「契約は済んだんですか ? 」 仁は芝田に駆け寄って訊いた。 「無事に済んだよ。さっそく行ってみないか」 芝田が笑顔で手に持った鍵をひらひらさせた。 芝田に続いて駅を出た。商店街の中を歩いていき大きな道路を渡る。駅から十分ほど歩いたところ にある静かな住宅街の一角で芝田が立ち止まった。目の前に『キャッスル東中野』と書かれた二階建 てのアパートがあった。 「ここだよ」 芝田が得意そうな顔で言った。 「意外ときれいなアパートですね , 芝田は頷くと一〇三号室の鍵を開けて中に入った。玄関の上にあるプレーカーを上げて、室内の電 気をつけた。 芝田に続いて仁は靴を脱いで部屋に上がった。玄関を入ってすぐ六畳の台所があった。 「とりあえずガスレンジが必要だな」 たしかにガスレンジがついていなかった。だが、 思っていた以上にきれいな部屋だ。 「他の部屋を見てもいいですか . 仁は興奮を抑えられずに訊いた。 「もちろんだよ。これからきみの部屋になるんだから 芝田の言葉に、仁は子供のようにはしゃぎながら室内を見て回った。風呂とトイレが別々になって いる。ふたつの六畳の部屋もきれいだ。少なくとも狭山の工場の寮よりもずっとまともな部屋だった。 2
次に入った部屋は納戸のようで衣類や荷物が雑然と置いてあった。三つ目の部屋は損傷が激しく、 壁と天井の一部が焼け落ちている。 「ここにもうひとっ遺体が : 鑑識課員がふたっ並んだシングルべッドの残骸の隙間を指さして言った。 「客用の部屋として使っていたのかな」 勝瀬は呟いて廊下に出た。 あわだ 最後の部屋に入った瞬間、背中が粟立った。目の前にあった椅子に目を向ける。もとは革張りの上 等な椅子だったのだろうが、今は金属の骨組みだけになっていた。そして、その周辺の床が特に激し く焼け焦げている。 革が焼けた臭いだろうか。その椅子から何とも言えない嫌な臭いがしてくるのだ。 壁際に置かれた机の上に目を向ける。パソコンのディスプレイとキーボードが熱で変形していた。 ディスプレイにつながったコードの長さを見て、パソコンの本体は机上に置かれていたのだろうと察 した。 思い出したように窓のほうを向いた。ガラスが破られている。 「被害者が抵抗するために犯人に投げつけたというのはおそらくちがうでしようね」 部屋のドアと、 ハソコンが置かれていた机と、窓の位置を確認して言った。 「そうだな」 この部屋の位置関係を見て、平沢があっさりと認めた。 「クローゼットの中に金庫がありました」 鑑識課員の言葉にクローゼットの中を見た。 ノ 21 ハードラック
思いをしてこれだけの報酬かと考えると、どうにも納得がいかなかった。 百万円の束から三十万円を抜くと上着のポケットに入れた。 駅から出るとあたりは薄暗くなっている。重い足を引きずりながらアパートまでの道のりを歩いた とも アパートの前まで来て、菅野たちの部屋がある二〇三号室の窓に明かりが灯っていないことに気づ 不安を煽られながら鉄階段を上っていった。部屋のベルを鳴らしてみたが応答がない。 どうしたのだろうか 菅野はポケットから鍵を取り出してドアを開けた。 「美鈴ーー美鈴 : : : いないのか ? 真っ暗な室内に向かって呼びかけてみた。静まり返っている。電気をつけると台所の光景が目に入 った。テープルの上や流しにはカップラーメンの容器やビールの缶が乱雑に放られている 台所の奥に四畳半の部屋がふたつある。右側の部屋で菅野や美鈴たちは寝起きしていた。もう一方 の部屋はイタチと組の若い男たちが占拠していたが、今は誰もいない。 ひたち べっしよう イタチーーというのは菅野の中での称で、名前は日立という。ただ、日立という名前も本名な のかど、つかはわからない どうしたというのだろう。どうして誰もいないのだ。美鈴はいったいどこに行ってしまったのか 一週間は何の手出しもしないと日立は約東していたが、まさか : しよう・て、つ 菅野は焦燥に駆られて部屋から飛び出した。そのまま鉄階段を駆け下りていく。 美鈴 「美鈴ーー・ アパートの前で叫んでいると、突然、背後から人の気配がした。如い絞めにされ激しく抵抗して あお 162
仁は曲がり角に入ると駆け出した。後ろから追ってくる男たちを撒こうと細い路地を何度も曲がり ながらアパートに走っていく。 アパートの前に人がいないことを確認して部屋に向かった。ベルを鳴らすとドアが開いて舞が顔を 出した。すぐに部屋の中に入って鍵を閉める。 「いったいどうしたの ? 」 仁の表情にただならぬものを感じ取ったのだろう。舞が顔を強張らせながら訊いてきた。台所には 鈴木もいる。 「この近くに警察がいるんだ」 仁がそう言うと、鈴木が取り乱したように「何だって ! と叫んだ。 「どうしてここに戻ってくるんだよッ ! 馬鹿野郎」 「ちょっと静かにして」 舞は冷静に言うと部屋の電気を消した。 次の瞬間、けたたましく部屋のベルが鳴った。次いでどんどんとドアを叩きつける。 「警察だーーーー相沢仁、そこにいるのはわかっている」 その声を聞いた瞬間、仁は部屋に駆け込んだ。べランダの窓を開けて外に飛び出した。隣の窓から ポストンバッグを抱えた舞が出てくる。続いて鈴木が右足を引きずりながらついてきた。 薄暗いアパートの庭を走り抜けて舞が軽い身のこなしで塀をよじ登る。仁も塀をよじ登って路地に 出ると舞に続いて全速力で走った。ちらっと後ろを見ると鈴木がふたりの男につかまっているのが見 えた。前を向くと路地の陰から男が飛び出してきた。舞の手をつかんで押さえつける。 仁は男の胸もとにタックルした。その拍子に男の手が舞から離れた。だが次の瞬間、仁は屈強な男
「昨日の夜だったら一度お客様にあの部屋の鍵を貸し出しましたけどね。ただ、芝田さんというお名 前ではありませんが」 おかざきただし 従業員がふたたび棚の中を探して一枚の紙をカウンタ 1 に置いた。入居申込書とあった。岡崎忠志 と名前が書かれている。 「大阪のかたらしくて、今度東京に転勤になるから部屋を探しているということで数日前からおみえ になっていたんですよ。いくつかお部屋をご案内して一応申込書を書いてもらいました。昨日の夜も おみえになられて、どの物件にするか決める前。 」こ、もう一度キャッスル東中野を見せてほしいという ことで鍵をお貸ししました。ただ、鍵を返しに来られて、もう一日考えたいと言って帰られましたけ ど。ですから、まだ契約はしていません」 まだ契約はしていません その言葉に、目の前が真っ暗になった。 騙された : : : おそらくその男が芝田だ : 芝田はこの不動産屋から鍵を借りて、仁を部屋の中に案内して信用させ、蒲田まで荷物を取りに行 っている間に鍵を返して : 逃げたのだ くそツーーー悔しさと腹立たしさと同時に、激しい焦燥感がこみ上げてきた。 自分の全財産を芝田に渡してしまった。これからいったいどうすればいいのだ。 申込書に目を向けた。ここに書かれている名前も住所も電話番号もきっとでたらめだろう。 「お部屋をお探しでしたら他にもいい物件が : : : 」 従業員の言葉を最後まで聞かないまま、仁は不動産屋を飛び出した。
不動産屋の前で、仁は思わず足を止めた。店前に貼り出された物件情報の中に『キャッスル東中野 一〇三号室』とあった。 この不動産屋が取り扱っていた物件だったのだ。だけどなぜ、まだ貼り出してあるのだろうか。契 約したのは昨日の夜だったから剥がし忘れているだけか。いずれにしても、事情を説明すればスペア キーを貸してくれるかもしれない。 「すみません 仁が店に入ると、従業員が「いらっしゃいませ。お部屋をお探しですか」とカウンタ 1 に促した。 「いえ、そうではなくて : : : 昨日、外に出ているキャッスル東中野の一〇三号室を契約した者なんで すが : 「キャッスル東中野ですか : けげん 従業員が少し怪訝な表情を向けた。 「ええ。といっても契約したのはばくではなくて芝田という者なんですけど、一緒に暮らすことにな っているんです。ただ、鍵がなくて部屋に入れない状況で : : : 」 仁が説明すると、従業員は「おかしいなあ : ・ と、棚の中から書類を探し始めた。 「あの部屋はまだ契約されていませんね」 「そんなはずはありませんよ。だって昨日の夜、その人は鍵を開けて部屋の中に入っているんですか ら。鍵を持っていたということは契約しているってことでしよう」 仁はむきになって書類を見ている従業員に詰め寄った。 「昨日の夜ですか : 2 「そ、つですー
「二階は四部屋あります」 勝瀬たちは順番に部屋を見て回った。最初に入った部屋はそれほど損傷が激しくなかった。家具な認 どが原型をとどめている。部屋の真ん中に大きなべッドがあった。 「ここが主寝室かな」 平沢が言った。 「家族構成はどうなっているんですか」 「どうやら夫婦ふたりで生活していたようだ」 「こんな豪邸でふたり暮らしなんてまったく羨ましいですね。うちなんか子供が三人もいるのにこの 家の半分の大きさもないんだからなあー 上杉が愚痴るように言った。 最近、長野市内に一戸建てのマイホームを買ったばかりだ。 「そうか ? 女房とふたりつきりでこんなところに住めと言われたら、おれだったら気が変になるか もしれん」 勝瀬は返した。 「奥さんは二十三歳だそうだぞ。被害者の神谷信司さんはおれと同じ五十四歳だ」 「ほら、やつばり羨ましい 平沢の言葉に上杉が大きく頷いた。 「でも、死んじまったらなあ : 勝瀬は呟きながらそばにあった棚に目を向けた。煤にまみれた写真立ての中に自分と同世代と思え ほほえ る男性と若い女性の姿があった。おそらく神谷夫妻だろう。幸せそうに微笑んでいる。
勝瀬はビニ 1 ル袋を持った鑑識課員に訊いた 「ええ : : : 歯プラシや布団にかけていたカバ 1 もありますし、床に落ちていた毛髪も採取できました幻 から」 鑑識課員の言葉に勝瀬は頷いた。 だが、頷きながらも、部屋に入った瞬間から何とも言えない違和感も覚えている。 何だろう、この違和感は 人が暮らしていたという割にはあまりにも生活感が窺えないからだろうか。室内にはパイプペッド に小さなテープル、壁際にテレビとデッキが置いてあるだけだ。病院の個室でももう少し生活 感が漂いそうなものだ。 いや、今どきの若者の部屋などこんなものかもしれない。 ゆが 渡辺が鼻をひくひくさせて顔を歪めた。 「成海さん、何かべットを飼っていたのかな」 その言葉に、勝瀬は自分が抱いていた違和感の正体に気づいた。 かすかに動物の臭いが漂っているのだ。だが、部屋を見回してもそれらしいものはない。 「まいったなあ : : : ペットは禁止しているのに」 勝瀬はテレビのそばに積み上げられていたの一枚を手に取った。勝瀬の知らない洋画だった。 「車の中で少しお話を聞かせてもらえますか」 渡辺を促して一緒に部屋を出た。 捜査員たちと一緒にエレベーターで一階に下り、マンションの前に停めた車に向かった。渡辺とと もに後部座席に乗り込む。運転席の若林が手帳を取り出してこちらを向いた。
ち会いなど初めての経験なのだろう。 「もう少しで終わると思います」 勝瀬は努めて柔らかい口調で答えた。 このドアの向こうで鑑識課が部屋の中を調べている。成海俊が使っていた歯プラシや、床に落ちて いる毛髪などを採取して QZ< 鑑定にかけるためだ。 今日は朝一番で鑑識課と数人の捜査員を伴って東京にやってきた。成海に部屋を貸している不動産 会社に立ち寄って事情を説明してここまで同行してもらっている。 「部屋が荒らされてたりはしてないんでしようか : : : 」 不動産会社の従業員にとっては最も気になることなのだろう。殺人事件の捜査という以外、詳しい ことはまだ話していなかった。 「それはわかりませんが : 曖昧に言葉を濁しているときに、中からドアが開いた。 「入ってもらって大丈夫です」 鑑識課員の言葉に、勝瀬はドアの前で待っていた捜査員たちと中に入った。 「わたしもいいんでしようか : : : 」 ク 後ろから声をかけてきた渡辺に、「どうぞ」と答えた。 靴を脱いで部屋に上がると室内を見回した。少し広めのワンルームだ。後から入ってきた渡辺が部ド あんど 屋を見て安堵の表情を浮かべたのがわかった。家具さえなければ新築といっても差し支えないぐらい にきれいに保たれているからだろう。 「 QZ< は採取できそうか」
「森下さんが言ってた奴か : : : まあ、入んな」 男に促されて仁は部屋に入った。 薄暗い部屋の中でまず目に入ったのはカウンターだった。六人ほど座れるカウンタ 1 の奥にソファ セットが置いてありもうひとり男が座っていた。 この部屋に入るまではここで違法カジノでもやっているのかと思っていたが、どうやらそうではな しよ、った。ヾ ノーだろうかと思ったが、それにしてはカウンターの上にもどこにも酒瓶などは置かれて しオし ここが何をする場所なのかはわからないが、ひとつだけ言えるのは、自分が今までに味わったこと よど のない澱んだ空気が部屋のあちこちから漂ってくるということだ。 ソフアに座ってこちらに鋭い視線を投げかけていた男が仁を手招きした。 「成海俊のことを訊きたいんだってな」 男が向かいの席に手を向けたので、仁はそこに座った。 : ここでしばらく働いていたと森下さんから聞いて。権藤さんですか ? 仁が訊くと男が頷いた 「何を知りたいんだ」 権藤が煙草をくわえて火をつけた。 「成海がどういう男か : : : 成海はこの男でしようか」 仁は携帯を取り出し電源を入れた。鈴木の写真を画面に出すと権藤に見せた。携帯をしばらく見つ めていた権藤が首を横に振った。 「おれたちが知ってる成海じゃねえな。もっとも : : : 二年間も逃亡生活をしてりやこんななりになっ 363 ハードラック