仁がメールを送るとすぐに返信があった。 『少なくとも前回よりは安全ですよ』 仁は迷った末に、『わかりました』とメ 1 ルを返した。 ネットカフェから出ると、森下との待ち合わせ場所である新宿駅に向かった。駅のコインロッカ 1 に荷物を預けて、東ロの改札ロで待っていると、人波の中から森下が現れた。 「こんにちは」 森下が片手を上げて近づいてくる。 「今日はどんな仕事ですか」 「たいしたことはありませんよ。ちょっと横浜に行って荷物を取ってきてもらいたいんですー 「荷物って : : : 」 「それは聞かないほうがいいでしよう」 森下がロもとだけで笑った。 何が、前回よりは安全ですよーーーだ。森下を見つめながら心の中で毒づいた。 「どうしますか ? 仕事をしたいという人は他にもたくさんいますから、別にあなたじゃなくてもい いんですけどね」 せりふ どこかで聞いたような台詞に苛立ちを覚えた。 「やりますよ」 ただ、これが本当に最後だ。 「これを渡しておきます。一万円分のチャ 1 ジをしてありますから好きなように使ってください 森下が—0 乗車カードを差し出した。
すまで警察から逃げ切らなければならないことを考えると、何とも心もとない。 それ以上に、この男を信用していいのだろうかという思いがある。 この男なら、金だけ取ってそのまま消えてしまうということもやりかねないだろう。 「わかりました。後払いでどうですか ? この番号の情報と引き換えに : 「それは無理です。 森下が遮った。 「覚えておいたほうがいい。裏の人間を利用したいのならすべて前払いですよ。我々の辞書には『信 用』などという言葉はないんです」 仁は森下の目を見据えた。 この男のことなど端から信用できないが、他に方法はない 「お願いします 仁は上着のポケットから無造作に札を取り出すと金を数え始めた。 「いったいどうしたんですか。そんな大金 : : : 」 森下が興味を持ったように問いかけてくる。 仁はその問いに答えることなく、森下に三十万円を差し出した。森下がゆっくりと一枚一枚金を数 える。 「ちゃんとありますよ いらだ 森下の手つきに苛立って言った。 「ずいぶんと汚れてますね。どうやって手にしたんですか」 札についた汚れの正体に気づいたようだ。ねっとりとした視線をこちらに向けてくる。 はな
「この携帯の契約者の名前と現住所を知りたいんです」 仁は森下が持っているメモを見つめながら答えた。森下は黙っている。メモを手でもてあそぶよう にしながら何か思案しているようだ。 「できないんですか : 仁はじれったくなって語気を強めた。 「できないことはないですよ 森下が顔を上げて仁を見つめた。 「言ったでしよう。我々の情報網を使えばそんなことは朝飯前ですよ。ただね : : : 」 「ただ : : : 何です ? 」 仁は森下の反応を窺うように訊き返した。 「いくらあなたとわたしの仲だといってもね : : : ただでー 「ワ癶 ) 又け・るとい、つわけ・にはい、 森下はそう言うと、ロもとに軽い笑みを浮かべた。 「どれぐらいかかるんですか」 「一件、一一十万円ーーー」 森下が即答した。 「 : : : と、言いたいところですけどね、あなたとわたしの仲だから半分の十万円までならまけてあげ ますよ」 三人で三十万円ということか。払えない金額ではない。ただ、これからのことを考えると大きな出 費だ。 ここで三十万円を払えば、手元には七十万円弱の金しか残らなくなってしまう。自分の無実を晴ら うかが 189 ハードラック
「そうではないです。この部屋を借りているのは成海俊という二十五歳の男です。この現住所から以 前住んでいた場所や通っていた学校なんかはわかりませんか」 「成海俊 : : : どこかで聞いたような名前ですね」 森下が思い出すように言った。 「今回の事件の被害者のひとりと思われる人物です . 「どうしてそんな人間の過去など知りたいんです。今のあなたにはそんなことをしている余裕はない でしよう」 森下が不思議そうに問いかけてきた。 「この男は生きているのではないか : : : そう思っています。 「あなたの言っている意味がよくわからないんですが」 森下が意味を探るように見つめてくる。 「うまく説明できるか自信はないんですが 仁はこれまでの経緯を森下に説明した。 説明しながら、あらためて自分の推測を整理していく。 「その菅野という人物が持っていた携帯を見せてもらえますか」 仁が携帯を渡すと、森下はしばらく画面に目を向けた。菅野とサカイとのメールのやり取りを見て いた森下の目がかすかに反応した。少しの間の後、仁に視線を向けた。 「つまりこういうことですか ? その成海俊という被害者が本当は事件の首謀者であるサカイで、サ トウショウゴを身代わりにして自分が死んだことに見せかけた、と : 「ええ」
仁はなかばやけつばちにテ 1 プルのカードをつかんだ。 森下は、そうだろう、という表情で頷いた。 「携帯電話と免許証を預からせてもらっていいですか。現金を持ち逃げされると困るので」 仁は携帯電話と免許証を差し出した。 「マスクはありませんか」 仁が訊くと、森下は鞄の中から風邪用のマスクを取り出して渡した。 「それに、無駄に警視庁のデータベ 1 スを増やす必要はありません」 森下が黒革の手袋を脱いで、こちらに投げた。 仁はその意味を察して、手袋をはめるとカードをおしばりで拭ってからポケットに入れた。 「行きましようか」 森下が薄笑いを浮かべて席を立った。 とうとう、悪魔にまで魂を売ってしま、つのか 仁は覚悟を決め、立ち上がった。 「その荷物も預かりましよう」 喫茶店から出ると、森下がこちらを振り返って言った。 「そんな重そうな荷物を抱えて、もし何かあったら逃げられないでしよう」 そういうことかと、仁は持っていたボストンバッグを地面に置いた。 「四枚のカードで五十万円ずっ引き出してください。暗証番号はすべて〇・三 森下が黒いセカンドバッグを差し出した。これに金を入れろということだろう。 ・二・四です . 2
どこか人を馬鹿にしたような言い方だ。 「ちが、つ : 「何がちがうんですか ? あなたがやったんじゃないんですか ? 数日前まで金もなく路上で生活し ていたあなたが今ではこんな大金を持っている」 「ちが、つ : おれが殺したんじゃないー 仁は森下を睨みつけた。 「おれは殺してない。あいつらに嵌められたんだ」 「嵌められた ? 」 けげん 森下が怪訝な表情をしながら訊き返した。 「どうせ話したって信じてもらえないだろうけど、おれは殺してなんかいない 森下を見つめる視線が潤んでいる。 こんな奴の前で涙など見せたくはない。だけど、今は誰でもいいから自分の心の叫びを聞いてもら いたかった。 「どうい、つことですか : : : あいつらとい、つのは ? 森下が興味を持ったように少し身を乗り出した。 「その中におれを嵌めた奴がいるんだ」 仁がメモを指さすと、森下はあらためて紙を持ち上げて見つめた。 「ど、つも話がよくわからないんですけど」 「あなたと別れた後 : : : 闇の掲示板に書き込みをしたんですよ」 「闇の掲示板ですか : : : 金に困っていたなら、わたしのところに連絡をくれればよかったのに」 192
仁はカードを挿入した。ほんの数秒のことなのに次の画面に切り替わるまでの時間が途方もなく長 く感じられた。ようやく『暗証番号を正しくお押しください』と表示が出て、タッチパネルの番号を 押した。すべての操作を終えてカードと五十万円が出てくる。同じ動作をさらに三回繰り返して、震 える手で札東をセカンドバッグに詰め込むと急いで外に出た。 実際には十分と経っていないが、日雇い派遣で十二時間働くよりも身も心も疲弊している。 仁は急いでトクノヤに向かった。途中で何度もあたりに視線を配った。先ほどから誰かに見られて いるよ、つな気がしてならないのだ。 トクノヤの駐車場に着くとあたりを見回した。だが、森下の姿はない。その場に立ち尽くしている と、黒い車が駐車場に入ってきてクラクションを鳴らした。車に近づいていくと、スモークガラスが 下りて森下の顔が見えた。 「後ろに乗ってください 森下に言われ、仁は後部座席に乗り込んだ。後部座席に仁のポストンバッグが置いてある。 「なかなか手際がよかったですね 森下が振り返って笑みを向けた。 この男は、どこからか仁のことを監視していたのだろう。 「一応、あらためさせてもらいますね」 森下が仁から受け取ったセカンドバッグの中の札を数え始めた。 それを見ながら、森下の手にある金がどういうものなのだろうかと想像した。 子供の身を心配した親がなけなしの貯金から工面した金だろうか それとも、老後のために爪に火をともすようにして蓄えた金だろうか 45 ハードラック
仁は迷った末に「高田馬場です』と送った。 ビッグボックスの前に立っていると、後ろから肩を叩かれた。 びくっとして振り返ると、ダーク系のスーツを着て眼鏡をかけた背の高い男が立っていた。年齢は 三十代半ばといったところだろうか。どこかの会社のやり手営業マンといったたたずまいをしている。 「仁さんですよね」 男が眼鏡越しに爽やかな笑みを浮かべながら訊いた。 「ええ : : : 森下さんですか ? 男は頷いて、「とりあえずお茶でも飲みながら話をしましようか」と仁を近くの喫茶店に案内した。 「コーヒーでいいですか」 森下に訊かれて頷いた。うまそうな匂いにつられて思わず隣の席に目を向けた。隣の客が食べてい るスパゲッティーを見て腹が鳴った。 「よかったらお食事もどうぞ」 仁は森下の言葉に迷った。 「別にそれで仕事を強要したりはしませんから安心してください。わたしは無理強いはしませんから。 自分に合わない仕事だと思ったらすぐに席を立ってくださってけっこうですー 森下は微笑みかけながら言った。 「じゃあ、すみませんけどコ 1 ラとナポリタンをお願いします」 森下は注文したものが来てもすぐに仕事の話はしなかった。仁が食事をするのを見ながら、こんな 生活に至るまでになった身の上話を聞いている。 たかだのばば 39 ハードラック
せめて、いざというときのための体力温存に睡眠をとろうと思ったが、目を閉じた瞬間に、いきな り背後のドアから警察がなだれ込んでくるのではないかという強迫観念に駆られて、ひとときも心を 休めることができないでいる。 まさに執行を待っ死刑囚の心境だろう。 狭苦しい部屋に押し込められ、外から漏れ聞こえてくる足音に怯え、ひたすらそのときが一秒でも 遅くなることを願うしかない そんなことを思っている最中だったから、いきなりの近くからの物音に、飛び上がらんばかりに驚 目の前に置いた携帯が震えている。森下からの着信だ。携帯を手に取ると個室を出て階段に向かっ 「もしもし 仁は電話に出た。 「わたしです。これから高田馬場の駅前で」 森下はそれだけ言うと電話を切った。 仁はすぐに個室に戻って出かける支度をした。受付に行って精算を済ませるとネットカフェから出 て行った。 高田馬場駅前のロータリーにたどり着くとあたりを見回した。すぐに森下の黒い車がロータリーに 入ってくるのが見えた。仁の前で停まると窓ガラスが下りて森下が顔を出した。 「お待たせしましたね」 森下はそう言うと、窓から折りたたんだ紙を差し出した。 おび 209 ハードラック
は思っていませんでしたがね」 森下が愉快そうに笑った。 「公衆電話から着信があったときにはいったい誰だろうと思いましたけどね : : : それにしても、とう とう携帯まで売ってしまったんですか」 「ちがいます。携帯は持ってますよ」 仁はポケットから携帯を出して見せた。 「それは失礼」 ディスカウントショップのトクノヤが見えてきた。駐車場に車を入れる 「で : : : わたしにお願いというのはいったい何でしよう」 エンジンを止めると森下がこちらに目を向けて訊いた。 「あなたは以前、携帯の番号からいろいろなことを調べられると言ってましたよね」 「ええ」 「この携帯番号を調べてほしいんです」 仁はメモ用紙を差し出した。ラムとテキ 1 ラとバーポンの携帯番号が書いてある。 「理由は ? 森下がル 1 ムライトをつけた。メモを見つめている。 「知りたいだけです。それだけじゃだめですか」 頼みごとをするにしても、この男を信用しているわけではない。 森下がメモに据えていた視線を仁に向けてにやっと笑った。 「それで : : : この番号の何を知りたいというんです ? 」 188