きに、特定のストーリ ーがあることを考察しています。 それによると、このジャンルの典型的ヒーローは常に「 驚異的男らしさ」を特徴づけられて います。この徹底的なまでの男性性は、女性の奥にひそむ男根崇拝をほのめかしています。ラ ドウェイは「男の存在のあらゆる外見、肉体、顔、その物腰は純然たる雄性が特徴づけられて いる。男のすべては『固い』『角張った』『浅黒い』であらわされる」と述べ、さらにこの男 性の威力こそが、ヒロインの略奪されたいという願望をひきつけるのだともつけ加えています。 これはミルズ & プーンなどの小説によっても裏付けられています。ヒロイノよ虫☆ハーレクインと提携したイギリスの。マ 、。メンス小説の出版社 身生活からの救いを、彼女にロマンチックな愛の探索を手ほどきし、最終的には結婚してくれ るスー ー男性的な王子様に求めています。 そうした典型的幻想は相互に愛と性的清熱をかきたてます。男性側はしばしば感清的に硬直 しており、複雑で、完全な理想の男性に変身するために、ヒロインを必要としていることが多 いのです。 マンハッタンを女一人で楽しめる世界、愛とセックスが相いれない世界として描いているに もかかわらず、理想の男性の不在が『セックス・アンド・ザ・シテイ』のドラマを推進するカ となっているのは明らかです。 キャリーは友人たちをこの理想の恋人探しの旅に配置します。シャーロットは「どうしよう もなく口マンチスト」として紹介され、ミランダは「どうしようもなくシニカル」で、サマン サは理想の男性など幻想だと主張して譲りません。キャリーは女性を代表して次のように言い ビッグと ェイダン、 王子様はどっち ? 35
あまりにも自分をさらけだすことで、自分が「感清的な尻軽女」になっているのではないか とい , っキャリ ーの恐れは、実は彼女の引き寄せられる力、二人がロマンスに対して同じスタン スにあることをほのめかしています。つまり、どちらも愛に対して懐疑的で、共に傷つくこと を恐れているのです。 シーズン 5 は、「新たな恋の予感」の型破りな結婚式で、前途に期待を持たせながら終わり ます。ロマンチックなファンタジーの概念が揺らいでいくこのシーズンをとおして、キャリー やその女友だちはロマンスに対する考え方と、そこに登場する男性に対するこれまでの見方を 捨て去ります。 キャリーはシャーロットの「永遠の楽観主義」に賭けることにして、彼女が感じている「ビ ビッ」を全面的に受け入れることにするのです。そして果たせるかな、大かたの予想に反して、 彼女は、伝統的な誘惑者にも、救済者にもあてはまらないタイプである、何か「本当の」もの を見いだします。 そして結婚式でキャリーは「たぶん、私たちは最高の関係なんか求めずに、並の関係に落ち 着くべきなのかもしれない」とつぶやきます。それはとりもなおさず、理想の男性というもの を、彼女が定義する必要がなくなったことを意味しています。 キャリー が学んだ新しいファンタジー クラシックな恋人探しの幻想を解体することで『セックス・アンド・ザ・シテイ』は、ロマ ビッグと ェイダン、 王子様はどっち ? 63
いという欲求を可能にしてくれる存在です。キャリーはビッグと一緒にいるときは彼女の抱し ている典型的な幻想の一方をーーー情熱的な、セクシーな興奮にかきたてられたミルズ & プーン 風のファンタジーをーーー生きることができます。彼は決して突きとおすことのできない、だが 女たちがそれを変えてみせることを夢見ずにはいられない、難攻不落の男性です。 その一方でエイダンは力強く、彼が作る木の家具のようにがっしりと固く、感情的に近づき やすい男性です。彼は女性の欲求に忠実で、「結婚の誓い」で終わる救いを提供してくれる存 在でもあります。 キャリ ーのロマンチックな恋人探しが、これらの男性性の典型的なモデルに沿ったものであ る一方で、それがロマンスを終結させることなく継続させる、理想の恋人神話を解体している ことにもここでは注目したいと思います。 二人の男性はどちらも魅力的であると同時に限界のあるモデルを体現しています。キャリー はそのために彼女のファンタジーを再考し、常に自らに問い続けずにはいられません。「誰が 私の理想の男性なの ? 」と。 キャリーはミスター ・ビッグに対して、自分のセクシーなファンタジーをかきたてる一方で、 ェイダンには救いのファンタジーを求め、その結果として、永遠に相いれることのない逆説的 なジレンマにおちいってしまいます。 キャリー がしばしばミスター ・ビッグを、理想の男性としてこだわらずにはいられないのは、 彼女の終わることなきロマンス中毒が原因なのです。キャリ ーがシーズン 5 でしみじみと語る ビッグと 工イダン、 王子様はどっち ? 37
? ロマンスを求めてどこが悪い ます。「どうしてこんなにシニカルでなくちゃならないの 理想の男性をめぐる、この楽観主義と皮肉主義の生み出す緊張と、愛とロマンスは人生を賭 けるだけの価値があるかもしれないという期待感が、六つもの長きシーズンにわたってドラマ ーがいざ「気合いをいれて」「男のようにセックスす を存続させたのでしよう。そしてキャリ る」と決意した瞬間、彼女の原型的なファンタジーが目の前にあらわれるのです。それも大恋 愛を予想させるようなアルマーニのスーツ姿で。 誘惑する男と、誠実な男 『セックス・アンド・ザ・シテイ』には、常に張り合う二つのタイプの「理想の男性」が登場 ーの二人の男性に対するファンタジーをとおして語られます。 しますが、それはもつばらキャリ ー男性的な映画的イメージで言うなら、『風と 一人はミスター・ビッグーー古典的、スー ともに去りぬ』の主人公レット・バトラーの流れを汲む誘惑者タイプ。 強く、繊細な心を持っ救いの騎士、ミルズ & プーンのロマ もう一人はエイダン・ショー ンス小説に出てくるような現代的なヒーロー サラ・ジェシカ・バ ーカーが説明するように「ビッグとエイダンはキャリーと彼女の男性た ちに対する関係を語らせるにはうってつけの男性なの」です。 ビッグとエイダンは、キャリーが自分のファンタジーを投影できる、自分の人生をこうした 1 Fi rst Love
フェミニズムの第二の波は、白馬の王子様とは、実は女性を「誰かに救われたい」という、 ☆父系の家族制度で、家長が絶対的な家長権によって家 受け身のか弱い存在におとしめる家父長制的なフィクシ 族員を支配・統率する家族形態 ョンであることを教えました。もはや女性たちは自分たちの幸せの意味を知るために、あるい は末長く幸せに暮らすために、男性を必要とはしなくなりました。 それにもかかわらず、このドラマはある質問を投げかけずにはいられません。「果たして現 代女性にとって理想の恋人の存在を信じることは本当に必要なのでしようか ? だとしたらそ れはどのような弊害をもたらすのでしようか ? 」ということを。 理想の恋人像とは ? まずは、理想の恋人像の成り立ちと、それをめぐるキャリ ーの恋人探しの旅、それがキャリ ーにもたらすジレンマについて考えてみましよう。ご存じのように『セックス・アンド・ザ・ ☆ シテイ』では、ヘテロセクシュアル的な関係の男女のルールが非常に流動的です。☆異性愛 そこに登場するのは伝統的な女らしさのモデルを採用することにもはや満足しない女性たち、 そして自分に何が求められているのか自信の持てない男性たちが登場します。 この新たな、自立した、陸的に解放された女性たちを前に、彼女たちを支配してきた男らし さの概念は、、 しまやアイデンティティ的に不安定な位置におかれ、見直しの必要を突きつけら れています。その結果として、理想のロマンスのヒーロー像というものは不明確なものになり つつあるからです。 ビッグと 工イダン、 王子様はどっち ? 33
昔むかしあるところに、マンハッタン・アイランドを舞台に、シニカルでありながら心とき めく恋人探しを描く、とても楽しいドラマがありました。『セックス・アンド・ザ・シテイ』 ーのナレーショ はしばしば、大都会での恋人探しを、このようなおとぎ話になぞらえるキャリ ンで始まります。 実際、理想の恋人探しは『セックス・アンド・ザ・シテイ』の強力な売りになっています。 このドラマはセックスとシングル女性をめぐるラブコメディですが、同時にヒロインによる積 極的なロマンス・ファンタジーの見直しが行われていることにも注目されます。 この理想の恋人探しは『セックス・アンド・ザ・シテイ』でも、このエッセイでも大切な かなめ 要になっていますが、ここではその理想の恋人というものが、ポスト・フェミニズム時代に おいて、いかにとらえにくい存在になっているかについて、考えてみたいと思います。 ニューヨークのようなすれた都会でも、ひとめばれは成立するのかしら ? マンハッタンの愛は終わり ? プラッドショー キャリー・ ( シーズン 2 " 7 「ひとめばれで電撃結婚」 ) 1 F i rst Love
ー男性性 するビッグに対するファンタジーを疑わせるまでにはいたりません。ビッグのスー と魅力はいっそう強化されています。ビッグの不誠実さは依然として変わらないけれど、彼の 魅力はかってないほど強力なものになっているのです。 ェイダンに対するファンタジーはある意味では、始まる前から分裂しているので、視聴者は その魅力と弱点をビッグの男生的能力と比較して見ることになります。キャリーはロマンスを 望んではいるけれど、彼女自身の理想の男性に対するパズルを解くことができず、ついには誘 惑者も救助者もそばにいなくなってしまったことに気づくのです。 そして誰もいなくなった タニア・モデレスキーは「私たちの文化では、すべての女性はさまざまな供給源からロマン スのファンタジーを吸収している」と言っています。シーズン 3 の終わりで、一人取り残され たキャリーですが、それでも理想の男性のファンタジーを捨てることなく、ひたすらエイダン とよりを戻そうとします。 そしてまたシーズン 4 の終わりでは、キャリーはビッグにとっての「何か」になったことを 感じるのです。彼女はなおも、クラシックなロマンスの筋書きにのっとって役を演じようとし ます。そしてビッグとのファンタジーのいくつかの要素を維持しつつも、エイダンとのそれを 最後までなし遂げたいと願うのです。 けれど、キャリ ーがこの競合するファンタジーの釣り合いを取ろうとすればするほど、理想 ビッグと ェイダン、 王子様はどっち ? 55
には、ゲイ男性の力がおおいに影響したと思われていました。プシュネル自身も後に「インデ イベンデント」紙のインタビューでこの点について証言しています。 『セックス・アンド・ザ・シテイ』のドラマ化に際し、メディアの選択と並んで原作の改変が、 よりよい結果を生み出したことは、それほど驚くことではないでしよう。 O スポンサーの圧 力、ネットワークに対する連邦規定のかからないケープルテレビは、このドラマの売りでもあ る性的にきわどいシーンや会話を可能にしたのです。 ここでは語り手と登場人物たちのキャラクター設定も変えられています。シーズン 1 では、 プシュネルのコラムの文章は何回かそのまま使われていますが、話題の提供者である冷笑的な 男たちの打ち明け話は削られ、原作どおりとはいえ、かなりキャラクター設定が変更されたキ ャリ ミランダ、サマンサ、シャーロットの四人の女性が登場します。 ドラマで誕生した仲良し四人組 プシュネルが描いた女性たちは、皆シャーロットをもっと愛想悪くさせたような雰囲気を漂 しんらっ わせていますが、その性的な積極性と辛辣な皮肉癖は、ドラマではシャーロットのら の五インチ ( 約十三センチメートル ) しい落ち着き、ミランダの機知に富んだューモア、キャリー のヒールを履いた、あぶなっかしい理想の愛の探求などに取って代わられています。このドラ マの主役はあくまで四人の女性であり、しよっちゅう会い、あるいは電話をかけあう、気のお けない仲良し四人組に焦点が置かれているのです。 5 Fifth Love 168
そしてお堅い倫理観の持ち主で、高い理想ばかり求めていたシャーロットも、離婚したとた んに結婚は幻想だったと悟る。 彼女たちが、結婚しても幸せになれるとは限らないと思うようになったのは、それなりの成 功を手にしたために男との関係が複雑になったからである。それで、ときには大した女ではな いふりをしたりする。 シーズン 3 【「恋愛における嘘」で、お見合いクラブに申し込んだミランダは、一時間し ード大卒の 七人の男を紹介される。ところが、次から次へと現れる男は、ミランダが「ハー 弁護士」だとわかるとすぐに姿を消してしまう。そこでミランダは男を捕まえる最高の案をひ ねり出す ! その日のことを、ミランダはキャリ ーたちにこう報告する。「男は高学歴で立派な肩書きの 女が怖いのよ。弁護士って言ったら誰もデートに誘ってくれなかったのに、スチュワーデスっ 弓かかったわ」。 て言ったら、一人ーっ この時点で、ミランダはすでに弁護士という職業上の成功は、男とのつきあいでは余計なお 荷物であることを学んでいる。シーズン 2 " 「愛は階級の差を超える ? 」で、当時バーテン 、と、う理由で別れ話を持ち出す。スーツを買 だったスティープは、ミランダの方が稼ぎがいしし ってあげると言うミランダに、スティープはこう答えるのだ。「冗談じゃない。母親といるみ たいな気がしてきた。きみはもっとふさわしい相手を見つけた方がいし」。するとミランダは こう言い返す。「スーツが何よ。成功したおかげでどうしてこんな目にあわなくちゃならない 3 Third Love 114
ィリ ・テレグラフ」 ) 。 何と思慮の足りない無鉄砲な女性だろうと思われても仕方のないところですが、靴にここま Ⅱサラ・ジェシカを、視聴者も読者も愛しているようです。それど で熱をあげられるキャリー ころか、ファッションをめぐる現代の議論でポスト・フェミニズムがとっている立場ーー着飾 ることは楽しむことであり、楽しむことは力を手に入れることであるというーーーを、彼女のこ んな態度は見事に体現していると言えます。 こうして、サラ・ジェシカはスティレットを履いた現代女性の役割モデルになり、打算と駆 け引きに満ちたファッションの世界をヒールの音も高らかに切り進み、富や特権にまつわる醜 し問題を巧みに踏み越えていくのです。 キャリーたちが送る理想のニューヨークライフ とはいえ、『セックス・アンド・ザ・シテイ』は、単に夢のファッションを見せてくれるだ けではありません。むしろ、テレビの画面上のことではあっても、魅力的なライフスタイルに 具体的な形を与えてくれている、と見るべきでしよう。 見た目でもお値段でも肝を潰してくれそうな衣服に加えて、日曜日のプランチ、セントラル ークでのスケート、高価なカクテルやイエローキャプからなる理想の生活に視聴者は目を奪 われます。 つまり高価な衣服は、理想のニューヨーク的ライフスタイルになくてはならない要素として 世界で巻き起こる 『セックス・アンド・ ザ・シテイ』旋風 245