガーディアン』紙ではフ アッションを大衆文化と見なし、『ル・モンド』紙では高級文化と見なしているのである」。 そしてさらに「ガーディアン」紙については、大衆文化の中でも独特の、いささかエリート 主義的な一形態としてファッションをとらえている、としています。つまり、「大衆文化につ いての特定の見方ーー大衆文化とは、伝統的に高級とされてきた文化領域のありがたみの破壊 を目指すものであり、それと同時にヒップなエリート主義と軽い遊び心をよしとするものだと いうーーーの正しさを示す」ものとしてファッションを記述しているというのです。 こま特によく当てはまります。 このファッション観は、『セックス・アンド・ザ・シテイ』し。 世界で巻き起こる 「セックス・アンド・ ザ・シテイ』旋風 229
そしてまた、ファッション記事は基本的に大衆文化の一形態であるとしても、個々の記事はか ならずしも本質的に一般大衆向けとは限らないという事実をはっきり示してもいます。 私自身、イギリスの三種類の刊行物を取り上げて、そこに出てくるファッション記事を研究 してきましたが、 やはり口カモラの主張は正しいと感じています。少なくともイギリスでは、 ファッション記事の文章に、しばしば大衆文化が重要な役割を果たしているのは間違いないと 思います。一九八〇年から二〇〇一年にかけて刊行された「ヴォーグ」、「ドレイバーズ・レ コード」 ( ファッション業界誌 ) 、「ガーディアン」のファッション記事を詳しく検証したところ、 使用される語彙や言及される文化に明確な傾向が認められました。 例えば「ヴォーグ」のファッション記事では、ときおり文学芸術分野の人物が引き合いに出 されることもあるものの、最近では「高級文化」への言及やデザイン主体の記事は減少傾向に あり、代わってセレプリティとその写真の扱いが大きくなってきています。 この傾向からわかるのは、ものごとを評価する基準が「高級文化」から「大衆文化」に移行 しているということです。それだけではなく、記事の内容とセレプリティのお墨付きと広告収 入、この三者がどのような関係にあるかということも、やはりこの傾向から読みとることがで きます。 影響力があるセレプリティ文化 同様のバターンは、「ガーディアン」紙のファッション記事にも見られます。大衆文化や娯 7 Seventh Love 230