ひとつの青春 金青年は私の漢文の先生である。京大の大学院の学生で中国の劇の研究をしている。私は友人 と二人、もう二年近く彼に時々来てもらって、中国の詩や旧い小説を読んでもらったりしている。 大変な秀才で勉強家で、将来どんなすばらしい学者になるだろうとたのしみな人だ。日本生れの 日本育ちの韓国人である。小学校から大学までは慶応で、ストレートに京大の大学院へ入ったら 金青年を識って、私は今時こんな若者がいるのかと愕いてしまった。礼儀正しく、さわやかで、 ューモアを解し、頭がすばぬけていいのに勉強家なのである。その上美男だ。自分の母親より年 上の私たち劣等生を厭がりもせず根気よく教えてくれる。いつまでも向うから狎れるということ がないけれど、さすがに二年近くもっきあっていると、親しみがわいてきて、勉強の終った後の 雑談にも次第に心を開いてくれるように感じられてきた。 両親とも韓国人だが、おかあさんはいつまでたっても日本に馴れす、今でも祖国に帰りたがっ 情ているという。実業家のおとうさんは一人息子の自慢の金青年が、大学院に人り、役にもたたぬ の中国の旧い劇など研究しだしたのでがっかりしているらしいが、今ではどうやらあきらめたよう ・たとカ
きっと今時珍しく素朴ではにかみやの人たちなのだろうと解釈していた。なぜなら、朝日の中 で夫婦仲よく働いている二人の姿から、心の冷い人という印象をどうしても受けないからであっ 一年と八カ月も毎朝顔を合わせながら、ほとんど会話らしいことをしたことのないその人が、 珍しく声をかけてくれたのだ。私は思わす、垣根の上から身を乗りだすようにしていった。 「鈴虫 ? 飼ってられるのですか」 ぎようさん 「ええ、毎年孵えしてるのやけど、仰山増えすぎて」 「嬉しいわ、下さいな、一昨年飼ったんだけど、冬の間にだめにしてしまって」 「明日持ってきときます。お宅の庭なら、虫の声がよう似合うやろなあって家内と話してたんで すわ」 翌日、お百姓さんは約束通り、硝子の水槽に入れた鈴虫を持ってきてくれた。 縁側で私たちはお茶をのみながら、鈴虫を中に置いてもう十年の知己のようにすっかり打ちと けていた。やはり私の想像通り、彼ははにかみやで容易に人に馴れないたちの心のやさしい人柄 であった。 箸にさした茄子が二本、水槽の底に敷いたしめった砂の上につきさされていて、味の素の罐の 蓋にだしじゃこが三尾のっている。鈴虫はその中でうようよするほどうごめいている。ざっとみ ても二、三十匹はいるようだ。 「時々霧ふいてやってね、餌をかえてやればすぐ隝くよ。まだかえったばかりで鳴かんようだけ 庭は白萩の花ざかりで紅萩は二分咲き、鷺草と、ほととぎすが可憐な花をつけ、桔梗は二度咲 , 」 0
の勤行にもタ方六時の勤行にもつらなって、雄大な韓国の山奥の寺の空気を心ゆくまで味わうこ とが出来た。 私くらいの年代の僧侶たちは、こちらのいう日本語は通じるが、長い間使わないから喋れない といって、必ず韓国語で話す。こちらのいうことはすべてわかるので心を通わせるのは何の不自 由もなかった。こまったのは、どこの寺でも、なぜ私が小説家でありながら、出家したのかとい う質問攻めに遭ったことだ。 華厳寺までは私と、安田さんとミス金の二人は全然待遇が違っていて、私は十畳くらいの立派 な部屋でおまるまで捧げ持ってきてくれたのに、二人は一般客の泊る四畳半くらいの宿房で、雑 仕のおばさんも一緒に寝たという話だった。食事も同じものだが膳が別で、ミス金が「ショッ ク ! 」の連発で私たちを笑わせた。二人に気の毒だったのは、どこへ行っても、お寺以外の食堂 でも、私がいる限り、肉や魚を出してくれないことだった。 ( たたきました。お 「先生と旅行して、お寺ばっかりいって、肉なしで大変清らかな旅をさせて、 かげさまで男の人きらいになりました というのは、最後の釜山に着いて、ミス金がおどけながらいったことばだ。 困ったのは、どこの寺でも、参詣に来ている老人たちが、私に逢うと合掌して、仏さまにする ような最敬礼をすることであった。こちらもあわてて返さなければならないので、おちおち出来 どの寺も日本のような観光気分はなく、来ている人たちは信仰心の厚い善男善女で、特に女の 人たちは、どこの寺でも五体投地礼のうやうやしい礼拝を三度すっしているのは印象的だった。 仏像は金ビカで、お寺はすべて極彩色で、およそ、日本のお寺や仏像とは印象がちがう。 250
その鑑定書によれば、宗一は外傷はないが、大杉と野枝は鈍体 ( 拳あるいは前膊など ) で窒息 させられたらしく、二人とも肋骨が何本も完全に折れるほど強大な外傷があった。蹴る、踏みつ ける等の傷だと鑑定され、生前二人が、無惨な暴行を受けていたことが判明している。おそらく、 二人はカのかぎり抵抗し、そのため、甘粕等に打つ、なぐる、蹴る等の暴行を受けたのだろう。 裁判の甘粕たちの供述は、相当整理された欺瞞のものが一方的にのべられたということが明るみ に出た。 大杉等の死体を受け取りにいった安成二郎氏の「無政府地獄ーによれば、渡された死体は形も ないほど腐乱していて誰がどれかさえわからなかったという。 私は四年前の九月十六日の大杉虐殺五十周年記念の追悼会の当日、渋谷の山手教会をとりまき、 蜿蜒長蛇の列をつくって、入る順番を待っていた若者たちの列を思い出す。その日、私も講師と して出席したが、折から颱風に見舞われ、どしゃ降りの雨になったのに、彼等は帰るどころか、 刻々数を増すばかりであった。今、大学生たちの間では、理想の女性は野枝さんといって、野枝 の人気が高まっているという。 いつの時代でも人間の自由や尊厳を生きる価値の第一義に置く者は、とかく権力の反逆者扱い され、愚かな民衆からは石を投げられるのが宿命のようである。しかし、彼等が汚名を着たまま、 闇から闇に真実が葬り去られるということはないのが不可思議である。五十年、あるいは百年後 に、真実がふいに輝きだす。その怖しさと奇跡があるかぎり、人は超越者の存在を否定し去るこ とが出来ない。
たくなにロにしなかった。人の顔をまともに見ず、陰気にうつむいて、固い冷い感じがした。 その頃のことを茂子さんは、誰一人、人間を信じられなかったと述懐している。 それ以来、長い歳月をつきあってきたが、茂子さんは次第に本来の明るさを取り戻してきた。 出所してからは子供たちとも別居して、一人アパート暮しをして、渋谷の金物店に勤めていた。 そこの御主人が実によく話のわかった人で、茂子さんの過去の経歴にこだわらず、雇ってくれ、 茂子さんを特別扱いせず、温かく待遇していてくれたようだ。 その勤めのせいで、茂子さんは停年までけなげに働きつづけた。 時々、私の東京の仕事場に立ちょってくれる時は、徳島の方言をまるだしにして二人で話し、 涙の出るくらい笑いころげることなども多くなった。 アパートの隣りの若い奥さんが、娘のように親身にしてくれるといって、その人と赤ちゃんを 私にわざわざ自慢して見せに来てくれたこともあった。長い獄中生活の間に、茂子さんの家庭は 無惨に崩壊しつくしていた。実子の一人娘のところも、実子以上に心をくだいて育てた先妻の子 たちのところも、出所後の茂子さんの心身の休らげる場所ではなくなっていたのである。まだ稚 い子供たちが、父を殺され、母を父親殺しとして捕えられた後、どんな心の傷を深めて生きてき たか、茂子さんはそのことを思いやって、彼等を決して責めてはいなかった。 先年停年退職した茂子さんは故郷の徳島へ引き揚げ、妹さんと二人で暮している。 私の得度以来、はじめての出逢いであった。 種昔風の感覚の茂子さんは私の出家というものに威圧感を抱いたらしく、何だか恐しくて、とい の ってなかなか逢おうとしなかった。 花 久しぶりで逢った茂子さんは以前よりふつくらして、若く見えた。東京時代よりなごやかな表 2 2 1
愉しい本 最近愉しい本を二冊送ってもらった。一冊は倉橋由美子さんの「ばくを探しにー ( 講談社 ) 。シ ル・シルヴァスタイン作を訳したものだという倉橋さんの初めての翻訳だそうだ。シルヴァスタ インという人は、私は知らなかったが、倉橋さんの紹介によると、シカゴで生れ、中西部で育っ たヒッビースタイルの人らしい。詩と散文を書き、絵や漫画を描き、歌を作ってギターを弾く多 才多芸の人らしい。「プレイボーイ」の漫画ですでに有名な人だし、本も何冊か出版されている んだそうだ。 アンバンかまるいおせんべいの五分の一くらいが欠けているように見える「ほく」が、なにか が足りないので楽しくないと思い、自分にびったりの「かけら」を探しに旅してゆくお話である。 文字は一行か二行、長くて数行、絵は、「欠けたばく」と、小さな小さなみみずやてんとう虫や 蝶だけ。あとはさまざまな「かけら」が登場する。 大人の絵本だそうだけれど子供だって見て愉しいだろう。私は「かけらーが大きすぎたり、小 さすぎたり、四角かったり、とがりすぎたりして、しつくりはまらない絵を見て、ひとりで吹き だしてしまった。 大体、私は本を読んでいて、よく笑うのである。非常にまじめな本を読んでいる時、何だかと 224
といったとたん、彼女たちは、きやっというような声をあげて入ってきた。口々におめでとう をいわれて一緒に写真をとったりしているうちにいよいよ五月晴れといううららかな気分になっ てきた。同居者の冴美嬢と弥生嬢の二人は、昨夜から、何やら今日の御馳走づくりに台所で獅子 奮迅している模様である。 賑やかな客が帰っていくと、花束が届けられた。薔薇の大きな花束のカードは、東寺で一度 だけあった美しい人なつつこいお嬢さんからであった。まだ若くて、親のすねかじりのように見 えたのに、こんな花を贈ってくれたりしてどうしたらいいだろうと心配になる。それを皮きりに、 例年のように続々花が届きはじめる。昨年は薔薇であふれたが、今年は圧倒的に蘭が多い。白い 大輪の芍薬も美しい 「お花はいらないのよ。絶対あふれるようになるんだから 「だって、今年は不況でしよ。万一、こなかったら、どうする」 「大丈夫、きっとくる」 そんなひそひそ話をして、冴美ちゃんと弥生ちゃんは、昨日近所の畠のあぜ道で、野あざみと、 金ほうげをつんできて花飾りをすましておいたので、花が届く度、大喜びしている。わが家の壺 を総動員して花をさし、床の間は、花屋のウインドウのようにたちまち花であふれてしまった。 しいと思わないのはどういうわけだろう。 ~ 化とい , つのはいくらもらってもも , つ、 十時すぎから今日の正式のお客が到着した。 種生後二カ月の赤ちゃんを抱いた彼女は、私の有能な秘書をしてくれていた人で、彼女が寂庵で の 逢った人と結婚してやめた時は、私の事務的能力のなさに愛想をつかしている編集者諸氏をがっ 花 かりさせた人である。きやしやで一ひねりで折れそうな人だったのに、子供を産んで母なる大地
小学生の頃というより幼稚園の頃から、私は映画館に入りびたりみたいに映画好きで、市川 百々之助の忍術映画から、林長二郎、高田浩吉、坂東好太郎などの時代劇が大好きだったから、 女学生になって、一切映画を見ないのがどんなに辛かろうと思ったものの、その時はその時で、 あっさりあきらめていた。 ところが、姉とさんが夜を徹して語る「或る夜の出来事、は、本当に面白そうで、生唾がた まるようであった。 十八か十九の頃の二人の娘が、目を輝かせ、腕をふりまわし、夜も眠れないほどいい とい一つの だから、どんなにすてきか察するに余りある。 何でも二人の話にしきりにジ = リコの城壁なることばが出て、意味深長にくすくす笑う。その わけを聞いてもふたりとも、あんたのような子供にはわからないと優越感に満ちたうなすきあい をするばかりである。 それから数年たち、私は東京女子大の学生になって、東京で「或る夜の出来事ーを観た。 男と女のべッドの間にロープをひき、毛布をかけて越境しないようにするという場面がそれで、 最後は、ラッパの響だけきかせ、落城をつげ、二人の恋の成就を暗示するというしゃれた終り方 であった。 あの時、あんなに喜んでいた co さんは結婚し、女の子を産んでまもなくなくなっていたから、 私はよけいその映画を観て思いが深かった。 あれから三十年もすぎている。私は、三十年ぶりに観る映画が、い っこうに色あせず、会話も ストーリ ーのすすみぐあいもしゃれていて、終始堪能しつくした。 コルべールは「ローマの休日 [ のヘップバーンに新鮮さにおいては劣るが、色つばさにまさり、 210
「いきますよ、つれてって」 と、私は一も二もなく出かけていった。 えんま堂というのは千本釈迦堂のことで、千本鞍馬口から少し南に行くと西側にある。本来の 名は引接寺というお寺であるが、一般には千本釈迦堂、あるいは千本閻魔堂の名で知られている。 昔は大変広大な地域を占めた大寺院だったそうだが、今は荒れはてた小さなお堂である。ここで は昔から壬生狂言と共に名高い大念仏の行事があって、念仏狂言が有名であったという。数年前 火事で、狂言の衣裳や道具をすっかり焼いてしまって、その後狂言もとだえていたのを、若い人 たちの努力で再開したから、ぜひ見ようというのであった。そのお寺の息子さんが、さん夫妻 の仲よしのお友だちだというので、二人のカの入れようも並々でない。 五月に入って、珍しく肌寒いタ暮れ、迎えに来てくれた二人につれられて出かけていった。 たまたま、壬生狂言の御案内を今年はわざわざいただいていたのに、仕事がたてこみ、行きそ びれてしまったので、私の心は弾んでいた。 千本通りというのは何となく地方の銀座通りのように野暮ったい町並で、それが私は好きなの だが、たそがれ時が最もその感じを濃くする。立ち並んだ店の飾りつけも品物も、何となく垢ぬ けしないのが人なっかしいのである。 えんま堂はそんな通りの大通りからちょっと引っこんで建っていた。がらんとした前庭にもう 車が何台かあつまっていた。このお堂は東山の六道珍皇寺さんと共に、八月のお盆の時は精霊迎 種えの人々が、槇の葉にあの世の精霊たちをのせて、家の仏壇へお迎えするので、ここへお詣りし の て槇の葉を買って帰る人たちで一杯になるそうだ。それ以外は、閑散とした寺だという。 花 壬生寺と同じっくりの舞台があったというが、それも焼けて見当らない。今は本堂の閻魔さま 21 う
という感じに肥ってしまって幸福の固りみたいな顔をしている。赤ちゃんは私が名づけ親なので ひいき目になるのか、美女の卵と見える。おしめ袋をさげさせられているパパも至極幸福そうな 表情で、里帰りしたようにのんびり坐っているので安心する。 やがて、次から次に客が集る。みんなもと私を扶けてくれていたお手伝いたちの家族づれであ る。彼女たちが語らって、私の誕生日に同窓会を開いて祝ってくれようというのであった。あら ためて数えてみたら、私のところに縁があって来てくれた人たちは、十五人いる。十六くらいか ら十数年もつづいていてくれた人もあれば、一年でお嫁にいった人もいる。私が結婚式に出た人 たちも五人いるし、名をつけた赤ちゃんも四、五人いる。一人だけ、赤ちゃんを残して早死した 可哀そうな人がいて、こんな日には私は美しくてやさしかった彼女を思いださずにはいられない。 飛び入りで立ちょってくれた客も、唯ならぬ寂庵の賑やかさに圧倒されて目をまるくしている。 そして異ロ同音に、 「お幸せですねえ」 といってくれる。一人の娘を夫の許に置きっ放しにして育てもしない私に、これだけたくさん の有縁の娘のような人たちがいつまでもついてきてくれ、里帰りのように和んで集ってくれると いうのは確かに只ならぬ幸せな有難いことであると思う。十五人全員で集れるわけはないが、そ れでも半分以上は集ってくれた。あまり遠くにいて遠慮して知らせなかった人たちにも、やつば りしらせた方がよかったのではないかとみんなで後悔したりしている。 お手伝いがないとか、人手にこまるという話はたくさん聞くのに、私はかって、そういう不自 由は感じたことがない。い つでも二人か、多い時は三人も四人も若い娘たちが同居してくれるこ とがある。私がこの二十年ほど、自分でもぞっとするほど仕事がしてこられたのは、ひとえに彼