ひみつ もくてき 信長公へは、白紙の掛け軸をさしあげ、自分の秘密のおこないや目的をかくすために、わしが ほんもの 本物の絵を白紙にすりかえたと申したてているのだ。今、その本物の絵がどこにあるのか、わ しは知らぬ。おそらく、おまえは知っているだろうがな。 こじ あらかわ それを聞くと、荒川は怒りのあまり、居士のほうへかけよりました。そして、番人たちがと めなかったら、なぐりつけたところでした。 ぶぎよう ところで、荒川がこんなにとっぜんおこりだしたのを見て、奉行は、荒川もまったく罪がな かしん ろうや いわけではあるまいと、あやしみはじめました。奉行は、果心居士をしばらくのあいだ牢屋に つなぐようにいいつけ、こんどは、荒川をきびしく取り調べつづけました。 荒川は、生まれつきロべたでした。それに、この場合、ひどく興奮しているので、ろくにも のも言えないありさまでした。そして、どもったり、つじつまのあわぬことを言ったりして、 はくじよう どう見ても罪をおかしたにちがいないようなようすを見せました。そこで奉行は、荒川が白状 するまでむちでうつように命じました。 しかし、荒川は、ほんとうのことをいっているというそぶりさえ見せることができませんで しようき した。竹のむちは、いよいよはげしく打ちくわえられ、荒川は、とうとう正気をうしなって、 はくし じく しら こうふん ばんにん 134
かしんこじ きよみずでら それから四ー五日たってからのこと、果心居士が清水寺で絵を見せながら、大勢の人びとに、 せつきよう 説教しているという知らせが、荒川のもとへとどきました。荒川は、清水へかけつけました。 しかし、荒川の見たのは、散っていこうとする人びとだけでした。果心居士は、またすがたを 消してしまったのです。 けれど、ある日のこと、思いがけなく、荒川は、ある居酒屋で果心居士を見かけて、とうと う、つかまえることができました。 居士は、つかまえられても、ゆかいそうにわらっているだけでした。 「どこへなと、いっしょにいきますよ。だが、ちょっと待ってくださらんか、ちょっと一ばい やるまでね。」 荒川は、このたのみを、聞きいれました。 すると、果心居士は、十二はいもの酒をのみほして、まわりにいた人びとをおどろかせまし た。十二はいめをのむと、これでたくさんだといいました。そこで、荒川は、居士をなわでひっ のぶながごてん くくり、信長の御殿へつれていきました。 でんちゅうとりしらべじよ 果心居士は、すぐさま殿中の取調所で、奉行から取り調べをうけ、きびしく責められました。 ぶぎよう いざかや 132
かしんこじ あらかわ やがて荒川は、信長の耳に何かささやきました。信長はうなずきました。果心居士は、少し ばかりのお金をもらって、その絵をたいせつにかかえて、ひきさがりました。 ごてん しかし、居士が御殿をあとにしたとき、荒川は、居士のあとをつけていました。荒川は、悪 しはかりごとで絵をうばいとろうと考えたのです。 きかい その機会がきました。果心居士が、町はずれの山へつうじる道にさしかかったのでした。 山のふもとの、ある淋しいところまできたとき、道がきゅうにまがっているところで、居士 は荒川にとらえられました。荒Ⅱは、 だいきんおうごんりよう 「そんな絵の代金に黄金百両がほしいなどと、きさまはなんという欲の深いやつなんだ。黄金 てつ じゃく 一尺は約三 + ) の鉄きれをくれてやるわ。」 百両のかわりに、三尺 (. といいざま、刀をぬいて、居士を殺し、絵をうばいとりました。 あくる日、荒川は、その掛け軸を、果心居士が殿中からひきさがる前つつんであったとおり けんじよう につつんで、信長に献上しました。信長はさっそく、これをかけさせました。 じく でんちゅう 130
はくし ところが、ひろげてみると、絵はぜんぜん見えず、ただの白紙になっているではありません か。信長も家来たちもびつくりしてしまいました。 あらかわ せつめい 荒川は、絵がどうして消えてしまったのかを説明することができませんでした。そして、荒 あくい しゆくん 日は、よかれかしと思ってしたことにしろ、また、悪意からにしろ、いずれにしても、主君を しよばっ あざむくという罪をおかしたので、処罰をうけることにきまりました。そして、かなり長いあ いだ、閉門 ( 」鬲懿語← 0 を命じられました。 きかん 荒川の閉門の期間が終わるか終わらないころ、ふしぎなうわさがたちました。殺されたはず かしんこじ きたのじんじやけいだい の果心居士が、北野神社の境内で、あの名高い絵を見せて、お金を集めているといううわさで す。荒川は、自分の耳を信じることができないほどでした。しかし、いつばうでは、何とかし かじく しつばい てあの掛け軸をうばえば、前の失敗のつぐないができるかもしれないという望みが、ばんやり とわいてきました。 いくにん てした そこで荒川は、いそいで幾人かの手下を集め、神社へといそぎました。しかし、きてみると、 果心居士はもう帰ってしまったということでした。 へいもん 131
かしんこじ しました。果む居 このちかいに気づいた信長は、果心居士に、そのわけを説明するようにいゝ 士は、答えました。 ねだん 「はじめてごらんになったときの絵のねうちは、値段をつけられないほどすばらしいものだっ たのでございます。けれど、今ごらんになっています絵のねうちは、おはらいになられた、黄 ごんりよう 金百両だけのねうちをあらわしているのでございます。どうしても、こうならないわけにはい かないのでございます。」 これをきいて、みんなは、もうこのうえ居士に反対するのはむだだと考えました。居士はす ばっ あらかわ ぐさまゆるされて帰りました。荒川も、罪がじゅうぶんつぐなわれるだけの罰をうけたという ことで、ゆるされました。 のぶなが さて、荒川には、やはり信長につかえている、武一という弟がありました。武一は、兄がむ ろうや ちでうたれたり、牢屋につながれたりしたことを聞いて、ひどく腹をたて、果心居士を殺そう けっしん と決心しました。 いざかや 果心居士は、自由なからだになると、すぐその足でまっすぐに居酒屋へいき、酒を注文しま はんたい ぶいち はら ちゅうもん おう 137
たおれてしまいました。 かしんこじ あらかわ 果心居士は、牢屋の中で荒川のことをきき、わらっていました。しかし、しばらくたってか やくにん しました。 ら、牢屋の役人にい ) 「あの荒川というやつは、じつにけしからんふるまいをやったので、わしは、やつの悪い心を じじっ なおしてやろうと、わざとこのしおきをうけるようにしむけたのだが、荒月。 ーよ事実を知らぬに せつめい ぶぎよう ちがいない。わしがいっさいのことをよくわかるように説明してきかせるから、奉行にそうつ たえてほしい。」 そこで、果心居士は、また、奉行の前へつれていかれました。そして奉行に、こう申したて ました。 「ほんとうにすぐれた絵には、、 とんな絵にも、たましいがこもっています。また、そのような いし 絵は、自分の意志をもっていますから、自分に命をあたえてくれた人はもちろんのこと、その せいと、つ ぬし 絵の正当な持ち主からさえ、はなれることをいやがるものなのです。すぐれた絵がたましいを しようめい むかしほうげんもとの もっていることについては、これを証明する話がたくさんあります。昔、法眼元信がふすまに ろうや 135
こじ とう・ いぎかや した。武一は、居士を追って居酒屋へかけこみ、一刀のもとに居士の首をはねました。そして、 のぶなが おうごん 居士が信長からもらったあの百両をうばいとり、居士の首とその黄金をいっしょにふろしきに つつんで、荒川に見せようと、いそいで家に帰りました。ところが、つつみをあけて見ると、 あらわれたのは首のかわりに、 からつほのひょうたんがただ一つ。黄金のかわりにはひとかた まりのどろ。しかも、果心居士の首なし死体が、どうしたわけか、いつのまにか、居酒屋の店 きようだい からなくなってしまっていたという知らせをきいて、荒川兄弟は、いよいよびつくりしてしま いました。 果心居士については、その後一か月ばかりは何のうわさも聞きませんでした。 やしき ところが、ある晩のこと、一人の酔いどれが、信長の屋敷の門前で、雷のような大いびきを けらい かきながらねむっているのを、信長の家来が見つけました。よく見ると、その酔いどれは、果 ろうや ぶれい 心居士でした。この無礼な罪によって老人はすぐにとらえられ牢屋にほうりこまれました。 ばん しかし、居士は、牢屋の中でも、十日十晩のあいだ、ずっとねむりつづけ、そのあいだも、 遠くからでも聞こえるような大いびきをとどろかせていました。 ばん かみなり 138
最後に、奉行がいいました。 まじゅっ 「そちが魔術によって人びとをだましていたことはあきらかである。その罪だけでも、とうぜ ばっしょ のぶながこうけんじよう ん重い罰に処せられるべきだ。しかしながら、そちが、今、その絵を信長公に献上するなら、 げんばっ つみおおめ とくにこのたびは、そちの罪を大目に見てつかわそう。さもなくば、かならず厳罰に処するぞ。」 かしんこじ このおどかしに、果心居士は、めんくらったようなわらいかたをしました。そして、大声で しいました。 「人びとをあざむく罪をおかしたのは、私ではございません。」 あらかわ それから、荒川のほうをむいて、 「おまえこそ、うそっきだっ。おまえは、あの絵を献上して、信長公にへつらおうとしたのだ。 ころ そして、私から絵をぬすむために、私を殺そうとたくらんだのだ。罪というものがあるとすれ ば、これこそまさしく罪だ。さいわいにも、おまえは私を殺すことができなかった。しかし、 もしおまえが、のぞみどおり、私を殺すことができたら、何といって、このような悪いおこな いを申しひらきできるか。とにかく、絵をぬすんだのはおまえだ。そして、おまえは、絵をぬ すんでから、信長公に献上するのがいやになり、自分のものにしようとたくらんだ。そこで、 133
おぐりそうたん れいかん た。すると老人は、あの有名な小栗宗丹が、霊感を得るために、百日のあいだ、毎日、身をき くぎよう きよみずかんぜおん よめ、たいへんな苦業をつみ、清水観世音にねっしんに祈ってえがいたものだ、と答えました。 じく のぶなが あらかわ かしんこじ 信長がその掛け軸をたいへんほしがっているのを見てとった荒川は、果心居士に、 との けんじよう 「その掛け軸を、殿さまに献上してはどうか。」 とききました。 すると、居士は、だいたんに答えました。 たから 「この絵は、私の持っているただ一つの宝でございます。私は、人びとにこれを見せては、少 しばかりの金を手にいれているのでございます。今この絵を殿さまに献上いたしますと、私は、 暮らしをたてるために持っているただ一つの手だてをうばわれることになります。しかし、殿 ′」しよもう おうごんりよう さまのせつなる御所望とあらば、黄金百両とひきかえということにおとりはからいくださいま すよう。それだけの金があれば、何かもうけ仕事がはじめられるというものでございます。さ もなければ、絵を手ばなすわけにはまいりません。」 信長は、この答えを聞いて、いささかきげんをそこねたようすで、だまっていました。 129
「ほほう、私を知らぬといわれるな。」 ひにくちょうし せきない いいながら、関内のほうへ近よって、 見知らぬ客は、皮肉な調子でこう 「ふん、私を知らぬとはいわせませんぞ。あなたは、けさ、私をひどいめにあわせたではない こししよ、つと、つ 関内は、やにわに、腰の小刀をぬきとり、相手ののどをめがけてはげしくつきさしました。 かたな かべ しかし、刀には何の手ごたえもないようでした。とたんに相手は、音もたてずに壁ぎわへとび つき、そのまま、壁をぬけて去ってしまいました。しかし、壁には、何のあともないのでした。 まるで、ろうそくの光が、あんどんの紙をすかしてとおるように、壁をとおりぬけてしまった のです。 なかま でき′」とほうこく 関内が、この出来事を報告すると、仲間の者たちは、おどろいたり、まごっいたりしました。 じこく じけん やしき 事件の起こった時刻に、見知らぬ人が屋敷にはいったりでたりするのを、だれも見ていないの なかがわこう しきぶへいない です。それに、中川侯の家来たちは、だれ一人、式部平内などという名を知らないのです。 か。」 153