が私の家で過ごすための存分な費用も必要でした。あなたはいたわりというものを少しも持ち合 わせていない人でしたから。むしろ私を苦しめることによって、愛の表現と判断しなくてはなり ませんでしたから。 私にとっては生活の負担のうえに、子供の負担、芸術への負担、あなたの負担、二重にも三重 にも重い負担に押しひしがれて、四六時中、あえぎあえぎ生きるために闘っておりました。 時間がない。エネルギーがない。母親の役目も、主人の役目も、恋人の役目も、芸術家の役目 も、一人何役でも果たしましたでしよう。そのいずれも破綻させないために、必死の力をふりし ・ほって走りつづけました。このうちのどれ一つを失っても、私にとっては致命傷になってしまう からです。あなたは最初から「子供には子供の生活がある。母親が子供の犠牲になる必要はな い」と耳許で言いつづけてまいりました。 「僕と菅野とどっちがお母さんは好きなの」 と十歳にならない少年の黄太郎が母親へ必死に聞きただしました。 「お母さんは物質的には私たちを満足にしてくれましたが、精神的には不幸だった」と次女の杏 子子は訴えました。 岸あなたは三人の子供を徹頭徹尾いじめ抜きました。苦しめさいなみ抜きました。あなたと子供 との、目に見えない闘いは初めから終りまでつづけられましたが、この間、三人の子供たちは勢 一杯母親のためにあなたと妥協しようと涙ぐましい努力をつづけて、いっそう私を苦しめました。 きよう
155 沢田美喜 が日本にいるーーーということを知って、そのままにしていられない人々である彼女らの善良さ がそれを知らん顔させないのである。彼女らはさっそく、集まりの内容を報道した新聞を手に、 方々へ飛び歩く。宗教婦人会、婦人のクラブなどに呼びかける。 道を歩いていても、舗道で、 しお仕事です、尊いお仕事です。 「あなたは新聞に出ていた日本から来られた方でしよう。い : ・ : あなたの旅行の目的が達せられますよう、神様にお祈りしています」 と、老いた女の花売りや、新聞配達の子供までがそう言ってくれる。かってアメリカのこの一 角に、長い苦しい簾をほろ馬車に乗って移住してきた人々の純真さが、今その子孫に見出されて、 私は心をうたれたのであった。 日本にアメリカ系の多くの混血児が生まれて いる、ということは、占領時代にあってはひた すらおおいかくされていたことであり、誰も言 も・葉に出して言うことははばかられ、限られた人 人の間で、ヒソヒソと語りあわれたにすぎなか 喜った。だからこのテキサス州はかりでなく、他 田の土地でも、このことを知らない人がかなりあ 沢
した。「お前は余計なことを考えなくてもいいんだよーという小堀の言葉をおもい出しますけれ ど、転倒せんばかりの不安は亡き夫への思慕の気持を強くさせております。 「民子が学校を出るまでは死ねない」 「子供たちを育てる責任があるんだ」 と幼い子供たちの将来を心配し、また子供たちの未来に希望をもっていた小堀は、父親として はほんとうに立派なひとだったのに、小堀もさそや子供の成長をみられなかったことを口惜しが っていることでしよう。 去年のお正月に、民子をつれて三人で四国旅行をしたことがありました。親子がそろって水い らずで過ごせることは、またとない幸福なことでた。「来年もまたこういう旅行をしようね」 とうれしそうに話していた小堀。「家族がこうやって暮せるのは幸せなことだねーと楽しそうに 話していた夫。彼は家庭的な雰囲気をこころから楽しんでいたのです。子供や私から頼りにされ るのを彼はたいへんうれしかったのでしようか。たとえ経済的にはまずしかったといえ、私たち の家庭は幸せだったとおもいます。小堀の五十八年にわたる生涯のなかには、さまざまな苦渋が あったでしようけれど、自分の生き方に勇気をもってのそんでいた彼は、立派な父親であるとと もに、立派な社会人であったとおもいます。 去年、彼は自分の生涯を客観的に描いた二つの小説を発表しました。一つは七月に刊行された
非常に心苦しかったのでしよう。また平林さんと小堀との事実上の離婚をまのあたりにみて、ど ちらを頼りにしてよいのかわからなかったのでしよう。私が世田谷に住まっていたとき、小堀は ときどき苦しそうにやってきて、仕事の忙しい様子などを話していましたが、しかし子熕悩な彼 だけに、新子ちゃんのことはたいへん気にかかっているようでした。 小堀が私と民子のことを、長い間、平林さんに隠しとおしたことについては、いろいろ理由が あったこととおもいます。しかし、離婚を決意して秘密をあきらかにすることは、おそらく時の 経過を待っていたのでしようか。 小堀はヨーロッパ滞在中、私たちによく手紙をくれました。新子や民子のことをいつも気にし ていたようですし、また文面のほとんどは、子供たちへ宛てたものでした。子供たちにたいして はほんとうに深い愛情をもっておりました。 その昔の小堀については、いろいろと小堀が話してきかせてくれたり、ほかの人たちからきい ておりますが、私との結婚生活のなかで知った小堀は、嘘のつけない人であったとおもいます。 寿子供と一緒に、私も「お父さん、お父さん」と呼んでおりました。はからずも『妖怪を見た』 咀という本が子供たちへの遺書のようなかたちになってしまいましたけれど、私は子供たちが小堀 の遺志をついで立派に成長することだけを願っております。 長いあいだ、文学のお仕事に熱中されていた平林たい子さんを妻としてきた小堀にとっては、
158 テキサスは広い。そしてテキサスっ子も大きな心を持っている : : : 私のホームのあの子供たち が、ここに迎えられて幸福に暮せる日がもうすぐ目の前に見えるような気がする。 私はダラス市で、過去三年間毎月かかさず粉ミルクのドラム罐を一つずつ送りつづけていてく れた一老夫人を訪ねた。無一文から始めて、一人で説き歩いて、ついにエリザベス・サンダー ス・ホームのミルク基金として銀行に幾百ドルという預金をつくった夫人である。祈りに明けて 祈りに暮れる、その一日の生活のなかに、四人の立派な子供さんを一人前に育てあげていられる。 そして今後も、ホームへの援助をつづけることを約東された。この人はダラスのミルクおばあさ んとして有名で、銀行の頭取でも、大新聞の社長でも、木戸御免ということで通っている名物の 婦人である。私は温い、ほのぼのとしたものにふれて嬉しかった。ーー・・楽しい旅の思い出の一つ である。 あんぎや 私はこれからもまたこうした行脚をつづけるつもりである。来年もまた翌年も : : : 子供たちの ために青い鳥を掴まえるまで : ・ 敗戦国なればこそ、こんないやなことも言われるのかと情なく思うような目にぶつかることも あった。しかし故国に残された小さな子供たちの顔にほほ笑みを与えるために、私はさらにこの 青い鳥を掴まえる旅をつづける。打ちのめされたようになったとき、いつも子供たちのあの青白 い血の気のない顔、ほほ笑みを忘れた顔を心に思いうかべる : : : そしてさらに旅をつづけるので ある。
152 「まあ、日本にそんな子供たちが生まれていたなんていうことは、私は今初めて聞きます。ドイ 。それは、 ツやイギリスには、そうしたことがあるということは、うすうす聞いていたけれど : 本当にアメリカ人の血が入っているんですか ? まあ、それは大変なことだ。何とかしなければ アメリカ人の子だというわけなんですね : : : 」 テキサス州の一角にある市の善良な奥様方の集まりで話したときの彼女らの言葉であった。ひ ろい、まだ耕作していない土地があり余っているし、食料は豊富であり、その日その日が小さい ながら満ち足りた、そして大きな税金にもわずらわせられない、中流どころの家庭の人々である。 彼女らは、こうした外界のことを耳にしないですむ人々である。 しかし、この子供たちーーーしかも自分たちの血と同じ血が半ばその血管を流れている子供たち 混血児のために大陸をゆく 沢田美喜
なたの肉親の怒りをまねきました原因でした。 「これが僕のお母さんだよ」私の家にいたときも幼稚園の友達を大勢つれてきて、アトリエをの あらり ぞかせ、自慢する坊やでした。また安良里で私が病気で寝込んでいるところに友達を引張ってき て、「僕のお母さん」を見せなければならぬ坊やでした。「僕のお母さんはお父さんよりえらい ふいちょう よ」と誰に聞かされたか吹聴しなければならぬ坊やでした。そういう、私にとっては可愛い坊や でした。 あなたの母上から最近いただいたお手紙のなかには、新居へ坊やを連れてきて、新しい女性を お母さんと呼ぶのだよ、とあなたが言ったとき、「僕のお母さんは三岸のお母さんだけだ」と言 いました由。世界旅行で留守中も、夏休みには寂しいだろうと、私の子供たちが安良里へ坊やを 尋ねて、伊東や東京へつれて可愛がっておりました。 あなたがいちばん苦しめ抜いた私の子供たちを、坊やはあなたの肉親、つまり同年輩の従弟た さぎのみや ちの大勢いる荻窪の家へどうしてもゆくと言わないで、鷺宮の私の所を一番好きだったことを、 あなたはよくご存じでしよう。 子子供の心のうちは鏡のようなもので、あなたの行動も鏡のように私の子供たちには正確に反射 節 岸 いたしますように、坊やの小さな魂にとって、私たちの家こそ唯一の救いでした。 昨年の十一月、長女は嫁ぎました。黄太郎もやっと渡仏までこぎつけました。負担が次第に少 なくなってゆく今、坊やを私のところへ引き取ってもらいたいと、誠心こめてあなたは私に頼ん
に、いっか私は感化されて、古いしきたりの結婚式をあげることを考えなかったのです。しかし ある日、古谷が私の部屋で「結婚しても子供はほしくない」と私に言っていたのを、ふと、何気 ふすま なく隣の部屋を通りかかった母が、襖ごしにこれをきいて、あとで私を呼び「綱武さんがああい っているが、わたしには何だか心配だよ。結婚式はまあいいとして、妻として、結婚のときには 籍だけは入れてもらいなさいよ」と、母はこのときだけは頑固に言い張ったものでした。昔気質 の母は、子供のほしくない男の将来を心配したのでしようが、今考えると、よくぞ母は申してく れたと感謝しています。 女にとって、妻となり入籍することは、単に形式上の問題ではなく、実質的な内容がきびしく ふくまれているということを、二十五年後、ふいに起こったこの「離婚事件」によって、深く考 えさせられました。 古谷が、去る二月八日の午後、ていねいな鉛筆書きで「私の仕事上にいろいろ不便な場合もあ りますので、最初にあなたも希望したように、形式的にも別れた形をとりたいと思いますーと封 筒に、役場からとりよせた離婚用紙を二通と手紙を入れてよこしたが、彼にとっては形式的な離 子婚としか簡単に考えていないにしても、たとえ別居していても、妻の私にとっては、単に形式的 谷な問題だとして、かるく片づけるわけにはゆきませんでした。二人の子供、満十六歳と十歳の二 よ、つこ、 女をかかえて、しかも、「協議」という欄に丸を書きこみ、ただ、署名捺印すればいし すべての欄は書き込まれている手筈のいい扱いぶりをみて、「私が離籍されたら、いったい子供
2 小堀清寿 そば粉を自分でねって食べたり、生のままの野菜を多くとるようになったのです。煙草も大分量 をへらして行き、大好きなお酒もばったりと止めてしまいました。 小堀の思いこんだらきかない性格を知っておりますから、私は黙っておりましたけれど、そう いう極端な食餌療法のために、彼はみるみるうちに痩せて行き、しかも生活を支えるための仕事 の量はかえって多くなって行く始末でした。夜おそくまでドイツ語の翻訳のために、原稿用紙と とりくんでいるありさまは、そばでみている私には眼頭 が熱くなるような毎日でした。 氏 ~ しいながら、気にかけていた高血 竏私や子供のためとよ、 林圧の治療には、週一回ぐらいしか行きませんでした。こ はのことは、小堀が自分の体力に大きな自信をもっていた 後からなのでしようけれど、一つには私たちの生活が豊か さではなかったからでした。事実、お医者さんには満足に 民かかれなかったのでした。 前「子供を育てるだけのお金を作ってから、それから自分 葬の仕事だ」といつもの口癖のように言っておりました小 = 堀が、子供の成長をみることなく、死んでしまうなどと 甚 は、考えてもみなかったことでございます。 4 -
いました。このときの私といえば、どうしたらいいのかもわからず、ただおろおろするばかりで した。いま考えても歯ぎしりするほどくやしくてたまりません。 お医者さんは三十分ほどして参りましたけれど、そのときはすでに息をひきとっていたのです。 数刻前の安らかさ、たのしそうに声をあげていたときとはちがって、小堀は私が何を叫んでも答 えてもくれません。狂気のような私のわめき声にとび起きてきた民子と二人で、おろおろしなが ら、放心したように「お父さん、お父さん」と叫びつづけました。しかし、もう何とも返事はし てくれません。小堀が無意識に民子を抱きよせようとした右手を、民子の膝の上においたまま息 を引きとったのです。 小堀の弟夫婦の子供、つまり小堀の姪にあたり、平林さんとの間に養女としてむかえた新子ち ゃんは、習慣的に土、日曜は平林さんのお宅へ帰ることになっていたものですから、お父さんの 臨終に間にあうことができませんでした。 小堀は私にとってやさしい夫でした。子供にはほんとうにやさしい父親でした。しかし自分の 寿言いたいことははっきりと言い、なすべきことはするという性質の人でした。夫の死に直面して、 その死をどうしても認めなくてはならない羽目におちいったとき、小堀はたいへんなことをしで かしてくれたと、血の引くようなおもいにせめたてられました。単に夫を失った妻の悲しみとい うだけではなく、これから子供を抱えてどうやって生きて行くのかということの不安でもありま