ヨーロッパの西の果て、イベリア半島にあり、東と北を大国スペインに、西と南を大西洋に囲まれた小 国、それがポルトガルである。 アジアの東の果て、日本からははるか彼方の国であるはずなのに、この国の名にはどこか懐かしい響き がある。「日本に初めてやって来た西洋人」がポルトガル人であり、当時の日本の文化に大きな影響を与え た、例えばカステラ、ビードロ、コップ、ボタンなどポルトガル伝来の品々。そしてキリスト教の布教に やってきたフリフリの襟の南蛮服に身を包んだフランシスコ・ザビエル。七つの海に帆船の帆をひるがえ した大航海時代。はるか昔、小学生の時習ったことを思い出す。 だが誰もが知っているこの国の現在を、私たちは知らない。世界の表舞台から去った後、この国はまる で殻に閉じこもったかのように沈黙を守った。他のヨーロッパ諸国やアメリカ、日本がめまぐるしく変化 したのに反して、ポルトガルでは実にゆっくりと時間が流れたのだ。変わることのない豊かな自然、守り 続けられる中世の建築物と風景、家族や友人同士の親しい付き合いなど、私たちが先進国となるのと引き 替えに失いつつあるものがこの国にはある。日々の暮らしの中にしつかりと根を張っている。それがこの 国の誇りであり、魅力でもある。忙しい毎日にちょっと疲れたら、ポルトガルへ行こう、古き友人の国へ。 はじめに ボルトガルへ行こう、古き友人の国へ 4
る。すべてポルトガル人シェフによって料理され、寿司や鉄板焼をはじめ季節の料理とメニュ 1 も充実し ている。今回撮影に協力してくれたシェフはこの「みどり」で初めて日本食に出会い、そのあまりのおい しさに感動したという ( それを聞いた時、私の低い鼻が五ミリほど高くなった ) 。その後日本に派遣され、 約半年間日本食の修業を積んだ彼のお薦めは、バカリャウ ( ポルトガルを代表する食材の干し鱈で、その 料理方法は数百種類ある ) を巻き寿司にした「ポルトガル巻き」。ここでしか食べられないメニューであ リスポンからも魅力的な小さな町シントラからも近い、緑豊かなリゾートホテル、ペニヤ・ロンガ。ゴ ルフを楽しむのもテニスやスイミングプールで遊ぶのも良し、五つ星ホテルの豪華さを満喫するのも良し。 はるか昔この地を訪れた四人の少年のことを、ふと思い出しながら。
エル二世はイギリスに亡命、王政崩壊となったのであった。 王政はここに終焉を迎えたが、王の血筋を引く、時が時なら王になるべき人は今も存在する。ドン・デ ュワルテ、その人である。今回私たちは、氏の居宅を訪問し会談する機会を得た。それというのも我が相 棒マヌエル・プルッジス氏は、いつも同じシャツに汚れたジーンズといういでたちで一見プ 1 タローに も見えるが、もともとは由緒正しい家柄の出で、そのコネクションのおかげなのである ( えへん、これは マヌエルの咳払い ) 。この訪問は別件の取材への道すがら突然決行されたもので、したがってかく一一一口う私も ジーンズにスニーカーのプータロー風服装であったが。 親日家であり、日本訪問もされたドン・デュワルテ氏とは、日本の美や伝統、経済大国として急成長す ると同時に失ってしまったものなどに話がおよび、私にとっては外からの視点で自分の国を見るという貴 重な体験となった。そして氏は自身の国について、こう語られた。 「ポルトガルはもともと貧しい国で、人々は農業と漁業で生きてきたために、時間がゆっくりと流れ、古 い物を守ることができた。それは物だけではなく、家族や友人、近隣の人々との関わり合いなど、人の生 活に絶対に必要なものも含む。同時に快適な生活を築くのも、また大切なことでもある。この国もどんど ん変わっていくだろう。しかし私たちには他の国から学ぶチャンスがある。急進国の成功と、それととも に生まれてきた問題の双方から多くのことを学ぶことができるはず。取り入れるものと守るべきものと」 二時間ほどではあったが、私は氏との会話を存分に楽しんだ。そしてこの国が日本や諸外国の失敗から 学び、大切なものを失わずに、この国らしくありつづけてほしいと心から願った、ポルトガルを心から愛 する一人の日本人として。 D. Duarte de Braganca ドン・デュワルテ・デ・プラガンサ
り、そこにあるのがシーザー 1 クホテル・ペニヤ・ロンガである。ホテルの看板を目印に左折してしば らく行くと左手に立派なゲ 1 トが現れる。そのゲ 1 トからホテルの建物までは、しばしのドライプとなる ほど敷地が広い。やがて緑の中に暖かいピンク色のホテルがその姿を現す。堂々の五つ星を冠に抱くこの ホテルは、世界選手権の開催も可能な一八ホールと九ホールのゴルフコースを持っゴルフリゾートである。 リスポンから一時間足らずという立地の良さに加え、残念ながらゴルフには無縁な私ではあるが、これだ け豊かな自然の中でプレイするゴルフの心地よさは容易に想像がつく。優れたゴルフコ 1 スに豪華ホテル、 ちょっとポルトガルらしくないような気もするが、実はこのペニヤ・ロンガと日本の間には古い関わりが あるのである。 堂々と建つ近代建築のホテルのすぐ近く、一段下がった所に古い教会が残る。修復工事の施されたこの 教会はペニヤ・ロンガに数多く残る歴史的遺産ともいえる建築群の一つなのである。この地に初めてジェ ローム派の修道僧たちが訪れたのは一三五五年のことで、一六世紀には修道院として最盛期を迎えている。 一五八四年のある日、この修道院ははるか遠くの国、日本からやって来た四人の少年を迎えた。それが伊 東マンショをはじめとする四人の少年たち、天正遣欧少年使節である。 一五四九年、フランシスコ・ザビエルによって日本に伝えられたキリスト教は、織田信長の庇護のもと に見る間に信者を増やした。そして九州のキリシタン大名によって選ばれた四人の少年たちがローマを目 指して長崎を出発したのは一五八二年のこと。彼らが当時ョ 1 ロッパへの玄関口であったリスポンに到着 したのは、それから約一一年半の航海の後であった ( 長い旅である。一五時間のフライトに愚痴をこばして はいけない ) 。長い航海の疲れを癒し、再びロ 1 マへの長い旅に出発する前に彼らが滞在したのが、ここペ
がそれに見合った贅沢を満喫できる。のんびりと一日ビーチで過ごすも良し、ゴルフ三昧をはじめ、いろ いろなスポーツを楽しむも良し、快適なホテルのプールサイドでビールを飲むも良し。日本では決して味 わえないリゾートかここにある。 石」 ob EjniLJ 湖にあるレセプション。 レンタル用品やレッスンの手配などをしてくれる 168
ニヤ・ロンガの修道院だったのである。 そんな経緯のあるべニヤ・ロンガは四世紀後、日本資本によってリゾートホテルとなったのである。ド アマンに迎えられて回転ドアを抜けると、そこは磨き上げられた大理石のフロアと吹き抜けの天井の明る い広大なホールとなっている。後ほど紹介する南部地方アルガルヴェのリゾートホテルに比べ、青い海、 照りつける太陽にドライな空気など、リゾートとしての環境ではかなわないが、このペニヤ・ロンガには ホテルそのものに大きな開放感がある。 すべての客室からは、あたり一帯のシントラの森や緑に囲まれたゴルフコースが見渡せる。客室は明る いインターナショナルタイプで、バスタブとシャワ 1 プースが別々のバスル 1 ムが風呂好きの日本人に嬉 しい ( スーベリアルーム 44 、 000 エスクード、ガ 1 デンルーム 66 、 000 エスクード、一一名一泊朝 食込み。他に高価な各種スイートルームあり ) 。ゴルフカートに乗ってグリーンを一周したのだが、これが おもしろい。起伏があり木々が多いのでさまざまな風景が楽しめるうえに、遠くまで足を伸ばすと古い遺 跡にも出会える。ゴルフのグリーンの向こうにあるのは中世の水道橋、遺跡を眺めながらプレイできるゴ ルフ場も滅多にあるまい。広大なグリーンを散策中、しばしば出会ったのは茶色い野うさぎたち。カート の行く手を白いお尻を見せながら右から左、左から右へと走り抜ける。グリーンを管理する側にはやっか いな住人だろうが、何とも愛らしくて憎めない連中である。その後ダイニングル 1 ムでメニューを開いた 時に「野うさぎのシチー」なんてメニューがないか無意識のうちに探してしまったが、そんな一品はな いのでご安心を。 「野うさぎのシチュー」のかわりに、このホテルには日本資本ならではの和食レストラン「みどり」があ シ 1 ザしハーク・ペ一ヤ・ロンガ
はナポレオン軍との戦争絵巻 ) で飾られた壁面と、深紅のカーベットの敷かれた階段室を通る。高い天井 まで届く大きな窓から差し込む光がすべてを包む。インテリアとしての見どころは他にもあるが、この階 段室の美しさは群を抜いていて、私はここを見るためにもう一度このホテルに行きたいとまで思う。子供 の頃から数回ここを訪れているマヌエルもしかり、最高のショットをカメラに収めるために絶好の自然光 をもとめて、ねばる、ねばる。だが、それは他の人も同じ、宿泊客やレストランの客が一人去ってはまた 一人来る状態が続き、次第にマヌエルの眉間にしわがよってくる。短気が爆発すると後の仕事に差し支え るので、やむをえず、しばらく人払いをして一件落着した。 さてホテル滞在の別の楽しみは、何と言ってもダイニングル 1 ムで過ごすひと時である。庭園に面した テラスを備えたメインダイニングルームは一一〇席、もと王宮の静かで豪華な雰囲気をたたえている。ホ テルオープン当時はフランス風の料理がサービスされたそうだが、現在はポルトガル料理と地元の郷土料 理を中心にメニューが作られている。フレンチやイタリアンならお馴染みだが、私たち日本人にとってポ ルトガル料理は未知のものと言ってよい だが心配は無用、ポルトガルでは魚をよく食べるし、お米料理も多い。肉料理にしても、使っている調 味料は違うはずなのに、何となく日本の味に近いと感じることも多い。それに加え、素材となる魚は新鮮 だし、牛も豚も広々とした牧場で緑の葉っぱを食べて育っせいか、肉の味が違う。日本での冷凍魚や人工 的に育てられた牛豚肉に慣れてしまった私には、本当のごちそうとはこれなんだ、と思えたくらいである。 今夜のメニューからクレソンのスープ、前菜はアスパラガスの冷製、メインにかじきまぐろのグリルを オーダーする。お皿がサービスされるたびに大食漢のあなたなら感嘆の声をあげ、小食のあなたならとま プサコワインの父、 シルべリオ・ピレス氏
仕事のうち ) 、ここのプールには堂々の金メダルをあげたい。残念なことに町中のボウサダなのでプールサ イドからアレンテージョののどかな丘陵の眺めは望めないが、それでもここが町の中心に位置するとは思 えないような隔絶したム 1 ドがあり、このプールサイドで過ごす午後は最高である。プ 1 ルサイドからバ ーも近く、思う存分泳いだ後、日影のべッドに横になり冷えた白ワインを飲みながらうつらうつらする : これぞヴァケーションと呼びたい。日本で待っている忙しい日々など、きれいさつばり忘れよう。 またこのボウサダでは、、 ケストにこのべージャを知り、楽しんでもらうためにさまざまな情報を提供し てくれる。この町の歩き方をはじめ、季節ごとの催し物、美術や工芸に興味がある人にはどこに行けば何 一階中庭に面した廊下 ( 上 ) アレンテージョでも南部のべージャは、 陽射しがいちだんと強い ( 下 )
リスポンから真北に一〇〇キロほど北上し た大西洋岸にナザレがある。ポルトガルを代 表する漁師町としてその名を知られ、ガイド ブックでも割合とべージを費し、力を入れて 紹介している。日本からのツアー旅行の多く も「素朴な漁師町ナザレに一泊」する。とこ ろが時間のゆっくり流れているこの国でも、 ナザレでは違ったようだ。 初めてのポルトガル旅行ではこの町を訪れ るチャンスがなかった。時間的な理由もある か、マヌエルに「行ってもしよ、つかない」と トレイラ トレイラ名物 地引き網を引く牛 却下されたからでもあった。だがガイドブッ クから得たイメージは私の中でどんどんふく らみ、次の旅では「どうしても行ってみたい」 とマヌエルに頼み込んだのである。そして再 び「行ってもがっかりするだけだって。ナザ レがみんなの思っているようなナザレだった のは三十年前までのこと。大型船の漁が盛ん になってからは、町外れに近代的な港ができ て昔ながらの小さな漁船は次々に姿を消した し、レストランで出す魚はペニシェで水揚げ されたものが多いし。とにかく今のナサレは、
ジ ン d ・ デ サ ウ ViIa Viqosa tel 068 ー -980742 / fax 06 & -980747 エストレモスから南東へ一五キロ、ヴィラ・ヴィ ソーザに近づくとあちこちに石屑の山を見かける。 このあたりは大理石の産地で、町の経済の要となっ ている。大理石とはいえ使えない物はやはり屑なん だな、などと考えながら石屑の山を通り過ぎると、 今度はたわわに実ったオレンジの木々、その足下に は熟したオレンジの実がごろごろと落ちていて、あ あ、もったいないと思う。「日本では自由化になった とはいえ、オレンジはまだまだ安くないんだから」 と、なぜもったいないかをマヌエルに説明している うちに、車は町に到着する。 なるほど町の建物のそこかしこに大理石が使われ ている。町の中心の大通り ( といっても三〇〇メ 1 トルあるかないかだが ) は教会を起点とし、反対側 は城跡に突き当たる。城壁に向かってでこばこ道を 登ると、城門脇に古い大砲が置いてある。その昔、 この大砲もこの城壁のどこかの砲門から東の方向、 スペインに向けて置かれていたに違いない ボウサダ・デ・ドン・ジョアンⅣ 3