芝居 - みる会図書館


検索対象: 愛とその謳歌
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1. 愛とその謳歌

128 戦争勃発 翌十六年十二月、築地小劇場で『佐宗医院』と『結婚申込』を上演している最中、太平洋戦争 が始まったのでした。「どうしよう、どうしよう、こんなとき芝居をつづけてよいのかしら。見 にきてくださる方があるのかしら」と、私たちは迷ったあげく、やはり芝居をつづけられるだけ つづける決心をいたしました。十二月八日の夜、警戒警報下に開けられた幕の前には、思いがけ ずも多数の観客の拍手が待っていたのです。帰途真暗い夜道を歩きながら、「君、これは本物の 燈火管制だぜ」と言った中村さんの言葉は、そのときの二人の心の不安を実によく言いあらわし た一言として、今も心にあざやかに浮びます。今ごろになって思いがけない方から、「僕もあの 十二月八日の夜、築地小劇場へ見に行った一人なんですよ。もう今日見なければ一生芝居を見ら れないような気がしたものだから : といわれ、私はやつばりあのときにも芝居をしていたの が本当だったのだとっくづく思わされています。 このような少数ながら新劇を愛する人々によって「文学座」は守られてはきましたが、これか らの戦争時代は、私どもにとって実に苦しい時代でした。第一に自由主義的な芝居、芸術主義的 な芝居は上演を許可されない。また、適当な劇場が与えられない。それから相つぐスタッフの出 征・徴用、材料不足のための大道具・衣裳の制限。しかもこれらの悪条件のなかにあって、何と かして芝居をつづけたいと思う私たちの気持は、本当に死にもの狂いでした。このような時代に 「文学座」が生き抜いてゆくためには、劇団に最もふさわしい脚本を書いてくださる作者が必要

2. 愛とその謳歌

最後の病床から、彼は、また芝居が書けるようになったら『華々しき一族』と『女の一生』と がいっしょになったような芝居を書きたいと言ってよこしました。 その希望も果たさず、昭和二十一年、彼もまた私をおいていってしまいました。私が有島武郎 の『或る女』の稽古を帝劇でやっている最中のことでした。 私は、ただ泣きました。 森本さんの追悼公演は、朝の五時からお客さんが並ぶくらいの大盛況でした。それが、現在・の 「文学座」再出発のきっかけとなったのです。森本さんは死んだ後もなお、「文学座」のために仕 事をしてくれたのだと思っています。 「文学座」の再出発 森本さんがなくなってから、私は、一時はほんとうに、芝居をやめようかと思いました。しか し、では自分はなにをしたらよいのかと考えると、私にはほんとうに舞台以外にはなにもないの です。やつばり芝居をやる他はないと決意したとき、あの森本薫追悼公演で『女の一生』が成功 子したのです。 村何も物のない辛かった終戦後の混乱期に集まった人たちではじめた「文学座」の再出発は、や はり、そういう困難な時代をいっしょに過ごしたことが、大きな結束力になったのではないでし 、 0

3. 愛とその謳歌

ん月給も足代もなしで、純益があったならばその半分は積み立て、半分を皆で分けるという約東 になっていましたが、この第一回試演は幸い成功して、思いがけなくも八円の配当をいただきま この試演を皮切りに、「文学座」はどうやら順調な歩みをつづけて参りましたが、一方国の内 外の情勢は次第に緊迫の度を加え、新劇に対する思想的な圧迫が慚次加えられるようになりまし た。十五年八月、ついに新協、新築地両劇団は当局から解散を命じられました。ちょうどそのと き「文学座」は飛行館で真船豊先生の『廃園』とデュガアルの『ルリュ爺さんの遺言』を上演し ておりましたが、この事件は私どもにとっても非常なショックでした。はたしてこのまま芝居を つづけられるものだろうか。今後どのようなレバアトリイで芝居をしていったらよいのだろうか。 私どもは残された劇団として、新劇を守り通すために思いなやまずにはいられませんでした。 私はいま『ファニー』の芝居のひまひまにこれを書いていますが、『ファニー』は私にとって 忘れられない芝居です。というのは『ファニー』でほとんどはじめて娘役をするようになったこ と、そしてもう一つはこの公演ではじめて「文学座」が築地小劇場 ( 当時は国民新劇場と呼ばれ 子ていましたが ) に出演するようになったことです。このことは久保田先生の表現をかりていえば、 村今まで裏長屋にいた「文学座」が強制疎開で表通りにおし出された、というわけだったのです。

4. 愛とその謳歌

鮖くれていたのです。 私たちが、明日はもうこの舞台を踏めないかも知れないと思っていたように、お客様がたも、 きっとこれを見なければもう舞台は見られないんじゃないかと、同じように思っていたのでしょ ある日、山手の大空襲のあった翌日、宮ロ精二さんが、いつまでたっても現われません。もし かしたら、宮口さんは空襲で、もう死んでしまったのかもしれないと思いました。その日は休ん でなんとかやりくりして、その夜、森本さんは徹夜で宮口さんの役のセリフを覚えました。もう 作者がでなければほかに一人も残っていませんでした。それは、とても悲愴なものでした。さい わいに、翌日宮口さんがケガもなく現われたので森本さんの舞台は見られませんでした。 それからもう二十年『女の一生』は三七二回も上演されつづけているのです。そのたびに、あ の暗い時代を過ごした森本さんとのことが思い出されます。 森本さんは芝居が好きで演劇の道に入った人でした。そんな彼から、私はいろいろなことを学 びました。その彼も、戦争が終わって間もなく、疎開先の京都で亡くなりました。その間、いろ いろなことがあり、私にも「京都に来い」と手紙をよこしたりしました。手紙もなかなか届かな い敗戦の混乱期で、手紙の遅れのためにふたりのその願いもかないませんでした。 そのころの彼からの手紙は全部保存してありますが、それはとても良い手紙です。そのなかに、 森本薫という人の芝居に対する考え方がよく出ています。

5. 愛とその謳歌

134 芝居でも、大歌舞伎でもほとんど見ていました。 そこで私は、築地小劇場の舞台をはじめて見たのです。そのころの新劇運動のことについては、 広島女学院で先生をなさっていた、東京女子大出の方から、いろいろお聞きしていたので、いく らかは知っていましたが、舞台を見るのは、そのときがはじめてでした。そして、なんともいい ようのない衝撃を受け、私がやるのはこれだと思ってしまったのです。 しかし、そのころ芝居をやるなどということは、とんでもないことだと思われていましたし、 もしわかれば、親戚などから、村八分にされそうな時代でした。それで私は、もっと音楽の勉強 をしたいから東京へ出ると嘘をついて広島をはなれ、築地へ試験を受けに行ったのです。 そのころ広島の友だちの知人で、東京帝大の理科にいた人が好きになっていました。しかし、 相手の家が反対して結婚はできなかったのです。自分で相手を選ぶなどということは、とんでも ないと言われるような時代でした。もし、私がその人と結婚していたら、多分演劇の道には入っ ていなかったでしよう。、 しっしょになれなかったのがよかったのか、悪かったのか、それは、し まとなってはわかりませんが、その人から来たたくさんの手紙も戦災で焼いてしまいました。 とにかく、そんなことが、あいだにあって、ひとりで築地小劇場にやってきました。広島時代 の東京女子大出の先生から、青山杉作先生への紹介状を持って訪ねたのです。いまから考えれば、 ほんとうに無謀な話でしようが、そのころの私は、別にそれほどにも思っていませんでした。と にかく広島ナマリまるだしの女の子がひとりで訪ねてきたのには、きっと先生がたもびつくりな

6. 愛とその謳歌

12 ) 杉村春子 たものだと、自分ながら不思議に思われるほど、いろいろなことのあった年月でした。その間に は戦争という大きな出来事が起こり、その大波に「文学座」は大揺れにゆすぶられ、幾人かの人 が来り、また去ってゆきました。その中でも永遠に還ることのない二人ーー・友田恭助さんと森本 薫さんのことを私は今心に浮べています。 忘れもしない昭和十二年八月のことでした。はじめて映画『浅草の灯』に出演して大船の撮影 所に通っていた私は、ある夜遅くなったので蒲田の友田さんのお宅に泊めていただき、その夜は じめて新しい劇団をつくるお話をうかがったのでした。それ以前私は、友田夫妻の「築地座」で ご一緒にお芝居をしていたのですが、「築地座」はいろいろな事情で解散になり、しばらく・フラ ンクの時代を過ごしていました。ところが、岸 田国士、久保田万太郎、岩田豊雄の三先生が、 氏何とか友田夫妻に経済的な苦労をさせないでよ 催い芝居をやらせたいものだというお気持から、 友田さんを演技主任とする新しい劇団、「文学 子座」を作ろうとお話しあいになり、伝説 ? に 意 1 ~ 物よれば、三先生が五十円ずつ出しあ 0 て基金と 台してくださったとのことでした。友田さんから 舞 そのお話をうかがった私は、「文学座なんて変

7. 愛とその謳歌

興行によってお金を稼ぐより他はありませんでした。 旅から旅へ、私たちは馴れない観客と、ひどい劇場になやまされながら、日本各地を歩きまし た。舞台に赤ちゃんをのせておむつをとりかえるといったようなおかみさん相手に、ときどき泣 き出したくなる思いをこらえて、私たちの旅はつづけられました。『女の一生』の上演のべ二百 五十回というのも、その多くは地方で上演されたものでした。そして、その結果、新劇は深く地 方に浸透し、愛されるようになったのでした。しかし、このような生活は、私たち本当に芝居を やりたいものにとって、決して満足のものではありませんでした。お金を得るためにこのような 旅かせぎばかりしているのが果たしてよいのだろうか ? ある日巡業の汽車のなかで、中村さん と私はこのことについてしみじみ話しあいそしてその結果、思い切って月給制度をやめるという 大改革を行いました。世間の常識では考えられないこの改革にもかかわらず、誰ひとり退団する 者もなく、今日まで貧乏ながら固い団結が守られてきたのは、ひとえに演劇に対する劇団員のや みがたい情熱によるものと思われます。 子今、「文学座」の歩んできた十五年を顧みますと、ただただ胸がいつばいになり、泣き虫の私 村はすぐに涙をこ・ほしてしまいます。戦後皆でお金を積み立ててはじめて自分たちの稽古場を作り 杉 あげたときも、お祝いの席上で泣いてばかりいる私でした。こんな私でもどうやら今日まで芝居 をつづけてこられたことは、ひとえに顧問の三先生はじめ諸先生のおかげ、ファンの皆様のご支

8. 愛とその謳歌

てもなるべく断るようにしては弟の好きなものを買って帰って、枕もとでいろいろ話をしてやる のが楽しみでした。この弟のために、家の中ではなるべくそっと爪立つようにして歩いていたの が習慣になって、弟の死んだ後まで舞台の上でもついその癖が出て先生方から注意されては、あ あもうこんな必要もなかったのだと気がついたこともたびたびありました。 ところがある日、高円寺の母の店が、前の公設市場からの失火で丸焼けになるという事件が起 こりました。その日二人の弟は私の芝居を見に劇場へきていて、留守は母が一人でしていたので すが、芝居がすんで私が弟たちと中野まで帰って来ますと、そこから先は省線が行かず、つい向 うの高円寺の駅のところが盛んに燃えているのです。まさかと思いながら線路伝いにきてみると、 ちょうど私たちが行きついたときは、家の二階が炎とともにくずれ落ちるところでした。母はす でに寝ていたそうで、ただお位牌一つ持ったきり、ここでまたまた母たちは、持っているもの全 部をきれいに失ってしまったわけです。 そして、そのうえ今度は二番目の弟が、また胸を悪くして寝込んでしまいました。母は国府津 の海辺に移り、おばの援助と私が築地で頂いていた三十円の月給とで生活をささえながら、ひた すら看病につとめたのですが、とうとうこの弟もその後亡くなってしまったのです。 一方、築地小劇場の運動は、最初の意図どおりに着々と公演を重ねていっていました。

9. 愛とその謳歌

しやがみこんで、いくつかの長唄をすっかり覚えこんでしまったりした記憶がありますが、これ らのものもこの養母のはからいのお蔭で、今度は正式に思う存分習うことができました。 俳優になりたいという気持をいだき始めたのはこのころからでした。どうして、何が動機でそ う考え出したのかは自分でもはっきりと思い出すことができません。ただ好きだったということ だけは確かですが芝居見物にもそれほどたびたび連れて行ってもらった記憶はありません。もっ とも家の患者待合室においてあった『演芸画報』はずいぶん読みふける折もあって、そういうも のからもこの世界にあこがれたのだったと思います。新劇というものはまだもちろん社会的には つきりとした地歩を持っていなかった時代でした。思想的にも、社会的にものを見る見方が多く の人々のロに上るようになったのはそのしばらく後のことで、ですから結局私があこがれた「芝 居の世界」というのも、ただ漠然と「芝居の世界」として私の頭の中に描かれていたにすぎませ その んでした。それと、もう一つは、先にもいったように、やはり私も何か職業を持ちたい ときの私自身の環境はそういうことを必要としていなかったわけですけれど、実母は依然として 二人の男の子をかかえて横浜で細々とした暮しをたてていましたので、もちろん養父や養母の援 助はあったにもせよ私自身、何とかして私の手で少しでも助けてやりたいという気持が働いてい たことは否めません。 今から考えれば少々恥ずかしいような気もするのですけれど、私は毎日あけ方にそっと家を抜 け出してお百度まいりに通いました。このことなどにもあの時代の雰囲気というものがうかがわ

10. 愛とその謳歌

な名前ね」とは言いながら、もちろん一も二もなくお仲間に入れていただくことになりました。 劇団結成の準備は着々と進み、やがて公演の計画もたてられていたその折も折、友田さんが応 召、その年の十月六日には上海の呉淞クリークで戦死されてしまったのです。思いがけないこの 悲しい出来事に、私たちはただぼんやりしてしまいました。中でも幼い英司ちゃんをかかえた秋 子さんのうけられたショックは、はたで見る目もいたましいくらいでした。「五郎さん ( 友田氏の 本名 ) がいなくてはとても芝居をする気になれない」と、秋子さんは引退を主張され、周囲の者 たちがどんなにすすめても聞きいれられませんでした。 劇団結成 友田夫妻を失ったことは、劇団の中心を失ったことであり、一時は皆がっかりしてしまいまし きんぎようかく たが、もともと芝居が何よりも好きな私たちのことですから、やがて錦町河岸の錦橋閣という貸 席を借り、ここでささやかな勉強会をやりはじめたのです。当時の主だった人は、中村伸郎さん、 三津田健さん、宮ロ精二さん、森雅之さん、徳川夢声さんに私といった顔ぶれで、錦橋閣の百畳 敷の部屋は、劇場でもあり稽古場でもあるのですから、お稽古のときは部屋を仕切って、それそ れに分れてやったものです。 昭和十三年三月、第一回試演会を飛行館でいたすことになりました。そのころは岸田、久保田、 岩田の三先生が幹事として半年交替で責任をもって担当されることになりました。当時はもちろ