りよう いうて、義仲へ面と向こうてロのきける人間はおらん。とどの仲も、諒として、異議を立つるなかれとの、おことばだとあ 巻つまりは、再度、法皇の裁断を仰がではとのこと』 る。 おれがほんとに怒り出したのは、それからだ』 ち『で、やむなく、御退出なされましたので』 落 都いやいや、大事な議定には、いつも義仲を除き給うこそ心得『かかる大事のお選びを、トによるとは何事そゃ。そう、お ね。きようばかりは、義仲をここにおいて、上奏もし、集議もれは大喝したのだ。 院中では、トなどを、神示と思うか知 わ おんようのかみ 遂げ給え、と半日も座に粘ったのだ。 そこにはお在さなか らぬが、義仲はそんなものを信じもせぬ。第一、陰陽頭などと むじなためき ったが、院も御閉ロなされたに違いない。何せい、御意中の高 いう狢狸のような人間からして眉唾ものよ。いよいよもっ 倉の四の宮を、すぐにも、皇太子に立て、義仲には、ロをさして、四の宮を立つる儀は、義仲不同意でおざる。義仲は義仲の もちひと はさむひまも与えまいとされていたことでもあるし』 奉ずる北陸の宮を、越中より迎えまいらせ、あくまで、故以仁 おう 『ところで、院後白河のお考えは』 王の尊霊にこたえ申さんずる所存と、そでふり払って、帰って 『てこでも動くことではない』 来たわけだ。おれも、肚をすえずばなるまい』 『やはり、四の宮を』 かたわらの、樋口兼光の方を見て、 よんかた 『そうだ。高倉の御子、お四方のうち、第一の御子は、すなわ『樋口』 ち安徳天皇、また第二の御子も、ともに、平家が西国へお連れ『はっ』 申してしまった。 あと三の宮と、四の宮とが、都に残って 『こうなったからには、口先ばかりでなく、義仲が意の固さ いたのを、法皇には、その四の宮の方がお気に入りで、当年わを、眼にも見せてくれねば弱かろう。七条、六条、五条の河原 ずか四歳になるその宮を、次の、天子に推し奉らんと、なされに、陣を布いて、東を見ておれ。 かたがた、叔父なれど、 るのだ』 あの十郎行家殿が、院とおれの間に立ち、何を考え、何をもく 『そして、北陸の宮へは、なんの御心もうごかぬ態にございまろみ出すやも測りがたい。それも見ていよ』 するか』 ごい得ました』 こもろのたろう 『おそらく、そうだろう。ーー上奏、再三の末、やがてさいご 『また、落合兼行、小諸太郎の両名は、手勢をつれて、越中宮 に仰せ出された御諚では、北陸の宮を立つるは大凶なり、とい崎へまいり、仮御所におわす北陸の宮を、嵯峨の野依の寺へお 、つことだった』 入れ申しておけ。 そして、院と義仲との、根くらべよ、睨 『え。大凶とは』 み合いよ。おれは退かぬ。この儀ばかりは、義仲、黙って引っ うらない つばね トに出たというのだ。ーー丹波ノ局とかいう、院の御寵愛込んではおられぬ』 おんうらない の女房やらたれやらが、おすすめ申して、御トを立てさせた うらないおもて ところ、四の宮は吉、北陸の宮は大凶と、ト の象にあらわれ たによって、皇太子は、初めのとおり、四の宮となされる。義 めん ′一ちょうあい だいかっ うらない まゆっぱ こん のより
巴 ここでは、のべつ、武者 もしない義仲だった。 『そうだ、梅小路へ行って眠る 危機刻々の様相と見あわせて、いっ義仲が御動座を迫って来どものわめきや、馬のいななき』 『ことあればすぐ武者を走らせまする。どうぞ、お心おきな るやもしれぬという御懸念を、院には、たえず抱いておいでに なる 万一のばあい、、 しゃ未然にも、義仲の強迫を拒絶するための 『そなたが憎いの、飽いたのというさたではないが』 口実に構えられた御仮病ではあったのだ。 とも覚らず、義『生じなおいいわけなど、およしくださいませ。かえって、お 仲は、反対に安心したらしい法皇が御不予とあれば、平家都見せしとうない涙がこばれて参りますから』 落ちの夜のような雲隠れも遊ばしえまいと、気をゆるめたもの『腹が立つのか』 なのである。 『ふるさとへ、帰りたくでもなったのか』 『今さら : : : なんでそのような』 かりめはかま 、『では、なんの涙』 巴に手伝わせて、雪に濡れた狩衣や袴など着かえたのはまた 『子の義高さえ、そばにいてくれたら、どれほど、うれしかろ すぐ他出のつもりであろう。義仲は広縁へ出て、中ノ坪へ馬を 、つにと田 5 , つだけで′さいまする』 呼び入れていた。 巴は、すでに、あるあきらめをもっている。 『また、子の愚痴か』 『でも : : : 女の命は、何かしら、女の命ひとりでは、散り迷う 重大な結果を、一族の間に告げているときから、良人の心が 悩みを持ちまする』 もうあらぬ方へ行っていることを、読みとっていた。「それく しっと らいな良人の心が、妻の眼に分からないでどうしよう。嫉妬で『散り迷うとは』 むな しない」と、さっきからひとり自分へつぶやいていたのであ『余りに空しくてさびしくて、死ぬにも死ねそうもない気がす めしべ る るのです。花の雌蕊も、何かに結びつく風を待つではございま 『もう、夜半も過ぎておりましように、お疲れもいとわず、すせぬか。巴には、結ぶものがありません。未来の何を見て死ん だらよし力と』 く梅小路へ行らっしゃいますか』 。し、つましと田 5 , っ 『未来。未来などがあるものか。人間、白骨となるまでの間の っても、恨みがましくよ、 しっと 嫉妬はせぬと誓っている。しかしその気もちが、すでに嫉妬ことだ』 『ではなぜ、わらわたちふたりは、子の義高を、産んだので かもわからない。巴は、自分のことばがこわいほど、自分を慎 しよう。未来へ因果を残すのでしよう』 んで、そっといっこ。 しかし、それすらがもう、義仲の気に何かの棘をつき刺した 『生まれた者は、生まれた者だ。それはそれなりに生きて行く叨 わ。おれを見ろ、おれの生い立ちを、ーー・義仲の親たちは、生 らしい。まゆを、ひたとかの女へ向けて、 なま
平がなんの返辞もしないので、義経は急にことばの調子をかえた その友時は、きのう、重衡の中将が、市中を引きまわされつ どろわらんじ 『ともあれ、中将殿が身は、ままになるなら、助けても取らせつ、群集の一部から、石つぶてや泥草鞋を投げつけられ、 たしが、義経が」存でよ、、、 。しカんともなし難い。せめては、わ葉の車も打ち破らるるばかりな目に遭っていたのを見 いたわ れらの手にお預かり申している間だけでも、何かと、宥ってあ『あな無残。これがつい三、四年前までは、西八条の出入り くるまぞい げたいものよの』 に、先馳の騎馬や車添の百臣に囲まれて、時めき給うた公達の 『お案じなされますな、実平も、そこは心しておりますれば』おすがたか』 『たのむそ、土肥どの』 と、面をおおうて、逃げるがごとく、家へ帰った。 と、わがことのようにいって そして、一晩中、泣き明かしでもしたのだろうか。次の日、 『幼時をかえりみれば、われらが生い立ちにも、平家から一つかれははればッたい顔をもって、重衡の中将が監禁されている の恩義も受けていなかったとよ、 。しいきれぬ。兄の頼朝殿には、堀川ノ御堂の辺を、うろついていた。 年十三の春、平家の手に生捕られ、すでに打ち首ともなるとこ ところへ、ちょうど、土肥実平と供の一群が、義経の許から ろを、清盛殿の情にて、伊豆へ流されたがゆえ、今日に会うこ帰って来た。それを見ると友時は、いきなり物蔭から走り出し くらま ともでき。また、この義経とても同様、生かされて、鞍馬の稚て、 子としておかれたため、かく一個の男とはなったる者ぞ。 『お願いの者でござりまする。あわれ、お慈悲をもって、お聞 りんね ああ、奇しきかな、世の輪廻』 き届け給わりませ』 と、あくまで多感なかれは、その多感にまかせて、実平が、 と、必死な顔つきで、その人の馬前に立ち、そして下へ、ぬ 兄の重臣であることもつい忘れて、繰り返した。 かずいてしまった。 『むかしは、幼きわれら兄弟が助けられ、今は、そのおり、わ土肥の郎党たちが、 おり れらを助けおかれた清盛殿の五男、重衡の殿が、源氏の檻に生『なにやつだ。そこ退け』 捕り人となってひかれて来たのだ。 : ・今昔の想いにたえぬ と立ち騒ぐのを制して、実平は、何か仔細があろうと、友時 は、義経だけの痴夢であろうか。心なき者とて、いささかの温のことばを、自身、きいてみた。 情はその人へ酬うであろう。院の御意向、鎌倉殿へのお聞こえ友時は、こう訴えた さんみのちゅうじようどの もくのりよう 局 など、もとより憚らねばならぬが、このうえとも、義経に代っ 『てまえは、木工寮の小役人ですが、以前は、三位中将殿に めしつ 佐て、何かとお庇い申してあげよ』 仕えておりました者。それも召次の小侍でしたから、軍の御供 は一度も致しておりません。 とは申せ今日、旧主のお傷ま 衛 右 しい有様を見、いても立 0 てもいられない心地です。せめて、蝣 さんみのちゅうじよう ここに、三位中将の旧臣で、木工允友時という侍があつお慰めの一言でも申しあげたいものと、じつはけさから御幽居 もくのじようともとき さきがけ
もに、野馬をあやっッて、喜々と、飛び跳ねていたころの、乙『それ。いい始めたわ。女の本音は、つまるところ、やきもち げめろう そばめ 巻女ごころなど、どこへ失せたやら』 と極まっている。山吹は、下女﨟ではない、義仲の側女だ』 の ・ : あわれ『葵どのは、栗田別当がむすめ御、氏素姓も知れてはおります 『はや十歳をこえる子をすら産んでおりますもの。 ら おんなたむろ や親の手を離れて、鎌倉殿のお内へ、質子としてやった子の義ものの、山吹は、つい先ごろまで、女屯にごろごろしていた 高を思うにつけ、このごろの殿の御大酒は、案じられてなりま穢い女兵ではございませんでしたか』 『 : : : であったら、どうだというのか』 せぬ』 みだ 『何かと思えば、そんな話か』 『軍の紊れです。殿御自身、軍律をみだす者は斬る、と常に仰 『いえいえ、巴のことばと田 5 し召すゆえ、耳うるさくもお思い っしやっておられながら』 でしようが、義高がいうぞと考えくださいませ。親として、あ『はははは。斬りかかってきたな、巴』 ねた の子に、無事な顔を見せてやれる日までは、どのようにも、生『女の妬みで申すのではございませぬ』 命大事に、生き長らえてやろうものそと』 『軍のことなら、帷幕の将にまかしておけ。そも、そのような 。いうな。おれは、田 5 い出したくな 『よせ。ーー義高のことよ、 こと、だれから聞き掘じッて来た。義仲が側女をおくに、なん の苦情ぞ』 し』 『世の慣いならそれも悪いとはいいますまし 『御無念なのでございましようが』 、。けれど、お側へ なんだ 『知れたこと。 : : : 都入りの大望ゆえに、信濃の陣では、涙を寄せる女子にもよれです』 のんで、頼朝に一歩を譲ったが、その足もとを見て、おれが大『なぜ、山吹を、さはきらうのか』 事な子を質子に取って引き揚げおった。この辱が、忘られよう 『あの、するどい眼、栗鼠のような身動き、どう、美しくばか ようふ カ』 りあっても、何やら妖婦めいて見えまする。ゅめゅめ、殿のお 『わらわとて、その口惜しさに、変りはありませぬ。それゆえためになる女子とは思われません』 ふたおや にこそ、義高が身をつつがのう両親の手に取り返すまでは、ど 『しかし、篠原の夜戦さでは、この義仲が、あやうく、敵に囲 うそ、もすこしお身持ちも』 まれたのに、彼女の半弓で、おれの命は救われたのだ。不為な 『なに、身持ちを直せと。酒のいさめにことよせて、おれの行女子とそなたはいうが、山吹も、そなたや葵に劣らぬ勇婦そ』 状までを、意見がましく、申すのか』 ちゃくなん 『申しまする。殿とわらわは、嫡男さえ、もうけている仲。そ『はははは。そう気色を損じるな。いまのは義仲のちといい過 また、 して、殿が、駒王丸の御幼少から、ともに、木曾駒のふもと ぎ、木曾が内において、心ばえから眉目の美さといい 一男といし で、恋の花を摘み始めて来たふたりでもございませぬか。 巴にまさる者やあろう。のう : : : 巴、きげんを直 げめろう あの、葵ノ前や。また、山吹とやらいう下女﨟などと、ひとっせ、きげんを』 1 一ろう に御覧ぜられては口惜しゅうぞんじまする』 義仲の方からすり寄ってゆき、ひたと、巴の腰のそばへ片ひ おと いの おなご によへい おなご おなご
え、出で立って参ったれば、さような配慮は、さらさらお心を年、富士川に戦わずして、ひとり先へ都へ帰ってしまったこと たた 巻わずらわし給わぬように』 は、その後もいつまで、自分に祟って、わずらわしい人ざたに そう、物静かにいってから、また、 ら もされている。それに、この年ではもう物欲も出世欲もないの はなみず 『いや、洟水などお見せ申して、われながら、笑止なことでごで、功を競う気なども毛頭ない。あるのは死に方だけである ざる。何を申すも、人間、老いては、寝るか、死を待っしかおこんどこそは、きれし 、こ、この形骸を自分で始末し、生涯の善 あたら ざらぬものよ。可惜、こよいの酒もりを、味のういたしたも、不善、一切のして来たことを、帳消しにしてもらいたいものだ 老いのせいじゃ。ゆるされい、ゆるされい』 とは、都を立つまえからの願いであった。 と、ふたたび、触れたくもない容子だった。 しかし、実盛が詫びるほどなこともない。自然、酒飲みたち実盛は、燭を剪って、鏡をのぞきこんだ。 は、酒もりを楽しまずにはいないものだ。やがて夜も更けて、 五本の指を櫛として、ばさたる白髪を、かきあげる。 おのおのは別れわかれに帰って行った。 人知れず洗っておいた髪は、油気のない麻のようだ。やが その夜、実盛は、ひとりわが幕舎のうちにすわって、何か思て、かたわらのをひざのそばへひき寄せ、かれは、わが白髪 しよく いにふけっていた。鏡を立て、燭を掲げ、自分の顔を、映してを染めはじめた。 見ていた 鏡の中の顔は、若い日の実盛を取り戻したように、若ゃいで 鏡の中には、七十余年の、自分の生きて来た形見が、惨行った。 として、映っている。 すがた この顔、この相。 蓬々たる白髪は、生きるがために、あえいで来た生涯の苦労 を物語っている 黒髪のこう白くなるほどまで、生かされて来たこの一個の体 っこ、、何を世にし残して来たろうか。帰するところ、 みずから慰めうるようなものは何もない あわれむべき老の形骸、それだけが、ここにあるだけだ。そ んき して、形骸がいま形骸を見つめ、及ばない生涯の慚愧をしてい 機は熟し、やがて、いくさは木曾勢からしかけられた。 るにすぎない。 この辺、河沼地帯での交戦も、さきの倶利伽羅山におとらな けれど、この形骸を持「ている以上、世の毀誉褒も耳にはい惨烈なものだ 0 た。源平両軍の出した犠牲は、またまた、少 いれば気にもかかる。武門であれば、主筋の義理などもなかな ない数ではない。 か捨てがたいこよいも、友はああいってくれたりしたが、先平家も、こんどは、さきの日の雪辱をちかって、よく戦った あ 安宅・篠 たか し は
雪 と、かれよ かならず、兵乱を見、われらも、義仲のため、みなごろし の目に会おうに ) 頼盛の願いは、平家と頼朝との間に、どうか、不幸な戦いを と、頼盛は、びつくりして、家に久しいこの忠実な老臣のこ見ぬように、なんとか、源平二つの氏族が、仲よく、共栄して くふう しを、思いかえさせよ、つとした。 ゆける工夫はないものか。 ただ、それだけを、多年願い通 宗清は、涙をこばして、 して来ただけのことにすぎない かた ( 若年から君のお側えに仕えて来た身として、お別れしたくな 自然、それには、後白河のお力にもすがろうとしたし、平和 いのはやまやまですが、生じ、もののふの道を過たずに通ってのためにはと、鎌倉へ書を通わしたことも事実である。 来た宗清は、あと生きたところで十年か十五年、生涯の歩み すべては、反対にとられて来た。世間からも、同族からも。 を、ここで曲げたくございません。 : どうか、わたくしの晩また、義仲の入洛は、まったく、かれの工作を、画餅にして 節と思し召して、わがままをおゆるしくださいませ ) しまった。平和の希望など、今は、痴人の夢にひとしい っ・ ) 0 ( 心ならねど、鎌倉殿の情にあまえて ) 意味は、言外にある。 と、東国行きの心をきめたわけだった。 が、老臣の宗清だけは、 はっと、頼盛も胸を打たれ、主従、無言のまま涙になってし まった。 ( あなた様は、あなた様の道を迷わずお踏みください。それで しかれにも、聞こえていなし 世間の批判は、頼盛にきびし、 こそお立派です。が、宗清は、古きがままの、もののふの道 わけはない。 : むか を、まっすぐ、踏みしめて終わりとう存じまする。 し、平治の乱のとき、幼い頼朝殿に、恩義をかけた縁を頼っ 敗亡の一門を見捨て、ひとり都に居残られた卑劣なお方、恥 あわ を知らぬお人、不人情な池殿と、あらゆる辛い風当りである。 て、宗清までが、鎌倉殿のお廂の下に、憐れをこいに参ったと 要するに、命惜しさのため、同族たる平家一門を、敵に売っありましては、池殿のお身内に、ひとりの武者もおらなかった あざけ かたくなもの たとい、つ非難だ と世の嘲りをなお加えましよう。宗清ごとき頑固者がひとりは いてもよろしいので御座いますまいか ) かたちは、そうなっている。世間が誹るのはむりでない。 けれど、頼盛には、理由もあることだった。弁解の余地は、 と、多年の主君と、雪の中で、たもとを分かった。 ていはっ 山ほどもある。ーーー清盛在世中からの内輪のもめごとだの、妻そしてこの宗清は、山に隠れて剃髪したわけでもなく、ひと 泥と八条女院、女院と後白河との関係だの、ゆく末、平家のためり、屋島へ渡 0 てゆき、 おいばね を思うがゆえにしたことだの、数かずな素因と誤解とが、こぐ ( 参り遅れましたが、今は心残りもない身です。ーー老骨なが ぶん らかって、心ならずも、こうなって来た孤独である。 しから、池殿御一族の分も負うて、働く覚悟にござりますれば、何 あわ しこの孤独を、たれも、憐れな離れ雁よ、とは見てくれない とそ、御陣の端になと、お加えおきくだされい ) ( ・ : ・ : 宗清さえも ) と、身を流離の平軍に投じ、矢にあたって死ぬまで、日々、 せつ ばん ひ寺、し 221
吾子は白珠 ろうづく : うらん お座船の玉座は、低めな楼造りで、勾欄をめぐらし、下の局景色も、みかどの純なお心をいたく傷つけるものとみえて、こ よし うわごと に、内侍や女房たちがいた のごろ特に細がお強くなった。そして夜半の御寝のおん囈言に 『まあ、いつのまに』 も、とっぜん叫声を発しられたり、何か、わけもなくお泣き遊 ひはかま ばすことなどがまれでなかった。 女房たちには、またかであった。緋の袴をひき、艫やみよし へ、みかどのお姿を、探しに走った。 他の船には見られない構造がここにはあった。玉座の屋形に そうひのき でん 接して総檜づくりの一殿が設えられていた。三種の神器を安置かすみの中の千余艘の船艇から、ひとしきり、兵の炊煙がさ しんそう かしこどころ ないしどころ まばゅ かんに揚がり、やがて、それもかすみも吹き晴れて、ただ眩い しておく賢所 , ーー内侍所ともよぶ神倉である。 にしききれ じっげつばん また、内侍所の背後には、日月の幡が立っていた。錦の布の昼の海づらとなったころ 『昨夜は、お疲れでおわそうに。母公 ( 二位ノ尼 ) には、なんの 美しいその旗が、幼いみかどには、とかく欲しくてたまらない おつつがもない御容子かの』 物にお見えだったらしい ばん おおよろい 今も、危なげな所へ、み足をかけて、幡の端を引ッ張ろうと と、内府宗盛が、重たげな体を、大鎧のため、よけい丸こく の S ・も・ かがめて、叔父の教盛とともに、自分の船から、見舞いに来た。 していたのを、女房たちが、むりに、お抱きして返ると、みか げんそく どは、あらん限りな泣き声とカで反抗され、内侍のひとりは、 舷側の武者は、すぐ内裏の典侍へ、 か かどわき との みかどの細かなお歯で、血が出るほど指を噛みつかれた。 『内大臣ノ殿 ( 宗盛 ) と、門脇ノ殿 ( 教盛 ) とが、おそろいにて、 さあ、それからの、ごきげんが直るまでの騒ぎも、ひと通りお渡りでございますぞ』 なことではない。おん母も尼も、手をやいてしまうのである。 と、大声で告げ渡す。 それを聞くと、たれよりも早く、みかどの小さいお姿が走り 何しろ、男の子のおん七ツ。内裏といっても、波の上やら島 住居だし、明け暮れ見るのは武者ばかりだった。自然、野性に出て、宗盛の鎧のそでにぶら下がった。 つむり もおなりになる。 おん頭をなでながら、 『 4 、つ、 4 れ , つ、し 、つも御きげんであらせられますの』 だから、屋島をお立出で以来、お座船では、こんな騒ぎが、 日になんどだかわからない と、宗盛は、高だかとお抱きして、 日ごろ。おん母の女院は、つとめて、文習びや、音楽や、絵『ゃあ、これはお重い。日毎のように、お重くなられる : : : 』 ・一とばど 巻の詞解きなどに、みかどの興味をお誘いして、流浪の月日の と、ほんとに、息をきらしながら、御簾の座へはいって行っ 間にも、御教養にだけは欠けぬようと、心をくだいては来たのた である。 ふたりの姿を見ると、尼は、さっそくごとのように ごおんきかんげんこう けれど、それも昨今のような戦雲の下となっては、おん母自 『ゅうべ、御遠忌の管絃講のあとで、輪田の松原の武者が、何 9 身の胸が絶えずそそろであり、また、周囲の者の血相やら陣のやら、あわただしゅう馳け去ったが、あれは敵がよせて来たの ふみまな かん との すいえん
それからいよいよ「神州天馬侠」の登場となるのだが、第一回は斯くして「神州天馬侠」は、大正十四年の五月号から、山口将吉 「武田菱」の載った年、大正十四年の五月号からとなっている。本郎さんの挿絵で載りはじめ、昭和三年の十二月まで前後三年七カ 当はその年の新年号からはじめたかったのだが、そのころの先生月、回数にして四十四回。これほど長くつづいた連載小説はあとに は、本社の雑誌だけでもキング、講談倶楽部、面白倶楽部、現代等も先きにもないばかりか、これほど読者を熱狂させた作品もその類 に連載執筆中であり、他社のものもいくつか手がけ、既に流行作家は少い。 として子どもの雑誌の割りこむすきは容易になかった。 戦後まもなく先生をお訪ねしたとき、「ばくの作品のうちで、お しかし、わが少年倶楽部には「でこばこ花瓶」という別格の宿縁とな物では宮本武蔵、子ども物では神州天馬侠、まあこの二つだけ がある。「講談倶楽部と面白倶楽部は、同じ縁にすがって連載をはは残しても、 しいものでしようね」といわれた。まだ「新平家」に手 じめているのに、少年倶楽部だけ連載をいただけないというのは片をつけていないころだった。 手落ちということになるんじゃないでしようか」少しいや味だが、 この四十四回連載の間、さすがの先生も過労の堆積でとうとう健 そんな恨みがましい文句をならべたような気もする 康を害われ、どうしても筆が進まなくなり、一回だけ休まれること 編集者なら「やったな」と誰にも思い当る文句であろう。先生もになった。たいていの作品なら「作者の都合により休載します」と 気の毒がって、その中に必ずはじめるから新年号だけは短篇でがま編集者の断り書きですますところだが、そんなことで気のすむ先生 んしてくれと因果をふくめられたのが前記の「武田菱」。ところがではない。ここで四〇〇字原稿用紙十一枚にぎっしり書いた前代未 これは短篇でありながら爆発的な評判となったので、こんどこそ有聞の詫び状が書かれたのである。 無をいわせるものか、何でもかでも四月特大号からはじめてもらわ なければと、その攻略に急襲を続けたところ「だいいち君、青写真親愛なる天馬侠の愛読者諸君 ができていないのに家が建てられるかね」と逃げる。「先生はいっ顧みれば足かけ四年、まさに満三年と三ヶ月、少年小説として 、、はじめから筋を考えない主義だといったじゃありませんか」と は、実に稀有な長篇といはれて来ました神州天馬侠の著作に、自 食いさがる。「あれは君、おとなのものを書くときの話だよ、子ど分の遅々たる筆と孜々たる努力を傾倒しはじめてから、私は、こ ものものはそれではいけない。私は子どもはこわいんだよ」といわこに今月初めて、常に机北の親友のごとく思へてならない愛読者 れたので、矛先きがにぶってしまった。 諸君に向って、親しくかう呼びかける機会と、また同時に、謝罪 先生はいっか私をからかって不識庵謙信に似ているといったことしなければならない、ふたつのことに遭遇しました。 がある。風貌よりも攻め方の急なのに呆れてつけた仇名らしい。し まづ、諸君の寛容に訴へて、おわびから先に言ひます。 、し、「子どもはこわいんだよ」という真摯な気持の敵将に対して、 それは、やむをえない事情のもとに、今月だけ天馬侠を一回休 やみくもに攻略を続けることは智将のすることではない。熟して実載さしてもらったことです。風貌謙信に似たりといふ同人評ある の落ちるまで待つべきが礼であろう。こう肚をきめて矛を休めてい編集の牧星氏 ( 筆者の雅号 ) が、どんなにこはい顔をしたか、想 たところ、待望の吉報は意外に早くもたらされた。 像にかたくないことです。 5
告 『九郎、うれしかろう』 と、ふうふういったので、義経はわざと、 しようし と、かれの喜色を見ていった。 『弁慶、笑止そ』 『これが、うれしくなくて、なんといたしましよう』 と、カらカしカらカし 、、、まかの面々をも、励まして来たほ とた かれは、兄の命を拝しながら、そういったが、なおいい足り 『むりではあったが、まずよかった。きようは、ゆるりとここぬように、 を立っとも、明朝までには、宇治川を前に見られよう。ーー不『生まれてから、今日まで、九郎は三度のよろこびに会いまし かばどののりより 第一は、鞍馬をのがれ出たときです。第二は、奥州から馳 破から近江路へ出た蒲殿 ( 範頼 ) とて、まだ、瀬田には行き着かた。 きせがわ け下って、黄瀬川の御陣にて、御兄上にお目にかかった時でし れまい』 しようよう ・そして、きようのおいいつけ』 かれは、山上を逍遙して、弥勒石のほとりにたたずみ、しば みろくぞう と、思いを、おもいのまま答えた。 し石面の弥勒像を見とれていた。 頼朝は、うなずいて、 指をほおに当て、やや小首を傾げた風情の女人像が、ふと、 『和殿を見こんで、わしが申しふくめた秘策、わかったろう だれかをかれに連想させ、もの思わせたことでもあろうか。か れはやがて、素直な子のように、下へすわって、掌をあわせな。やれるか』 と、念を押した。 あさひ その姿へ、山の端から、虹のような朝陽が射し、ふもとの泉『よく、わかりました。不肖なわたくしですが、ただ、懸命に やまとへいや 川から木津川、また、はるかな大和平野の浅い春の色までが、勤めまする』 『よし、わしの代官として、やってみるがよい。まだ、瀬踏み あざやかに浮き出した。 だが、万一、ただちに合戦ともなれば、和殿にとっては、生ま れて初めての実戦、つまり初陣ぞ』 九郎義経が、兄頼朝から与えられたこの方面の左翼軍は、千『はい 『ぬかるな』 八百余騎。二千がすこし欠けていた 部将の多くは、この正月六日、鎌倉を発し、熱田でかれと合 せんざいいちぐう ーー千載一遇 なぜか、九郎は、ほろりと、涙になりかけた。 流したのである。 が、義経その人は、それ以前、すでに去年の十一月初旬ともいえるこの機会を、兄は、自分に与えてくれた。そうすぐ 愛情に取ったからであった。 から、頼朝の秘命をうけて、近江、伊賀、伊勢などの間を、わに、 : 、頼朝は、その容子を見ると、かえって、むずかしい顔を ずか五、六百騎で、転々と移動していた。 ほうじゅうじでん 守った。涙に誘われる人ではない。 ことは公命であり、鎌倉の 春まだ、義仲の法住寺殿焼き打ちが行われない前である。 運命をも決する大事ぞと、よけい冷静になるのである。 鎌倉を立っとき、頼朝は、 みろく
『何も、先陣ばかり争わなくても、よい手柄は、後ろにもあのカで、若い小平六を組み伏せてしまった。小平六の必死なあ ばんじゃく る』 がきも、ただ、磐石を感じてしまうだけだった。 のうり ・一うち と、かれは敵の油断をうかがい、盛俊との一騎打ちの機をね せつなに、かれの脳裡を、死の影と、狡智がかすめた。眼に のどもと らッていた。 は、自分の喉元へ向いた短刀の切ッ先を見、思わず、くわっと、 また、盛俊の方でも、「いずれ東国でも名のある者が、伏勢それへ噛みつきそうな顔して叫んだ。 ひき を率いていたにちがいあるまい」と、敵の主将を狩り探してい 『ゃあ待て。待ち給え』 たことはもちろんだった。 『こ、この期に、何を』 で、はしなくも、ふたりは、相互の姿を見つけ合った。 『もののふの慣いを知るなら』 かち 『しゃツ、、 しかし盛俊のそばには、徒士の郎党が七人もいたので、小平六 りざかしい未練ごとをば』 はわざと馬を飛ばして逃げ走った。 『いや、名乗りもあわず、こと終わるのは口惜しい。討つ者と 幾本かの追い矢が、馬の脚や鎧のそでにからんだが、一本もて、たれの首かも知らず、討たるるわれも、敵の名も知らいで かれの急所にはあたらなかった。 は、匹夫の死に様ともいわれよう。和殿の誉れでもあるまい ひきようもの 『ゃあ、待て卑怯者。道に姿を伏せたり、たたき出されてはま ・カ』 たすぐ、敵に背を見せて逃ぐるのが、東国武者と申すものか』 『おう、ならば聞こう、まず名乗れ』 あと こう、さかんに恥ずかしめながら、越中前司の駒も、追ツか 『ウウム、苦しい顎の手を、もすこし、ゆるめてくれい』 たばか けてくる 『ちつ、たれがそんな騙りに乗ろうそ』 ト平六は、振り向いた。 『無念や、きようのみは、、、にして、こう組み敷かれしか 名倉ノ大池のそばだった。近づく敵は、もう越中前司ひとりとはいえ世の笑い者にはなりとうない。それがしは、武蔵国の のりつな と見えた。小平六は、。 くっと、馬をまわして、 住人、猪俣小平六則綱。ーーー武蔵七党の内でも聞こえを取った 『広言はあとにいたせ。足場をこそ選んだるなれ。いで来い』男なるに、そのわれを組み伏せられし和殿はそも平家のたれ と、大手をひろげて待った。 カ』 しかつの 組まん、という構えである。鹿の角さえ裂くといわれた『知らすや、越中前司盛俊そ』 怪力の持主なので、こう組み打ちを挑んだものにちがいない。 『ああ、さては、よい侍のはす。音に聞こゆる越中前司どのな しかし、越中前司も、若いころは、何十人力と称された剛カりしか。 しかし、けさの一戦にて、平家も敗れ去るは必定。も 平 である。駒を寄せあうやいな「望むところ」と組み合った。そし、わが一命を助けおかるるならば、後日、猪俣党の勲功に代 し して、どうと鞍間に落ちたと思うと、一たん、解れ合「て立ちえて、御辺の一族何十人たりとも、鎌倉殿へ御推挙申しあげよ うが、なんと前司どの、ここの一命を助けてはくれまいか』 騙直り、また、むんずと、組み闘った。 まさ こんしん みふしよう れいらく 力が勝っていたか、巧者の手練か、越中前司はついに、渾身『だまれ、身不肖なれど、盛俊は、たとえ平家が零落した後と くらあい ざま イ 29