武者 - みる会図書館


検索対象: 新・平家物語(四)
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1. 新・平家物語(四)

部落の火にしては少し変だ。賊や猟人なら、あんな火の手を すぐ、わらわらっと、幾筋もの松明が、かれのまわりへ寄っ て来た。 巻揚げはしまい えりもと えばうっと、夜雲を染め、火光は、光度を強めながら、次第に 火のこばれが、襟元へでも落ちたのか、駄五六は、飛び上が り」、つにした。 りこっちへ近づいて来る たいまっ ど 「オオ。た、松明だっ』 『うぬ。物見だな』 よ ひ一瞬、かれは動物的な眼をくばって、しりごみし出した。そ 弱腰を蹴られ、駄五六は、他愛もなく、ひッくり返った。起 して、かかとを巡らすやいな、もとの方へ、一目散に逃げ出しき直りながらも、 ていた。 『おゆるしを、お見のがしを』 ところが、さっき通ったときは、草木も眠っていたような淡そればかりを、まわりへ、わめいた。 みくさやま 河の辺に、点々と人馬の影が見え、小手をかざしながら、何 この軍勢を、かれは、三草山にある味方とのみ思いこんでい たらしい か、風の中で呼び交わしているふうだった。 しかし、えりがみをつかまれて、 「わっ、武者だ』 『なんじは、平家の小者であろう。どこに陣所をおく大将の物 度を失って、駄五六は、また、初めの方角へ、ツンのめるよ見か。じつを申さぬと、そッ首が飛ぶそ』 うに舞い戻った。怪しまれたにちがいない。突然、中の一騎とおどされ、初めて、はっと気がついた。あらためて、まわ が、かれの影を追っかけて来た。 りの騎馬群を見まわした。 『南無三、いけねえ』 どれ一つ見覚えのある顔もない。 きゅうそ 駄五六の影は、窮鼠に似ていた。 第一、武者装いが、どこか違う。 よろいとじ はなひ 故郷の妻子の顔が、頭をかすめた。後からは、馬蹄の音。前 鎧の綴の卯ノ花、緋おどし、もえぎ、紺、山吹などのさまざ や たいまっ からは、いやおうなく、面を焦くばかりな数百の松明と、まっ まなのは、平家武者にも見なれているが、馬具や太刀は、平家 - 一がね 黒な人馬の奔流が、目の前へ迫っていた。 ほどには、きらやかでない。螺鈿のちりばめや黄金のかざりも かぶとぶあっ 『た、たすけて、くだされい』 なく、兜は分厚く、いかにも鉄騎鉄甲の兵といった感じであ きわ べたと、地へすわりこんる。 駄五六は、進退窮まったように 『や、や。あなた方は、源氏の衆で』 そして罪人のするように、地へひたいをすりつけたまま、と仰天とともに出た声だったが、とたんに、そのほおへ、武者 どろな馬蹄の音に、耳の孔をふさいでしまった。 の平手が鳴った。 『とばけるな。何を探れと、命じられたか。ひとりではあるま 、。ほかの物見仲間は、・ と、ついたした』 『そ、ぞんじませぬ。まったくもって』 『何者』 ど おう らでん こんやまぶき イノ 2

2. 新・平家物語(四)

『そうです。何か、こなたの使者と、同家の者との間に口論を弁慶以下が、ここを検めに来たわけは、平家の密使が、何 こんよう らんばうろう 巻生じ、こちらの武者どもが、同家の文庫を打ち壊して、乱暴狼か、書状をたずさえて、今暁、ここへ隠れたという疑いによる対 のぜき のであった。 殿藉を働いておるとかの聞こえです』 たれかが、院へ密告したのか、目撃者でもあったのか、疑惑 木『なに、乱暴に及んだと』 乃『九条殿からも、早馬があって、すぐ取り鎮めよとのおさたでの出所などは、弁慶たちのあずかり知るところではない。た 京 はあり、何か、容易ならぬ騒動をひき起こしたかと思われますだ、事実をつきとめればいいのである。 『面倒な、踏み込め』 る』 とばかり、かれらは、屋内へ上がって、家人との間に、乱闘 『使には、たれが行ったぞ』 を起こし、そして官の文書が詰め込んである文庫を破壊して、 『武蔵坊どの』 検めたりしたのであった。 『ちツ、また、あの坊の腕立てか』 たかもと あがののよじろう 『はかに、江田源三、那須大八郎、吾野余次郎なども参りまし隆職は、使を飛ばして、九条兼実に、この騒ぎを訴え、兼実 からまた早馬で、義経に、すぐ制止の命が来たのであった。 十にカ』 で、義経が馳けつけて来たときは、もう騒動は終わってい 『すぐ行こう、馬をひけ』 蓬の土産を、手ずからわが居間へ仕舞って、義経は中門の方た。そして結果は、何もなかった。平家の使者が潜伏していた 様子もなし、文庫の内から怪文書なども見出されはしなかっ へまわって行った。 『なんたることぞ』 義経は、弁慶をしかって、 『都に着くや、たちまち、このような乱暴をするにおいては、 そちを義経のそばに召し使うておくわけにゆかぬ。ふたたび、 あの叡山の西塔谷へ戻るなり、紀州へ帰って、亡母の供養でも して世を過ごせ』 と、堀川のやしきへ帰ってからも、きびしく戒めた。 『ゆるされませい。以後、粗暴はつつしみまする』 弁慶は、詫びた。 が、心外な顔もして、こう、後からいいわけした。 『乱暴は悪かったかもしれません。しかし、きようのことは、 まったく、院の御命令によるものです。何者か、院へ密告した たいしたかもと 壬生の大史隆職の家の近所は、黒山のような人だかりだっ けんか 合戦とまではいえないが、大きな喧嘩があったのだ。 ことの . 起こりは。 六条堀川の義経の家臣が、 『院のおさしずなれば』 と、家探しに臨んだのである。 たかもと 隆職を始め、家人たちは、 『院からさようなおさしずの出るわけはない。なんじらも、木 たぐい 曾武者の類か。木曾のような理不尽をいたすか』 と、強硬に拒んだ。

3. 新・平家物語(四)

ノ谷絵巻 しれつ 『はや、敵の木戸も遠くないぞ』 も、そうした功名手柄を争う風は熾烈だったし、鎌倉の政策 と、はるかを、見下ろした。 も、それを助成するような仕組みになっていたのである。 ようあん 1 一かん 一連の白い花とも見ゆる暁誾のなかの光は、明石、須磨へか わけて直実は、愚直ともいわれるほどな、正直者だ。後漢 そうだい けての長い岸打っ波ではなかろうか 宋代の忠臣の型をそのままわが東国の野に生まれしめたような 『小次郎続いておるか』 男といってよい男だ。 ここだけではない かって、都の大番を勤め、平冶の戦いには、義朝に従って、 い′、ま・つも・ 親の直実は、みちみちもなんど、後ろへ、こう声をかけたか悪源太義平などとともに、源兵十七騎の一騎となって、郁門 知れなかった。 の守りに立ち、そのころからすでに、 くまがいのたんじじろうなおざね 子の小次郎直家は、わずか十六。それに、宇治川でうけた傷 ( 武州には熊谷丹治次郎直実という大剛な者がいる ) が、まだ、ほんとには癒りきっていない。 と、世上に名も知られていた。 たんじ 『お案じくださいますな』 丹治というのは、本姓である。熊谷に住んだので、姓より はず 月次郎は、弾んだ声で、父に答える も、郷称が、姓のようになってしまったものだった。 『父上のすぐお後より続いております』 ともあれ、そうした直実父子なので、郷党間の声望も高 あんじよう 『鞍上の疲れも覚えぬか』 鎌倉殿の期待も大きかったが、どうも、出陣以来、とかく 『なんの、これしきな道』 武運にめぐまれなかった。 『傷は』 宇治川では、子の直家が、橋上一番馳けの功を、平山武者所 すえしげ 『忘れはてておりました』 季重に揚げられてしまい、おまけに、負傷してしまった。 『はははは、おれの子だ。多分、そういうであろうと思ってお親の直実も、そこでは、敵の大将首も取らず、また、義経が 入洛第一日の院参の供にも、その選からもれて、ひどく失意の かんかん 直実は、寛々として、笑った。 態に見えた こわね だが、そのサビた声音には、どこか悲調がないでもない それか、あらぬか、直実は「・ーー次の合戦の一の谷でこそ これは、かればかりではないが、およそ東国武者はみな、おは」と、ひそかに、きようを期していたらしく、子の直家も、 まみ一 のおのの郷を立つ日、「人に勝る功を立てねば、生きては還ら父の胸を知って、まだ癒えきらぬ傷手をこらえ、父に従って来 ぬ」と、誓って出た。 たものだった。 武蔵大里郡熊谷ノ庄をあとに、郷党たちから盛大な別をう 『ゃ。何者やら、こなたへ馳けて来るそ。味方の物見か』 けて出陣した直実父子も、「人にや劣り給うべき」と、その武直実の注意に、わらわらっと数騎が先へ馳け、すぐやみの中 一勲を期待されている。 から「物見の小者です」という答えが聞こえた。 武蔵七党の、党と党とのあいだ、ひとりとひとりのあいだに その物見の告げによると、一ノ谷の西木戸は、もう十数町の せん よしとも ひらやまむしやどころ 43 ノ

4. 新・平家物語(四)

『ウむいかにも』 家を訪い、義仲をなだめ、裏面の手を尽したのではあるまい 『しかるに、われら源氏にたいしては、またもや、古い以前の 巻か。数日を経て、ふたたび、 じげびと けんべい じもくずりよう ち ( ーー十六日、殿上において、木曾、除目受領のおん儀、行わ差別と権柄で臨もうとしている。木曾を、地下人あっかいだ どうも、我慢がならぬわい』 都せらる ) 『いや、ま : : : そう悪くお取りにならぬがよいとかく故実旧 と、公布があった。 そして、今度は、両人も院参して、上卿、民部卿、参議、右例を取りたがるのが公卿の病』 だいべんげき 『その病を、おれも、清盛ではないが、たたき直してくれねば 大弁、外記、列座のうえ、つつがなく、任命式は終わった。 ならぬ』 もちろん、両者への勧賞は、最初の内示とは、だいぶ違う。 さまのかみ 『お気もちは分かるが、ゆめ、を振る舞われてはいかん。追 義仲の左馬頭はそのままだったが、越後は伊予の国に替えら しいのデ しおいとなされ、追いおいと』 れ、四位下を加え、伊予守となる。 じゅご また、行家の受領には、さきの備後を備前守と改めて、従五『はて、先にはおれを焚きつけながら、叔父御は妙に、なだめ しようでん 役にまわって来たな』 に叙し、特に両名へ、「院の昇殿をもゆるす」とあった。 じもく 『はははは。何も、公卿の肩持ちへまわったわけではおざら 除目が終わると、祝酒を賜わって、退出となった。義仲は、 げもんむしゃびかえ かくべつ、浮いた顔でもない。外門の武者控まで来て、駒出しぬ。ひたすら、殿のおためを案じるのじゃ。以前の木曾冠者で さまのかみけんいよのかみよしなかこう れつご はおわすまい。きようからは、四位の左馬頭兼伊予守義仲公』 に行った家臣たちが列伍を作るのをまつあいだ、行家とこんな おだ そう煽ててから、行家はその顔を、義仲の耳のそばへ持って 立ち話しを交わしていた。 うかっ 『のう、叔父御。おれも迂濶だった。きようここへ来て初めて来てささやいた。 『御不満でおわそう。御不満は分かっておる。だが、先日も申 気づいたことがある』 いんじゅ したように、木曾殿へは当然、征夷大将軍の印綬賜わってしか 『何をです ? 』 『保元、平治の昔はそうであったと聞いていたが、今日でもなるべしじゃということは、行家からもないない、院の側近衆へ ここはまず、 お、公卿人の頭には " 武者は地下人 , という隔てが、ぬぐわれ申し入れ、あれこれと手も打ってあること。 わ 御受諾あって、麾下の諸将一同へも、ひとまず、勧賞を頒け もせずあったのだな』 て、功をねぎろうておやりなされい』 『どうして、そのような儀をこと改めて』 ひょうへん しようでん . 行家はたしかに豹変している。 『でも、きようの恩典の一つとして、〃昇殿をもゆるす″とあ ったであろうが ちツ、考えて見ると、ばか気たはなし先ごろのロ吻ではない こわ そこで義仲が立ち帰るのを見送っていたが、ひとりになる よ。そんな差別は、ふた昔も前に、清盛がぶち壊していたはず てんじよう だ。そして、その清盛の子や孫は、殿上も殿上、最も高い座をと、かれはまた、院のうちへ引っ返してゆき、公卿たちの間に はいって、しきりと、そこの密談に加わっていた。 占めて、きやつら公卿どもを、あべこべに、見くだした』 びと じげびと ・一うふん た 16 イ

5. 新・平家物語(四)

次の敵を迎える意志はない。 兵は、容易に弦を切って放たない。 たすけ 巻『敵には、援兵があるぞ。女性ひとりを討 0 たとて、何かせ みじかい一瞬であったが、葵の敵は、平家の内でも、名だた舁 ん。今のうちに退けや人びと』 る武者らしく、かの女の小薙刀も、相手の太刀に肉迫される毎 一将の声を機に、かれらは葵を捨てて、ふもと路の方へ、わこ、 。幾度となく、空を斬って、鞍腰さえ、浮かしかけた。 れがちに走り出した。 たしかに、敵は葵に勝る強者である。葵は危い。 風前の灯火 葵は、追いかけた。乱れ合う敵の後ろへい呼びかけた。 といってよ、 によしよう びと 『女性なればとて、侮り給うか。木曾殿の想われ人、葵ノ前と だのに、救いの半弓は、まだ弦を切らないのだった。一瞬一 は、わらわぞ。勝負も果さず、逃ぐるとは、ことおかしゃ。都瞬、葵は苦闘に落ち、その息づかいすら聞こえるほどに見えた 武者は、木曾の女子にもおそれてか』 その広言を聞いて、憎し、とでも思ったか、逃げゆく群の中 しかし、さきに、山頂へ求めた木曾の援兵は、近づいてい から、武者一騎、駆け戻って来て、 た。真上の崖や沢から声をあわせて駆け降っていたのである。 『さらば、女武者の首、都への土産に、鞍わきへ結い付けて行そのために葵の敵は、またしても葵を捨てて、一散に逃げ去 0 : っカ』 た。さすが葵も、戦い疲れたか、もう、その敵を追おうとはせ と、ただちに、陣刀を引き抜いて、かの女の挑戦にこたえず、美しいばかり汗ばんだ顔をして、駒首をめぐらしかけた。 びゆっんと、半弓の矢が飛んだのは、そのせつなだっ すると。 さっきから葵に加勢していた少数の木曾兵のうち、ただひと矢は、あたった。 りだけが、栗鼠のような迅さで、こなたへ駆けて来た。 葵の姿が、馬から、どうと落ちたとたんに、矢の次に、葵の 一念、葵の影に添って、かの女の身を護ろうとする忠義者の体のそばにいたのは、木蔭を離れた女兵だった。 ようでもある。すばやく、近くの岩蔭に身を伏せ、さらに、木『 : 蔭へ飛び移って、「すわ、葵さまの危機」と見たように、弓を 自分の射た矢を、葵の体から抜き取っている。空には、五月 つがえた。 十二日の暁近い残月がおばろだった。 ただの雑兵である。 女兵は、矢を引き抜きながら、死のまゆをひそめたままな、 ぞうしのめ しかも、それは小柄な女兵であった。 葵の顔を、冷ややかに見すました。それは、葵の雑仕女から遠 おんなどれい たむろ 一目で、女兵とわかるのは、引きしばった手の弓が半弓であざけられて、女奴隷にひとしい女兵の屯に落されたあの山吹に り、鉢兜のしころも、朱色である。 よく似ていた。 まん キ、キ、と半弓は満をえがいて啼く。 しかし、山吹らしいその女兵は、大勢の味方がここへ馳せ集 白い鏃は、的をねらいすまし、放っかと見えたが、なぜか女まるまでに、もう、どこかへ影をかくしていた。 ) 0 やじり りす まと おなご くら まみ、

6. 新・平家物語(四)

『 : : : 悪かった。肥後、そう怒るな、他意があったわけではな し』 しかし , ) れ 貞能の意見でにわかに、道は、変更された。輦輿を中央に、 宗盛としては、知らせておいたつもりらしい は、池頼盛へたいしても同様に冒していたかれの重大な手落ち武者八千余騎、その中には、あらゆる形の輿、あらゆる種類の だった。一夜の決定ではあるまいと貞能はいうが、さあ、とな牛車、幾百輛も交じって、秋風の中をゆく亡命の大行列は、果 ったのは一夜だった。いや半夜のうちといってよい。出先の諸てなきまで、えんえんと西へ流れた。 陣へ使者を派すまもなかったし、また、その使者さえ、正確それに背向いて、肥後守貞能は、宗盛と談合のうえ、部下五 百余騎をつれて、淀で別れた。 に、令を諸方へ伝達しえたかどうかも疑問である しかし、かれの引っ返しは、池頼盛のそれとはちがう。 だが、貞能の身になれば、怒ったのも無理はない。 やわた かれは、七日ほど前、宇治、八幡から河尻方面へ、手勢をひ『前後、すべての乱状、ことごとく、平家に利あらす、さしも ・一まおと 天命の秋とはいえ、木曾の駒音に驚いて、一門、枯葉となって ッさげて、合戦に出ていた。 ただのくらんどゆきつな 木曾に応じて寝返りした多田蔵人行綱の一類を征伐するため西国へ落ちてゆき、清盛公相伝の府を守らんとせし一兵も無か はんぐん りしとあっては、末代まで平家武者の名折れなれ。身にお暇を にである。行綱一類の暴状は、叛車というよりは、土匪であっ かんいん た。掠奪、放火、姦淫、あらゆる良民泣かせをやった。平家と賜わらば、都の中にて、いかようにも成り果て申さん』 はんき との願いで引っ返したものである しては、かれの叛旗よりも、西国地方から呼びよせていた粮米 で、かれは、西八条の焼跡に、大幕を引かせ、 船を河尻でたびたび襲われたのが手痛かった。 しんがり 『われは、御一門の殿軍。平家武者の一陣、なお、これにある それも、都落ちを決意するにいたった一つの致命であったと いえなくもない。 そ。ーー、平家二十余年の恩顧をおもう者は、これへ集まれ。と また、それほどな致命となる河尻だけに、肥後守貞能が特にもども、木曾を迎え撃って、花と散ろうに』 選ばれて駆け向かっていたのでもある。それなのに、この始末と、揚言していた けれど、諸方へ離散したはずの者も、ここへは、一騎も寄っ 立腹は当然である。しかし、それの故意でないことが分か わ ると、かれは、『 : て来なかった。 : いやそのように、家臣へのお詫び言では、 がれき 眼に見えるかぎりの物は、焦土と、骨のような木々と、瓦礫 貞能、痛み入りまする。洛中の火急、さまでとも存ぜぬまま 人 である。 でなければ、山猫のような盗児か、飢えた男女 に、つい、腹立ちまぎれの雑言、平にお聞き流しのほどを』 お の、自失したような影でしかない。 と詫び、それから、河尻方面の物騒を告げて、 一夜を、そこに明かし、 ゅ『主上の御輿も、御一門の車馬も、淀の西を、軍勢にて囲ませ くがじ 『これが、きのうの西八条か』 歯給い、陸路をお下りあるが安全かと思われまする』 かげん と、九月二十五日夜の下弦の月を仰いだとき、貞能は、そっ と、あらためて考えをのべた。 どひ ろうまい とき やまねこ れんよ ノ 29

7. 新・平家物語(四)

義仲は、ひとりで会った。 義仲は、開き直った。 なら もちろん、武家の慣いで、客殿の外には、伏せ武者が、内を『ーーー時により、武家が兵馬をうごかすのは、その家職だが、 要心していたにちがいない。 聞くところによれば、ここ数日の間に、院におかせられても、 まうじゅうじでん が、夜はおそいし、灯は少なく、それに相互が、きのうきょ 密かに、大和、河内、丹波あたりの武者を召して、法住寺殿の 廿 - いキ、 うの、研がれた感情の裡にある。ことばの前に、ます、凄気が内へ隠しおかるるそうな』 漂った。 『あ。何者がそのような虚説を』 『義仲に御用はないはず。さるを、かかる深夜に、お使とは ? 』 『いや、虚説ではない。たしかめてある。義仲は、都の守護 めしい 酔ってはいるが、切り口上に義仲の方からロを切った。い 職。肓目ではおざらぬよ。ー・ー・疑わしくば、いちいち名をあげ ひょうごのかみあきつな げんのくらんどなかかね や、酔をかくすために、かえって、ことばが、そうなるのかもてみようか。兵庫頭章綱、河内守仲信、源蔵人仲兼、七条信 きいののりみつ さまのかみすけとき 分からない 清、紀伊範光、左馬頭資時など、ひそかに、郎従をつれ、ゆゅ その儀ですが』 しげなる装いして、昨夜も一昨夜も、院に近い森や御所の内へ と、静賢は、僧侶だけに、ともあれ、義仲の気もちを先に柔かくれた。まだまだ、ほかにも、多くの武者を召されたにちが らげよ、つとした。 . し十 / し』 ごしんねん 今夕、木曾殿御退出の後、院こよ、、こ 。しオく御宸念をわず『 : らわし給うて、なお、あれからも、諸卿をとどめおかれ、さま『武門にもあらぬ院の御所へ、何事なあって、さように兵をお ざま、御談合の態でおざった。やはり院の頼みと思し召すは、集めあるか。ーーー察するに、不意を突いて、この義仲を討たん 木曾殿のほかには無いのでのう』 ずるお考えに相違あるまい。い や、そうだ。ーーー義仲もそれゆ 『法印』 え、不時の備えを、命じおいたまでのこと』 『ゃ。それは曲解です。邪推と申すもの』 『院のお使が、世辞追従をならべに来たわけではあるまい。余『何が、邪推』 事は無用、御諚のみを、仰せられい』 『なるほど、武者どもを召されたのは事実ですが、それは一昨 たず いまくまの さんろう 『では、訊ね申すが』 日、今熊野の参籠から御帰還のみぎり、路次の守りを仰せつけ 一じよう 代って、泰経が口をひらいた。 られた者どもで、いわば儀仗の兵馬にすぎぬ』 児『こよい、御辺が六条へ立ち帰ると間もなく、洛中に軍馬の動『なぜ、木曾の警固はお嫌いあるか』 じよれつ きが見ゆるとて、怪しからぬさたを、院へ告げ参る者もある 『供奉には、序列、故実もあれば』 れ せんぎ が、そも、何ゆえのお支度ですか。きっと、所存を確かめ参れ『ま、そんな詮議は、・ とうでもよい。院の御信頼は、義仲にな ら よめい 、鎌倉の頼朝にあることだけは、はや確かなのだ。迂愚な義 嬲との、御命でありまする』 『はははは、そのことか。ならば、お答えは後として』 仲にも、それだけは読めておる。これ以上、何をかいおう』 0 ′一じ上う そうりよ うち 209

8. 新・平家物語(四)

『だまれ、どう隠そうと、なんじは、平家の小者に相違なかろ と、ロぐちに生ロげた。 手綱をしばって、駒の逸りを抑えていた後方の列は、こころ 『それには、相違ございませぬが』 もち、列を前へすすめて来た。 『たれの手の者だ』 そして、中なるひとりが、 『若狭守様の』 『武蔵坊』 『若狭守』 りんと、張りのある声で ちょっと、分からない顔をして、ひとりがほかの顔を見まわ『あれにて、陣脱けの兵を、捕えたとか申しておる。はや鵯越 すと、べつな武者が、 えは数里の先、しかも、時刻はまだ間もあれば、その男より、 ただ 『それよ、平家の内でも、名だたるお人、参議経盛卿の次男、敵地の模様、備えなど、つぶさに糾して、道案内のひとりに加 ふれ 若狭守経俊どののことであろうが』 えて行くもよからん。後につづく面々へも布令いたせ。しば 『へい』 し、駒を休ませよと』 『陣所は、・ とこぞ』 命じ終わると、まずかれ自身、ザクと、鎧響きをさせて、あ うな・一 おか 『宇奈五ノ岡でございまする』 ぶみから下りた。 『いちいち分からぬな。宇奈五とは、どこ』 さして、背も高くない小柄な大将。あきらかに、その人は源 ひょどり - 一 『これから四里、鵯越えを下りつめて、夢野ノ里へ出た所の九郎義経だった。 一つの岡で』 弁慶は、その間に、とうとうと馬を後ろへ返しながら、列の 『物見には、幾人で出たのか』 末端の方まで、 『なんの、なんの』 『時刻はまだやや早い鵯越えにはいる北の坂口とやらもはど 駄五六は、懸命に、手を振って、 近い由。 馬をも、身をも、休ませられよ。しばし、休息せ 『決して、そんな役を、申しつかってはおりませぬ。まったく いとの御命なるそ』 は、陣脱けした者でござりまする。故郷の嬶や子の顔が見とう と、伝令して馳けた。 なり、矢もたてもなく、味方の陣所を捨て、これまで、逃げて それを耳にすると、駄五六は、ぞッと、ふるえ上がっ 来た途中なのでござりまする』 おくめん こう臆面なくいえるのも、また、それが相手に信じられたの こよいは六日 のも、名もない雑兵なればこそだった。 夜半を過ぎてもまだ七日だ。 馬かれが脱走の小者にちがいないことが認められると、武者た 全平家の、たれひとりとして、こんな光景が、北方の天から 近づきつつあろうなどとは、夢にも知るまい 天ちは、後ろへ向かって、 いんぜんし 『ゃあよい者を拾うたそ。よい者を引っ捕えたそ』 八日には、和平の院宣使が、福原へ来ると、待たれているの じんめ カカ こまはや 413

9. 新・平家物語(四)

兆しであった。 のころから存じおるものを、梶原殿に先陣をゆずっては、郷党 巻中でも、佐佐木と梶原との、いがみ合いなどは、陣中の話柄どもへも、顔むけがなりません。あわれ、生嚶をそれがしに賜 殿ともなり、おたがい笑いあっているが、微妙なものを、双方の 、高綱に先陣を成させてください 。もし高綱以外の者が、先 と おば 木胸で研ぎ合っている容子は、義経の眼にもわかっていた。 陣をなしたりとお聞きの時は、高綱討ち死にせりと思し給わり 乃 ことの起こりは、こうである。 ませ』 京 おうまや 頼朝が秘蔵の名馬は十数頭も御厩に飼われているが、中で その言にうごかされて、頼朝はつい生暖をかれに与えてしま いけずきするすみ しゅんそく も、生暖、磨墨の二頭の駿足を知らない者はない。 った。しかし、先に範頼や景季にも断った逸物なので、もし人 かじわらげんだかげすえ 梶原源太景季は、義経に従って出勢と決まると、「晴れの戦が問うたら、そこは巧く潭しておけよと、 しいふくめた。 場は、宇治川」とすぐ考えついたので、頼朝の前に出、 およそ名馬に乗っての出陣は、武者の誇りだった。功名を克 『弓矢取る身のほまれに、御料の生を、拝領させてくださちとる第一の条件でもある。 あしがら い。かならすや、宇治川において、先陣を勤めますれば』 足柄、箱根を打ち越えて、都へいそぐ軍勢を見れば、和田義 ちちぶかげ くまがいなおぎねごんたくりデ と、あっかましくも、ねだッてみた。 盛の白浪、畠山重忠の秩父鹿毛、熊谷直実の権太栗毛、渋谷重 うすざくら つきのわ いちがすみ 頼朝は驚いたが 、しかし、この若者が、こんな押しづよいね国の獅子丸、千葉介綱胤の薄桜、蒲ノ冠者範頼の月輸、一霞な しゅん だりごとをいう心理が酌めぬこともなかった。 ど、上将は上将なりに、平武者は平武者なりに、いかに牧の駿 そく この源太景季の父景時は、伊豆旗挙げの直後、頼朝が石橋山足をすぐって、この日に期して来たかがわかる。 うろ するすみ に敗れたさい、平家方として追跡して来たが、頼朝が大木の洞『 : : だが、自分の磨墨ほどな名馬を持つ者は、ひとりもおる に潜んでいると知りながら、見のがして去った男である。そのまい』 旧によって、後日、鎌倉へ召された因縁つきの家臣なのだ。 梶原景季は、誇らかに、駿河路の浮島ヶ原で、ひと息入れて ふと、そんな旧事も頭をかすめ、 かばかじゃのり ! り 『いや、生はいけない。蒲ノ冠者 ( 範頼 ) にさえ許さぬもの すると、人馬の流れの中を、かの生が通って行った。驚い いけャき するすみ とわり を、そちに与えるわけにはゆかぬ。だが、生にもまさる磨墨て、「あれはそも、たれの料ぞ」と、訊かせると、ロ取の舎人 てがら を取らすであろう。手功せよ、景季』 は「佐佐木高綱殿」と答えて去った。 と、励ました。 景季は、憤慨した。 あれほど懇望した生啖を、自分には へんば すると翌朝、佐佐木四郎高綱がまた、別れをのべに来た。配くださらす、高綱に賜わるとは、偏頗もはなはだしいよし 所蛭ヶ島の長い年月も、ずっと兄弟して仕えて来た無二の家臣次第によっては、高綱と刺しちがえ、恥ある侍ふたりを失う である。 て、鎌倉殿に損させん」と、業腹を煮やしていた。 『聞けば、梶原殿へは、磨墨を賜わりましたそうな。それがし まもなく、その高綱が、後からやって来たので、景季が呼び とめ、 の生国は近江佐佐木ノ庄です。宇治川の深瀬浅瀬など、子ども きざ いけずき するすみ いけず - のりよりかげすえ するがじ ′一うはら 、けずキ - いけずキ、 いけずき 288

10. 新・平家物語(四)

た。知教の部下が、側面からまた、親義にぶつかってゆく。 と、すぐえりがみをつかんで、義仲の前へ、大勢して引きず って来た。そして、 巻知教以下、ここまで来た者は、当然、死を決していたので、 ひうち の その刃には、当りうべくもない。木曾方は予想外な犠牲をそこ 『こやっこそ、越前の燧で、お味方の敗れを招いた裏切者の平 ら 力に横たえてしまった。 泉寺の斎明です』 けれど五十騎は二十騎に、二十騎はやがて五、六騎までに、 と、訴えた。 いたお 知教の手勢は次第に減ってゆく。そして知教自身も、馬は射斃『さては、この坊主でありしか』 ものいのごろう され、身は朱に染められた。 義仲は、はったと睨めすえ、かたわらの物井五郎に向かって 今は、思い残すところはないと、かれは、、 谷間へ駆けくだ しいつけた。 り、敵兵がそばへ来たときは、すでに、自分の刃でのどを突い 『坊主の首を刎ねて、陣門に梟けろ。すべて、欲に目がくらん てした で、裏切るが如き畜生は、こうそと示せ』 うひょうえのすけためもり また、右兵衛佐為盛の方は。 いするぞ、 これも、たった四十騎ほどで、知教とは、道をかえて、石動 つづら の南から九折へ迂回して出た。そして、義仲の中軍に近づこう倶利伽羅の一戦は、木曾源氏の大捷に帰した。未曾有な大捷 としたが、根井行親の陣地にくい止められ、奮戦して、つ いであったといえる。 に、行親の手に、その首をあげられてしまった。 だが、この勝機に拍車をかけて、息もつがせぬ急追は見せな ひょうろう そのほかにも、同じ例が無くもない。 かったーー整備、輸送、死者傷者の収容、兵粮の輸送など、万 恥を思うて、「かなわぬまでも」と引っ返し、随所の木曾勢以上という人間の移動は、その時代、容易でない。追撃また追撃 たてのごろうさだやす せんめつ に当って玉砕した者では、伊勢の人、館五郎貞康もある。 の機動的な殲滅を加えるなどは、しよせん不可能なのである。 ひらおかの かれの叔父小坂三郎宗綱もともに、主従八十余騎で木曾勢の けれど、数日のまに、木曾本陣は、一応、加賀の平岡野 ( 現・ 金沢市内 ) まで押し進められた。 中へ突っ込み、その朝の露と消えた。 それまでの間に、義仲は、 およそ、ゆうべからけさまで、倶利伽羅谷や峰みねで戦死し た平軍の名ある者では、以上のほかに、侍大将の上総判官忠綱『能登の合戦は、味方の旗色が悪いそうな。叔父御の行家を援 けに行かずばなるまい。行くならば、おれが行こうぞ』 があり、飛騨大夫判官景高や河内判官秀国なども、あえなき数 と、たえず志雄山方面の戦況を、気にしていた。 、けどーり さきに、新宮十郎行家を大将とし、加賀と能登の国ざかい、 また、生虜になった武者も、少なくない。 うかい しお 志雄山道の方へ迂回して行った別動隊八千がある。 その捕虜の中に、ひどく悄れ返っていた大法師が一名あっ うちなだ それは、やがて加賀の内灘、高松などの海岸ぞいに北上して た。加賀武者や越前武者は、かれを見つけ出して、 『しやっ 、いたわ、いたわ』 来た平家の一軍と、真正面に、ぶつかっていた たいしよう みぞう