動座陣 ら、殿にとれば、恋は血に飽いたあとのお遊びに過ぎないんで しよう。わたくしたち女は御陣の野の花と御覧になるだけで いえ、そうなんです。おろかなわたくしもさとりま した。病がさとらせてくれました』 「おお、また宇治川からの早馬だろう。外の方で駒音がする 葵、おれはこうしてはいられないのだ。心がせく』 『ちがいます、あの駒音は』 『わかるか』 早馬ではないが、けさ、伏見へ逃げこんで来た柴舟や荷舟の 『東から近づいて来たではございませんか。宇治なれば、南か者のいいふらしが、羅生門の浮浪に聞こえ、またたくまに、市 ら来るでしように』 中へ撒かれたものだという。 『ああ、そなたの方が、落ち着いている』 その風説によると、もう合戦は始まっており、鎌倉勢の水手 『女はそうです。ただ、女の迷いには、男心の薄さよと知りな陣が、川を渡しにかかったとある。 ねが がらも、なお死ぬならば殿のおそばと希わすにいられませぬ。 『おろかなさたよ。立ち騒ぐな』 この期になって、故郷へ帰れの、おかたみなどとは、それこ 義仲は、しいて一笑に付した。 そ、口惜しいかぎりです。お怨みです。こんな物が、女の命の『凡下ずれに、何が分かろうや。伊勢、伊賀の山やまを越え、 あたい 値と思し召すなら』 人も馬も疲れたらん軍勢が、夜半に着いて、すぐあの大河を渡 簾のすそから、かの女の白い手が、いきなり義仲へ向かっせようか』 かわ て、革の嚢を投げつけた。 つよく否定はした。しかし、かれにも反証があるのではな きんなしじ 砂金であろう。嚢のロが解けたとみえ、義仲の姿が、金梨地 の光に、さんらんと、染まった。 ただ、うわさのようには、信じたくないだけだった。 『おん大将、おん大将つ。宇治の様子が知れました。宇治川の 院の四門をかたく閉じさせ、残る六、七十騎を内に配って、 しよう 防ぎが、危いとのこと』 義仲自身は、正面の御庭のまん中に床几をすえた。自若と構え そのとき、遠い廊ロの明りを人影がふさいで、郎党たちのわた。 ひょり めくのが、洞窟で聞く声のように、無人の館をひびかせてい 陽がのばる。ーーー春浅い日和となる やがて、空腹をおばえて来たか、 かて よね みずがゆ 『糧を持っ . て来い。米でも水粥でも』 しいつけ、それに添えてきた小鳥の焼いたのを、何。 と郎党へ、 羽となく、手づかみでハ リ食べ、また、 どうくっ 動座陣 しばぶね
と、ロぐちに怪しむだけだった。 『ならば、刺しちがえて死のう。熊太、わしを刺せ』 『では、峰であろう。いや、わしが探して来る』 『犬死にです、そんな刃ば持ちませぬ。武者なるからには、死 経正は西の谷道をわたって、山の上へと急いだ。この島は、 ぬなら戦場で』 島そのものが山で、遠くから望むと屋根の形をしているといわ『その出陣におくれた身、ぜひもないではないか。いやなら、 れている。 そちは生きろ、敦盛は、こうそ』 からふう 松ばかりな山上の一端に、唐風な大寺があった。唐の渡来僧 『あっ、御短気な』 ・一み、つ が建てたとか、弘法大師もいたことがあるとかいう古刹であ しきりに、争っていた時である。 った。『ーー弟よ。敦盛よ : : : 』と、松風のなかを呼んでゆく 『ーー敦盛っ』 声が、あなたこなたを、さ迷うて来た果て、やがてそこの山門 と、遠くからの声が耳をつき通って流れた。はっと、それへ へ近づいていた。 振り向いたふたりへ、まるでその眸の中へ飛び込んで来るよう それより少し前のことである。 な経正の姿が映った。 主従らしい二つの人影が、吸われるように、山門をはいって 行った。敦盛と熊太であった。 ここまで歩いて来る間に、敦盛は「死のう」と考え、「お詫『おうつ、兄君だ。 ・ : 上の兄君』 びの道はそれしかない」と思いつめた容子である。 起っゃいな、敦盛は、自分の方からも馳け出していた。 郎党の熊太は、敦盛の心を読んで、眼を離さない。そして、 『あ、兄君』 さまざま、生き抜く途を説くのだった。ふたたび小舟で、摂津『敦盛』 の戦場へ渡り、大殿の面前に伏して罪を待ち、そのうえ、お覚寄り合うなり、弟は兄の胸に泣き、兄の手は、弟の肩を抱い 悟あっても遅くはない、というのである。 ていた。 『いやだ。父君には、どんなおしかりをうくるもよいが 、一族 が、すぐ経正は、 そし の誹り、一門の冷ややかな眼。思うだけでも、耐えられぬ。介『ばかっ』と、体じゅうの感情を声にして、もういちど、 しやく 錯を』 『ば、ばかなやっ』 大きな松の根もとにすわりこんで、敦盛は、小刀を手にしか と弟の肩を、突きとばした。 て 敦盛は、よろめいた身をそのまま、地にうつ伏して、処女の め 『ゃ。何をなされますぞ』 よ、フに、身をもんだ。 染 『何をとは、おろかな』 『お、おしかりください。兄君、どのようにも : 漿 鉄『若君の御生害を見るほどなら、熊太は、こんな苦労はいたし『何、しかってくれと。 : おことは、情ない弟よの』 ませぬ。熊太こそ、腹かッ切って、お詫び申さねば』 387
と、なお疑っているらしい公達をうながして、追い立てるよ うに、放してやった。 その影を、見送ってから、義経はふと、かれの捨てて行った 『今より、元の陣所へ引っ返すところといわれたの。陣所と女房衣と、そして文殻のような物を、道に見て、弁慶の手に拾 は、いず・この ? ・』 わせた。 義経が、かさねて、糾しかけると、公達は、急につよく顔を それは、美しい女文字の恋文だった。あきらかに、男のあて 振った。 名もある。 ーを第、イ、 『それよ、 。ししとうない。軍に触るることは、何を問わるるも、 『何、あつもりの君へ。 ・ : あつもりの君へ』 おし 唖と思われよ。たとえここで斬らるるまでも、ロは開かぬ』 義経は、なんどもロのうちでつぶやき、そしてもう一度、遠 『名もいわす、帰る陣所も告げたくないとか』 くを見た。けれど、その影は、もう見えなかった。 『弁慶』 『よっ 『ならば、強いては問うまい。したが、ここで果てんよりも、 和殿も平家の陣にある者なれば、戦場で果てたいのが、望みで『この女房衣と、御文とを携えて、そこなる右大弁殿の御門を あろうに』 『もとより、われとて武門の子、願いはそこにあれど、運の末『いかなる御意を』 なれば、ぜひもない』 『夜陰なれどもと、慎しゅうお取り次ぎを仰ぎ、じきじきお目 『いや、放して上げよう』 にかかって、有りしことども、有りのままに、お告げ申せ。 そして、姫君の御手蹟やらこの女房衣など、万一、他の源 『弁慶。郎党ども五人を添えて、淀の遠くまで、この公達を、氏武者の手にはいらば、後日、鎌倉殿へのお聞こえも悪しかり 送ってつかわせ。途中、再び源氏の眼に怪しまれて、からめ捕なん。御当家のおんため、秘めおかるるよう、義経が心くばり らるることのなきように』 に候うと、この二品、お返し申しあぐるがよし』 『や、わざわざ、お味方まで添えて、摂津境へ、放しておやり 『心得まいた。したが、だいぶ時刻も費えましようず。その なされますか』 間、わが君には』 くぐ へ 『都へ潜り入ったのが、軍務なればゆるし難いが、恋ゆえと聞『先に堀川へ立ち帰る』 君 のいては、余りの優しさに』 『供人もなく、ただ , 御一騎では』 『はて、お気の弱い』 『ひとりこそ、かえって心やすい。そのうちには、かねての計 っ あ『いやいや、この者ひとりぐらい助け取らせたとて、軍のうえが行われ、洛中にも、やがて一と騒ぎ起ころうず』 に、どれほどな違いがあろう。 いざ、夜明けぬまに』 を、あわれとも、美しいとも、見るのであった。 ただ おんふみ ふみがら つつま 361
たれが閉めたのか。命じたのか。 郎党たちは、烈しくそこを打ちたたいた。たった今、殺し合 、つりく いをやって来て、また殺戮へ向かうべき人びとだった。殺気に みちた権まくと血相で、 どの味方よりも先に、七条へはいって来て、「ここは、京の『木曾殿が帰られたのだ。開けろ、あけろ』 と、怒号し、また、 どこか」と眸を迷わせているうちに、義仲から猛撃をうけたの しおのやこれひろてしがわらごんざぶろう は、武蔵の住人塩谷惟広、勅使河原権三郎などの一手であっ『火を放っそ』 と、脅した。 かれらが、いきり立っているまに、義仲はほかの門を見てま これも、百騎に足らない小勢。 しが、さすが東国武者も、馬は疲れ、身も疲れわった。 数は、ひとし、 開いている小門もない。どこも皆いかめしく閉まっている。 ぬいている かよ 血みどろな奮戦はしたものの、木曾方のため、さんざんに撃五条館と院との、あの森道の通いにも、あらゆる障碍物を積 かばね ちなやまされた。さらに屍へかばねをかさねる悪戦では、味方み、防禦の構えがしてあった。 の後陣を求めて、一時、遠くへ逃げ帰るしかなかった。 『木曾が手なみのほども思い知ったろう』 茫然。ーーその姿は、もし内の公卿眼がのぞいていたら、お 義仲は、血に染みた姿を誇るかのよう、顔にも、しとどな汗かしくもあわれな、戸惑い者に見えたであろう。 しかし今は、かれも知った。 を見せて、 『おれはばかだった』 『五条へ引っ返そう。もういちど院へ』 と、すぐ馬を北へ飛ばした。 声にも出して、自分を嘲った。 『ああ、底知れぬこのおろか者。なんじは、今になっても、ま そのとき、かれにつづいて行ったのは、わずか四十騎 だ院が、おのれの何かになると思うて帰って来たのか』 岡本成時が見えない。石黒光弘も見えない。 じちょう 自嘲は、また、おのれを憐れむ悲調になって それらの味方も、あとの河原に残された屍の数のうちだっ 『だが、仮面をすてて、明らかにこう旗色をお示しあるなら、 うら み 卩カかそれでよし、院も立派だ。何をかめめしゅう人を怨もう。すべ ふたたび、院の門前へ帰った義仲は、そこの巨大なリ : 、 ただ、おれの覚りも遅かった ぶたく閉められてあるのを見て、 ては、おれの愚に帰する。 が、院の御門の閉じかたも遅すぎたのだ。ハハハハ、あははは あ『ゃ。これは ? 』 片と、たじろいた 部下の一兵も内には残っていないはずだ。 自分の唾にむせんだものか、かばと前へ身を曲げた。そして 矢戦さなどはもどかしとばかり、激烈な白兵戦が、河原を朱に して演じられていた 、 ) 0 ばうぜん けん、、 つば わら あわ 371
変々恋々 て、 と、救いを求めるように、たもとの下でいっていた。愛し くら さ、しどけない美しさ、眼も眩みそうな思いで、義仲は、それ を流し眼に酒を仰いだ。手酌で i 一献、そして三献目の瓶子へ手 をかけたときである。つんと、異様な匂いを感じたとおもう と、家じゅうの柱がみな裂けたかと思うような響きがした。雷 大雨と狂風は、一ときのまにゃんだ。 い。ぐわんと、一瞬、耳をどこかへもぎ は、近くに落ちたらし はず 季節外れな しかも元日の夜の雷鳴は遠くへ消え、空には 飛ばされたような衝動をうけた。 それと、ひッという姫の叫びとが、同時であった。酒器星が洗い出されている もろうで 人馬ともにズプ濡れとなった七、八十騎は、さっきから、梅 を蹴って、かれは姫のそばへゆき、姫のからだを、諸腕の中に していた。 小路の門へむらむら寄って、しきりに内へ、ものを申し入れて かの女は、気を失っている : : 。「姫つ」と、義仲はその体いたが、なかなか、そこはひらかれもせず、外に措かれていた まっげ をゆすぶった。白い顔が、とじた睫毛が、あのときの恐怖とよのである。 かんばせ もんぜっ が、雷鳴がやむと、やっと門の一端が開き、内との応答 ろこびに悶絶しそうだった顔容そのままだった。血のいろを退 せんざい いた真白な面はガグとかれの腕に仰向いた。 が交わされた。まもなく廊の端に、紙燭の光が射し、前栽の木 くちびる 義仲は、そうっと、その唇へくちびるをふれた。すると、木をとおして、義仲の声がした。 ものざわ 『ゃい、やい。なんの物騒めきぞ。ただ遠方より立ち帰って来 姫はもうその触覚を敏感な粘膜に知っていた。夢のさめたよう かしらだ たとばかりでは分からぬ。頭立ちたる者はたれとたれか。そこ な眼をみひらいてまた夢の中にはいるような顔になった。おど うつつ にて、名を申せ』 ろ、おどろ、雷鳴は遠くになってゆき、ふたりの現も、どこ よろいかなぐ すると一せいに、馬を降りる武者たちの、あの特有な鎧金具 か、遠くになっていた。 こやかた すると、その時、ここの小館の門を、はげしく打ちたたく者のひびきとともに。 しんのろくろうちかなお 『進六郎親直です』 があり、人馬の騒めきも、手に取るように聞こえ出していた。 えちごのちゅうたよしかげ 『越後中太能景』 つばたのさむろうまる 『また、津波田三郎丸などにござりまする』 それきり、義仲の方からは、しばらくなんの声もない。 とっさに、かれらへ酬いることばが思い出せないのでもあろう 7 ざわ 、 0 へんへんれんれん 変々恋々
よわい 『したが、長井の実盛なれば、齢は七十をこえ、いや八十にも 巻近からん。 : この義仲すらすでに三十。 : : : それなのに、ど の うしてこの首級の髪は黒いのであろ ? 』 ら しら 『殿、よう御覧ぜられい。かく、髪ばかり若わかしいのは、白 髪を染めているせいでございまする』 『なに、白髪を染めているとな』 『あわれ、実盛殿のやさしさよ。死者の、い根は、それにて分か りました。生きてお目にかからば、古き昔の恩を、木曾殿に求やっと、雨期もあけたらしい。空はすっ・かり夏型になった。 むるに似たりと、みずからそれは避けていたのでしよう』 夏めく色の遅い北陸路でも、はや、旅人も麻を着て、笠の陰 『おう、おれには、忘れえぬお人だ。もし、この人なくば幼少には、汗と陽焦けを見せていた。 じゅらくたけふ 駒若のころすでに、おれは、この世のものでなかったのかもし 『やれやれ、たどり着いたわい。あれなる聚落が武生の里であ れないのだ。少なくも、実盛殿の手引きがなければ、おれは、 ろうが。左金吾、まず、先へ走って問うてみろ』 ちゅうさんどの 木曾の中三殿に養われるの御縁も得られたか、どうかも分から 馬上の老人は、笠のふちに手をかけた。その、そそたる白髯 に微風が見える 義仲は、急に、顔をしかめて泣き出した。群臣の手前もな 左金吾とは、かれの子息であろう。父なる人の駒のロ輪を取 常勝将軍の見栄もない。野性の率直さというのであろう っていたが、 か、かれは、ばろばろ涙をこばしながら、やにわに、実盛の首『されば、かしこの並木口に、柵の木戸が見えますゆえ、木曾 たむろ をわが胸に抱いて、生ける人にいうようにいうのであった。 殿の兵が屯しておるのかもしれません。物申して参りましょ あなたの、こんな姿を見るのだったら、なんう』 、ら とか、義仲の手であなたをわが陣中へ攫って来るのであったも と、ひとりで先へ駆けて行った。 のを。 : とはいえ、そうしても、生き長らえている実盛殿で 六月の日はかんかんと照り返り、木蔭のほかは、道も乾きき こんにち はなかったかもしれぬ。思えば、義仲の今日あるは、ひとえ っている。いやしからぬ風采の老人は、じっと、炎天下に耐え あなたの温かなお情によるもの、それだけは、忘れてはおていた。 らぬ。実盛殿ゆるしてくれい、ゆるして : : : 』 だが、左金吾の戻りは、すぐでなかった。老人は、日野川の ふちへ下りてゆき、馬に水を飼ったりして、待ちあぐね、そし てまた、往来へ出て来たころ、やっと、息子の姿が、かなたか ら戻って来た。 『何していたぞや、左金吾』 にゆ・、つらく 入洛布石 ひや 、か異′物一い せき はくぜん
一門都落ちの巻 いっそ』 まこと、君は十三、われは十五より、見初め奉った 維盛は、心のうちで、なんどそれを、べつな意志にささやか鵬 れば、火の中、水の底へも、共に入り共に沈み、限りある れたことかしれない きずな 別れ路までも、おくれ先立たじとこそ思ひしが : が、一門の絆をおも い、小松重盛の嫡男である身をおも い、また、これまでの征野で死なせた多くの部下のことを思う と、人もこの別れを想像したほど、ふたりは、相思相愛の仲 なまき と、みずから、生木を裂くことに克たなければならなかった。 だった。維盛が十五、北の方が十三のときからの恋仲であった も、つ、夜も明けよ 『いっても、嘆いても、名残りは尽きない。 レ ) し、つ みゆき う。けさの行幸におくれては、一門の人びとに会い参らせる顔 維盛は、なお、さとした。 、も - ない』 『とかく、世の行く末も、どうなるやらと思うにつけ、ふたり 重いばかり涙にまみれた妻の身を、かれは、ひざから押しの の幼い者だけは、親として、あえなき犠牲にはさせたくない そなたは、まだ若いことゆえ、どのような人へなりと、二度のけこ。 良人のその手を、北の方は、引き被いているそでの下に取っ 嫁ぎをして、あの幼い者たちを、ただ、すこやかにのみ、育ん て、離すまじき力をこめた。自分の横顔をそれへ載せて、今 でくれいそれだけが、維盛のたのみそ』 は、よよと、しやくりあげるのみだった。 『むごい仰せを』 『わるかった。二度の嫁ぎをせよなどといったのは、維盛の思 と・、北の方は、良人のひざにすがって、なおさら、嘆きもだ えた。 いすぎ。そなたが待つものならば、やがて、いずこの浦にか、 『父母もないわたくしです、いままた、どこへ身を寄せましょ落ち着く所をえたときに、人を迎えによこすであろう。 う。二度の嫁ぎをせよなどという仰せを、あなたのお口から聞う、それまでの別れそ。かりの別れぞよ、得心して給も』 むつ′一と 『では、かならず』 こうとは、夢にも思いませんでした。ふたりの小夜の睦語は、 みな、嘘になるではございませんか。たとえ、道に行きたおれ『忘れまい。それまでは、かならず死ぬまいそなたも、世の ようと、海のもくずになろうと、お別れするのはいやです。ど木蔭をたのんで、どのようにも、生きてゆくことぞ』 さまで、幼い者を、御ふび『 : : : 死にません。お便りを、ただ、たのしみに』 んな辛さにも耐えてみせます。 ほ・つし 4 、つ ふたりは、しばしの抱擁に黙しあった。夫婦という日ごろの んに思し召すなら、ともにおつれ遊ばしくださいませ かたちのものを、かたちだけでなく、今こそ、燃やしあった。 いじらしい者よと、維盛も、立ち上がる気力をつい失ってい しよせん、ふたりはふたりでなく、その生命は、いっか、一つ ちょう いつつめ 引き被いた五衣は、蝶の破れ羽のようにふるえ、長やかな黒ものであったのである。 しよく 髪も、暁近い燭に濡れて、恨むがごとく、維盛の手へ冷ややか から に夂ロみまと、つ とっ 、っそ かず とっ とっ ひかず
ざを立てた。そしてその体を抱いてやろうとすると、巴は、つわれたそうだが、義仲にとっては、山門以上に、巴ノ前こそま まならぬ。もう懲りた。そなたには、弓は引けん』 と肩を逃がして、 その夜の宴で、義仲はひどく荒れた。 『なんのお真似ですか』 とら と、義仲の手くびを捉えた。 なぜだか、諸大将にも、わからなかった。 ひやくせん とにかく、かれは、したたかに大酔した。杯をひくこと百川 かの女の五本の指の強さ。腕くびがちぎれそうである。義仲 まぶた を吸うがごとし、という概があった。美男なかれの臉が、さく のカでさえ、もぎ離せないほどだった。 『なんのまねとは、なんの他人行儀。そなたは、おれの愛するら色に腫ればったくなり、きらと、射るような眸をあげて、木 わらべうた はじら 曾の童歌をうたうときなど、山吹ならずとも、みな見惚れた。 者、おれの持もの。羞恥うことはない』 『ええ。いやです。きたならしい』 山吹に扶けられて、寝所にはいったのは深更だったが、さす たけふ あけばの むさ 、暁にはもう跳ね起きて、武生の曙の原へ馬を立て、陣ぞ 『穢いとは、何が』 にお しろいを、閲していた。 『のお体には、女兵の匂いがいたします。女屯のあのこお、 軍は、三方にわかれて、その朝、立った。 『ばか。まだ、そのような』 一軍の大将は、新宮十郎行家。この手勢は東山道から伊賀、 大和を迂回して、都へはいる予定。 『人ちがいは、およし遊ばせ』 べつの一軍は、足利判官代義清がひきい、若狭を経、 『あっ、痛い。これ、手くびを離さぬか』 『では、およしなされますか』 丹波路から都に入る。 主軍義仲は、敦賀津から、近江へ越え出て、海津で堅田党の 『よさぬ』 出迎えを見、ただちに、叡山へのばって、東塔の総持院を本陣 『よさねば、こ、っそし』 まろ に当て、そこの高所から洛中洛外の屋根を、一望に見下ろすは 義仲のからだは、勢よく振り離され、でんと、帳の下まで転 ずになっていた んで行った。 『おのれ、男を』 かれが起き直ったとき、あいにく簾の外で、侍が告げてい た。「御酒宴の席ができておりまする」という声である。義仲 は、あわてて行儀を正した。そして、烏帽子の緒を結び直しな 造 国がら、面を研いで自分を見ている巴の姿をながめ、急に、ゲラ の ゲラ笑いこけた。 ちん れ ・朕の意のままに 『もう、よそう。巴、一しょに行かぬか。 ならぬもの、山門の衆徒と、加茂川の水 : : : とやら白河院はい まね によへい ちょう 都の七月は、山城盆地特有な暑熱の底にかすんでしまう。前 かれの国造り わかさ
『わしも還るそ』 と、熊谷の姿を見かけ、互いに、歩み寄っていた と、いい始め、平兵を除く以外の大部分の傷兵たちは、むり『堀川でも、お目にかかっておったが、またしても、子息小次 に傷口を包み、痛みをこらえて、おのおの、ここを立っ身支度郎が、ここの戦場にて、いかいお世話に相成りました由』 をしていた 『なんの、凡医のこと。すぐれたお手当てもできませぬ』 そのなかのひとりに、、 貢谷直実の子、小次郎直家もいたので 『二度まで、手傷を負い、二度まで、おなじお人の治療を賜わ ある。 るとは』 『まことに、御縁の深いことです』 すくせ かかることで 『宿世の御縁なれば、どうそして、三度目には、 部隊を、岡の下に待たせ、わが子を迎えに、そこへ登って行ない、なんそよろこばしい場所で、お目にかかりたいものと存 った熊谷直実は、 ずる』 ごがいせん 『おお』 『きようは、晴の御凱旋、およろこびの日ではないのですか』 わが とすぐ大勢の中に、小次郎直家の顔を見出し、そばへ、歩み『人は知らず、この熊谷には、なんの功もおざらぬ。 寄っていた。 子ひとりを傷つけ、人の子ひとりを討ちとったのみ。 『小次郎。もう快いのか。都までの馬上、大事はないのか』 はは、武者とは、つまらぬことに、有頂天になったり、悲涙を 『不覚な傷を負い、重ねがさね、ご心配をかけました。口惜ながしたりするものではおざるよ。お笑いくだされ、お笑いく しゅうてなりませぬ』 だ六、れし』 おば 『なんの、戦場の武運、ぜひもないわ。それよりも、体は』 そういいながら、ひとりの郎党とともに、自分も小次郎の覚 『まだ、痛みますが、歩めぬほどではありません。まして馬上束なげな歩みに、その手を肩へ扶け取って、岡の道を降りて行 ならば』 くかれの眼元は、、いなしかはんとに泣きゅがんでいるように見 とえた。 『では、ひとまず、父とともに還るがよいが、麻鳥どのは、・ こにおらるるか。一言、お礼を申したいが』 しかし、この岡を去っ、て、凱旋の列に加わって行く他の武者 『あれ、あなたにおられまする』 たちには、みじんも、そんな悩みはない。たとえ、まだ傷が癒 直家が指さす所を見ると、そこにも、一群の負傷者が、世話えず、片足を引きずったり、頭を繃帯でくるんでいる者でも、 岡 になった人を囲んで、別れを惜しみ合っていた。 『おさらば、おさらば』 のその真ん中に立って、何かと、この後の養生やら明るい冗談と、後ろの岡へ、なんども手を振りながら、喜々として、み つを交わしていたのが麻鳥であった。そしてふと、たれか後ろか な、別れて行った。 一ら呼ぶ声に、振り返って、 そして、帰りたいにも、帰るあてのない平家の兵や、源氏の 『お、つ、これは』 兵でも、重傷で歩行もできない者だけが、あとに残った。 おか つか たす
と、、けび、 馬のたて髪に顔をすりつけながら、なお笑ったが、その胸を反 巻らすと、院の大屋根を遠くに見て、 『きようです、きようこそです』 殿『ばかつ。ばかはどっちもどっちだわっ』 としいつづけながら近づいた 我・甲は、ぎよっとしたよ、つに、 木と、ある限りの声でどなった。 うっせき 京やりばのない鬱積をわずかをでも、放ち得たとしたのであろ『あっ、山吹』 うか。ーー義仲は馬の歩様を小刻みにもとの正門のほうへすす顔いろまで変えて、急に馬を跳ばしかけたのだった。 『、十ノよ、つ めかけた。 かの女は、迅かった。 けれど、ふとまた何か、後ろへ注意をひかれたらしい。院の 森道の方を、きっと振り向いた。辺りのしじまを破って、たし 『いけないつ。殿は、わたしの男』 あぶみがわ かにガサガサッと人の気配がしたし、低い所の冬木の枯れ葉女の命と、体そのものを、馬の横腹へぶつけて来、その鐙革 が、ハラー、ーーとこばれたのも見えたのである。 へしがみついた。あぶみはずれて、片あぶみとなり、駒さえ横 ざまにたおれかけた 1 一ひきよう 『御卑怯です、御卑怯です。今となってなんですかつ。離しは そこの木蔭に、色の小白い、しかし、小鷹のような眼をした しません。あの世までも離すもんですか』 駒は、片あぶみ、狂いに狂って止まらなかった。 ーー馬上の 者が潜んでいた。 人の、いのとおりに。 小柄な女雑兵である。 かなたで、義仲の姿が、駒をとめて、自分の方を振り向いた ひきずられ、ひきずられつつ、それでもまだ山吹は絶叫をや どれいてき かが めはしない。 のを見、かの女の奴隷的な習に屈まされていた野性の愛は、 とっぜん、火を呼んだものらしい うれしげな容子を、ぶるる夜明け前、義仲が、刃を抜いて、魔でも追い払うように自分 こた と、その体で応え、道へおどり出て来て、 を追った仕打ちなど、恨みまじりにロ走り、無知な涙を顔じゅ うに汚しぬいて、 と、両の手を高く振った。 『もう、おしまいです。いくら殿がお強くても、鎌倉勢は眼の 義仲は、たれかを、怪しむように、なお見ていた まえに来てしまいました。この世に殿のお味方はありません。 『殿、殿っ』 死にましよう御一しょに。ね、ね、殿』 あわ かの女は、走り出して来た。 と、必死にすがった。憐れとひびくまで、その無知がさけば せた。 地を摺る鳥影のように。 そして、走りながらも、 死は覚悟のもの。死神の手であろうと、それに義仲のはだは 『きようですよっ、殿。ーー愉しいお供を果す日は』 すくみはしない。けれど、なぜか山吹にはこわさが先立った。 す - 一たか 372