平林たい子 - みる会図書館


検索対象: 愛とその謳歌
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1. 愛とその謳歌

215 平林たい子 のばあい可能性があるということなのである。どういう風にして夫を取りもどしたか、軽蔑でき ない一つの妻の経験としていずれお話しするときがあると信じる。 ( 昭和二十九年四月号 ) 平林たい子 ( 明治三十八〈一き五〉 ~ 昭和四十七年〈一一一〉 ) 作家。諏訪に生まれ、女学校時代から文学と社会主義思想に興味を持ち、大正十一年に上京後は アナーキスト・グループとの交遊と奔放な男性遍歴を重ね、昭和二年に『文芸戦線』同人の小堀甚 二と結婚 ( 入籍は六年 ) 。同年、『大阪朝日新聞』の懸賞短編小説に入選した「嘲る」で注目され、 数々のプロレタリア小説を発表。戦後はその作品世界の幅を広げながら、精力的に執筆を続けた。 『かういふ女』で第一回女流文学賞を受賞 ( 昭和二十二年 ) 。昭和一一十九年に小堀が女中の清寿との 間に子供をもうけていたことが発覚、翌年離婚している。評伝に板垣直子『平林たい子』 ( 昭和三 十一年 ) がある。

2. 愛とその謳歌

女流画家の血みどろの路 情熱の赴くままに 裏切られて悔なし 思想と男性を遍歴した青春 『砂漠の花』の蔭に生きて 尼僧とて人間です 真実への歯車 私の立場から 私は夫殺しではない 般若苑マダム破局の真相 解説 / 瀬戸内晴美 303 252 245 234 214 211 175 三岸節子 田中路子 平林たい子 平林たい子 堀清寿 平松陽子 古谷豊子 吉沢久子 富士茂子 畔上輝井

3. 愛とその謳歌

244 小堀清寿 作家・評論家の小堀甚二 ( 明治三十四〈一告一〉 ~ 昭和三十四年〈一ル発〉 ) 夫人。甚二・平林たい子 夫妻宅で女中として勤めるうち、甚二との間に秘かに一女をもうける。この子が学齢に達したため、 経済的にも窮していた甚二が事実をたい子に告白し、別居から昭和三十年に離婚が成立。清寿と結 ばれた。この事件をたい子は自伝的作品「砂漠の花」 ( 『主婦の友』昭和三十 ~ 三十二年 ) として発 表している。

4. 愛とその謳歌

非常に心苦しかったのでしよう。また平林さんと小堀との事実上の離婚をまのあたりにみて、ど ちらを頼りにしてよいのかわからなかったのでしよう。私が世田谷に住まっていたとき、小堀は ときどき苦しそうにやってきて、仕事の忙しい様子などを話していましたが、しかし子熕悩な彼 だけに、新子ちゃんのことはたいへん気にかかっているようでした。 小堀が私と民子のことを、長い間、平林さんに隠しとおしたことについては、いろいろ理由が あったこととおもいます。しかし、離婚を決意して秘密をあきらかにすることは、おそらく時の 経過を待っていたのでしようか。 小堀はヨーロッパ滞在中、私たちによく手紙をくれました。新子や民子のことをいつも気にし ていたようですし、また文面のほとんどは、子供たちへ宛てたものでした。子供たちにたいして はほんとうに深い愛情をもっておりました。 その昔の小堀については、いろいろと小堀が話してきかせてくれたり、ほかの人たちからきい ておりますが、私との結婚生活のなかで知った小堀は、嘘のつけない人であったとおもいます。 寿子供と一緒に、私も「お父さん、お父さん」と呼んでおりました。はからずも『妖怪を見た』 咀という本が子供たちへの遺書のようなかたちになってしまいましたけれど、私は子供たちが小堀 の遺志をついで立派に成長することだけを願っております。 長いあいだ、文学のお仕事に熱中されていた平林たい子さんを妻としてきた小堀にとっては、

5. 愛とその謳歌

214 女学校時代の生活 私の家は、祖父の父親が実家の平林家から分家して四代目である。祖父は明治維新のころ警察 権までもった名主であった。新しがりであったらしく、早くから製糸業を営んで、中仙道を横浜 まで人の背に負わせて生糸の直輸出をやっていた。いまでもその遺品の「ナルダン」の柱時計が 実家にある。かたがた自由党員で、支部の役員をしていた。党規の印刷物がたくさんのこしてあ るなかに、綱領をただ「自由」とだけしてあるのがひどく印象的であった。祖父は製糸業で失敗 して、借金を残したまま東京に隠れた。 祖父がいなくなってから祖母が自分の手一つで負債の始末をして、あらかたの財産を失った。 このとき、祖母の負債整理に助力した男性があった。祖父は留守宅の整理がすんで帰ってから、 思想と男性を遍歴した青春 平林たい子

6. 愛とその謳歌

こんなことは、市井にありすぎていることで、女小説家の家庭に起ったからとて、少しも、変 った様相を呈していない。 が、しいていえば、私が自分の仕事に熱中している間に事は起り、熱中しているために、六年 間も知らずにいたということが、一つの問題となるだろう。 結局小説と家庭は両立しないという結論になるだろうか。或はそうかも知れぬ。 子 が、両立しないからとて、家庭をもたずにすませるように女はできていない。 林不可能なことを何度でも試みる愚かしいもの、それが人間ではないだろうか。それに、私は、 こんなに裏切られて泣いていても、この生活を後悔しない。憤って狂っている瞬間にさえ、愛の 喜びはあった。私は夫と対等に振舞った。私は、夫に猜疑をもたず、女中と夫をのこしたままた こ 裏切られて悔なし 平林たい子

7. 愛とその謳歌

2 平林たい子 つを見て、山田氏の仲介で求婚して来たのが新進の戯曲家だった小堀甚二である。 こよのらず、交際しようと答えた。それに、ち 私は、もう懲り懲りしているので、なかなか話冫を ようど父が亡くなったので、そのまま故郷にかえってしまった。小堀は父の死を嘘ととっていた ようである。 が、やつばり、私は、生きかえるために、男性が必要だった。故郷からかえってから柳瀬氏宅 のあとに家をもった。故郷からかえってみると、文芸戦線内は、福本派とその反対派とに分れて いた。つまり共産党派と非共産党派との対立であることが追々わかった。私は共産党が、芸術を 党の宣伝活動の道具に使うことには反対だった。それは、日本の社会主義運動の伝統みたいなも ので、歴代の指導者がそういう考えしかもたなかった。 そういう主張への情熱から、私はその渦のなかに巻き込まれていった。 山本虎三 ( のち改名して敏雄 ) を指す。たい子は昭和一一十三年に、この虎三との関係を小説「人 生実験ーに綴り、発表している。 アナーキスト・飯田徳太郎。小説「嘲る」は、徳太郎との同棲生活をモデルにしたと言われる。 こ おいおい ( 昭和四十年二月号 )

8. 愛とその謳歌

情的にそそがれた。夫婦の仲も、恋人どうしの仲も、当事者以外にはわからない微妙なものがあ って、この事件も三氏三様の手記が派手に発表されたが、どうしてもそれそれ自己弁護的になる のは否めない。ただ結果的には吉沢さんは古谷氏との愛をまっとうして、今年古谷氏の死を見送 っていられる。結果的には恋の勝利者ということになるだろうし、その後の生活評論家としての 活躍ぶりをみても、世間は吉沢さんの不倫の恋を認めたということになるだろうか。しかし、豊 子夫人の感情的な手記は、夫を奪われた妻の立場の悲痛さが哀切にひびきわたっていて、同情を 寄せずにはいられないものがある。愛を失っても、妻の座を決してゆずらない主婦がこの頃から 多くなったのも、ひとつの社会現象であった。 織田昭子さんは、破滅型の作家織田作之助氏の最後を看とる光栄を掌にした人であった。織田 作之助氏の臨終の喀血を、看病していた昭子さんが吸いとったという伝説が流れ、私など、それ をまっとうに信じて、何とロマンチックな愛だろうと、うっとりしていたものだ。昭子さんは、 その後銀座のバーを経営、美しいマダムとしてお店もよく流行っていた。織田さんに早死された 不幸を美しく華やかな風貌にはかぎとらせず、いっ逢っても大輪の牡丹のように美しく豊満だっ 平林たい子さんは、古谷豊子さんと同じ立場で、夫の小堀甚二氏が女中さんの清寿さんとの間 解 に子供までなしていたことを六年間も知らずにいた。その事が発覚した時、平林さんは逆上して、 自分でそのことを新聞社に電話したとか、硯や鋏を小堀さんに投げつけて泣きわめいたとか、様 こ 0

9. 愛とその謳歌

2 巧平林たい子 祖母とその男性との間に不純な関係があったものとして、祖母と離婚した。 このあたりの事実は、あとで生まれた私の手でたしかめるすべはない。村人のある人は、それ は事実だったと言い、ある人は祖父の言いがかりだという。 とカ しかしいずれにせよ、祖父がそれを咎めて離婚する資格はなかったと思う。というのは、今日 まで残されている祖父の遺影の一枚には、祖父が事業に失敗して東京に姿を消すとき、いっしょ に連れて行った芸者と撮った写真が羞らいもなくまじっ ているからである。 彼女が、祖父により添っている姿は、彼女が長年夫婦 のように暮したことを何となく語っている。祖父は、自 ゆる 分の不貞を宥しながら非常時の家政を守りぬいた祖母に . だけきびしかった。 子祖父は祖母を離婚して実家に追い帰した。自由党の綱・ 領は「自由ーであったけれども、祖父の行為に限らず他 平の事件で見ても、同党が婦人に対して自由の思想をあて はめた形跡はどこにもない。 堀祖母はちょうど実家に子供がなかったので、長女の多 美を奪って出て行った。多美の奪い返しや、またその奪

10. 愛とその謳歌

312 様なが巷に流れたが、真相かどうかは知らない。平林さんのような偉い著名な作家でも、夫が 女をつくると、長屋のおかみさんそっくりの逆上の仕方をするとか、いや、長屋のおかみさんは もっとつつましくて、あんな荒れ方はしないよとか、男たちは面白がって話題にしていた。女流 作家たちは、女流文学者会の集まりの時、平林さんが若い英語の家庭教師に恋をして、小堀さん と別れて、結婚したいようなことをいっているのを度々聞かされているだけに、平林さんの逆上 ぶりに愕いてしまった。 事件直後の手記には、平林さんは小堀さんをとり戻す自信を匂わせていたが、結局、小 堀さん は自分の子供を産んでくれた若い恋人の方を選び、平林さんは独り取り残されてしまった。しか し平林さんには仕事が残った。 小堀さんは清寿さんと子供を養うため、無理に無理を重ねて仕事をし、自爆のような急死をと げてしまった。そのお葬式に平林さんがゆき、小堀さんの遺体の入っている柩の上からのしかか るようにして写真をとったのを見た人が、「女流作家ってこわいねーと、 小堀さんは平林さんが戦争中、寝たっきりだった時、実にやさしく看病して、平林さんに営養 をつけるため、自分は営養失調になり、鳥目になってしまうというような、献身的な看病ぶりで あった。 清寿さんが、小堀さんの側から書いた手記もこの巻に収まっている。その中で清寿さんは、有 名で多忙な平林さんの夫として、小堀さんは生活のうるおいに欠けていたのではなかったかとい いったのを思いだす。