有名な奈良東大寺のお水取りに行「たことがないとい「たら、誰もがまさかという表情をする。 京都に住みついて、毎年冬が来ると、 「お水取りがすまな、あたたこうはなりま〈んなあ。それに、京都はそのあと比良八荒がおま「 せ。ほんまの春は、その後からやってきますー とよく聞かされていた。 今年のように、何十年来の寒波襲来の寒い冬でも、不思議にお水取りが終りに近づいた頃から しゅにえ 急にあたたかくなり、私が今年はじめて、お水取りの修二会に参拝しようと出かけた三月七日は、 嵯峨のわが庵では朝から鶯がしきりに鳴いていた。鶯は今年はじめて聞いたので何となく幸先が よいように思われる。 梅は濃緋もうす紅梅も、白梅も、い「せいに咲き揃「た。これは今年の冬の異常な寒さで昨年 よりはおくれている。 たいまっ 条お水取りという呼称が一般的にな「ているが、奈良や東大寺では「お松明、の呼称で通「てい 蕭 るようである。水の行より火の行といった方がふさわしい行法である。 冬 あくまで行法である以上、それは見物に行くものではなく、「お詣り , に行くものであり、行 お水取り 171
声は若くはりがあって、話術はうまいし、退屈しない。私はテレビによく出るが、自分のテレ ビを観るのは嫌いでほとんど観たことがない いつでも色も悪ければ映 そのせいかうちのテレビはいくら買い替えても当ったためしがなく、 像もぼやける。今度は小倉山を背にしているので、またまた映りが悪い。手伝いの少女たちが、 あんまり、隣家のテレビの映りのよさを羨ましがるので、つい最近買い替え、アンテナ塔のすこ く高いのを打ちこんだばかりなので、丁度よかった。 画面の寒村翁と実物の寒村翁を見比べながら、元気のいい翁の声を聞いて、時々、野次を飛ば しながら観るのはまた一興であった。画面で鈴木アナウンサーの巧妙な誘導尋問にのせられ、翁 は、管野須賀子や、次の奥さまの玉夫人のおのろけの披露に及ばれた。 「管野は、男出入りが多くて、その方では海千山千の女だったから、十八や九の何も知らない私 をものにするのなんざ、赤ん坊の手をねじるようなものだったでしよう」とか、 ばんだいづら 「彼女は、顔はちっとも美人じゃなく、色は白かったが盤台面だったけれど、そばへゆくと、と ろりとするような一種の妖気がただよっていましたね」 とかいわれる時、実物の翁の方を見ると、何だか照れて、薄笑いをされていた。 「でも、先生、先生はすぐ、もう死にたいなんておっしやるけど、大逆事件のあの人たちは、今、 この時代に、先生が、のテレビからこんな事件のことをはっきりいえる時代が来るなんて 思ったでしようか 情と私がいうと、翁はうっすら涙の浮んだ顔で「ほんとにそうですねーと、感慨深そうにうなず のいていらっしやった。 119
をとったり、 租税のビンはねをしたり、今の政治家の先輩のようなことをして、お金だけはため こんでいたから、その娘たちは、宮仕えをやめたところで、暮しに困るようなことはなかったの である。要するに彼女たちの書くものは生活のために書いたものではない。「かげろふ日記」の 作者などは、当時の権力者としては第一人者の藤原兼家の妻なのだから、たとえ、夫の愛を失っ てしまっても、暮しに困ることもなく、やはり、父は裕福な受領だったから、夫からの生活費が 絶えていたとしても、暮しの心配などした気配はない。 もちろん、「源氏物語」より先に書かれ た私小説の元祖である傑作「かげろふ日記」にしても、原稿料や印税など考えもしなかった筈で ある。 小説や戯曲でお金がとれるようになったのは木版ながら印刷して大量に刷れるようになった江 戸時代からで、近松や西鶴や馬琴からのことである。その頃、小説を書いてみようとした女がひ とりもあらわれていないのは惜しいことだ。物を書くというのは、多かれ少なかれ、欲求不満の 産物だから、封建社会の江戸時代の女たちは、今の私たちが考えるほど、男の圧迫のもとにちぢ こまっていたわけではなく、案外、男の働きによりかかり、欲求不満などなかったのかもしれない。 人妻であろうが、娘であろうが、世の中の女の掟がきびしく定められていた時代に、思いもか けない情熱的な生き方をして情熱のためにわが身を破滅においやることもいとわなかった女がい たことは、近松や西鶴がおさんや、八百屋お七などに書き残している。行動すれば、物を書かな くてもいいので、行動しない時に、女はものを書きたがるものらしい 情最近、私が最も愛読している本は、チェコの生んだ著名な作家カレル・チャベックの「園芸家 のカ月ーという本である。中公文庫の小松太郎氏の訳で、この訳がまたとても愉しい。こんな愉 快な肩のこらない、そして面白い本はめったにあるものではない。チャベックといえば、大学で
うから、丁度坐禅のように無念無想になる。小説を書いていて、気がつまると、私は小刀をとる。 すると、夢中になって時がたち、たちまち、二、三時間がすぎてしまう。 これでは編集者に叱られるばかりなので、名残り惜しく小刀を置く。 明琳先生は、 / 柄で白髪で飄々とした美しい風貌をしていらっしやる。 「雨の嵯峨もよろしおすな、今日みたいな雨の日に伺うてよかった。苔がこんなにきれいに根づ かはったの見せてもろて」 しばらく庭に目を細められた後、どれといって、私の仏像をとりあげ、足許が悪いという批評。 えもん 後はお手本用の仏像の衣紋を彫りながら、ひとりごとのように淡々ともらされる。 「人間は生きてるもんどすなあ。もう早う死んでもええと思うてましたけど、つい先日ふっと、 目の前が明るうなるような思いで、またすっと、知らなんだ境地が見えてきましてなあ。これは、 もっと生きてて、この先も見んならんと思いました。仕事は、もうこれでおしまいという境地は ないもんどすなあ、あんさんの物書くお仕事かてそうどっしやろなあ」 それはどういう境地かと思わす身を乗りだすと、やはり手を動かしつづけながら、 「そうどすなあ、こういうもの彫ったろうという自分の心を捨ててしもて、何もかも木にまかし てしまうんどす。そしたら、木の中から、仏さんがすうっと、勝手にお出ましなさる。こっちは そのお手伝いするだけでよろしいんですわ。自分の心に、よう彫ろうとか、今度はこんな形でい こうとかいう、はからいごとがあったらいきまへんな。からつばになってすうっと、木の中に入 首っていくんですな。昭和仏というもののお姿がその時、はっと拝めましてなあ ほうにじねん 休苔にしみいる雨の音のように、その声音はあくまで静かでさりげない。法爾自然ということば 利 が雨の中に聞えてくる。
ほ、ほ、ほたるこいあっちの水は苦いぞ こっちの水は甘いぞほ、ほ、ほたるこい どの子も口々にそんな歌を口すさんでいた。螢籠は細い針金とプリキで出来ていて、青蚊帳色 に塗られていた。 大人たちは、竹箒を振って、その中に無数に入る螢を捕っていた。 昨年、はじめて嵯峨の夏を迎えた時、わが庵の前の田んばの向うの森の中に明滅する螢を見つ 躍りあがってしまった。森全体がクリスマスツリーのように螢の光りに飾られるのである。 やがて、それは森の中に流れいっている曼荼羅川に集る螢だとわかった。曼荼羅川は、森へ入る 前に、曼荼羅山を清滝の方から流れてくる。嵯峨野の観光道路になっている道の辺を流れていて、 寂庵からは歩いて二分に曼荼羅橋がかかっている。 そこへ行ってみると、たんばの中を流れてくる川の両岸の雑草の中にも、流れの中にも螢が無 数に光っていた。稲田のふちの土手にも、田の水の中にもそれは散っている。嵯峨は空気が澄ん でいるせいか、星の光りが市中よりきわだって美しい それらの螢は、空の星がちらばり落ちたようにも見えた。見ていると、螢は空中に飛び上り、 それは思いもかけない高さまで飛翔する、流れ星のように螢のひく光りの線が空中で交錯してア 一フベスクを描く。 思いがけない美しさに私は立ちつくし見惚れてしまった。まもなく、近所の人たちが箒ゃうち 、こって出てきたというふ わや捕虫網で螢狩りに来るのと出逢うようになった。晩餐のあと、思しオ うで、年寄も若夫婦も孫も夢中になって螢をとらえている姿はほほえましかった。曼荼羅川の螢 はせいぜい、私たち二、三軒の家族にしかねらわれないので夏中光りつづけていた。大覚寺に近
小学生の頃というより幼稚園の頃から、私は映画館に入りびたりみたいに映画好きで、市川 百々之助の忍術映画から、林長二郎、高田浩吉、坂東好太郎などの時代劇が大好きだったから、 女学生になって、一切映画を見ないのがどんなに辛かろうと思ったものの、その時はその時で、 あっさりあきらめていた。 ところが、姉とさんが夜を徹して語る「或る夜の出来事、は、本当に面白そうで、生唾がた まるようであった。 十八か十九の頃の二人の娘が、目を輝かせ、腕をふりまわし、夜も眠れないほどいい とい一つの だから、どんなにすてきか察するに余りある。 何でも二人の話にしきりにジ = リコの城壁なることばが出て、意味深長にくすくす笑う。その わけを聞いてもふたりとも、あんたのような子供にはわからないと優越感に満ちたうなすきあい をするばかりである。 それから数年たち、私は東京女子大の学生になって、東京で「或る夜の出来事ーを観た。 男と女のべッドの間にロープをひき、毛布をかけて越境しないようにするという場面がそれで、 最後は、ラッパの響だけきかせ、落城をつげ、二人の恋の成就を暗示するというしゃれた終り方 であった。 あの時、あんなに喜んでいた co さんは結婚し、女の子を産んでまもなくなくなっていたから、 私はよけいその映画を観て思いが深かった。 あれから三十年もすぎている。私は、三十年ぶりに観る映画が、い っこうに色あせず、会話も ストーリ ーのすすみぐあいもしゃれていて、終始堪能しつくした。 コルべールは「ローマの休日 [ のヘップバーンに新鮮さにおいては劣るが、色つばさにまさり、 210
え、そんなことはと、お世辞にもいえない と、こともなげに丹佳子夫人がおっしやると、 迫力があって、こちらはただ目を伏せるしかないという実感が伝ってきた。 生前の米川正夫さんは偉丈夫という感じで、その偉大な仕事の業績を見てもエネルギーのかた まりのように思い、九十まで生きる方のようにお見受けしていた。しかし、思いがけす、夫人が 残されて、やはりはやくも十年近い歳月がすぎたのである。 昭和三十六年夏、私は丹佳子夫人を団長とする女ばかり四十人ほどの団体でソ連を訪れた。そ の時がはじめて丹佳子夫人とお識りあいになった時であったが、今思えば、私の今の年齢くらい であられたろうか。プルーに白いあやめの花を染めた目のさめるような訪問着が、華やかによく お似合いで、今でもその色も、楚々とした夫人のお姿も瞼にありありと浮んでくる。 今にも折れそうな嫋々としたお姿に似す、夫人は女高師出の才媛だけあって、実に頭のきれる てきばきした方であった。どこの町でも夫人のスビーチは力強く聡明で、情熱的で、向うの人の 目を見はらせていた。 「この旅で死んでもいいのよ。どうせ、長くない命だから」 ードなスケジュールをこなしていられ、見事に その旅の途上でも、よく夫人はつぶやかれ、 団長としての役目を果して帰られた。 かくし妻ありてふ夫の横顔を素知らぬ顔にながめつつ居り ひいなともら 亡き人のめでたる雛弔ふはわが葬りぞとひそかに目もる 情妻に先だたれた夫はひたすらみじめで痛ましい。夫に先だたれた妻は、淋しいけれどゆたかさ のとすがすがしさが感じられるのはどうしてだろうか。 はふ 115
最近、私は土にこって、むやみに藁を焼いたりきざんだり、ビートモスをませたり落葉をつみ 重ねたり、腐葉土づくりに熱を入れているので、ふつくらした黒土のためなら、死体であろうと と思ってしまうようだ。 何であろうと栄養になるものならいい 昨年から、ひたすら、木々の栄養に人間よりカをいれたせいか、今年の木々の生長はめざまし 、花も実もっきが一段といい 。萩のつぎの自慢は山茶花である。これは垣根用に植えたのが、 白ばかり集めたもので、去年も花が咲き揃った時、その見事さにびつくりしたが、今年は去年に もまして、数えきれないほど花をつけ、夜目にも鮮やかに白々と咲き匂っている。もう一カ月も 咲いているのに、咲いては落ちる片端から、蕾が開いていくので、一向に花が劣えたとも見えな い。純白の大きな花は、一重も八重もまざっていて、山茶花というより大輪の椿のように見える。 山茶花ばかりに気をとられていたら、萩を刈りとって、急にがらんと物淋しくなった庭に、も う真赤な獅子頭が咲きはじめていた。 これも冬中、次々、咲いては散り、咲いては散って淋しい庭の色どりになってくれる。 うちの庭は椿に性があわないらしく、昨年は椿がみんな失敗した。椿と山茶花は似ているのに、 どうやら山茶花の方が野生でどこにでもついて強いらしい 弱ってしまった椿を、もうだめかもしれないと思い乍ら、畠の方に移しておいたら、そこで生 きかえって、ある朝気がついたら、びつくりするほど蕾をもっている。どれがビンクだったか、 どれが赤だったか、しばりだったか忘れてしまったので、咲いてみなければ、どの木がよみがえ 情ったのかわからない。 の紅葉は今年は気候のせいで、どこもよくないそうだが、わが寂庵のは、あきらめていたら、あ叩 る日ふっと色が美しくなり、ここ、半月ばかりの間に燃えるような緋になり、遠目にも庵をつつ
」、こ。欠俣へ橋本憲三さんのおくやみに行ってきて、 その桔梗が、今年は六月十三日に一輪しオ 7 帰ったのが十三日の日曜日で、門を入るなり庭に廻ったら、三日前出かける時は一輪も花がつい ていなかったのに、ばっと灯をともしたように紫の桔梗が花を開いていた。去年より更に一まわ り大きいように目に映じたのは嬉しさの錯覚であろうか。今年は桔梗の丈が十センチばかりにな カくしくいのひ った時、昨年教えられたように茎の先の芽をつみとっておいたのに、なせか、茎。、 育ち、どの茎も三十センチはとうに越え、長いのは五十センチにもなった。百本の苗が五つ六つ 減っているようだが、種から私がまいておいたのも結構二年めの茎として育ち、どう見ても去年 より多い。しかもどの茎も気味の悪いくらい太くしつかりとのびるので、何だか桔梗でないよう 栄養がきき に見え、葉もむやみに元気よく、花芽がなかなかっかず、ずいぶん気をもんでいた。 すぎても花がっかないというから心配していたら、ある朝、花芽を発見し、それからはどの茎に も星屑のようなかわいらしい花芽がっき、みるみる育ってきた。小さな風船のようにふくらみき った蕾が、今開くか、今開くかと待っていた時なので無性に嬉しい。花が七つくらいになった時、 一茎だけ剪り仏前にお供えした。桔梗に先だって仏堂前の沙羅双樹が開きはじめたが、これは命 が短く、剪るのがかわいそうで剪れない 今年の桔梗は茎がしつかりしているせいか剪った後も命が長く、蕾も剪られたままで次々開い てくれる。花好きの編集者が種をくれて育った霞草とあわせてさすと、如何にも尼寺らしい花の 相になってすがすがしい。 訪れる編集者は、女性なら例外なく花が好きで、花をたすさえてきてくれることも多いが、仕 事の用で電話をくれた時でも、今、何のお花が咲いていますかと訊いてくれる人も少くない。大 好きの人が、犬の安否を訊かれるのもこんな嬉しさかもしれないと想像する。私は勢いこんで、
中に、私は二絃琴と一絃琴をみつけ、私は氏にお願いして、二絃琴を弾いていただいた 八雲琴ともいわれ、明治にはやったもので、須賀子は京都でこれを覚え、時々弾いていたとい う。須賀子の琴にあわせて、同志が集って革命歌など歌ったりしたこともあったと、坂本清馬氏 が書いていた。 私は、寒村先生に、そのことを訊いてみたいと思いつつ、つい、お逢いすると忘れていた。 「八雲琴は先生がおもらいになりましたかー 「いいや、もらいません。あの時は、管野が下宿していた産婆だか何かの家の者が欲ばりで、管 野が死んだ後、大した物もなかったんだけれど、ほとんど、みんな取りこんでしまったというこ とですよ。堺さんがそういってたのを覚えています。ええ、八雲琴というのは爪をはめて弾く、 とても単調なもので、どうってものじゃありませんよ。子供にでも弾けます。さあ、そんなにう まいとも思わなかったな」 今は淡々と語っていられるが、先生は私の下手な読経の間、粛然として頭を垂れ、泣いていら れるように肩に首を落していられた。 私たちは、獄中での秋水の思想の変化や、須賀子の死ざまの勇敢さなどについて、語りあい 仏さまのお下りのおはぎを食べあっていた。 1 ) 0