がいせん すると、ひとりの侍が、 源氏が凱旋した後も、明石ロと、生田の往還には、当然、一 『だまれ、どなたの手勢であろうと、なんじの知ったことでは砌 巻部の兵が、守りに残されていた。 ない。なんじこそ、野盗の頭か、平家の落ち損ねか』 え吉次も知らないはずはない。 りそのため、わざと、船を着けるのも、密々に、深夜をえらん『おれは、奥州の吉次』 ど 『奥州の』 だほどである。 よ 『はははは、分かるまいな。おれの身柄が知りたくば、九郎の ひ『まず、上首尾ーー』 殿について訊け。義経どのが、よく御存じの奥州の吉次。へた と、かれは満悦だった。 小高い路傍の木の根に腰をすえ、そこから、指図していたのなまねをして、後悔するな』 そう聞いて、かれらもちょっと、たじろぐ風をしめした。 である。 からびつ かれの手下たちは、石倉の底から、重そうな唐櫃や梱や木箱といって、すぐ疑いを解く様子はない。むしろ疑惑を二重に あり など担ぎ上げては、蟻のように遠くの船まで運んで行った。そしたともいえよう。態度は、ていねいになったが、「ともあれ、 、吉次の前後を取り囲み、い してすでに半分以上も持ち出して船へ移したかと思われるころ生田まで来てもらいたい」といい なやをいわせず追っ立てた。 だった。突然、かれらの間に混乱が起こった。 『おう、どこへでも、案内してゆけ』 生田から疾走してきた一群の騎馬武者が、かれらを追ツか ごうぜん か . わドレり カ気懸りなのは、川尻の船 吉次は、傲然と身をまかせた。、 け、湊川の川尻へ追いつめていたのである。 と、手下たちの安否だった。みちみち、しきりに振り向いてい 『やっ、これはまずい』 吉次も、ぎよっとして、急に、そこから腰を上げた。 しかし、それはすでに遅かった。・ へつの一隊はもう吉次の影『ははあ、風を食らって、沖へ逃げたな』 と、見てとったようである。かれの容子に、落ち着きがあら を取り巻いていたのである。 たむろ かれらは、生田に屯していた梶原景時の部下たちだった。戦われた。 争当日からの血なまぐさい姿を持っている者どもだし、また数しかし、どうして生田の兵が、ここへ来たのか。ゅうべ途で 会った麻鳥が、密告したのではあるまいか。いや、そうだと思 も少ない人数ではない。吉次も、観念のほかはなかった。 くちびる う。「ーー・覚えておれ、餓鬼医者め」と、吉次は唇をかん 『ゃあ待て。おれをなんとするのだ』 オオこ、ついった。そしてた 抵抗の無益を知ったので、吉次はこど、 かれらのアや弓の中へ、わざと、身をさらすように、前へ出て考えてみると、吉次にとって、麻鳥に出会う時というと、ろ くなことは一ペんもない。どことなく、虫がすかない麻鳥でも 一打った。 『おぬしたちの、あるじはたれだ。源氏の内のなんという大将あるのだった。 それというのも、数年前、麻鳥に病を診てもらったとき、 カ』 まんえっ
うかい たるみ また、遠く播磨の山間を迂回して、明石の浜へ出、垂水、塩っていたのである。それは、一ノ谷や鵯越えとひとしく、「八 巻屋と進んでいた土肥実平や田代信綱たちの一軍も、時刻をたが 日までは、ます休戦」と、油断しきっていたことだった。 かばかじゃのりより ええず、一ノ谷に来合わせた。そして、その殲滅の目的の計は、 だから蒲ノ冠者範頼の源氏二千余騎が、その前日、西ノ宮か みかげ すさまじい血戦と猛火のうちに、達成されていた。 ら魚崎、御影の辺まで来ていると分かっていたが、 ど 『院より停戦の御命もあること。よも、手出しの動きではある よ ひここでの戦闘では、案外、源氏勢におびただしい犠牲者が出まい』 た。というのは、余りにも、作戦が密で、そして巧く行きすぎ と、軽く見ていたのである。 た結果なのである。 ところが、七日未明には、、 しつのまにか敵は近接していた。 平家にとれば、三方からの完全な奇襲の下に、業火まで浴びすべての白旗や旗指物を、あらわにひるがえし、卯ノ刻と同時 たので、死に物狂いに出るほかなく、勢い、さしも東国武者を 、鬨ノ声を合わせて攻撃して来たのである してさえ、手に余させたものにちがいない この暁の攻勢に、一番乗りを名乗った者は、武蔵の河原兄弟 また、こういった三面作戦の形は、ここだけでなく、鵯越えという、無名の郷士だった。 ロと生田口とを加えた平家全面にたいする源氏側の基本構想で その河原太郎、次郎の兄弟は、 あったともいえる 『なんとか、人に優れた手柄をあげたいものだ』 しめ つまり東は生田、西は一ノ谷、北は鵯越え、連なる山やまの と兄弟して諜し合わせ、まだ全軍が攻撃に出ないうちに、川 キ、かも すそ、およそ二里余のあいだが、全戦場と化していたわけであを忍び渡り、逆茂本を乗りこえて、敵の中へ、馳け入った。 る そして、小高い所から、弓を構え、 中でも、生田川の線が、攻防ともに、主力をかけていた戦場『私市党の河原太郎高直、次郎盛直の兄弟なり生田ノ森の先 だったのはいうまでもない。 陣は、こうふたりそ』 と、第一矢を打ちこんだ。 けれど、平家方の者は「おや ? 」と、おかしげに、振り向い 生田川は、いわば正面の玄関である。新中納言知盛を総大将たり、小手をかざして、兄弟の影を見ているだけであった。 ほんぎんみのちゅうじようしげひら 、本三位中将重衡がその副将であったのをみても、いかに もう目前に、範頼らの源氏が、攻勢に出たのは分かっていた 平家が、ここの守りを、重視していたかがわかる はずで、なお休戦の眠りにあったわけではない その兵力も、五千余騎、どこよりも多い しかし、わずかふたりで、大軍の中へ飛びこんで来た兄弟の み、かも かれん もう、去年の暮から、逆茂木を打ち、柵を結い、やぐらを組無謀さを、むしろ可憐と見て「何程のことができよう、ただ見 むなど、防塁としての構築も終わっていたのだ。 措いて、愛せよや」という気持だったらしい びと けれど、二月七日の未明には、ただひとつ、大事なものを失 ただ、見措いて愛せよゃ。これはいかにも、平家人らし ばうるい せんめつ とき 43 イ
けて引っ返した。″梶原が二度の懸〃といわれたのは、この時生田の大将、新中納言知盛は、山手の道を、味方のなだれに 押しもまれながら、心ならずも退いていた。 巻のことである えなお、この日、人目をひいたのは、源太景季が、箙に梅の花『なんたることか、このざまは』 平家の内でも、「自分が軍にいるかぎりはお心やすく思し召 りを挿して奮戦した姿だった。 ど 古歌のーー・″吹く風をなんといひけん梅の花、散りくる時ぞせ」と、つねにいっていたほどなかれだけに、自責もつよく、 よ 『腑がいない味方』 ひ香は匂ひける〃を思い合わせて、 『古歌の意を、知ってか、知らずにか。東国勢の中にも、風流と、いくたび、あぶみを踏ん張って「返せ、踏みとどまれ」 と、まゆをいからしてののしったことかしれない な武者はいる』 はなえびら しかし、すでに和議のうわさに平和を夢みていた部下であ 『花箙よ、花箙の源太よ』 しった と、敵の平家もいいはやしたという。 る。かれの叱咜も、みずからの奮闘も、なんの効きめも、もた しかし、こうした梶原父子の功名ばなしは、後に梶原景時らさなかった。 ともあきら が、鎌倉御家人中の筆頭となって、権勢大いに振るったので、 かれは、その子知章や家臣の数騎とともに取り残されてしま 、源氏武者が、ひっきりなしに射浴びせてくる矢の激流の中 後日の人びとが、かれへのおもねりに、一そう誇称したものか にさらされていた も知れない ゅんぜい - 一しやく おなじ日、おなじ生田ノ森で奮戦した武蔵の藤田行康や、行『追って来る敵の中には一、二、ひどく弓勢の強い小癪な者が おるやに見えます。その者の射る矢が、いちいち、おん身をか 康の甥で、まだ十七歳でしかない江戸四郎信賢の戦死などは、 梶原父子にも劣らないものだが、さほど有名にもならなかっすめ、よろいのそでに刺さるものとおもわれる。ーーー殿には、 先へお急ぎください。それがし、踏み止まって、防ぎ矢つかま ともあれ、生田の大手口は、矢戦さに始まって、エ兵の破壊つりますれば』 けんもつよりかた 作業につづき騎馬隊の突入という、正攻法によって展開され、 従臣の一人監物頼賢は、こういってひとり踏みとどまり、敢 然と、敵の矢途に立ちふさがった。そして、頼賢も弓を張っ やがて、小野坂の木戸から付近の民家にまで、黒煙りがひろが っていた。 いそみち かれの矢が、寄って来る敵の一将を、射落した。つづいて、 そしてまもなく、生田から海辺に沿う磯道と、山手を縫う西 あり かいそう 国街道との二方面に分かれて、蟻のように潰走し出した人馬の次の矢も、また馳けよる敵を、見事に、射止めた。 影が、追ッつ、返しつ、果てもないなだれをひいて行くのが見『しめた』 られた。 これで、ひと息つけると見て、頼賢はまたすぐ、主人のあと を慕って馳けた。 やがて、距離をつめて来た一群の東国武者は、 かけ えびら 436
四日といえば、平軍の大部分は、なおまだ、輪田ノ岬の海上 にあった。 巻そして、それ以前には、源氏の武力行動は、停止されるであ えろうから、平家もまた、つつしんで、勅を待つべしと、先触れ 特にその日は、平家一門にとり、忘れがたい、故太政入道ど つる りの公卿書状もあったくらいである。弓も心の弦もはずして、寝のの命日でもあったから、夜は、一船を香華の座とし、涙なが こんでいる平家であろうことは疑いもない ら、波間の法要をいとなんでいたほどだった。 よ せんべい ひ『 : : : ああ、よくそおれは、逃げ出したもんだ。虫の知らせ ところが、その間にも、東国勢ふた手の尖兵は、一挙に、平 しんしんこま か、神の守りか』 軍の肺腑を突くべく、駸々、駒を進めていたのである。 駄五六は、今さらのように、武者の世界の地獄を知った。そ とは夢にも知らない平家であった。 しゆら の地獄の修羅の寸前に、脱走して来た自分の幸運を思って、ば あまっさえ。 ろばろうれし涙を垂れた。 が、考えてみると、これでもう平家はその将士を陸にあげて、陣地につくやいな、突如、和 一命が助かったという保証は何もなかった。火からのがれて、平の交渉にまどわされた。 ちかのぶみつかい すぐまた、・ へつな火の中へ飛び込んだ夏の虫の命に似ていた。 院の御内意、公卿親信の御使など、疑おうにも、疑いようの ない事実なのだ。 ーし、か・も、 ノ日までは、源氏方にたいしても、武力に出ること は、一切禁じおかれたという条件付きの御内意でもある。 三草落し で、平家は、勅をかしこみ、法皇の御心を信じて、八日を待 っ一 ) 0 休戦の約を守っていたわけである。 おろかな、平家。 ここで物は、幾日かを、さかのばる。 あわれなる平家。 そして源氏方の動きに眼を移すならば どういった方が、正しいのか はか 過ぐる二月三日の夜半。義経の奇襲隊は、洛外大江山を立ともかく、かれらにとっては、計ることのできない、また取 ち、一路、平家の盲点の地を目ざして、すでに丹波路を急いでり返しのつかない事態は、こうした空間に、リ 亥々、近づいてい いたわけである。 たものだった。 ささやま また、おなじ夜。 義経の一千余騎は、丹波路の亀岡、園部、篠山などを昼の中 かばかじゃのりより はりまざかい 主力の蒲ノ冠者範頼は、義経とは逆に、摂津平野へ伸び出に馳けぬけ、四日の夕方には、南丹波のーー・もう播磨境に近い こんだむら で、生田方面へ、進んでいた。 小野原 ( 現・多紀郡今田村 ) についていた。 はや 明けて、次の日は四日である。 『迅かった。よくぞ来たもの』 いくた み せつつへいや イ 7 イ
きそう 「あなたの顔には、おそるべき鬼相がある」と、いやなことをた」という感慨がつつまれている。 ききール いったり、また「あなたは、人の平和を好まない性分だ。その『飢饉も三年つづいた。もう今年あたりは、物も実ろう』 しし , つまでも ため、あなた自身も、いい死に方はできない」と、かれから予『戦さも、都の内ではもうあるまい。群盗放火よ、 言めいたことをいわれたことが、いつまでも、吉次の、いに沁みないが、木曾殿の世ごろのような、武者威張りの世間も、二度 ついているせいかもしれない。 とは、見たくないものだ』 いまも吉次は、・ へつに思い出そうともしないのに、遠い以前 人心にも、季節があった。その自然なる待望が、範頼、義経 あ早、 の麻鳥のそんな言が、ふっと心の痣みたいに濃く思い出されてたちの凱旋の旗にむかって、当然な歓呼を揚げさせたものとい いた。そしてなおさら、「・・ : : そうだ、やつが、密告したに違ってよい ぞうお しない」と、かれへの憎悪を新たなものにした。 もちろん、院の御所でも、両大将軍以下、殊勲の人びとへ たむろ わら 生田の屯では、吉次の身を、二日ほど留めおいた は、坪ノ内で、親しく、おん犒いの儀があるなど、沸くごとき その間、かれの前夜の行動を、残らず洗っていたのかもしれ光景を見せたが、 しかし、公卿のうちには、平家と縁故の深い よい。けれど直接、吉次を調べるようなことはなかった。 者もあることだし、それに、法皇御自身の口からも、 おそらく、梶原の部下たちは、かれの口から、義経の名が出『戦さには勝ったようなものの、ついに三種の神器は還らなか たので、それも重視したことにちがいない。 とい , つよりも、一ったか』 介者扱いの恰好だった。 という御不満ももれたりして、底流には、あるさびしさと、 ていちょう 鄭重に、しかし厳重に、兵を付けて、吉次の身柄は、数日の複雑な何かをまだ残していた。 後、生田から都へ送ってしまった。 もちろん、義経の門へ とはいえ、それらの機微までは、武者たちのあずかり知るこ らくちゅう ではなく、梶原景時の門へ送り付けたのであった。 とではない。かれらは、それぞれ、洛中の館や小屋敷に、兵馬 を休め、そして、 『きようばかりは、打ちくつろいで飲め。ぞんぶん、飲むも騒 ぐもよしとの、みゆるしなるそ』 と、それらの門毎に、邸内からのさんざめきを、往来までも らしていた。 たが、こういう陽気な風景の次に、すぐ人びとが眼に見たも のは、例の〃首渡し〃という陰惨な儀式の行列だった。 渡 都の色は、一変した感じである。 こんどのばあいも、前の義仲のときのように〃首渡し〃をす くみ、も がいせん 首季節は草萌え時だし、凱旋の兵馬は、おりふし、陽気な春風べきか否かということでは、院中でも、議論があった。 をもたらした。上下の、どこで見る顔にも「ーー長い冬だっ平家ぎらいの九条兼実すらも、 わた 首渡し みの 461
ふるばとけ が、きようの凱旋軍を見るだけでもと、かれらもみな、 古仏たちと雑居の、薬院の筵のうえには、まだまだ、はい出 ひんし がいせんぐん してきようの凱旋軍を見送ることもできなかった瀕死な者すら % 巻岡の端までいざり出して、ながめていた えたった今、山かげを縫って、生田川の西へ見えて来たのは、残っている ゅうき 越かばどの 蒲殿以下の、梶原、稲毛、千葉、曾我、結城などの諸軍らし麻鳥は、すぐ、それらのあわれな者を思い出して、寺の道へ ど 引っ返した。 く、また、海沿い道を、おなじ方へ、えんえんと行くべつな一 よ きか : ・ううむ、くるしい陣医どの、おうい、麻鳥どの、どう ひ軍こそ、義経とその麾下の将士にちがいない おか かしてくれい』 岡の下を去って、それを追っかけてゆく熊谷の一小隊も、は や、小さくしか見えなかった。 かれの影がさすと、もう、それを知ったか、薄暗い奥の床 うめ ひるがすみ やがて、すべての旗と兵馬は、生田川を東へ渡り、昼霞の果で、まるで狂乱じみた呻きを発しながら呼ぶ者があった。 麻鳥は、いやな顔もせず、子どもの泣き声へ馳けよる母のよ てへ、次第に薄れて行った さだめし、都では、人出の山が道を埋めて、それを見物するうに、すぐかれのそばへ走ってゆき、手足をちぢめてもがいて ことだろう。また、院をはじめ、公卿百官も、にわかに、媚を いる一つの皺くちゃな顔をさしのぞいた だごろく 『どうした。駄五六』 もってかれらを迎え、将には恩賞があり、兵には、ねぎらいの せんしよう 『ア。 : : : 陣医どのか。痛いなんとも、いつもの所が、痛う 酒が待ち、上下をあげて、ちまたは、戦捷の賀に彩られるにち ・刀 . し十 / . し て、苦しゅうて』 『どこが』 と、思うものか。 いや、たれもが、それらのことを、想像せずにはいられま『胸の : : : ここんとこがじゃ』 『そこよ、、 。しまに癒る。辛抱がかんじんだよ。そう、動いてば しょんばり、あとの岡に、取り残された無数の眼は、それぞかりいたら、癒る病もなおらぬと申すに』 れ、深刻だった。かれらのうえには、なんの光もない。春の雲『どうして、こう、体じゅうが熱いのやら。ああ、つらい』 『熱さえ下がれば、痛みも軽くなろう。どうも、おまえは辛抱 が一すじ、ふんわり、流れているだけだった。 弱い男だの』 『ほんとに、命は助かるじやろうか。おらはど、運の悪いやっ 。オしここで死んだら : : : 』 駄五六は、ばろばろ泣いた。泣いている間だけは、多少、苦 患を忘れうるものらしい もう腰も曲がりかけている老兵のくせに、人一倍、死をおそ わらじ れ、ややもするとペソをかいては、草鞋のようなあばた顔をよ ざっ 雑居仏 ぶつ こび しわ なお むしろ
経俊は、すぐそこを出て、岡の上に立ち、じっと、眸をこら『知盛どのは、どこに』 の と、ひとりの侍大将に訊くと、その部将は「ただ今、陣幕の え東の空が明けかけている。生田ノ森、生田の流れ、味方の主内にて、院宣の御使と、御対面中です」との答えだった。 しよう カ陣地は、ちょうどその曙色の下にある。 しばらく、床几を借りて待っていると、その知盛はやがて、 1 一ろう ど よ 『あれ、御覧じませ、小野坂のこなた、西国街道のちょうどっ使者を、陣幕のうちに措き残して、 ひじにあたる辺を』 『おお、若狭どのか。どうして、かく早く知られしか』 夜どおし、ここに見張っていた兵たちは、ロぐちにいって、 と、歩み寄って来た。 その小やかなる異変も見のがさぬ眼で、こう指さした。 それには、答えもせず、経俊は、声をしばって、知盛の面を 『たれか、見てまいれ。馬を飛ばして行って来い』 凝視した。 うけたまわ 数名の武者が、岡を馳け下り、そして、またたくまに、帰っ 『院のみ使と承るが、そも、なんの院宣ですか』 て来た。 『まだ、院宣というのではないが、和平のお旨らしい』 息をきりつつ、その者たちは、こう復命した。 『えつ、和議の』 ともびと 『異変と見えましたのは、供人大勢をひきつれて、都より降ら 『きように至って、にわかなみ使、腑に落ちぬ心地もするが、 みつかい れたと申す、院の御使の由にござりまする』 疑いようもなく、近臣の親信卿をさし遣わされ、たしかにない 「よに、院のみ使だと』 ないの御諚にはちがいない。 : で、捨ておけぬことなれば、 しゆりのたいふちかのぶきよう との 『み使は、修理大夫親信卿とか』 輪田ノ海なる内大臣ノ殿の御船へ、ただ今、馬を飛ばして、お 『 : : : 解せぬことよ』 報らせしたばかりだが』 と、眸を、その方角へやったまま、 こう語る知盛すらも、まだ、半信半疑な面もちに見え 『なおなんそ、詳しくは ? る 『確かめてとも考えましたが、木一尸の兵は、知らぬと申します し、ここへのお答えも心せかれましたため、ひとまず立ち帰っ てまいりましたので』 『さらば、わしが行こう。馬を』 と、寺の方へ呼びたて、自身も大股に寄ってゆき、岡をくだ って、里道へ出るやいな、鞭を当てた。 とわり なるほど、小野坂の木戸には、公卿の舎人が、十数人も見 え、馬に飼料を与えたり、かれらも朝飯をかかえて、騒いでい さとみち あけばのいろ むち おおまた ひとみ だごろくじあん 駄五六思案 しおくら まだ海上も潮暗がりのほのかな夜明け前 輪田ノ沖に眠っていた水軍の本営では、にわかな色めきがう とももり・
京乃木曾殿の巻 けれど 平家の大軍が、屋島から福原〈兵を上げ、東は生田川から、 西は一ノ谷まで三里の間、海上に数千艘の兵船をうかべ、陸に は柵、櫓、楯を構えて、高地低地、いたる所に、へんばんたる 大江山待ち 紅の旌旗がながめられるーーーといったような伝えは、あなが ち誇張とのみは思われない。 どの方面からの情報もほば同様であり、特に、この二十六日 あわじうじまみくりや みくりやしもっかさ 一月二十六日の未明。 の朝、淡路鵜島ノ御厨から院の大膳職へ着いた御厨ノ下司のい それは義経が、密かに各家の門を訪い、一方、部下をして、 うところも、まったく、一致していた。 よくよう 前夜から何事か画策させていた翌暁である。 『こなたばかりが、追討をさしひかえ、神器の受授を計られて 『平家の大軍が来るというそ』 も、平家方が威を誇って、武力の上洛を遂げんとするのでは、 いくた 二ノ谷、生田などより、一せいに都の方へ向かっていると和解の道は見いだせぬ。とこうして、後手を踏むな』 カ』 自然、院中には、そうした声が高まった。 『丹波には、はや、おびただしき平家の旗も見ゆると申す』 その日も、院議は開かれたが、空気はまるでちがっていた。 『すわや、ことこそ』 かの右大弁親宗からして、「大勢の赴くところ、今は抗し難い」 たれがいい出したものやら、よくは分からない と見たか、いつものようには粘りもしない。 ちゅうなごんともかた ただ流言は流言の怪しいまでの作用をもって、都人の暁の それに反して、中納一一 = ロ朝方、参議兼光、藤原親信など、ロを 夢を驚かせた。 そろえて「何は措くも、追討宣下の儀は、御猶予あるべきにあ もっとも、木曾滅亡の血なまぐさい日から、まだ幾日も過ぎらず」と主張しあった。 てはいない。人心はなお不安な底波の中にあったし、事実、平法皇のお胸も、前日までは、和戦半ばしていた。といって、 家上洛の取りざたは、去年から再々なことでもあった。 平家へのお憎しみは依然たるもので、和平は、一時の手段、三 ま - 一と 『こんどこそ、真やもしれぬ』 種の神器さえ取り上げてしまえばという方便の和であった。 ようあん 人びとは、暁闇を東西に飛ぶ馬蹄のとどろきにもあわてた だが、それも望みなしとすれば、即時、出兵に御異存はな し、わけて院の公卿たちの動揺はひどかった。 い。まちがえば、今の御位置も危いこと、万々御承知なのであ しかし。 る。 やがて朝陽とともに、それは虚伝と知れ、 人びとは胸なで下ろした。 政略の交渉は捨て、ただちに、平家追討の挙に出よと、院議 摂津の武庫川方面からの早打ち、また、亀山地方からはいっ は、にわかな決定を見、 た情報などの誇張とは分かった。 『範頼、義経こよ、、、 。。し力なる勝算やある ? 』 あかっき くれない やぐらたて せいき
で、そんなにまで闘い疲れたのだろうか。やがて馬上、陣へひ使には、佐藤継信、忠信の兄弟が行った。 き揚げてゆく姿にさえ、得意な風など、どこにもなかった。 ふたりは、やがて、帰って来て、 かばのとの 『蒲殿には御書面を手に、いと、御満足なていでした。あの殿 も、きようばかりは、凛々しゅう見上げられ、辺りの侍大将 みきぐらさかがめ も、はや、生田の神酒倉の酒瓶をひらき、祝いさざめいておら れまする』 と、模様を話した。 『、、つ・か』 と、聞き終わった様子で、義経が、床几を立ちかけると、継 しゅうそく こうふん 陽は高くなり、戦いは、すでに終熄を告げていた 信は、 ししにくそうな口吻をすぐっづけた。 二月七日、巳の下刻 ( 午前十一時 ) ごろ、義経は、輪田ノ岬に 『なおまた、梶原殿からも、御伝言がございましたが』 へいギ、かげとき 陣して、 『平三景時どのから ? 』 からめて しょて 『搦手の本軍は、ここにあるぞと、諸手の兵へ、眼にも見ゆる 。し』 よ、つに生ロげ知 . らせよ』 『 . なんと』 と、いし・渡した。 『ーーー九郎の殿には、何もかも措いて、ましぐらに、平家の船 な - さ 岬の渚から、松原へかけて、幾十旒もの白旗が立ち、きのう がかりせる浜べに馳け出で、さだめし、よいお手柄を獲られた まで、この地の山海を彩っていた平家の旗に代った。 ことであろう。院がお待ちかねの三種の神器も、つつがなく、 きっそう また、おなじ時刻のころ。 お手に収められたか否か。吉左右、早く承りたいもの : : : と、 かば かじゃのりより 大手軍の蒲ノ冠者範頼は、生田ノ森から、西国街道の山手をかように、満座の中で仰せられました』 一掃して、もと太政入道の山荘、雪ノ御所の跡に、陣所をお義経は、だまって聞いていた。わずかなうなすきと徴笑のも き、梶原以下の軍勢も、付近の夢野あたりに、それぞれ、兵馬とに「そうか」と、それにもおなじ短い一語をもらしただけで しよう をまとめて、今しがた、三度の勝鬨をあげて祝したということ床几を離れた。 も、聞こえていた。 陣所は、もと来迎寺の跡である。 がれき 義経は、さっそく、使者をえらんで、 朽ち傾いた山門、欠けた塔、瓦礫、かっての、入道清盛が全 下『ともに、力を協せて、鎌倉どのの御使命を辱すかしめず、一盛時をしのぶよすがもない。あるものは、自然の風化力だけで の 挙、今朝の勝をえたること、同慶のいたりです。陣務、始末のある。 凱後、親しく拝面をとげ、何かのおん物語り仕らん』 義経は、渚へ出た。平家の大小の兵船も、その一艘さえ今は と、祝詞を申し送った。 見えない。 淡路、屋島、そのほかの島じまさして、木の葉 ひ ・カし - カ - 凱歌の下にも み した かちどき りゅう な、 お しようギ、
『先陣ばかり競り合って、たれも後陣に続こうとはせぬ。懸る い考え方だ。 しかし、兄弟とも、なお躍起に矢を射込むので、捨てても措ものかかるもの、敵の好餌になるばかりそ』 かち まな・ヘごろう けずと、平家の真名辺五郎という強弓の達者が、ただ一矢のも指揮を変えて、徒士の小隊を、十幾組も編制させ、川の上下 とに、河原太郎の胸いたを射とおした。 から散兵的に馳けわたらせて、 弟は、兄の亡を肩にかけて、退きかけたが、真名辺の二の『射られても射られても、ただ、はいこごんで、敵の木戸の柵 を打ち壊せ』 矢は、弟の方も、すぐ、射たおした。 あたら と、命令した。 『可惜、こんないいやつも、殺さにゃならぬか』 平家の新中納言は、敵の兄弟の首を見、かえって嘆かわしげ そのエ兵作業が効を奏してから、騎馬隊の突進も、初めて可 にしたとし、つ 能になった。そしてたちまち、小野坂を中心に大混戦の様相と よっこ。 そして、これが戦端のロ火となり、梶原景時と、その息子た 『今こそ、本軍をおわたしあるもよろしいでしよう』 ちの五百余騎を始め、東国勢すべて、くつわを並べて、生田ノ のりより 景時は、総大将の範頼にすすめた。 森へ攻めかかった。 いくみ、ぶ - う 一にも二にも、 この老功な軍奉行に、範頼は心服していた。 旦示時・のことばのままに、つ、こいた げんだかげすえ しかし、その平三景時は、長男の源太景季が、乱軍にまぎれ きよう しゆら て行方も知れないと聞いて、 修羅山海経 『さては、余りな深入りの末、敵に囲まれているのだろう。源 太を討たせては、親の辱。鎌倉殿へもお顔向けがならぬぞ。 ざ来い子どもら、おれに続いて』 と、次男の平次景高、三男の三郎景家も引きつれ、乱軍の中 このところ雨もなかった。生田川の水は少なく、騎馬でわた ぞうイ、 へ、探しに馳け入った。 すにも造作はな、 平家方は、木戸を小野坂の一カ所に限って、二重三重に逆茂源太景季は、宇治川でも、佐佐木高綱と先陣を争って、名馬 へい早、かげとき 木を引き、およそ堅固を極めたものだった。東国勢が、東ノ堤″磨墨〃にものをいわせた男であり、親の平三景時にとっては、 経 から百騎、二百騎と馳け向かっても、みな撃退されるか、川のこのところ、鼻高だかな息子なのだ。 海 『源太よ、どこに』 半ばで、矢かぜにくるまれてしまうだけであった。 山 と、求めてゆくうち、案のじよう、敵に包囲されて大童とな 『暴勇はやめたがいい』 羅 も、つゾ . : - ノ っているかれの姿を見いだした。 修梶原景時は、かれらしい冷静さと計算から味方の妄動をいま しめた。 かれの肉親たちは、総当りで敵を蹴ちらし、源太を肩にたす 0 さんかい やっき するすみ 435