仕事 - みる会図書館


検索対象: 愛とその謳歌
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1. 愛とその謳歌

幸福は須臾の間に去り、苦痛だけ、絶望だけが長く残る。 人間の業の重さである。 白い雲が流れ、浅間は煙を吐き、ときに火を噴きあげる。この美しい山深くわけいり、あの樹 林のなかで一服薬をのんで横になれば、楽になる。この業火から解放される。この誘惑は軽井沢 にいる間去らなかった。 いま、私は大磯の町の背後、小山のなかの一軒に住んでいる。 ここは南に太平洋を望んで、よく晴れた日は大島が前面に浮かぶ。右と左はゆるやかな丘陵が カー・フを描いて海に降っている。 私の仕事場に坐るといながらにして、三方の風景が見渡せる。 私はここで風景画家の第一歩を始めた。風景の三分の二が空である。朝日夕日の美しさは、雲 の彩色をまって言いようもなく見である。 まことに輝くまで晴れやかな風景である。 私は未明とともに起きて、畠へ降りてゆく。野菜は自給自足である。花をつくる。草を取るの もここでは大きな仕事である。ここにきてようやく私は静かになることができた。もうすでに六 まっと 十歳である。私は孤独な百姓女として最後の生活を完うしたい。 ただ絵だけは描きつづける。絵を描きつづけるために朝は未明に起きる。花をつくるのもすべ て、この愛の心につながる。私は健康で百歳までも描きつづけたい。 これから私のなすことは絵 しゅゅ ・こう

2. 愛とその謳歌

る必要はなくても、まったく誠実さがない気がしたのです。 古谷夫妻が別れるまでの私は、終始、仕事の協力者としての自分が、どういうふうにしたら、 古谷がもっとよく仕事ができるだろうということにばかり私の目はむいていました。これは私が 責められなければならないと思います。 ただ、私が、古谷につながる人としての豊子さんや子どもたちにもこの十数年、誠意をもって 接していたことは豊子さんも思い出してくださることを信じます。 今度のことが起こって以来、少し落着いてみると、なにかを世間に弁解しようとする気持より は、やはり自分の、何もかも割り切ってものを考え、思い悩むという過程なしにすぐ前を見て生 きていく性質に、一種の欠陥のようなものを感じ出してきました。これは、私の健康が支えてき てくれた生活力ではあっても、私を深いものの見える人間には成長させないと思いました。そし て、同時に、これが私の現在のような立場を招いた結果でもあったと思っています。 ただ私は、こうした一人の人間の心の過程を無視した、いいかげんな第三者の話を資料として 書かれた「読物」によって、どれだけ傷つけられる人間がいるかを、世の中の人に知ってもらい たいと思います。当事者はまだ仕方がないとしても、古谷の母や、また、今度の事件に関係なく 平和な生活をしている人の名前まで勝手にもち出して、ただ記事を面白くしていることには、ま ったく許せない気持です。『週刊サンケイ』に出ていた古谷の母がかけおちをして行方不明だな どとは、誰がいったことなのでしよう。母は現在私たちの近くに住んでいて、いつも行ききをし

3. 愛とその謳歌

結局私たちは結婚しましたが、もちろん経済的に見通しがついたわけでもなく、ただ真剣な二 人の気持を合わせて、何とかやっていこうという熱意だけを足場にした結婚だったのです。そし て思い切って家を出、上根岸の二階の一間に住むことにしました。 近所の市場、それはおもに朝鮮の人たちが買いにいくささやかな公設市場だったのですが、そ この一山五銭のねぎを三銭だけわけてもらって晩ご飯の支度をするというような、見た目にはい かにもわびしい新婚生活が始まりました。けれども一方、仕事の方はますますはげしさを加えて きます。俳優であり作家でもある藤田と、俳優である私とは、お互いにたた劇団の仕事を中心と した毎日をいきつく間もなく送り迎えて、そのわびしさを感じているひまさえありませんでした。 結婚した女が職業をもっことについては、ことにわが国では以前からいろいろと論じられてき ました。これからはそのようなこともだんだん合理化されてゆくわけでしようが、そのための客 観的な条件が何もそろっていなかったこれまでの封建的な家庭において、妻の職業が多くの問題 をひきおこしたということは、むしろ当然だったともいえると思います。 藤田と私の結婚生活も、もちろんその点例外ではなく、常識的な家庭をいとなむことのできな かった私たちは、周囲の人々に対して、いろいろと気をつかうことの多かったのは仕方がありま せんでした。ことに私の場合は、単に妻が毎日事務所に勤めに出るというような生やさしい職業 ではありませんでした。前にも書いたような身心をすりへらすはげしい劇団活動のうずまきのな

4. 愛とその謳歌

312 様なが巷に流れたが、真相かどうかは知らない。平林さんのような偉い著名な作家でも、夫が 女をつくると、長屋のおかみさんそっくりの逆上の仕方をするとか、いや、長屋のおかみさんは もっとつつましくて、あんな荒れ方はしないよとか、男たちは面白がって話題にしていた。女流 作家たちは、女流文学者会の集まりの時、平林さんが若い英語の家庭教師に恋をして、小堀さん と別れて、結婚したいようなことをいっているのを度々聞かされているだけに、平林さんの逆上 ぶりに愕いてしまった。 事件直後の手記には、平林さんは小堀さんをとり戻す自信を匂わせていたが、結局、小 堀さん は自分の子供を産んでくれた若い恋人の方を選び、平林さんは独り取り残されてしまった。しか し平林さんには仕事が残った。 小堀さんは清寿さんと子供を養うため、無理に無理を重ねて仕事をし、自爆のような急死をと げてしまった。そのお葬式に平林さんがゆき、小堀さんの遺体の入っている柩の上からのしかか るようにして写真をとったのを見た人が、「女流作家ってこわいねーと、 小堀さんは平林さんが戦争中、寝たっきりだった時、実にやさしく看病して、平林さんに営養 をつけるため、自分は営養失調になり、鳥目になってしまうというような、献身的な看病ぶりで あった。 清寿さんが、小堀さんの側から書いた手記もこの巻に収まっている。その中で清寿さんは、有 名で多忙な平林さんの夫として、小堀さんは生活のうるおいに欠けていたのではなかったかとい いったのを思いだす。

5. 愛とその謳歌

ていく。しかも、妻が芸術上の新しい開眼を得ようとして、新しい刺戟を需める時には、 う家庭や夫が重荷になってくる。それをも乗り越えていくにはよほどの夫の犠牲と忍耐が必要と され、理解と愛だけでは結婚生活がなりたたない。互いを活かすためという理由づけで、こうし た家庭は破壊されていく。 山口淑子さんの場合も、彼女が世界的な映画スターとして認められた時の結婚であったので、 仕事への意欲は十分あったところへ、イサム・ノグチ氏は、山口さん以上の世界的なスケールの 大きい天才芸術家だったのだから、その確執もまた深刻になっていく。華やかなゴールデンカッ プルの解消されることが、世間の期待を裏切って意外に早く訪れたのも、当然であったかもしれ ない。その後、山口さんが自分には全くちがう世界の外交官と結婚して、その結婚には成功され たのを見ても、山口さんがその時点で女優という仕事を捨てたからであったとうなずけてくる。 三岸節子さんの二度の結婚と大恋愛の歴史は、これらの愛の物語の中で、最も私は心ひかれる。 三岸さんとは先年お逢いして、『婦人公論』の対談で様々お話をおうかがいした。芸術家どうし の結婚が如何に困難かというお話をしみじみうかがったが、他人事でない気がした。 天才画家三岸好太郎氏との結婚を、三岸さんは、「あの結婚は一方通行」だったと述懐された。 好太郎氏は女性問題でも屡々三岸さんを悩ませたらしいが、その結婚を三岸さんは、愛されるだ けで自分から愛したことはなかったと断言された。好太郎氏は三十一歳の若さでなくなる前に、 自分の死後はうんと恋愛しろ、恋愛しないと絵のつやがなくなる、魅力がなくなると三岸さんに

6. 愛とその謳歌

生きのびていく。それを支えるものは、恋の情熱にも勝るともおとらない芝居への熱情であった。 山本さん、杉村さんの場合、仕事と結婚の間の調節は、共に夫や愛人の死という形で完うされ たかに見えるのに対し、水谷八重子、山口淑子、三岸節子、平林たい子、畔上輝井諸氏の場合は、 仕事への情熱が、愛を上廻っていたための破局を迎えねばならなかった。そしてこの。 ( ターンは、 今もまだ仕事を持っ女にとって、決して無縁にはなり得ていない。 女は愛する男と結婚した場合、たとえ仕事を持っていても、家庭的には尽す妻になりたいとい う願望を持っている。やがて二十一世紀を迎えようとする現代では、働く女性の意識の中には、 結婚より仕事を迷いなく優先させる女性もいくらか増えてはいるが、まだ結婚生活では、夫をた てたいという旧来の結婚制度からの習慣的心情が、女たちの中には根強く残っているのではない だろうか。仕事を持ち、その仕事で社会的に知名度を得ている女と結婚する男性の心理の屈折度 は、当人でなければわからないものがあるだろう。 その仕事が夫妻共に芸術であった場合は、し 、っそう摩擦度は大きい。芸術家は、たとえ相手が 夫婦や恋人であった場合でも、ミューズの神に自分より多く相手が愛された場合は、嫉妬せずに 説はいられないという宿命を抱いている。 水谷さんの場合、同じ俳優であった守田勘弥氏との結婚生活は、新派を背負って立っ看板女優 解 の水谷さんが、舞台に出ずつばりの生活の中では、夫の晩酌にもっきあえないという非家庭的な 弸暮し方が強いられ、夫がそれを理解して耐えてくれればくれるほど、妻の心理的負担が強くなっ

7. 愛とその謳歌

12 ろ山口淑子 んの奥さんとしても不完全な上に、映画の上でも仕事らしい仕事は何一つ残していない。私は、改 めて二人の結婚生活という様式に疑問を感じないわけにはいきませんでした。 ( 中略 ) イサムさんは、尊敬できる立派な人でしたが、二人はあまりに一緒にいる時が少なすぎました。 そして、一緒にいる時は、必ずいずれかは、仕事ができない不満を持っている状態でした。女とし て、私は実に平凡な馬鹿な生身の女だと自分で思います。 ( 中略 ) 私は、日本に帰る前にニュ 1 ヨークで、イサムさんと話し合いをいたしました。私にしたがえば、 イサムさんの仕事ができなくなるし、私自身は、まだ仕事をやりたい気持が残っていることを率直 に話し合い、別れ別れで暮すのなら、無理に結婚という形式で二人が東縛されている必要はないと いうことが結論でした。 お互いに愛情を失ったというのではなく、愛情だけで結ばれないことのむずかしさと、一種の冷 静さの中で判断したのです。 だけど、それが女にとってどんなに悲しいことか。結婚するより、離婚することの方がどれだけ 勇気がいることか、私は心からそう思わずにはいられません。 ( 後略 )

8. 愛とその謳歌

になって仕事にぶつかり、その仕事の中から自分を見つけ出そうという気持で一杯です。 ですから、私たちの結び付きも、結婚の甘い夢とか、スウィート・ホームという概念とはかけ 離れていて、どちらかといえばお互いによい仕事をすることが第一条件のように思えます。誰で も自分の結婚や、恋人について語るのは好まないでしようが、私にしても特に書いたり、喋った りするようなことはなんにもありません。 東京の新聞には私たちがイタリーで結婚すると報道されていたそうですが、初めはそのつもり だったのです。が、イタリーに行ってみると、同地に三月以上滞在してないと結婚の許可が下り ないことがわかりましたので、旅行や見学に追われていた私たちは手続きをすることができなか ったのです。 ただ私の今の心境はそういう。フライベートなことをいろいろと心配するより、よいお仕事がし たいという気持で一杯です。 三月以後にハリウッドで一本撮る契約はありますが、久しぶりで東宝の映画に出ることで、私 のアメリカでの経験がどれだけ自分の成長に役立っているだろうかと考えたりしております。 子私は、日本に帰ってきて、まず日本を勉強し、日本の真の良さを知らなくてはなりません。 ロ 私が、今度アメリカに渡ったら、向うでもたくさんの仕事がありますので、もう帰ってこない 山 だろうという人があります。この質問については、今は、なんともご返事ができないのですが、 外国に行ってつくづくと日本を懐しいと思っている私は、日本のよさを知って身につけたら、や しゃべ

9. 愛とその謳歌

に不賛成だったのです。 この世の不幸の限りをなめてきた実母は、今年七十五でまだ私の世話をやいてくれていますが、 さして教養とてもないこの老母が、体験から自然に会得して持っている一つのかんに、今でも私 はしばしば驚かされることがあります。結婚問題に反対だったのも、決して藤田の人物をきらっ たのではなく、結局母は私たちの仕事そのものへの本質的な批判を、無意識のうちにしていたの 「こんな形で仕事をしていていいのかい ? 」だとか、「役者は役者のことをもっと勉強しなきや いけないんだろう ? 」 だとか、言葉のうえでの表現は理論も何も立っていないのですが、つまり母は、芸術家が政治 的な思想運動の宣伝の手段としてのみ働いている誤りを指摘していたのです。もちろん当時の新 劇団が持っていた雰囲気に対する本能的な恐怖も手伝っていたことは否めません。けれども、さ しあたっての結婚のことは別としても、母のそのような言葉に従って、現在の仕事からぬけると いうことは、もちろんできるはずのものではありません。ことにそのときの私には、まだそれだ け客観的に自分の仕事を批判するゆとりがありませんでした。自分にわかる限りでは、現在自分 英 安のやっている仕事はいいことだ、正しいことだ、とにかく自分は自分たちの劇団の方針に従って 山 全力をつくしていくことが、現在の自分のすべてだと思いこんでいた私は、苦労して私を育て上 げてくれたこの母と毎日顔を合わせることが辛くてたまりませんでした。

10. 愛とその謳歌

以後、軽井沢に落ちついて、一年の大半を過ごすようになった。私一人の生活を始めたのであ る。仕事のうえで存分打ち込める生活である。 巴里瀞在中、五十前後の画家が寄ると、必ずといってよい。日本へ帰ったら、山の中か、へん びな田舎に引込むという話におちる。 あちらの画家は仕事以外の生活は考えられないほど、朝から夜まで、四六時中、仕事に集中し た生活をしている。日本ではこの一元化が不可能である。まず経済的に無理、楽天的で、ルーズ、 お人よし、妥協、きびしさをかく習性が、いっしか雑用のうちに肝心の仕事が流されてしまって いる 私は外とのつながりをすべて断ちきり、アトリエに閉じこもる生活を自身に課した。季節外の 軽井沢では可能である。孤独の生活が守られた。私の相手は絵画以外、周囲のもの言わぬ自然だ けである。 しかし軽井沢の沈黙の生活は苦しい試練の日々でもあった。みずからの愚かしさ、人生の空し ざんき もだ さ、後悔、慚愧に胸を噛む思いである。悶え苦しみ、あえぎ、心臓を引き裂く思いのときもある 子それらは山をおそう霧のように忍びより、風のように去ってゆく。 岸自分が納得できる作品を描きたい。じしん満足ゆくまで追求を重ねる。あるとき、満足感を手 っそう次の 中にしたかと思われる幸福感、充足感も、束の間に消え去り、崩れ去って、また、い 欲求のとりこになる。