「裁判所で言えなかったことを言うわ。わたしが生きている間に出てきてちょうだい」 母親の言葉に少し顔を上げた。 「こんなアクリル板に隔てられていたらあなたのことを叩けないから。そんなこと、刑事さんにも、 裁判官にも頼めないでしよう。それができるのはあなたの親だけなんだから : : : 」 その言葉を聞いた瞬間、どうにも感情が抑えきれなくなってその場に崩れ落ちた。 おまえの絶望なんか、おれからすればちゃんちゃらおかしいんだよ あのとき成海に言われた言葉を心に刻みながらむせび泣いている。
敷いた上で、ニット帽をかぶりばろばろのコ 1 トを身にまとったホームレスが横になっている。 まさか自分の顔を悟られることはないと思ったが、顔を伏せながら電話ポックスに入っていく。小 3 銭を入れるとポケットから紙切れを取り出してそこに書かれている番号に電話をした。 「もしもし : カッセの声が聞こえてくると、先ほどまでの決心が崩れ去ったようにすぐに言葉が出てこなくなっ 「相沢か しばらく言葉を出せずにいると、カッセが気づいたように訊いてきた。 「はい・ 「出頭する気になったのか」 「ちがいます。あまり時間がないので用件だけ伝えたらすぐに切ります」 「逆探知はしていない」 「おれたちに神谷家の襲撃を持ちかけた仲間の正体がわかりました」 カッセの言葉を遮って言うと、息を呑んだのがわかった。 「今日、東十条にあるアパ 1 トで遺体が発見された菅野剛志という男です」 「遺体が発見されたって : : : 」 「背中をナイフで刺されて殺されたんです。直接それを見ていますから間違いありません」 「きみが殺したってことか ? 「ちがいます。ばくはやっていません : ただ、警察の捜査で仁の犯行であるとされるだろう。あの部屋には仁の指紋がたくさんついている
最後のほうは声になっていなかった。だけど、母親が何を言いたかったのかはよくわかっている 「殺してない。おれは殺してなんかいない。これは本当だ。それだけは信じて : 仁は必死に訴えた。 「本当ね : : : 本当にあなたは関係ないのね : : : それならば早く家に戻ってきて : : : 」 母親の言葉が胸に突き刺さってきた。そうだ、と答えられないことがどうしようもなく苦しい。決 して今回の事件に関係がないわけではなかった。だが、ここで事件についての顛末を母親に話せるだ けの時間はない。 「近くに警察の人がいるんでしよう。替わってくれないかな」 仁が告げると、母親が息を呑んだのがわかった。 すぐに電話口が無音になった。送話口を手で押さえて、まわりの警察官に伺いを立てているのだろ しばらくすると、「もしもし と野太い男の声が聞こえてきた。 「わたしは長野県警のカッセだ。相沢仁くんだね ? 」 長野県警という言葉を聞いた瞬間、受話器を握った手のひらが汗ばむのを感じた。急激に鼓動が速 くなる。 素直に聞き入れられるとは思っていないが、せめて自分が人を殺していないことを伝えたい一心で 警察に替わってもらったものの、とたんに声が出なくなった。 「きみに逮捕状が出ている。三日前に中軽井沢で発生した殺人放火事件だ。身に覚えがあるだろう」 かろうじて、その言葉を絞り出した。 てんまっ 243 ハードラック
「早く警察に出頭するんだ。このまま逃げ通すことなんかできないぞ。逃げれば逃げるだけ罪は重く なる。さらにお母さんを苦しめることになるんだ。これ以上、お母さんを苦しめるんじゃない」 警察の人間と話しているというのに、不思議と威圧的なものは感じなかった。カッセという刑事の さと 言葉はむしろ、罪を犯した生徒を諭す教師のような響きを持っている。 「お母さんはきみが逃げ回ることなんか望んでいない。わたしが親であっても同じ思いだ。きみにで きることはこれ以上罪を重ねないことと、一分でも早く警察に出頭して自分が犯した殺人という罪を 償うことだ」 「おれは : : : おれは殺ってない」 仁はカッセの言葉をさえぎるように言った。 「やってない カッセにとっては想定外の言葉だったらしく、戸惑うような口調で訊き返してきた。 「あの事件に関与していないというのか」 「そうじゃない。たしかにおれたちは神谷さんの家に金を奪うために押し入った。それは間違いない だけど、おれは殺してもいないし、火もつけてないんだ」 「神谷さんを襲ったと思われる凶器からきみの指紋が検出されている。それなのに : 「仲間だと思ってた誰かに嵌められたんだ」 誰だね、それは : : : 」 「わからない : : : おれは金が欲しくて事件の二日前に闇の掲示板で仲間を募った。その中のひとりが 神谷さんの家を襲撃しようと持ちかけたんだ。神谷さんの家に押し入って部屋を物色しているときに 誰かに頭を殴られて気絶した。目を覚ましたときにはおれは表に放り出されていて、目の前で屋敷が 244
仮にそうやって生きることができたとしても、もう一一度と母親には会えなくなるだろう。そして母 親は自分の息子が殺人犯だという重荷を一生背負いながら生きていくことになるのだ。そんなことは とても耐えられない 「ジンの人生はそんなに価値のあるものだったの ? 」 舞の言葉に東の間、自分の人生に思いを巡らせた。 今まで考えたこともなかったが、自分の生きてきた時間のどれもがどうしようもなく愛おしく、貴 重なものに思えた。 秀雄と比較され続けてきた学校時代も、長野の食品加工会社の仕事も、あっけなくクビを切られた 工場の派遣の仕事も、劣悪な環境であった日雇い仕事の記憶さえも そのどれもが今の自分にとってはまぶしい記憶に思える。 なぜなら、自分の努力次第でいくらでも道を切り拓けたのだから。今抱いている絶望とはまったく 比較にならない光り輝いた時間だったのだ。 どうして : : : どうしてもっと早くそのことに気づけなかったのだろうか 「何物にも代えられない人生だった : : : 」 そう呟いた瞬間、涙がこみ上げてきた。 ク 「じゃあ、どうして闇の掲示板なんかに書き込みをしたの」 滲んだ視界の中で、舞の言葉が冷徹に耳に響いた 「わたしの人生はごみ箱に捨ててもいいような価値のないものだった。だからそれを変えたくてジン 1 ハー 1 に連絡したの。一発逆転を狙ってっていうあなたの言葉に希望を抱いてね。もしかしたらいいパー ナーになれるかもって思ったけど : : : 残念だわ」 つか
「もしもし : : : 」 こわ 十数回目のコールでようやく鈴木が電話に出た。公衆電話からの電話だからか、警戒するような声 音だった。 「もしもし : : : ジンです : ・ うめ (_) 申、こ 0 仁が受話器に向かって言うと、鈴木がカのない声で「ああ だが、次の言葉がなかなか出てこない。いったい何から話せばいいのだろう。 「昨日は : : けつきよくどうなったんですか 言葉に詰まっていると、鈴木のほうから訊いてきた。 どうやら事件のことはまだ知らないようだ。 「そのことでちょっとお話ししたいことがあって : : : 今、どこにいるんですか ? 「昨日のことで : : : 話 : ・ けげん 怪訝そうな口調に変わった。 「ええ。電話ではちょっと : : : 大切なことなのでぜひ会いたいんですー 鈴木に会わなければならない。鈴木が中軽井沢で起こった事件を知る前に、自分は殺人を犯してい ないのだということを理解してもらわなければならなかった。 「腹が減ってからだが動かないんですよ : : : 」 ね 7 729 ハードラック
「あなたは運が悪い 仁の言葉を遮るように森下が言った。 「どういうことですかッ ! 」 「大声を出さないで聞けッ ! 今、トイレにふたりの男たちが入っていきました。どうやらずっとっ けられていたみたいですー 「つけられてたって : : : 警察 仁は小声で訊いた。 「いや、ちがうようですね。詳しい事情はお話しできませんがこの世界にはいろいろとあるんですよ おそらくあなたを自分たちの縄張りを荒らす密売人だと思っているんでしよう」 ひざ 森下の言葉を聞いて血の気が引いた。膝の上に置いたセカンドバッグに目を向ける。やはりこの中 には麻薬か何か、やばいものが入っているのだ。 「どうすれば : 「奴らも人目のあるところでは無茶なことはしないでしよう。ただ、いずれにしても奴らに捕まった らあなたはただでは済まない」 冗談じゃない どうして自分がそんな目に遭わなければならないのだ。 「とにかくそいつらを撒いて逃げてください」 電話が切れた。 「もしもし : ・・ : もしもし : 仁は小声で叫んだ。 くそッ どうやってそいつらを撒いて逃げろというんだ。 2
「じゃあ、わたしもせつかくだからアウトレットに行ってこようかな。駅の反対側にあるんだよね あせん ラムの言葉に唖然とし。これから強盗しようというのによくそんな気になれるわねと、ついさ 0 き自分で言っていたではないか。 そんな言葉などとっくに忘れてしまったように、ラムがポストンバッグを手に車から降りた。 「じゃあ、また後でね」 浮き浮きとした足取り、駅のほうに向かっていく。 「どうする ? ラムの背中を見つめながらテキーラに訊いた。 「どっかで飯でも食べない ? 腹減ってきちゃった」 仁も腹が減っているか、どこかに食べに行く金などない 「おごるよ」 仁の事情を見透かしナように、テキーラが言った。 「ジンは年いくっ ? テキ 1 ラに訊かれて、仁は顔を向けた。 「これから強盗する奴らが自己紹介したってしようがないだろう」 せりふ 昨日、 ーポンから言われた台詞をそのまま返した。 「まあ、そうだけどさ : : : 別に本名や住所まで訊こうとは思わないけど、年ぐらいいし ジンとは年が近そうだ」 、んじゃない。
二十五歳の男ーーというのは、きっと自分のことだ。 からだが激しく震えだした。まわりの乗客の視線が気になって必死に抑えようとしたが震えはいっ こ、つに止まらない。 「大丈夫・・ : : ? 」 舞が小声で問いかけてくる。 その言葉も震えているのが自分でもはっきりとわかった。 新幹線が大宮駅に近づくと、仁は耐えられなくなって席を立った。 「どうしたの 舞が仁を見上げてくる。 「ここで降りよう」 せたがや 「どうして ? 坂口のアパ 1 トは世田谷区の駒沢にあるんでしよう。東京駅で降りたほうが : 「嫌な予感がするんだ」 仁は舞の言葉をさえぎるように言った。 このまま東京に向かえば、仁を捕まえるために大勢の警察官が待ちかまえているような恐布感に襲 われている。もちろん、大宮駅もかなり大きなターミナル駅だから警察官がいるだろう。だが、少しッ でも早く交通機関の外に逃れたいという思いに駆られている。 「わかった」 舞は仁の心中を察したように立ち上がった。網棚に置いたポストンバッグを取ってデッキに向かっ 2
「神谷さんはどのようなお仕事をされていたんでしようか」 「さあ、詳しいことはわかりません。綾香もご主人の仕事のことは何も言っていませんでしたし。た だ、いつも使われる金額が半端ではなかったので何か会社を経営されているのかと思っていましたけ ど」 「会社を経営 : : : ですか」 神谷にはそんな形跡はない。しかし、間違いなくそうとうな資産を持っていたはすだ。中軽井沢の 屋敷も現金で買っている。いったいそれだけの資産をどうやって得たのだろうか。 「ご自身だけではなく、よく若い人たちを大勢引き連れて遊びに来てくださいましたよ」 「若い人たち : ・ 昨夜、舞夢のママから聞いたことを思い出した。 今は若い人に任せてここで隠居生活を送っていると神谷が言っていたと。 「その人たちとどんな話をされていたか覚えてらっしゃいませんか」 「そう言われましても : ・・ : 」 責任者が困ったような顔で言葉を濁した。 ささい 「どんな些細なことでもけっこうですので」 「そう言えば : ・・ : 役者がどうとか : ・シナリオがどうとか : : : 若い人たちと話していたことがありまッ したね」 「役者に、シナリオですか : その言葉をどう受け止めていいのかわからなかった。 「もしかしたら : : : 芸能プロダクションでもやってるかたなのかなとちらっと思ったのを覚えていま