とんあ 頓阿 わかしてんのう 和歌四天王のなかで、兼好はとく とんあ とんあ に頓阿と親しかったらしい。頓阿 ぶししゆっしん は武士出身の人で、一一十歳ころに しゆっけしょこくひょうはく 出家、諸国を漂泊したこともある。 そうあんしゅうせいぞく 「草庵集」正、続にすぐれた歌を多 くのこし、そのなかに兼好との交 おうあん 友のあとが見える。応安五 ( 一三 七一 I) 年八十四歳で測。兼好より 六歳ほど年下にあたる。 和歌四天王 かだんおおごしょにじようためよ 歌壇の大御所一一条為世の弟子のな かですぐれた四人のことで、兼好、 とんあ けいうんじようべん よす 頓阿、慶運、浄弁。いすれも世捨 びと そうあん て人、いわゆる草庵歌人である。 兼好はこの四人のなかで、歌人と してはいささかおとると見なされ つれづれぐさ ていたが、「徒然草」によってもっ ゅうめい ぶんがくし とも有名な人となって、文学史に 名をのこすことになった。 けんこう ざいりよう 鯉の吸い物を食べた日は髪の毛はほっれないという。にかわの材料 こいす ほりかわけ * とんあ かげの声物をくれるのは堀川家のほかは、歌友の頓阿だな。 してんう 和歌にすぐれた僧 わたしとともに和歌四天王となった歌僧だよ。出家して暮らして かそう とんあ いる身にとっては頓阿はいい友でね。おたがいの庵を行き来した とんあ ものだ。「米をくれよ。」と、頓阿に手紙をおくったとき、頓阿か ら、「米はない。銭をすこしやる。」と、返事をもらったことが あったなあ。 もの 里 . 取土 かつお かみけ へんじ し ゆ しゝつ おけ り とんあ 106
なら えんそうしゃ びわ わか なかはらのありやす 和歌を学び、中原有安というすぐれた演奏者について琵琶を習った。和歌のほうでは、二 へんしゅう ふじわらのしゅんぜい かものながあきらしゅう 十七歳の年の五月に、『鴨長明集』が成り、数年後には、ついに藤原俊成の編集した 『千載和歌集』にその歌がとられるまでになる。 わす あま ながあきら しかし、その間の十年余りの時代こそは、長明をふくむ都の人々にとっては、忘れがた ながあきら くなんさいげつ ぞくはっ てんさいちへんどうらん い天災地変と動乱とが続発した、はげしい苦難の歳月であったのであり、しつは長明もい じたい しんけんたいおう やおうなしに、それぞれの事態に真剣な対応を求められながら生きていたはすであった。 れつきょ それらを列挙してみると、つぎのよ、フになる。 強」し、つと じしよう 二十三歳治承元 ( 一一七七 ) 年四月京都に大火がある たつまきおそ 二十六歳治承四年四月京都に竜巻が襲う ふくはら 同年六月福原への遷都が行われる ぜんこくてきだいききんえきびよう ようわ 八一 ) 5 二年全国的に大飢饉と疫病がひろがる 二十七 5 八歳養和元 ( 一 だいじしんお ぶんじ 三十一歳文治元 ( 一一八五 ) 年七月京都に大地震が起こる せんめい はうじよ、つき しつびつ ながあきらきおく これらについての長明の記憶は、『方丈記』を執筆した五十八歳の春にもまだ鮮明に再 現し、つるほどにたしかなものであったわけである。 わかじようこう やしん くらいゆす っちみかどてんのう けんにん 建仁元 ( 一二〇一 ) 年七月、三年前に土御門天皇に位を譲った野心いつばいの若き上皇 とだ じだい むらかみ 後鳥院 ( 一一八〇 5 一二三九年 ) は、村上天皇時代に置かれて以来ながらく途絶えてい ちよくせん せんしゅう わかどころきゅうちゅう た和歌所 ( 宮中で和歌の撰集をつかさどったところ ) を、新しい勅撰和歌集の編集にそ ん せんざい じだい かま せんと もと お みやこ 285 「方丈記」解説
しよくいん にじようごしよさいこう わかどころだい なえて、二条の御所に再興した。その和歌所の第一次の寄人 ( 和歌所の職員 ) には太政 けっこん にんめい だいじんふじわらのよしつねいか 大臣藤原良経以下十一人が任命されたが、おそらく二十 5 三十代に結婚生活に破れ、和歌 よくげつ ながあきら を生きがいとして、すでに四十七歳に達していた長明も、翌月、第二次のメンバーの一人 よりうど ふじわらのさだいえ ついか じつむせきにんしやみなもとのいえなが として追加される。実務責任者は源家長。十一月には、その寄人たちの中から藤原定家、 しんこきんわかしゅう へんじゃ ふじわらのいえたか 藤原家隆ら『新古今和歌集』の編者六人が選ばれた。建仁三 ( 一二〇三 ) 年二月に和歌所 ごとばいんしんにん しごとつづ きようごくどのうつ ながあきら が京極殿に移ってからも、長明はその仕事を続け、後鳥羽院の信任もあっかった。 ただすしゃねぎ よくねんしもがもじんじやせっしゃ 翌年、下鴨神社の摂社 ( 本社に付属する神社 ) である河合社の禰宜のポストがあいたの すけかねすけすえ ながあきら で、後鳥羽院は長明をそれに任じようとしていたところ、下鴨神社の禰宜の祐兼 ( 祐季の きようこうはんたい じっげん 子 ) の強硬な反対にあって実現しなかった。思いがけなくめぐってきた、下鴨神社の禰宜 ようい こういてきだいあん ながあきら への道を閉ざされて、気落ちした長明は、後鳥羽院の用意した好意的な代案にも耳を貸さ ゆくえ す、行方をくらます。 じようどきよう はじ ひえいざん ながあきら やがて長明は、比叡山のふもとの大原の地で浄土教を学ぶ出家者としての生活を始め、 いちぞくぜんじゃくほう おく そこで五年間を送ってから、一二〇八年ごろ、大原で知り合った日野氏の一族の褝寂 ( 法 とやま きようと ねんでし しよ、つかい 然の弟子 ) という人の紹介で、京都の東南約七、八キロの地点にある日野に移り、外山の ほうじよう いおり す びようどういんあみだどう 地に「方丈」の庵を作って住みはじめる。日野にある法界寺には宇治の平等院の阿弥陀堂 じようどしんしゅうかいそ あみだどうげんそん かた ふじわらせつかんじだい に肩をならべる藤原摂関時代の阿弥陀堂も現存するが、そこは後に浄土真宗の開祖となる こきよう しんこうしゃ かっこう せいち しんらんしようにん 親鸞上人の生まれ故郷でもあって、浄土信仰者には合好のしすかな聖地でもあったようだ。 と きお ふぞく おおはら たっ えら やく じ けんにん ほうかいじ よりうど しゆっけしゃ ひのし うつ ゃぶ だいじよう か 286
ふす猪の床 す あらあら や いのししの巣のこと。荒々しい野 じゅうわか と じようひん あ 獣も和歌の上品な言い方で取り上 けると、それなりに感じがよくな しか るとされた。「鹿」を「かせき」、 さる こま 「猿」を「ましら」、「馬」を「駒」 れい といいかえるのもその例である。 きよう′」くはにじようは 京極派・ニ条派ー ちゅうせい 中世の和歌の世界は、藤原定家の しそんだいだいせんもんか 子孫が代々専門家として支配的な けんこう 立場にあった。兼好の時代にはそ の家が一一条家、冷泉家、京極家の ぶんれつきようそう 三つに分裂、競争していた。兼好 ゅうりよく はそのなかでもっとも有力であっ た一一条家の為世に師事し、門下生 の四天王の一人とされるほどであ ったが、他の一一家につらなる人々 ひかくてきじゅう ともまじわっており、比較的自由 に過こしたようてある。 す た と、」 ためよ かん ふじわらのていか しはいてき がっき ふえ 神楽は、優雅で楽しいものだ。楽器ですばらしいのは日本の笛と中 こと びわ 国の竹笛。いつもきいていたいのは琵琶と琴である。 また、旅にいかすに、近所の寺や神社へひとりでいってこもってい るのも ) しいものだ。 かげの声わたしは笛をふくのがうまい。前の段で寺社のこと ゅうが かぐら 神楽 じんじゃ だん 〔第十五段〕 だん 〔第十六段〕 たい たい
一 (l) 年三月に書き上げられたが、その作者である鴨長明 『方丈記』は、建暦二 ( 一一 しようねぎ さいこうち しんかん かものみおやじんじゃ は、賀茂御祖神社すなわち下鴨神社の正禰宜 ( 下鴨神社の神官の中での最高の地位 ) に ほ、つげん よくねん かものながつぐ あった鴨長継の二男として、久寿二 ( 一一五五 ) 年に生まれている。その翌年には、保元 しようねんじだいながあきら らんお の乱が起こり、平治元 ( 一一五九 ) 年には平治の乱が起こっているが、少年時代の長明 かんい ものがた は、七歳の十月に早くも従五位下の官位を与えられたことが物語っているように、たのも すいそく とばいんこうじよまいし たかまつによいん みやづか しい父親の庇護のもとに、鳥羽院の皇女妹子 ( 後の高松女院 ) に宮仕えしていたと推測さ おく れる父方の祖母らに目をかけられて、おだやかで夢の多い日々を送っていたようである。 きゅうし しようあん ながあきら ところが、承安三 ( 一一七三 ) 年ごろ、長明が十九歳という年に父の長継が急死して、 わか かんげんもと えんせきすけすえ ながあきら 縁戚の祐季が下鴨神社の禰宜となる。父の死後、長明は、心のはけ口を和歌と管絃に求め ねっしん みなもとのしゅんえ たらしく、亡き父とその友人たちの和歌の師でもあった源俊恵という人について熱心に 『方丈記』解説 ほうじようきかいせつ ひご けんりやく なん じゅ′」 ーレーがも きゅうじゅ あた し ゅめ こばやしやすはる ト , 不ロ木ムロ さくしゃ かものながあきら 284
わか 和歌はおもしろいものだ。身分の低い農夫やきこりのすることも歌に詠むとおもしろくなるし、お ひょうげん ゅうが そろしいいのししでも「ふす猪の床」と表現すると、それなりになかなか優雅なものになってくる。 げんがい じよ、つしゅ 近ごろの歌はただおもしろいだけで、むかしの歌のように言外にしみじみとした情趣がなくなって うたまくら めいしょ いまの人もむかしの人とおなじ歌枕 ( 歌に詠みこまれる名所 ) をつかっているが、むかしの人 すがたきょ のほうがくらべものにならないほどうまかった。むかしの歌はしぜんで、くせがなく、歌の姿が清ら かで、しみじみと深みがある。むかしの人は、むぞうさにつくっていても、みなすぐれた歌になるの かす・ごい すぐれた歌とは ふか みんひく のうふ だん 〔第十四段〕 たい
はうじよう ながあきらしゆっけ その日野に移住してきてから五年め、ということは長明が出家してから十年めに『方丈 かん そうけっさんきろく 記」は書かれている。そこには、わが出家生活の、総決算の記録をめざした意気ごみが感 じしん し しゅんえ わか しられる。その一年前ごろまでに、若き日の和歌の師であった俊恵の教えを中心に、自身 しよもっ ながあきら むみようしよう こ関する思い出などを『無名抄』という書物にまとめていた長明は、『方丈記』に の和歌ー むじよう おいては、人間とそのすみかとの無常のありさまを記したうえで、自分のそれまでの歩み ふあん と体験をふりかえりながら、それらをしだいに日野の山中での、生活の不安から解放され いんとん じゅうかいてき びようしゃ た、自由で快適な隠遁生活の楽しみの描写へとしばりこみ、それに安住する自分を自己反 れんいん ほうみようしゆっけしゃ さいしゅうてき 省して、最終的には、蓮胤という法名 ( 出家者としての名まえ ) をもつ自分が、はたして げんざい その出家者にふさわしい生き方をしているといえるのかどうかと、現在の自分のありよう ふで じもん 1 ) ゝすは、出家してし の是非をきびしく自問するとい、フところで筆をおいている。この日国しカー たいど るいないにかかわりなく、自分の生き方をごまかしのない目で見つめようとする態度とし じだい ものきようかんえ て、時代をこえて読む者の共感を得つづけていくものと思われる。 れんいんぞくみようかものながあきら こうして、出家者の蓮胤 ( 俗名、鴨長明 ) は、『方丈記』を書き上げてから四年後の建 しよ、つがい たびだ 一六 ) 年六月に、あの世へ旅立つ。六十二年の生涯であった。 保四 ( 一二 うつ ところで、一二一二年に書き上げられた『方丈記』は、一二四二年に書き写された「大 じっきんしよう せいりつ ふくこうじばん しやほんった 福光寺本」という写本が伝えられていること、一二五二年に成立した『十訓抄』という説 かんげんみちひと かもしゃ きくたいぶながあきら わしゅう 話集か、「ちかごろ、賀茂社のうじ人にて、菊大夫長明といふものありけり。管絃の道人 き ばう ぜひ たいけん かん いじゅ、つ よ わか と か かいはう じこはん けん せつ 287 「方丈記」解説
おさな ちちぎみ * 8 - 一 じようこう′」しよさんじよう えんせいもんいん わか 延政門院は、幼いとき、父君の後嵯峨上皇の御所に参上する人に、つぎのような和歌をわたした。 。こさが まっすぐな ふたっ文字 ( こ ) 、牛の角文字 ( い ) 、直ぐな文字 ( し ) 、ゆがみ文字 ( く ) と、父上のことを思います。 す これは父君を「こ・ ・し・く」思います、という意味である。 によかん えんせいもんいんつか 野かげの声かわいいなぞなぞですね。延政門院に仕えていた一条という女官は、わたしがひそ うとする人は、世間のしがらみをすべて捨てて、思いたったらすぐにやること。出家以外でもお なしことかいえますね。 かわいいなぞなぞ つの まとわりつくもの み いちじよう だん 〔第六十一一段〕 たい し力し 79 徒然草第六十二段
しゃべり、かわいげがあって、そのくせロ数が少ない人がりつばなんだよ。ちょっと見はたいしたも のだと思えても、すぐにばろが出てしまう人がよくいるでしよ。せつかく美しい顔をして気だてがよ カくもん おとれんじゅう ざんねん くても、学問のない人は、自分より劣る連中にも負けてしまって、残念なことではないか。男として 漢文でつくる詩 こてんきようよ、つれいぎさほ , っ 身につけたいのは、真の学問の道だ。漢詩、和歌、音楽、古典の教養、礼儀作法。これらを身につ かんし わか もはん おんど け、人の模範にならなくてはいけない。文字がじようずですらすら書け、声がよくて、みなの音頭を とるノらいカよい さけ えんりよ さて、酒をすすめられたときだが、遠慮しながらも、ほんのちょっとだけは飲めるくらいにするの が、男としてはいいんだな。 しん うつく だいだん 〔第一段〕
後嵯峨上皇 ( 一一一四一一 5 四六年在 ) 第八十八 だいてんのう くらい 代天白王。在位四年て位をゆすった いごやく いんせい が、以後約一一十七年間院政をおこ しんこう なった。信仰にあっく、和歌のた おさ しなみがあり、この院の治めた時 さか 代は文化が栄えた。 ′」さがじようこう 人の名まえをきくと、その人のおもかげが思いうかぶ気かするが、 しっさいにあってみると、思い、フかべていた顔とはまるでちかってい るものなんだ。 げんざい ものがたり むかしの物語をきいても、現在の近くの家であった事件のように思 と、フじよう われるし、登場する人物を、現在の知りあいのだれかのことだとあて はめてしま、つことってあるでしよ、フ。 十 ふうけい それから、 いま、だれかが話していることや、目の前に見える風景第 ぜん や、いま考えていることが、以前、これとおなしことがあったなあ、然 と思われて、それがいつのことか思いだせないって気がすることがあ わたしだけでしようか じんぶつ じけん