きよう′ . 一くどの 京極殿 ふじわらのみちながていたくっちみかど 藤原道長の邸宅で土御門京極殿。 きようと′」しょ いまの京都御所の東のあたりにあ へいあんちゅうきだいひょうてき った。平安中期の代表的邸宅で、 ごいちじようごすぎくごれいぜい 後一条、後朱雀、後冷泉の三代の てんのう 天皇がここで生まれた。のちに火 けんこうじだい 災にあっておとろえ、兼好の時代 にはみじめなさまになっていたの である。 ほうじようじ 法成寺 だいじ 京極殿の東に、道長が建てた大寺 院。道長はこの寺にちなんで「御 どうどの きょだい 堂殿」とよばれた。この寺が巨大 ′」うか で豪華であったさまは、さまざま かたった かさい に語り伝えられているが、火災な むろまち どによって荒れ、室町時代にはす あとかた でに跡形もなくなってしまった。 あ た ふじわらのみちながていたく * きようごくどの * まうじようじ 藤原道長の邸宅、京極殿や道長が建てた法成寺は、建てたときの いし 意志だけがのこり、あとはすっかり変わりはててしまった。自分の一 てんのうつか うしろだて政治をとりおこなう権力者 族だけが天皇に仕える後見役や執政者として栄えると考えていた当 こうけんやく しっせいしゃ ていたく 時がたっと、はなやかに栄えていた邸宅は人が住まない野原にな じゅうにんし 家があっても、もとの住人は死んでしまっている。家の庭にさい もも * ジ ている桃やすももはものをいわないから、むかし住んだ人のことを知 る人はいない りつばであった御殿のあとは、い っそ、フはかないんだ よな。 よ 、カ 世の中は変わりやすいから なか さか ′」てん けんりよくしゃ にわ いち
きようとかもがわ やくしょ 京都、鴨川の東にあった鎌倉幕府の役所。 京極為兼大納言が召し捕らえられ、武士にとりかこまれながら、六波羅の庁舎へひったてられて きようごくためかねのだいなごん ろ , 、はら ちょうしゃ すけともいちじようおおじ いったところ、資朝は一条大路でこれを見て、「ああ、うらやましい この世の田 5 い出はこうでなく てはいけない。」といっこ。 くよう ー二九年在位 ) すけとも第九十六代 ( 一三 かげの声資朝は後醍醐皇にくつついてた公卿で、ひじように気が強く、はげしく、妥協を ごだいごてんのう せいかく せいはんたい ゆるさぬ、あぶない性格で、見ていてはらはらする。わたしと正反対の性格だが、似ているとこ ろもあり、みよ、つに気にかかる男であった。 うらやましい人 め AJ よ 〔第百五十一一段〕 かまくらばくふ だきよう 142
しんこうぜんしゅう 新興の禅宗 ひら ざぜん 禅宗は座禅によってさとりを開こ ぶつきようちゅうせいしんきゅう うとする仏教。中世は新旧さまざ かっ しゅうはほうと まな宗派ヾ 力法を説いて、仏教は活 き かまくらじだい 気があった。禅宗は鎌倉時代にわ ていちゃくみやこ が国に定着し、都でも広まったが、 とう′」くぶし とくに東国武士の心を強くとらえ けんこうしんこうてんだいしゅうきばん た。兼好の信仰は天台宗を基盤と かんしん するが、禅宗にも関心をはらって つれづれぐさ いたらしいことが「徒然草」にう かがわれる。 関東の人が京都の人とっきあったり、京都の人が関東へいって身を ー ) ゅ・つは ちゅうしんてきそんざい その宗派の寺々の中心的存在の寺。 立てようとするのはいやだね。また、自分が属する本山からはなれて ほんざん がいぶ しまった坊主のように、もともといる生活圏からはなれて、外部の人 こうさい と交際している人は、しつにみつともないや。 だん 〔第百六十五段〕 ′、」よ、つ けっこん むすめ かまくらぶし かげの声鎌倉の武士の娘が京都の公卿と結婚するのが多いん かまくらばくふ くぎよう しゆっせ だよ。京都の公卿だって出世の見こみがないから、鎌倉幕府へ ぼうず * 」よ、つと 京都の人が関東へ 。かん A 」、フ せいかつけん み 150
らようめいほうしがぞうぶぶん く「長明法師画像」部分 ( 神宮文庫蔵 ) ほうじようあん △方丈庵に近い日 のほうかいじ 野の法界寺。長 あきら 明もたびたびお とずれていたら しい。 ( 京都市伏見 長明方丈石。 ばしよほうじようあん の場所に方丈庵 が建っていたと いわれている。 なが 区 ) ながあ ! ら かものながつぐ しもがもじんじやはうねぎ △長明の父鴨長継は、下鴨神社の正禰宜だった。 ( 京都市左京区 ) ( 京都市伏見区 ) じしよう へいけものがたりえまき ぶぶん △治承のつむじ風のおそろしさ。 ( P. 円 7 ) 「平家物語絵巻」部分。 ( 林原美術館蔵 )
しゅうようきゅうさい 病人・孤児・乞食などを収容、救済した施設。 みうらにれそれ 悲田院の堯蓮上人という人は、出家前の名まえを三浦某とい「て、ならぶ者のない関東の武士で ぼう 」 * 、よ、つ せけんばなし あ 0 た。生まれ故郷の人が上人のもと ~ きて世間話をしたときに、「関東の人間がい 0 たことは信頼 きよ、つ A 」 ちょうし できるが、京都の人は調子ばかりよくて信用できないですよ。」ともらしたんだね。すると上人は、 す け . いけ . 。ん れんじゅうきも にゆうわにんじよ、フ 「京都に長く住んでいる経験からいうとちがいますな。京都の連中は気持ちが柔和で人情にあついた たにん しようち やくそく め、他人にたのまれたことをことわりにくく、 気弱に承知してしまう。約束をやる気はないのに、 まず 貧しくて思いどおりにならないんだよ。関東の人は、わたしも関東人だからわかるんだが、やさしさ + にんじようみ いっぽんぎ さいしょ がなくて人情味もうすく、ただ一本気なだけであるから、人にたのまれても最初からことわる。富み第 ど 草 然 さかえているから一度約束すればそれはそれでまもり、頼りにされるんだ。」といった。 徒 ぼうず この上人は、ことばになまりがあり、あら「ばいので、坊主としての格はどうかなと思っていた ものの見方 しゆっけ たよ
がおかす にんなじ 仁和寺 きよろ・と しんごんしゅうおむろは 京都の西北にある真 = 三宗御室派 けん、」う ならび の大本山。兼好はこの寺に近い双 ケ岡に住んでいたという。この寺 には知人も多くいて、親しかった ほうし しつ はずだが、兼好はここの法師の失 ばいだん 敗談をくりかえし語っている。 さんしよう ( ↓ロ絵参照 ) 女の鬼 鬼にもさまざまあるが、ここでは へんしん もの 女が変身して鬼となったもの。物 がたりせつわ IIÆ説話などによると、その変身 せいかんけい は異性関係のトラブルによるもの そうぞう が多く、これもそのように想像さ れたことであろう。 おに にんなじごじゅうのとう 仁和寺五重塔 かみすようくやなぎはらちょう 上京区柳原町あたり そう きよ、つと 京都の柳原に強盗法印とよばれる僧がいた。たびたび強盗にあった ゃなぎはらごうどうのほういん ので、こうよばれたんだ。 かげの声自分が強盗じゃないのに、こんなあだ名をつけられ じ わる るんだから、世間て意地が悪いよな。 ごうどうのほういん 強盗法印 せけんい だん 〔第四十六段〕
を、・うレ」ー ) うを、トっ、 しんごんしゅう さくら めいしょ 京都市右京区、真言宗の寺。 京都市右京区、桜と月の名所。 どう 遍照寺にいる下っぱ坊主が、広沢の池の鳥に餌づけをして飼いならしておき、お堂のなかまで餌を へんじようじ ひろさわ え まくと、鳥は数えきれないくらいはいりこんだ。坊主は戸をしめきってからなかにはいって、鳥をつ くさか かまえては殺していたが、その音がうるさいのを草刈り少年がききつけて村の人に知らせ、村の男た かり ちがおおぜいあつまってお堂のなかへはいった。大きな雁がバタバタあばれているなかに坊主がは けびいしちょう ( ↓ 3 いって、雁をねしふせて首をしめていたので、この坊主をつかまえて検非漣硬竚へつきだした。坊主 ろう 堀川基俊。兼好が仕えた具守の弟。 ちょうかん は自分が殺した鳥を首からかけさせられて牢にとじこめられたよ。基俊大納言が検非違使庁の長官の もととしのだいなごんけびいしちょう ときのことです。 す かげの声のち、人のごきげんをとることを「ごまをする」というのは、「護摩を修る」から きた言い方だよ。 ころぼ , つず 鳥を殺す坊主 えさ 148
なら えんそうしゃ びわ わか なかはらのありやす 和歌を学び、中原有安というすぐれた演奏者について琵琶を習った。和歌のほうでは、二 へんしゅう ふじわらのしゅんぜい かものながあきらしゅう 十七歳の年の五月に、『鴨長明集』が成り、数年後には、ついに藤原俊成の編集した 『千載和歌集』にその歌がとられるまでになる。 わす あま ながあきら しかし、その間の十年余りの時代こそは、長明をふくむ都の人々にとっては、忘れがた ながあきら くなんさいげつ ぞくはっ てんさいちへんどうらん い天災地変と動乱とが続発した、はげしい苦難の歳月であったのであり、しつは長明もい じたい しんけんたいおう やおうなしに、それぞれの事態に真剣な対応を求められながら生きていたはすであった。 れつきょ それらを列挙してみると、つぎのよ、フになる。 強」し、つと じしよう 二十三歳治承元 ( 一一七七 ) 年四月京都に大火がある たつまきおそ 二十六歳治承四年四月京都に竜巻が襲う ふくはら 同年六月福原への遷都が行われる ぜんこくてきだいききんえきびよう ようわ 八一 ) 5 二年全国的に大飢饉と疫病がひろがる 二十七 5 八歳養和元 ( 一 だいじしんお ぶんじ 三十一歳文治元 ( 一一八五 ) 年七月京都に大地震が起こる せんめい はうじよ、つき しつびつ ながあきらきおく これらについての長明の記憶は、『方丈記』を執筆した五十八歳の春にもまだ鮮明に再 現し、つるほどにたしかなものであったわけである。 わかじようこう やしん くらいゆす っちみかどてんのう けんにん 建仁元 ( 一二〇一 ) 年七月、三年前に土御門天皇に位を譲った野心いつばいの若き上皇 とだ じだい むらかみ 後鳥院 ( 一一八〇 5 一二三九年 ) は、村上天皇時代に置かれて以来ながらく途絶えてい ちよくせん せんしゅう わかどころきゅうちゅう た和歌所 ( 宮中で和歌の撰集をつかさどったところ ) を、新しい勅撰和歌集の編集にそ ん せんざい じだい かま せんと もと お みやこ 285 「方丈記」解説
けんこうほうしがぞうぶぶん く「兼好法師画像」部分 ( 常楽寺蔵 ) つれづれぐさしやほんうし △「徒然草』写本、表紙と本文。 ( 長田貞雄氏蔵 ) よしだじんじゃ マ兼好ゆかりの吉田神社。 ( 京都市左京区 ) ' まいみ つれづれぐさぶぶん 景良絵本、「徒然草」部分。 〔第九段 ) ( 蓬左文庫蔵 )
\ 仁 おおはら 大原 豸 / ク しらかわ ・白河 せきみようじん 関ノ明神 やましな 山稗 びわこ 比王巴胡 、、△しやま おお 大津 あわづー 粟津 4 音嗣 ひの かさりやま 日野 △笠山 おかや △罠新ゞ ・岡屋 ーまでら 哥・ロ きせんやま 喜撰山 強山 へいあんきよう 平安京 力も「 自ヅカわ 岡崎 い、な′りやま きようと 京都 たやま いしやでら もやま つ し きゅうおぐらいけ 旧巨椋池 やまぎき と ・鳥羽 よどがわ いわしみず 石清水 高槻 たかっきし かたの 交野 ひらかたし ほうじようき かんけいちず 「方丈記」関係の地図