美しい人はまた目に涙をきらきらあふれさせた。私はその前夜、真夜中に三時間近く電話で喋 り通した女友だちを思い浮べていた。愛欲の苦しさに神経までおかしくなった友人の電話を聞き ながら、ただ聞いてあげるしかその人の心の和みようがない状態に、私の気持も沈みこんでいた。 地獄だと、その女友だちは電話の中で呻いた。 心がさめ、地獄から這い出てしまえば、その時の自分の姿も、こつけいさも見えてくるが、地 獄に堕ちているかぎり、自分というものは見えない。見えるのは、自分を苦しめる相手のことば かりなのだ。美しい人が、何も打ちあけず、それでも来た時よりはいくらか明るい表情で帰って いったのを見送って、私はあの人も、もう地獄から半分足をふみだしているのかもしれないと思 っ一 0 翌朝、新聞に怖しいものを見た。男をつくって家出した妻の夫が、子供を道づれにビルの屋上 から飛び下り心中をしたというのである。小学三年生の子供が、地獄と極楽の絵を描き、「おか あさんはじ国へいけ、と書いたものが遺されていたという。鬼と針の山を描いた地獄と、路の両 側に花の咲きみちた極楽が描かれ、極楽の道には愛犬の姿が描かれていた。この子は誰にこんな 地獄、極楽のイメージを与えられたのか。 また別の新聞には、大阪の結婚相談所の看板の裏の売春のほとんどが主婦だという記事が出て 。生活費のため、興味のため、自分の小遣いかせぎのため、様々な理由をあげながら彼女た ちはけろりとしているという。 種ここにも地獄の闇がある。今の世を見せたら、平安の地獄を書いた源信は、どんな顔をするこ の とだろうか 花 20 ろ
教に文句をつけたが、女を自ら廃棄した私にしても、夫とか妻とかいうのは、この世の仮りの約 束ごとのように思えてならない。 私はインターに所属した売春主婦たちが、ただ手つとり早く、手軽く、金もうけのため とか、火あそびのつもりでそこに出かけていたという精神の低さがいやなのである。「罪の意識」 かないと、新聞では叩いているが、この場合の「罪」は法律上の罪ではなく、自分の心に堂々と 神も仏も、遠くにいるのではなく、自分の心の中 顔を向けられるかというように私はいいたい。 にいつでもいるものらしい。私にはどうも毎日、お経をあげていて、そんな気がしてならない。 浮気をするのも、身を売るのも、全身全霊、命がけでやれば、もしかしたら、そこに煩悩即菩 提の妙境が突如としてあらわれ、地獄から極楽へ一挙にひきあげられるという奇跡も起り得ない とはいえないのである。 奇跡とは、そもそも、そういう摩訶不思議な現象をいうのであろう。 これも大阪の主婦を対象に、いっか、どこかのお役所で調査したら、性病にかかっている女は、 主婦が八〇パーセントだったという数字が出て、このうち、夫がわかっていないのが半分以上だ と出ていた 主婦だけが女の中で馬鹿なのではなく、今の日本では、主婦が一番、自信過剰に暮せる場にい るのではないかと思う。やさしい、聡明な、清らかな主婦も私は実に無数に知っている。しかし、 そういう彼女たちにしても、共通の悩みは、自分の家中心的で、エゴイスティックなのはどうし 種てであろうか。 の キリスト教も仏教も、女を悪の根源としているところが摩訶不思議ではあるまいか。 花 207
一年に一、二度の会の集りで、このごみ籠を女手でもちあげるのは大変だという話も出た。土 産物屋の奥さんたちがとても積極的に働いていられて、みんな自分の住いとは遠い地域の清掃日 でもいやな顔もせず、出かけていく。 嵯峨野は日一日と家が建ちつづけ、何年ぶりかで嵯峨野を訪れた人たちは、噛んではきだすよ 「嵯峨野ももうだめですね」 という。そうかもしれないが、それでも、ここに住みついてみると、私などは、昔あこがれて 通いつづけた頃の美しさは、まだ半分は残されていると思うのだ。 どうして、こんなところに、こんなものを建てる許可をしたのかと、自分の庵を建てる時、ず いぶん文句をつけられた風致課の方針を疑うこともあるが、それでも、きびしい規制地区だけに、 そうむやみなものも建たず、まだ畠もいくらか残っている。 私たち住民が、毎月、何日か箒を持ってごみをとってまわっても、観光客が心なくごみを捨て ていけば何の役にもたたないような気もするが、きれいなところに最初のごみを捨てるにはやは しとみんな考えているようだ。常寂光寺さんは、 り心に抵抗を感じる筈で、その歯どめになればい、 「つまらないことかもしれないけれど、ごみを拾いつづけて十年もたてば、何かが自分にもわか ってくるのではないでしようか と、謙虚な心構えを洩らされた。 種観光寺と土産物屋が集って、嵯峨野を守るなど何をいってるかという世間の悪口も聞えてく の 花 世間というものはいつでも、人が何かしようとするとけちをつけたがるものだし、無責任な放 る。 195
賛成は当然、化粧から解放されて、サバサバしたというものである。 私は在家の人間の頃、人並みに、いや時には人並み以上に化粧にこったこともあった。その時、 たしかに男性のためになどというさもしい根性はなく、造作悪く生んでくれた自分の容貌に挑戦 して、いろいろぬりたくったり、つけたりすることで、別な自分を開発し、自分で自分の好きな 顔を生みだす興味と情熱と快楽を味わっていた。 また、得度以来、きれいさつばり、化粧を捨ててしまって、たしかにさばさばとして、時間と お金をずいぶん返してもらっている。ただし、素顔の自分を自分で好きになるためには、如何に 化粧でごまかすより大変な精神の緊張感を要求されるかを思いしらされた。 衣裳もそうである。その日の気分によって、着るもので自分の疲れや、気持の凹みをカムフラ ージュして来られたのが、僧形となってからは、白と黒だけの僧衣になったのでごまかしようが ない。黒も白も、心が萎えている時は絶対に似合わないきびしい色である。常にお祭りのように 心に張りをもたせ、儀式に出る時のように高度に緊張していることを要求する色である。 坊主頭もしかり。顔のりんかくの欠点や、造作のまずしさをかくす何のかげもっくってくれな いのである。 仕方がないから、私はせっせと顔を洗い ノンパンと手で叩き、面の皮も心も、常に目覚めて いるようにつとめざるを得なくなった。これも化粧の一種であろうか。私は美意識から出家した ようなものだから、出家して後の自分が醜いのは許せないのである。 面白い二頁の小さな新聞を読みながら、私はこんなことを考えていた。尼の呼吸もまた、女の 呼吸の分類に入るのであろうか。 好漢高橋氏の呼吸も女の呼吸に近いように思うけれど。
しまっている。その上に富本憲吉さんの九谷ふうの色彩のらつば型にひろがった変った四角の器 がおかれ、薄やきのおせんべいが盛られていた。陶器の鑑定では天才的だといわれている星野さ んは、すぐ、その鉢を手にとって、初期の珍しいものだと感心なさる。型が無造作で、遊んでい て、いかにも愉しい ンに 志村さんは御自分の作品のこまかい格子の着物に、ふろしきでつくったという濃いグリー 麻の葉の刺し子の帯を軽々としめておられた。茶や、紺や、緑や、黄の格子の紬は、もう、着こ まれて、いかにも柔かく志村さんのふつくらした驅を包みこんでいた。 衣桁につぎつぎと志村さんの作品がかけられた。私たちはその一枚毎に感嘆の声をあげた。最 もけたたましく喜んだのは私であった。もう用もない筈の私の興奮ぶりに、星野さんが呆れて 「あんたも好きだなあーと笑われた。 翡翠色の無地や、藍熨斗目は、私に髪があれば、その場でゆすってほしいものだった。自分に 絶対似合うと心が高ぶってきて、私は、はっとなった。昔、好きな着物に出逢った時、私は、そ れを着こなしてみようと心がはりきった。自分より格調の高い着物に私は挑戦することが好きだ った。似合う着物に出逢った時は安心の喜び、似合わないけれど格調の高さに魅せられた着物に 出逢った時は憧れの興奮に胸がときめいた。 志村さんの着物は、すべて格調が高く、美というものに少しでも目のある人間に気おくれをお こさせる純粋さがあった。男はこういう美の前には敬虔にひれ伏してしまう。女はこの美に魅せ られて、眠っている内なる魔を呼びさまされる。似合っても似合わなくても自分のものにして、 表 の自分の肌との媾合を夢みてしまう。 「これで染めたのがこの色です」
あだったが、南のファンの若い男の子や女の子なら喜びそうなセンスもある。 南のエッセイ集だが、 「活字化された自分の文章は、確かにわたしにある種の櫪を与えはする。でもそれは大袈裟な意 味でなく、あらかじめ覚悟の上のことだ。その枷をわたしにとってただの苦痛にしてしまっては いけないと思う。それはどんなことでも書いてしまったことから生じる責任をひき受けようとい うことだし、書いたものを自分の生き様で裏切らないという自分との約束だし、それが支えでも ある」 という文章が、開いた頁から飛びこんできた。安田南は、私くらいの世代の人間は、何者かほ とんどの人が知らないが、三十代二十代、いや十代の人の間でなら、相当な知名人であるらしい 私は数年ぶりで逢った半年前の南を見て、三十をこしたと聞き、へええと、目をまるくしてしま った。すいぶん逢わなくても私たちは逢った瞬間、昨日別れたばかりのような印象を持ちあう仲 で、私は南が、たとえば、誰かに殺されたとか、自分で割腹したとか、あるいは突如、世界一の 金持と結婚したとか、フンザ王国の女王になったとか聞いても一向に愕かない。 つまり、南なら、 なんだってやりそうだし、何をしたって南が南であることに変りはしないと信じているからであ る。南の方でも、私に対してそう感じているらしく、この本の中に、「瀬戸内晴美さんのことな ど」とあるのでばらばら見たら、私の得度を新聞でいきなり見て、ショックだったけれど、愕か なかったといし 、その文章は、私のあの事件に様々に示されたどの人のことばや文章よりも私に は嬉しかった。やつばり南は私の知己だと感謝した。 南と私とは年齢的には丁度親子である。南のおかあさんは私とほば同年で、これがまたすてき な女だが、私と南が、同性愛でもなく三人ともしオ 、こって男好きだから ) 同性愛以上に仲のいい 168
女の呼吸 「婦人民主新聞」という週刊の新聞を私は愛読している。佐多稲子さんがリーダーの婦人民主ク ラブが発行している新聞である。この頃、特に私がこの新聞の届くのを待ちかねて帯封を破るの は、夏のはじめ頃から連載のはじまった折目博子さんの「女の呼吸」という小説が、とても面白 いからである。 ヒロインの香子という女性がまことにユニークで、これまでの日本の小説にまだ書かれていな い魅力のある言動をするからである。 彼女は精神の全き自由を需めることが生きることだという信念を持っていて、人間関係に絶対 を求めて暮そうとするため、この世の中ではことごとくに心を傷つけられ、失望させられる。持っ て生れたあふれる健康さを持てあまし、夫から「きみは元気すぎ欲望が強すぎるーといわれて、 健康さが病気のような気がしはじめ、彼女の中の生命力が逆に自分を蝕ばむように思う。 《人は傲慢だと思うかもしれないが香子はいっからか、人間に関する問題はすべて自分の問題で 情もある、と考えるようになって以来、時折は、自分を犯罪者か精神病者のように感じている。残 の念なことだけれども、美しいものに届こうとすればするほど、人間は醜いものにも目覚めてしま うものではないだろうか》
花の種 寺は秀吉の軍隊が焼いてしまったのだから、みんな新しいのは仕方がない。お寺はすべて、山奥 の幽邃な地にあって、そこまでたどりつく道の美しさや、自然の景観は、およそ清浄そのもので、 した。どこにいっても万緑の輝しさがまぶし 日本の観光化しきった寺々とは全く趣きがちがって、 く、行程の半分は梅雨めいた雨に逢ったが、それもまた緑をいやまして美しく洗い、すがすがし い眺めだった。どの寺にいっても花々が咲きあふれていた。仏頭華という白い大でまりのような 花が必ずたくさん植えられていて、丁度その花の盛りで見事だった。仏さまの頭のようにまるい からその名があると、三十六歳の東鶴寺の尼さんが教えてくれた。薔薇もジャスミンもアカシャ も、。、ンジーも咲いていた。 「お寺に薔薇はふさわしくないけれど、好きだから といって、「方丈記」を思わせるようなつつましい庵室の庭の塀ぎわに薔薇をいつばい植えて、 何だか恥しそうにいいわけをした四十八歳の僧侶もいた。 自分が僧侶であるということを、この旅で改めて考え直してきた。剃髪の功徳と、剃髪の怖さ をしみじみ思いしらされた旅であった。釜山の空港で別れる時、ミス金はばろほろ泣きだして、 あわてて大きなサングラスをかけ、別れを惜しんでくれた。白い清らかな仏頭華とミス金の泣き 顔が重ってくる。 2 51
ったんです」 「でもそれで、小説が書けるんでしようか 「肉体的な煩悩と、精神的な煩悩は別ですよ。心の地獄から脱け出られたら、もう人間じゃない のでしよう。心の地獄をかかえているかぎり、小説は書けるんじゃないかしら」 「でも、仏教では、心の地獄から脱けるのが最後の望みなのでしよう」 「もちろんそうですね。わたしに今、い えることは、いく度繰りかえしても男と女の恋は嬉しい し、愉しいし、苦しいということ、嬉しさや愉しさより、私の場合は苦しさの方が強くなるから、 自分を救う意味で、思い切って、断ちきりたいと切望したのかもしれない」 「それじゃ、やつばり、あなたが出家なさったのは、恋のためですか、愛欲の煩悩のためです 「そんなふうにいわれると答え様がないんです。愛欲だけで、五十で髪なんか剃れないんじゃな いでしようか。衝動的だと、そんなのつづきませんよ 「わたしはしたいことをしてきて、人の何倍か恋もして、本気の恋を、七、八度もしています。 今だって、夫と恋人もいます。それでいて、とても空しくなって 「五十になって空しいって感じない方が不思議なんじゃないかしら」 「時々、もうどうしていいかわからないほど何もかも空しくって、一思いにわたしも浮世から出 られたらと思うんです」 「わたしには係累がなかったから出来たんです。それに仕事も自由業だし、あなたはまだまだ浮 世で自分を大切にして、自分の欲望をみたしてやらなければ。それが肥料になる職業だし」 「いっか、でも、あなたのようになれるんでしようかねえ」 202
仕事がちがうし、遠くからその人の活躍ぶりを眺めていたが、華やかな女優としてのその人の芸 の円熟ぶりも、年と共にいや増す色気も、不思議で妖しい現象として、ファンの私はひとりで拍 手を送りつづけていた。こちらが好きだということは相手に通じるのか、突然訪ねてこられて少 しも異様な気がしない。 彼女は水を浴びたばかりの樹々の新緑に目を細め、しばらくばんやり遠い東山や近い小倉山を 眺めていた。ふっとふり向いた時、大きなサングラスを外した美しい目に涙がいきなり盛りあが ってきた。 「こういうところで、そうして尼僧になってしまって暮していらっしやると、本当に煩悩という ものは断てるものなのでしようか」 「煩悩にも色々あるけれど、あなたのおっしやっていることは、男女の愛欲の煩悩のことでしょ う。それなら、髪を切った時、何かが断たせてくれたような気がします。これからもずっとそう ーしい切れないけれど、少くともあれから三年余りの歳月、肉体的な煩悩で苦しんだことが ないのは、自分のカでないような気がするんですー 私は相手があんまり率直に訊いたのでこちらもありのままに答えた。 「ほんとうに辛くないんですか」 「髪を剃るまで、自分の煩悩がどうなるかなど考えてみもしなかったんです。そこまで自分を投 げだしてしまえば、もし仏があるなら、い、 しようにしてくれるだろうと、まかせきっていました。 種今から思えば怖しい賭けだった気もするけれど」 の 「そうしたら、結果的に、楽になったんですねー 花 , ーカた : : ・ええ しい言葉でいって下さいましたね。ほんとに、さつばり楽になってしま 201