葵 - みる会図書館


検索対象: 新・平家物語(四)
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1. 新・平家物語(四)

次の敵を迎える意志はない。 兵は、容易に弦を切って放たない。 たすけ 巻『敵には、援兵があるぞ。女性ひとりを討 0 たとて、何かせ みじかい一瞬であったが、葵の敵は、平家の内でも、名だた舁 ん。今のうちに退けや人びと』 る武者らしく、かの女の小薙刀も、相手の太刀に肉迫される毎 一将の声を機に、かれらは葵を捨てて、ふもと路の方へ、わこ、 。幾度となく、空を斬って、鞍腰さえ、浮かしかけた。 れがちに走り出した。 たしかに、敵は葵に勝る強者である。葵は危い。 風前の灯火 葵は、追いかけた。乱れ合う敵の後ろへい呼びかけた。 といってよ、 によしよう びと 『女性なればとて、侮り給うか。木曾殿の想われ人、葵ノ前と だのに、救いの半弓は、まだ弦を切らないのだった。一瞬一 は、わらわぞ。勝負も果さず、逃ぐるとは、ことおかしゃ。都瞬、葵は苦闘に落ち、その息づかいすら聞こえるほどに見えた 武者は、木曾の女子にもおそれてか』 その広言を聞いて、憎し、とでも思ったか、逃げゆく群の中 しかし、さきに、山頂へ求めた木曾の援兵は、近づいてい から、武者一騎、駆け戻って来て、 た。真上の崖や沢から声をあわせて駆け降っていたのである。 『さらば、女武者の首、都への土産に、鞍わきへ結い付けて行そのために葵の敵は、またしても葵を捨てて、一散に逃げ去 0 : っカ』 た。さすが葵も、戦い疲れたか、もう、その敵を追おうとはせ と、ただちに、陣刀を引き抜いて、かの女の挑戦にこたえず、美しいばかり汗ばんだ顔をして、駒首をめぐらしかけた。 びゆっんと、半弓の矢が飛んだのは、そのせつなだっ すると。 さっきから葵に加勢していた少数の木曾兵のうち、ただひと矢は、あたった。 りだけが、栗鼠のような迅さで、こなたへ駆けて来た。 葵の姿が、馬から、どうと落ちたとたんに、矢の次に、葵の 一念、葵の影に添って、かの女の身を護ろうとする忠義者の体のそばにいたのは、木蔭を離れた女兵だった。 ようでもある。すばやく、近くの岩蔭に身を伏せ、さらに、木『 : 蔭へ飛び移って、「すわ、葵さまの危機」と見たように、弓を 自分の射た矢を、葵の体から抜き取っている。空には、五月 つがえた。 十二日の暁近い残月がおばろだった。 ただの雑兵である。 女兵は、矢を引き抜きながら、死のまゆをひそめたままな、 ぞうしのめ しかも、それは小柄な女兵であった。 葵の顔を、冷ややかに見すました。それは、葵の雑仕女から遠 おんなどれい たむろ 一目で、女兵とわかるのは、引きしばった手の弓が半弓であざけられて、女奴隷にひとしい女兵の屯に落されたあの山吹に り、鉢兜のしころも、朱色である。 よく似ていた。 まん キ、キ、と半弓は満をえがいて啼く。 しかし、山吹らしいその女兵は、大勢の味方がここへ馳せ集 白い鏃は、的をねらいすまし、放っかと見えたが、なぜか女まるまでに、もう、どこかへ影をかくしていた。 ) 0 やじり りす まと おなご くら まみ、

2. 新・平家物語(四)

声がした。葵の方からは、それが敵か味方か、数さえも分から い、家の外でも、花うるしの女車にかくれて、眉目さえ滅多に 仰がせないものと、都の常識ではきめている。その通念からも とっ * 、 おとこごえ しかし、惑 0 ているのは危険である。咄嗟に、男声を作 0 平家勢は、目前の敵に、怪しみと、驚きを覚えずにいられなか っ ) 0 て、かの女は答えた。 『お、つ、・味亠刀よ。ここはどこぞ』 『や、や。女そ』 それに安心したものか、沢の奥から一群の人馬が、しかに 『なに、女武者とな』 も、あわてふためいた足どりで押し流れて来た。 しいさわいで、たじろぐすきに、葵は、 みうち あっと、葵は馬を交わした。まぎれもない平家方の将士ばか 『女とて、木曾殿の御内は、こうぞ』 りだ。しかしその葵にも眼もくれないほど、かれらはふもとへ と、われから駒を駆けよせて、手近な敵の影を目がけ、ト / 薙 急いでいる。葵は、すきをうかがって、逆に、馬を駆けさせ刀のひらめきに引ッ掛けては斬り払った。 たかれらの降りて来た方にこそ、倶利伽羅の上へ出る一路が 一騎と、歩騎数十人の戦いである。いかに、葵が勇婦であっ あると知ったからである。 ても、長くは、持続できるはずもない。 『や、や、かなたへ去った者は ? 』 しかし、一瞬の雄たけびが、渦まいたと思うと、どこか、高 『今のは、木曾の部将にちがいないが ? 』 い所から、ばらばらっと、こばれ雨の音にも似て、幾すじかの 敗走の将士も、気がついたらしい。平家方の一群は、馬をと矢が降って来た。つづいて、崖をすべり下りてくる十数人の迅 ばして追いつめて来た。もとより傾斜だし、道の落葉は、蹄い足音が迫って来た。 を埋めるほどな柔かさである。たちどころに、囲まれて、葵『おつ、葵さまよ』 は、逃げるすべもなくなった。 『葵どのだ』 かの女をさがし求めていた味方の木曾勢にちがいなかった。 によへいま と、葵も、心をさだめた。 しかし、女兵を交じえたわずかな人数にすぎなかった。重囲の 小薙刀をもち直し、むらがる敵を見まわして、 中の葵を救い出すには足りそうもない。 『味方の者と思うたが、みだれ立った逃げ足の人びとは、木曾『おおうッいつ。おう いつ。味方の者』 殿のお味方にはよ、。 近づくは、平家のたれたれぞ。名乗り給木曾の一兵は、山頂へ向かって、声のかぎり、どなった。 ひきよう やつばら 禍 え、わらわとて、卑法はせじ』 『葵どのは、ここぞ。ここには、平家の奴輩も残っているそ。 AJ 、 > . しイ 4 / はやく来い。葵どのを、助けに来い』 によしよう こわね 前の声とはちがって、女性の美しい声音である。平家方の武その間にも、少数の木曾兵は、木の間に弓をつがえて、葵に 加勢の矢を射ていた。 半者は、何か、ぎよっとしたようだった。 いつつぬいろかさ 女性といえば、五衣の色を襲ねて、珠の簾に月影もじら平家方は、逃げ足の途中だった。もとより踏みとどまって、 カー

3. 新・平家物語(四)

みついた のふたりの影に気づき、あわてて後へ戻りかけた。 『お待ち』 の ち『まだ、まだ、もっと : するどい、矢のような葵の声が、呼びとめた。 『山吹でしよう、そこへ来たのは ・ : なぜ、顔いろを変え 都義仲の面は、ぐしょ濡れにぬれた。自分の涙ではなく、葵の て、急に戻るのですか。おはいり』 門涙にである。 命じるようにいって、 『ネ、殿 : : : 』 と、赤子のように泣き甘え、 『そなたは、そんなにも後ろめたいのか。持っている灯がふる おおじ : もう逃げ隠れも及ぶまいに』 『殿はあす、洛内の大路を、見てお歩きになるのでございまえて消えそうな。 『何も、逃げはいたしませぬ』 きめ・とうだし 『見物ではない。三軍の将として、検分のために』 山吹は、簾を割って、切灯台の明りを側に、そこへすわっ 『葵も、おつれくださいましようね。そのため、髪も洗うておた。血の気は退いて、白粉だけの顔いろに、たたかいの眼だけ がすわっている いたのです』 『いやといえば、また、物狂いするのだろうが』 『なんの御用でございますか。葵さま』 『わが胸に問うてみたがよい』 『物狂いなどいたしませぬ。殿を、わらわの側から離さぬだけ ・ヘっしょ のことです。むかし、信濃の雪も深いころ、別所の温泉ノ御所『問えと仰っしやるのは』 たむろ むさおんなぞう で、お誓いしたのを、よも、お忘れではございますまい 『そなたは、越後の御陣の前までは、女兵の屯にいた穢い女雑 今さら冗談などとはいわせません。殿を刺し殺して、葵も毒を兵ではなかったのか』 のみましようかいいえ、やさしいことですの。そんなこと、 『・・ : : そ、それが』 しょ , っとえば』 『いつ、殿のお側へなど』 : たれか来る』 『いらざるおせつかいでございましよう。殿のお召しもないも 義仲は、胸の上の、重いだけの物を、取り除けるように、身のが、殿のお側に仕えるはずはありません』 によへいだむろ を疼かせたが、 『お黙り。そなたは元、女兵屯に落ちる前。 ま、この葵の雑仕女 いとま 『たれが来ても、はばかりはございますまい。葵は、浅間山のであったのでしよう。葵は、まだそなたに暇をつかわしてはい びと 御陣以来の、殿の想われ人、巴さまさえ、わがままをゆるしてないはず。こういうのになんの不思議があろ』 くださいます。戦名乗にも、木曾殿の葵ぞと、呼ばわって来た 『では、なんなと仰っしゃいませ』 めねこ わらわですもの』 『春の夜の牝猫のように、葵の眼を盗んでは、殿の夜殿へ、縁 しよく 灯の揺らぎが近づいて来る。たれか、燭を運んで来たらしづたいしたり、庭づたいしたりなど、以後やめたがよい。それ そして、簾の外からはいりかけた者があったが、ふと室内を、ここでお誓い』 うず す おも いくさなのり によへ よどの ぞうしめ えん 160

4. 新・平家物語(四)

『なんで、みゆるしもなく、このような所へは』 「罪は、義仲にある、山吹の科ではないと、もうそのことは、 幾たびも、詫びたではないか。 山吹、立て、たて。葵の眼 の ギ、わりにならぬがいし』 『あろうことか。お座の間近い庭へ、身を忍ばせ、そなたは、 ら 『お待ち』 か敵のまわし者か』 『めっそうもない御意を』 立ちかける山吹を、葵は、執拗に 『わらわが許さぬうちは、そこを立ってはならぬ。たとえ木曾 气では、何しに来やった』 たむろ 『御老臣に呼ばれ、他の女房衆とともに、御洗ぎ物を取りに参殿のおことばであろうと、そなたは、葵の部下、女房屯の一兵 士でしようが』 りましたが、ふと、ほかの衆と迷ぐれて』 『嘘をおいい』 と、憎げにいって、見よがしに義仲にあまえた。いや義仲を いじめぬくのだった。 と、切り伏せるような語気で、葵は、しかった。 『ここは、方丈の中の坪、迷ぐれ込むような所ではありませ ん。 : ああ、読めた。そなたは、すきさえあれば、殿のお身 かが 近へ、忍び寄ろうとしているのであろ。その姿を、殿のお目に 山吹は、身うごきもしなかった。両手をついたまま屈まって ふれたがっているのであろ。 この春の、一夜のように』 いた。その地のはだのように、その体までが冷たくなった。 ねた ふくしゅう かの女は、義仲のひざを下りないのである。その胸へ、身を しかし、胸は、くやしさ、嫉ましさに、燃えたぎった。復讐 凭せたまま、義仲の当惑顔を、なぶるように、見あげるのだつをさえ考えつめている。さはいえ、葵は、主人である。義仲は おんなどれい その君である。陪臣、女奴隷の身、どう刃むかうすべもない。 『 : : : そう、殿もお忘れではございますまい。この春、信濃へ かの女は、泣かなかった。 御出陣の前の夜でした。伏木のお館で、酔い伏され、夜明けも泣いたのは、もうこの春の暮のことである。あれから、どん 近い寒さなのにとお案じして、山吹をお迎えにあげました。と ょに、女体の辛さというものに眼醒めたことか。そして、葵か ころが、山吹の気だてが、妙に、変ってしまったのは、そのとらは、死ねよがしの、目にあったことか そばめ きからです。わらわに仕える素振りまで、前の山吹ではありま 側女の位置から引き下げられて、女雑兵の中へ入れられたの せん』 も、あの直後だった。 山吹はあのように、わなない 『葵。もう、ゆるしてやれ ( こうしたら、いたたまれまい。陣を脱け出して、どこぞへ、 ておる』 逃げてゆくであろう ) 『いいえ、わななきながら、心のそこでは、わらわに、恋の戦葵の処置が、そうした考えによるものであっただけに、山吹 おとめごころ いを挑んでいるにちがいないのです。乙女心とはそうしたものは、なお、意地でも、陣を去らなかった。 ふびん です。殿のお眼には、不憫とお見えになるでしようが』 大猫のように扱われても、どんな危険な命令をつねに受けて うそ みすす とが しつよう

5. 新・平家物語(四)

ければ、それ以上の愛撫も軍功としてかの女の唇やはだへ惜つわものを引きつれて、いつのまにか駆け出られたのではおざ 巻しまなかったことであろう。 るましか』 さぐんねのいのこやた やがて左軍の根井小弥太、高梨高信、蟹谷次郎の諸隊もこれ と、証言した。 ら へ引き揚げて来た。そして、奇計の勝利を祝ぎあって、陣は贓義仲は、驚いて、 わい立っていた。 『すれや、葵も、進み出たにちがいない。西のふもとには、ま すると、さきに、義仲の左右を離れて、残敵狩りに走った那だあまたな平家勢がいるぞ。今になっても戻らぬは ? 』 波太郎、諏訪光貞などがせ戻って来て、 と、にわかに不安を濃くしていった。 『葵どのおひとりが見えぬ。ーー葵どのには、敵の深くへはい 『たれぞ、捜しにゆけ。葵の生死を見とどけて来い』 って、討ち死にをとげたらしいそ』 『わらわが参一りましよ、つ』 と、しきりに憂いた 巴が、起った。 『いやいや。葵の姿は、おりおりに見うけた。すぐ後ろの楯に 控えておるはず。よもや駆け出はしまい』 もだ 義仲は、かの女の死など、信じもしない容子だった。 巴すら行く以上、黙してはいられない。続々と、ほかの将士 けれど、たった今、西の戦場から戻ったばかりの諏訪次郎光も、西へ駆けた。嶺を境に、西がわは谷もふもとも、加賀の国 貞は、 である。 かみふじ 『その葵どののお姿は、たしかに、われらの馳け向かった上藤その加賀寄りの山坂や沢道を、敗走の平家勢は、いまだに、 また 又のあたりにて、一度ならずお見うけ致しまいた。 馬上、なだれ打っていた。ゆるい山崩れが、ふもとへかけて、地表の いつものいでたちにて、小薙刀を打ち振り、逃ぐる平家勢を追厚みとすそをひろげてゆくようにそれは見えた。 あおい いにおって、呼べど、返す御様子もなく、いっか、お姿は見失味方に離れて、葵は、道にも迷っていた。 うておざるが』 余りに、敵を深追いしすぎていたのである。かの女の勇気も と、 だが、敵の逃げ足が、かの女を誘い込んだともいえよう。「こ また、後ろの楯にいた手塚別当も、義仲の前へ来て、 こはもう西のふもと」と気づいたので、急に駒を返して来たの 『じつは、宵のころより葵様には、左軍にある巴様が、しきり てがら に、お手柄を立てつつあるとのうわさを聞いて、わらわは本軍ところが、いつまでも、倶利伽羅の元の道に出なかった。さ そまみち やまざさ におかれたため、きびしい敵にも行き会わず、残念じゃと、もんざん、谷ふところをさまよい歩いた杣道らしい山笹の中 らしておいでなされました。 そのおり、那波太郎、諏訪次を、ひとりで、駒をあやしながら、嶺の火光を目あてに登りか けていた。 郎などが、ちょうど、殿の御命令のもとに、一手一手をひッさ げて駆け向かいましたゆえ、勝気なかの君には、部下の女兵、 すると、沢べの深い暗がりの揺れとともに「味方か」という あおい たて てずかの・ヘっとう み、ぐん くちびる によへい みね みね

6. 新・平家物語(四)

いちど癒りかけた矢傷を、ふと、こじらせてから、葵の病なった。ほかならぬ日で、どうにも、荷物だとは思うものの、 巻は、急に悪くなっていた。 振り捨てきれなかった。 ち血の濁りであろうか皮膚は蒼ぐろく衰え、髪はうすくなっ 『ゃあ、弾正介も、左金吾も、手をゆるめてやれ、むごいこと かんばせ するな、むごいカで』 都た。ひところの、あの快活さも花の容顔も、面影だにない。 ふびん 義仲は、見るのが、いやだった。不愍さに見ているのが、辛そして、葵の眼へ、さし招くような眼を与えて、 いのである。 で、越前を立つ前に、かの女の身を、堅田の 『よしよし。さまで申すなら、ともに、都へはいるがしした 刀禰家へ託したのだった。 が、死んでも、おれは知らないぞ』 湖畔の旧家で、かの女は、療養に努めてはいたが、寝ていて いい捨てて、義仲は《駒をすすめ出した。 いたわ も、弾正介の家人をとおして義仲の消息、軍の行動は、わかっ ついに、そばへ寄って、やさしい労りを受けられなかったこ ていた。 とだけは、不満だったが、でも、葵は望みの一つをかなえられ て、 晴れの入洛に、自分ひとりが、都にもついて行けない。 いや、もっと、もっと、こらえがたい無念もある。 『ええ。たとえ、病で死んでも、殿のせいではありません』 さりげなく、病床を出たい思いを、弾正介に相談してみた。 と、答えながら、自分の駒の上にもどった。 めっそう 「滅相もない仰せを」とのみ、父子は取りあってくれもしな義仲は、この小事件で、ちょっと、腐った顔いろだったが、 ていだん 黙って、泣いて、寝ていたのである。 吹き鳴らす貝の音を合図に、四万の将士が、見事な梯団を作っ そして、ひとりでけさを待った。堅田には、一族家人、たれて、弓、長柄などの林立するあいだに、 無数の白旗をなびかせ ひとりいないのを幸いに、病を押して鏡に向かった。われながて行くのを望むと、すぐまゆは、つねの木曾殿にもどってい ら、涙のこばれるような病み窶れを、精出して、化粧した。白た。 まゆずみ 粉もあっく、黛も濃く、口紅も深く。 葵は、ツ、ツ、ツーと他の騎馬武者の中を割って、義仲のす 死んでもいし ぐうしろへ来た。そして、山吹の駒のわきへ、自身の駒を、ひ くらか 風を切ってゆく馬上で、そう唇を噛むそばから、べつな心でたと並べた いや、あだには死なぬ。 山吹は、その眸を、かりそめにも、横へなど、外らしはしな と、何かをきつく誓っていた。 その血相を、今、義仲は、自分への恨みとばかり見たのだっ葵は、そうでなかった。絶えず、山吹の横顔を、眼のすみか た。かれも有りふれた男である。正直、その後、葵のことな ら、睨めすえて行った。 ど、思い出してみたこともない。 そうして、進むうちに、山吹の面は、血の色を失ってゆき、 だ ; 、眼に見れば、一しょに泣いてやりたいほど、あわれに反対に、葵は生命の火を、復讐の念にかきたてられ、急に生き とねけ なお け一 . ん あお ふくしゅう

7. 新・平家物語(四)

『、つれしいぞ』 そして、少しの間、 浴衣ひと重になって、中坪の簀子 ( 縁 ) に 腰をおろしていると、 義仲は、わが肩ごしに、手をのばして、葵の手をにぎった。 『お髪を上げさせていただきます』 その手から櫛が落ちた。 櫛は二つに割れている。 と、いつのまにか、葵が、櫛笥をひらいて、かれの後ろへ寄 っていた。 ・葵はそれへ眸をすえた。不吉な予感に襲われたらしいカ 『お。葵か : : : 』 義仲は無造作だった。折れ櫛をつかんで、中の坪のささ流れへ 、ヾ学 ) 0 義仲は、振り仰し 投げ捨てると、 ひたたれ 『いとしいやっ』 かの女も身化粧をすましていた。濡れ髪を下げ、よろい直垂 と身を向け直して、葵のからだを、嬰児のようにひざへ抱き 一重だった。タ顔の花かとばかり、その美しいまゆは、兵馬の 営中なので、なおすがすがと見えた。 取った。 青い月しかのぞいていないはずだった。ところが、どこか、 木蔭の暗がりで、カサッと木の葉の露がゆれた。猫のように しおりど 『こうして、殿のみ髪を上げさせていただくのも、こよい限り背をかがめた人影だった。泳ぐように、柴折戸の外へ出て行こ か知れませぬ』 うとする。眼ばやく、義仲は見とがめて、 『待てつ、たれだ』 : そうなろうも知れぬなあ』 と一喝した。 タ月の下に、櫛を持ち、髪を結わせながら、平然と、死を語 る男女であった。 みよ 『わらわも、身浄めをすませ、はだには伽羅も秘めました。も女の声である。 う、いっ殿に先立ちましようとも』 しかし、ただの士卒とひとしく、粗末な小具足に、わらじば たむろ によへ 『はははは。そう死にたがらでもよし』 きだった。女房屯にたくさんいる女兵のひとりにちがいない 地へ、いすくんだまま、片手をつかえ、 『もとより死にとうはございませぬ。けれど、女の討ち死には 武者輩の討ち死にとは、違います。心も違うておりまする』 『どう、違、つ』 いつまでも、その顔をあげようともしない 隷『たとえ、戦さの中で斃れても、わらわの死は、恋死にと田」し葵は、義仲の胸に抱かれたまま、義仲と一しょに、その影 しゆら くださいませ。殿なくば、なんで、修羅のちまたにおりましょ へ、冷ややかな眼をやっていたが、やがて鋭く、 によしよう う。女性の身が、打物とって、千軍万馬の中までを、こうお慕『お、山吹じゃな。そなたは、山吹であろうが』 し と、とがめた。 美いして、戦陣から戦陣をあるいておるのも、恋なればこそでは : はい。山吹でございまする』 ございませぬか也 くしデ きやら いっかっ ねこ

8. 新・平家物語(四)

肉 を、全身のものとして、顫いた。そして青ざめた自分の顔を、 「いやです。葵さまおひとりの殿ではない』 に、いきなり仰の灯を吹き消しこ。 葵に見られたくないよう ' 『誓わぬと』 さっと、風のように、簾の外へ出てから、 『ええ、死んでも』 ・ならば、よい もうよい。殿のお口から、もいちど、元『殿、殿 : : : 。葵さまの病の毒を、お体におうけなさいます によへいたむろ の女兵の屯へ、きっと、追い下してあげるから。ーーー殿、殿。な。山吹が悲しみまする』 むせ と、たもとをかむような咽びを投げ捨てて、細殿の果てへ走 ここでそれを、山吹へ仰せつけなさいませ。仰っしゃれぬので すか。そのお唇では。 : ええ、もう、この憎らしいお唇より去った。 翌日、木曾数万の軍兵は、七手に陣列を組んで、洛中を練り 義仲は、あわてて、顔を横にし、身を起こしかけたが、葵歩いた 示威のために。 は、まったく、燃えていた。山吹の凝視を前にしてである。あ ふくしゅうけらく また、新たな主権者として、民へ臨む視察のために。 きらかに、復讐と快楽との、異質な魔情を一つに意識しなが へび ら、蛇のようなその細かい歯並みをもった唇は、男の顔に吸着義仲のそばには、巴と葵とが、以前のごとく、駒を並べてい じゃしん た。この日、山吹の姿は見えない。そして葵は、病みやつれを したまま離れようともしないのだった。それは、二つの蛇身が 、・うき 見せまいとしてか、厚化粧していた。 繩になって縒れ合うような妖気めいたものに見えた。 あいしよう ちまたきようすずめ 巷の京雀は、もう、それが義仲の愛妾たちであることを知 っていた。また、うわさに聞いていた木曾の女兵隊に、眼をそ 山吹は、眼を、反らそうともしなかった。 やじり くりから かえって、あの倶利伽羅のやみでつがえた半弓の鏃を思わすばだてた。 ような、研ぎすました眸をすえ、じっと、二つにして一つの肉行進中、初めのうちは、義仲も、厳粛な姿を馬上に保ってい じようおのの たが、やがてそんな自分がばかげて来ると、持ちまえの野性を 繩の戦きを見つめているのだった。 ようやく。葵は、ふと、汗ばんだ顔を離して、臙の崩つつまなくなっていた。しきりに、群集をながめたり、都の風 あくび 物に、珍しげな顔をしたり、やがてまた、欠伸交じりに、 れた唇を山吹の方へ見せた。笑みさえふくんで。 カくも美人がいないのか 『のう、樋口。どうして、都には、、 『・・ : : まだいたの、山吹』 聞くほどもなく、つじつじでも路傍でも、見かけるのは、醜女 『忘れますまい。覚えておいでなさいませ』 縄『そなたこそよ。そなたこそ、これからも、だんだん思い知るばかりではないか』 くりカらだに っ , ) 0 と、 がよいわらわが、何も知らぬと思うてか。倶利伽羅谷の夜の たてのちかただ ことなど』 樋口兼光は、ただ苦笑した。それを、楯親忠が、うけて取っ て、こう答えた。 斬りむすんでいた眸に、自信を失うと、山吹は、その戦慄『いや、おるにはおりまする。したが、深窓深くに隠れてい なわ くち せんりつ おのの ななて ほそどの し・一め 767

9. 新・平家物語(四)

『なんと、よい空よ。水の色までが、もう秋だ。誰そ、貝を吹何か、裂くような、迫った声が、人びとの耳を打ったと思う そうりよしんじん 社前に、ひと休みして、義仲は、ここでも僧侶神人の祝いを 『わらわを、お忘れなのでしようか。殿、殿。葵も、おつれく うけた。先は急がれながら、 かと、つい時がたった。 ださいまし、きようのまたとない御入洛に』 山上から西へ降りて、上加茂へ出れば、近道なのだが、晴れ ひらと、かの女は駒を跳び降りていた。そして、眼ざす人の かいどうぐち ほぶどうどう の入洛なので、歩武堂々と、海道ロの大津へまわることにした方へ、盲目的に、走り寄って来た。 だんじようのすけ のである。陽を仰ぐと、巳ノ刻 ( 午前十時 ) はすぎていた。 が、より早く、弾正介父子は、駆け出して、かの女の 身を抱きとめていた。 『駒をひけ』 『これつ、気でもお狂いなされたか』 山王坂を降りて、駒を呼ぶ。 駒のたてがみは、きれいな花つなぎに結ばれていた。鞍も手『病中のそのお体で、どうしたものです。葵さま、葵さま。お 綱も新しい。義仲の駒ばかりでなく、巴や山吹の乗馬も、また帰りなされい』 したい しかし、かの女は、耳をかす気ぶりもない 諸将のも、毛艶のよい肢体を魚群のようにくねらせて、所せま よろい しと躍りあった。 その一途な気もちは、身を鎧にかためているのでもわかる。 ちょう ′、りか・つ するとかなたのーー・堅田の方から、ただ一騎、ここへ急いでかの倶利伽羅や信濃の戦場で、つねに陣中の蝶のように誇って きらび こがねひたいかなぐ 来る者があった。 いた綺羅美やかな武装に、黄金の額金具のついたはち巻をし、 『はて、たれそ』 手には、小薙刀を抱いている 人びとの眸が集まったとき、その者は、もう義仲や巴のまぢ『狂気とは』 かにまで来ていた。それでもなお、たれであるかは、分からな かの女は、口惜しげに、まなじりを紅く裂いて、 あおじろ つれな かったが、山吹だけが、さっと、顔の色を蒼白くした。 『ええ、弾正介父子までが、情無くいやる。いずれ、病に死ぬ いや、ほかにも、 ほどなら、殿と一つに都入りしてと願うのが、なぜ悪い。わら あおい 『あっ、葵どの』 わひとりを、堅田へおき給うて、殿には、葵をおわすれ遊ばし と声をあげた者がある。諸将の中にいた竪田党の刀禰弾正 たのでしよう。 : : : 葵は、参ります。たれが止めても、お供せ すけ ずにはおりませぬ』 介と左金吾の父子である。 洛『なに葵 ? 』 と、身を抱きとめられながらも、義仲へ、叫びつづけた。 巴は、黙って、見ていた。 入義仲は、耳を疑った。 ふる 仲 けれど、次の瞬間には「おうつ」といったきりかれも自失し 山吹の肩は、かすかな慄えをきざんでいる。 義ていた。眼は事実を容認せずにいられない。 『殿。わらわも ! 』 けづや とねだんじようの くら と、 こななた 7 イ 3

10. 新・平家物語(四)

よのもの よいが、頼朝との戦いを、おれにさせぬためなれば、むだなこ白い夜具と、かの女の黒髪だけが見えた。やがて、ここの暗さ に眸がなれて来てから、やっと、蝦のような顔が、まくらの上 とだ。止せつ、二度とはいうな』 から自分を見て、しいて微笑を作っているのが分かった。 『どうですか、御気分は』 : この 『巴さま。葵は、もう起きられないかもしれません。 義仲の、いは、どうあろうとも、義仲の正妻は自分以外の者で わこまどの 。十 / し ごろ、猫間殿が、都一の名医じゃというて、お連れして来てく あおいまえ 葵ノ前や、山吹とは、立場がちがう。自分は、義仲の育てのれた医師は、癒るといってくれましたが』 『では、そのように、お力を落すこともなかろうに』 親中原兼遠のむすめである。嫡子まである夫婦なのだ。正室な のだ。 『でも。猫間殿の連れて来た医師では、何やら、頼りにも思え ともえ 巴は、みだれかけると、いつも、自分へ意識づけた。「かりませぬ。猫間殿も、風変りなお人ですし、そのお医師も、へん しよう ぶあいそう に不愛想な』 そめの遊び女や妾ではない。正妻は、正妻らしゅうしていなけ 『典医寮の者ですか』 ればなるまい。良人のためには、じっと、忍んでいましよう」 あべのあさとり と。 『いいえ、町医者です。阿部麻鳥とかいう : ・ 『ならば、よく聞く名ではないか。じようずだから、有名なの 今も、そうだった。 しかしながらも、良人の牛車を送り出して、そして、物思わでしよう。癒るといったのでしよう、そのお医師は』 つばね 『ええ、診ることは、じようずでした。わらわが胸に思ってい しげな姿を、奥へ運んで来ると、いくつもの局の一間のうちか ら、 ・ : これはただの破傷風ではな た通りをいいあてたのです。 もとは矢傷だが、矢じりに、毒草の汁でも塗ってあったも 『巴さま、巴さま』 のかと』 と、糸のような細い声がした。 つぼね 『毒矢であったのか』 そこは、葵ノ前の局とは分かっていたが、わざと。 『そればかりではありませぬ。傷口をあらためて、あら不思 『たれですか。わらわを呼ぶのは』 ともつぶやき 議、これは武者矢とも思えぬ、半弓の矢よ。 『葵です・・ : : 』と、すがるように、人を恋うて、 「すこし、おはなし申したいことがありまする。うす暗い病間ました』 『え。半弓の』 などへ、気味がお悪いでしようが、ちょっと、まくら辺まで、 『巴さま。半弓を持つ者は、木曾の女兵だけでございましょ のおはいりくださいませぬか』 う。その女兵までが、合戦の渦に巻きこまれたのは、倶利伽羅 恚ひところの葵とちがい、声も哀れげにいうのである。 しとみ 眞巴ははい 0 て、かの女の病床のわきへ、そ 0 とすわ「た。蔀のほかにはありませぬ。この葵が、射られたのは、倶利伽羅で した。その夜は、たしか、あの山吹も戦場に出ていて』 をおろしてあるので、昼も夜のような部屋だった。帳の蔭に、 なお ろう