がて、谷底から虚空へ巻いた異様な声のつむじを耳にすると、 突っ込んで行く。行く手ゆく手に、また、新たな矢響きや武者 『しめた。してやったそ、してやッたり ! 』 声が起こった。敵は寸断されているとはいえ、何しろ大量な軍 と、よろいの草摺をたたいて、躍らんばかりにいった。 勢である。なお、全山いたるところに、迷ぐれ歩いている平家 しゆら 美男のかれだけに、修羅をよろこぶその顔、その姿は、さな方の兵は数知れない。 やしゃ がら夜叉か鬼神に見えた。敵と思う者は、あくまで憎みきれる それも、あちこちで、捕捉され、殲滅されてゆく様子だっ 性格と、無慈悲な凛々しさが、躍如としていた。 た。月は傾き、夜半もいっか過ぎている。義仲はようやく「勝 『それつ、もう一段、陣をかなたの高所まで押し進めろ』 た」という確信をもった。余裕が全筋肉をいくらかゆるめ さらに、貝を吹かせ、鼓を打ち続け、敵本陣のあった猿ケ馬こ。 うぐん 場を占領した。 おりふし、ここへ引き揚げて来た右軍の一隊を遠くに残し かばねるいるい その辺には、死馬のむくろや、武者の屍が、累々として いて、義仲のそばへ、馳けよって来た華やかな一将があった。 た。敵のあわて振りも眼に見えるようだ。敵の捨て去った旗、 『わが殿。ここにおいで遊ばしましたか』 楯、弓の折れ、かぶと、陣幕、食器の類まで、いちめんに散乱『おう、巴か』 かがりへいたん し、篝や兵站の残り火が、満地を赤くいぶしていた。 義仲は思わずその肩を抱きよせて、 『そなたよ、 。いかにと、今も心に案じていたぞよ。手傷は負わ いっちょうふみがら 義仲はふと、足もとに踏んづけた一帖の文殻を手に拾った。 軍書か、敵の作戦日誌とでも思ったらし、 しが、それは何人の 『兄君や余田次郎などと一つに、九折の裏道をまわって、敵の 筆になったものか、優雅な仮名がきの和歌集であった。 うしろへ突いて出で、乱軍の中を駆けめぐりましたが、敵の矢 『何かと思えば』 一すじ二すじ、よろいのそでにうけたのみでございました』 れいべっ かれは冷蔑にみちた苦笑のもとに、それを辺りの、いぶり火『よろいを染めているのは、敵を討った返り血か。やれ、よか ほのお へ投げ捨てた。和歌集は、一片の焔となって、義仲の影を、瞬ったの。いくさも勝った』 間、あざらかに浮き立たせた。 『二度とは、お顔を見る日もあるまいかと、覚悟して臨んだ戦 とたんに四、五筋の征矢が、かれのそばをうなってかすめでありましたが』 た。義仲は、矢かぜの来た西の方をにらまえて、 『さればこそ、勝ったのだ。おれどもは、和歌集などを、よろ おなご 禍『逃げおくれの敵勢が、まだまだ、近くの山蔭や林には潜みお いのたもとには入れておらぬ。木曾は、女子までがみな兵よ かみふじまた るそ。九折の路や、上藤又の辺りを、さらに狩り立てろ』 そなたさえ千人の将となって戦った。抜群の功とはいわぬが、 おももの と、旗本の海野幸広、栗田別当、那波太郎、南保家隆、諏訪さすが、義仲の想い女と、人もいおう、おれも一倍愛しく思う ぞ』 半光貞などをかえりみて命じた。 おうっという声の下に、幾組とない軽兵が、やみへ向かって抱いている手へ、義仲は力をこめていった。もし、戦場でな つづら なんばう なにびと ほそく つろら せんめつ
つづら が、北黒坂の途中から、さらに別れて、遠く、矢田山、九折、の明るい うかい 坂戸などの北の嶮路を迂回して、はるか平軍のうしろに出る時たちまち、鷲尾山と卯ノ花山のあいだ。また塔ノ橋、天池の 刻を、辛抱づよく待っていたものらしい。 あたりで、黒い夜霧が巻いているような両軍の接戦が起こっ やがて、夜も二更をすぎたころ、果して、遠いとおい螺 ( ほ つづみ ら貝 ) と攻め鼓が、山風のうちに聞こえて来た。 『きたなし、返せかえせ』 義仲は、草むらから突っ立って、耳をすまし、眸を、星にこ 『ここに敗れて、都の人びとに、なんのかんばせやある』 らして、 『木曾は小勢そ、何をおそれて』 つづみ しった 『まぎれはない、あれは、樋口兼光、余田次郎が打っ攻め鼓、 もう浮き足見せた平軍の中では、悲壮な叱咜が、しきりに叫 合図の貝ぞ。者ども、今はよいぞ、木蔭からこそり起てやい』 ばれ、いたすらに多い大軍自体が、足場の不利に、その大兵力 わめ おうっという答えが、山腹のやみをいちどに揺がした。同時をもて余し、味方同士、ただもみ合い、喚きあいの無秩序をい よいよ加えてしま、つに過ぎない 、ここの陣でも、螺を吹き、鼓を打ち、武者声をあげた。 鼓螺の谺は、さらに、南黒坂にも、北黒坂にも起こった。呼およそ平家方四万を超える兵数に、二万弱の木曾勢がぶつか あらし び交う嵐とあらしのようである。そして、そのすさまじい旋風ったことを想像すると、砥波山の三道、山頂、ほとんど人馬で は、武器、よろい、馬具、人間のわめきを包んで、急速に、山埋まるばかりであったろう。暗さはくらし、道はせまいし、 上へと、駈けのばっていた。 かに戦ったかさえ、疑われるほどである。 不覚にも、猿ケ馬場の平家の陣営では、 そのうえ、やがて、機を見ていた義仲が、 『や、や。あれは』 『放て』 と、さいごの一計を敵に加えた。 と、降ってわいたことのように、四面の敵に仰天した。 昼の小ぜりあいに、やや優勢を示し、矢立山の木曾勢も、夜海野幸広と小諸忠兼にいいふくめて、にわかに集めさせた数 とともに、沈黙してしまったので、『さしたる敵かは』と、自百頭の牛を、平軍へ向かって追い放したのだ。 つの たいまっ 陣も矛をおさめて、気をゆるめていたものであった。 一頭一頭、牛の角には松明がくくりつけられてあった。火を しり つづら それに、矢田山、九折などの嶮は、踏み越えられる地形ではつけるやいな、その尻を、兵がムチで撲りつける。牛は、焔の ない。その方面は安全と、警固もしていなかったのだ。 角を振り立てながら、肓目的に、敵陣へ狂奔してゆく。 牛『敵は、前後にあるそ』 この光と怪物の影を見ただけでも、平軍は「何事か ? 」と胆 『いや、三方、四方』 をすくめた。猛牛の群は人びとが「あれよ」と身の処置を取る 『いたすらに、あわてふためくな。まず、卯ノ花山を前にとひまなく、人馬の中に、割りこんで来た。 ゾ、うもう はや り、塔ノ橋をさかいー 、撃って出よ』 牛は牛と思えない迅さと獰猛をほしいままにした。人間は踏 9 どうてん 十一日の月は雲間にあるが、物惑わしいほど、ほの暗く、ほみつぶされ跳ねとばされた。ただ動転するだけで、それを支え 火 けんろ けん ほのお