身は清盛の義弟であり、平家のうちでも上位にある池殿が、 今暁、捕まった男も、鎌倉の密書でも持っているかと道で検 一門都落ちの途中からひとり引っ返して、常磐井殿に潜伏してめをうけたのだ。 いたことは、世にかくれないことであり、世の批判のまととな ところが、すきを見て逃げ出したのみか、逃げながら何か丸 っていた めた紙つぶてを、渓流へ投げ捨てたなどのことが、いやがうえ おくそく 臆測にすぎないが、世間のいうところに従えば、 にも、疑いを濃くした。そして、ここの大竹藪まで、追っ立て ( もともと、池殿と鎌倉殿とは、今日あることを予見して、密られて来ると、 かな約を交わしておられた ) 『さつ、それへ直って、首を伸ばせ』 と、もつばら、信じられている。 と、繩付きのまま突きとばされたものだった。 そして、なお、 男は、もう、もかいてはいなし 、。要くばくな黒土の上へ、神 ( 鎌倉殿からは、東国へ下り給えと、池殿へお勧めであるそう妙にすわった。 ぬのひたたれ な ) 辻冠者みたいな、汚い布直垂は着ているが、きっと、振り仰 池殿がああしておられる ( いやまだ、当分は下られまい いだ三十がらみの引き緊った面構えは、ひとかどの胆ッ玉をし のは、いわば鎌倉の眼になって、都の様子を、いちいち、東国めしていた。 やまざる へ報らせるお役のためでもある。さすれば、鎌倉勢が上洛を見『ちツ、木曾の山猿めらが、見つけない人間でも見たように、 よう、よう る日までは ) 何を、仰々しげに騒ぐか。ばかつ。斬るなら早くきれ』 ( そうか。道理で院と常磐井殿の間にも、よくお使が交わされ『いったな。よしつ、ぶつ斬ってやる』 おおながえ ているしの ) 大長柄の刃を、男の顔の前へ見せて、斜めに振りかぶった武 ( 院のみか、鎌倉方との、お飛脚の遣り取りも、なかなか、人者が「くわツ」と、気をふくみかけると、 目につくほどとやら。 いやもう、世間が、こう乱脈になる 『あっ、待て』 ひとごころ と、人心もなおさまざまなものよ。たれが何を考えているや と、二つの眼が、肩ごしに、武者を仰いだ かみほとけ ら、神仏でも分かるまいぞ ) 『なに、待ってくれと。ざまを見さらせ。やはり死ぬのは辛か といったようなことも、そこの一郭をめぐって、あらわに取ろうが』 りざたされていたのだった。 『いや、おれよ、 。ししが、なんじらの覚悟はどうだ。もし、おれ そして、そこへの注意を怠らないものに、木曾方の見張りもの首を打てば、すぐその後で、うぬらの首も落ちるのだそ。そ あった。 れさえ知らぬ様子だから、念のため、訊いてつかわすのだ』 ま 子義仲は、楯親忠に命じて、 『ば、ばかを吐ざけ。鎌倉から紛れ込む怪しいやつは、見つけ 質 ( うさんなやっと見たら、容赦なく引っ捕えてみろ ) 次第、その場で首を打てとのおいいつけは受けたが、首を打 0 と、通路に眼をくばらせていた。 て、落度といわれるはずはない』 たま
というよりも、そんな院中泰経は、ただちに、院の裁可を、鎌倉へ報じ、また源九郎義 頼朝には、不快であった。 巻、いの、こそくな政策は、鎌倉の府が将来に理想する樹立の大方経を院庭に招いて、 ひんし の針とはまったく馳するものである。まして、瀕死の屋島平家『さっそく、武士どもをして、重衡卿の身を、鎌倉へ差し立て に、わざわざ蘇生の途を与えるような和をむすぶ気もちなど毛られよ』 手 と、その手続きをうながした。 頭ない。 たとえ、重衡の中将が、どんな貴人であろうと、軍の捕虜で あるからには、処置は、鎌倉のさしずに待つべきだ。法皇と 義経は、都に残る て、権限外のことである。 もし、院のそういうやり口が悪例になって行ったら、鎌倉の都にとどまって、洛中、畿内の治安を厳にし、兄頼朝の代官 として、院や平家のうごきをも、抜かりなく視ていよーーーとい 府は影のうすい、無権力な存在となるしかあるまい。何をもっ て、武士どもを統御してゆけるか。頼朝には、うかと、見過ごう鎌倉の命令なのだ。なまやさしい任ではない。 かじわら 『だが、梶原も去れば』 してはいられない。 と、そこはいささか、気がらくになるよ、つな思いもしないで ことにわかに、かれが、中将重衡の引き渡しを求めてきたの は、つまり、法皇のお行き過ぎにたいする無言なしッペ返しではなかった。 しかし、」と ) なぜか、義経にさえ、よく分かっていない あった。 とに、梶原とは、時務の意見も食いちがう。院のお気うけな さすが、後白河のお胸には、すぐ、それがこたえたにちがい やすつね ど、毛頭争う気もないのに、人のロ端にも、両者の名がすぐ並 ない。近臣の泰経へ、ただ一一一一口、 べられて、とやかくと、評されがちだ。 『 6 いよ、つに』 こういうつまらない神経に疲れるのはやりきれない。一方が と、気まずいお顔つきで、裁可を仰せ渡された わずら その泰経は、先ごろ、鎌倉へ使して、帰って来たばかりであ去れば、もう煩いはなくなるだろう。 その梶原が去るのも、あと二日となった。重衡の中将の護送 る。そのおりも頼朝は「ーーすべて将士の勲功の賞は、追っ て、頼朝が計らい申さん」といっていた。ことばの裏を返せばをかねて、かれも鎌倉へ帰国する。きのうきようの梶原やしき は、それらの支度やら何やらでごった返しているという。 「武士どもの軍功に、院直接の恩命ざたなどは、迷惑である、 とし、つことよ、、 しま、重衡の旅装などについて、そこへ打ち合 さし控えてもらいたい」という意味にほかならない。 で、頼朝の腿は、泰経にもわかっている。こういう点にわせに立ち寄った土肥次郎実平が、義経の前で話していること まで、鎌倉の眼は細心なのだ。おそらく、かれの上洛は、見込だった めしゅうど きひん のりより 『貴賓のお旅路でもない、囚人の下向に、そんな気心をつかう みがあるまい。範頼を呼び、次いで、重衡の中将の引き渡しを 九郎の殿の気がしれぬと : : : 梶原どのは、そう申されての。初 求めてきたことだけでも、充分にそれは察しられる。 イ 82
そして一方、 『いちど、頼朝を上洛させよ』 くだしぶみ という御意向もあり、院ノ庁からは、関東への下文も再三だ まか ったが、頼朝の答えはいつもあいまいだった。「罷る」とも明 じようらく 言せず、「上洛せず」ともいわないのである。 つまりそれが、頼朝の政治性でもあろうが、しかし、法皇 が、このさい是が非でも、頼朝を呼びつけようとなさるのも、 政治目的のほかではない。 ちまたではもう、この三月中には、鎌倉殿が、院へ御あいさ つのため、上洛するだろうと、もつばら、風評がたっている。 かばかじゃのりより ところが、三月にはいるとまもなく、逆に、蒲ノ冠者範頼が、 寿永も三年となるが、人の眼に、桜の花が心からながめられ院庭に、伺候して、 たのは、今年、なん年ぶりのことだろうか 『鎌倉よりの召状により、ひとまず、帰府仕りますれば』 きがせん それだけでも、人心がやっと連年の飢餓線から脱して来たこ と、お暇ごいをして立った。 とがわかるし、二次の合戦があるまでも、こんどは、遠い西海 つづいてまた、数日の後、鎌倉から、院ノ庁へたいして よみがえ 、けレ」れ・ しげひらきようみがら くだ のことだろうと、芽吹き柳の生気とひとしく、人も春に甦っ 「ーー生捕の三位中将重衡卿が身柄は、当国へお下し給わって、 おおやけ て来たことが、路傍に遊び跳ねている子どもらの皮膚の色にも処分の儀も、頼朝へおまかせねがいたい」という公な要請が あらわれている。 あった。 院でも、ここ、さっそくのように、御普請に取りかかってい もとより、重衡の中将の処置は、鎌倉からやがて、こう求め て来るだろうとは、予期されていたことである。けれど、要請 ほうじゅうじでん さきの法住寺殿は、木曾の焼き打ちにあ、 し、いまの仮御所の裏には、このことで、頼朝が感情を害しているらしい様子 は、ほとんど、院ノ庁としての威厳にも欠けるし、お住居とし が、すぐ院に反映していた。 ても、手狭に過ぎる。 なぜならば - 一ん′一うしよういん の新御所は、白川の金剛勝院へ、御造営を加え、そこへお移り さきに、法皇が、屋島の平家へ与えた宣旨のうちに「神器を 倉と同時に、年号の改元とか、後鳥羽帝の即位とか、とにかく、 還すなら、重衡の身を返してやろう」ということを仰っしやっ 鎌三種の神器は無くとも、着々、皇統と朝政の事実をすすめてしている。 まおうというお急ぎようが、法皇のおさしずに見られるのだっ これは、鎌倉へは、なんの相談もない法皇のおひとり決め ) 0 じゅえい てぜま 鎌倉の眼 ひふ かえ イ 81
驚かすばかりだが、住む人びとの肚ぐろさには底の知れないも 今は覚悟をきめなければならない。 巻のがある。残忍なこと、欲の深いこと、悪知恵に富むこと、木そのことについて、巴は、惑っているのではなかった。むし おおかみ ち曾の狼の比ではない。 ろ、良人の義仲の方が、こうなってからは、何か頼りの無い良 都『秋の夜、冬の夜の炉をかこみ、あの、ふるさとの人たちの中人に見えてならなかった。 ひつばく 院中の様子も、鎌倉方との逼迫も、ほとんど、巴には何も語 で、わが子の義高をそばにおいていたころの身はー・ー』 やまぶきかいな と、その幸福さを、あらためて、かの女は振り返るのであっ らないし、帰館すれば、酒に浸って、大酔の果て、山吹の腕に たが、ふとまた、鎌倉の質子となっている子の義高のうえへ想正体もなく寝てしまう良人であった。 いを馳せると、 思い余って、巴は、それらの憂いを、けさ、一室のうちで、 義仲に話しかけた。 『義高は、どうしていやるか。義高も、さぞ、この母に会いオ がっておいやろうに』 義仲は、けさも院参の装いをしていたが、出はなをかの女の もだ と、母情の悶えも加わって、悩みはなお、深まるのだった。 あらたまったことばに挫かれて、そのまゆを、びりとさせる もし鎌倉の頼朝と戦う日になれば、当然、こなたから渡と、 してある質子の一命は断たれるであろう。 『なに、覚悟をしておきたいと、覚悟なら、いつでもしておく 良人の義仲は、今や、血まなこの人である。それをも忍ぶ気がいい』 ともえ でいるのかもしれない。けれど巴には、考えるさえ耐え難いこ と、かんで吐き出すようにいい、 とだった。母として、今の危機を、どう、よそに見てはいられ『院、鎌倉、叔父行家など、三方からこの義仲を、苦境に立た よう。日毎に研がれつつある鎌倉方と木曾方との険悪な情勢せんとしている今のいきさつなど、どう、そなたに、柤談って いのち は、いわばその一刻一刻が、わが子の義高の生命をちぢめていみたところで、女の思慮には及びもせぬことなのだ。いってむ るものではあるまいか。 だ、聞いてもむだ。そんなひまなど、おれにはない』 ゅうべも、それを考えて、かの女は眠りもしなかった。 まったく、そのことに、つきつめている義仲の語気であっ 急に、備中の陣から帰洛して以来、良人の義仲は、おととい いんざん も、きのうも、院参して、何か、事態はいよいよむずかしくな あらあらと、室の簾を排して出て行きかけたが、そこからま って来たらしい。世間でも、六条の武者ばらの間でも、 た内の巴を振り向いて、いい捨てにいって、出て行った。 ( 鎌倉殿の上洛は必定だ ) 『ややもすれば、義高義高と申すが、おれにとっても、義高は とさたされていたし、昨今の声は、それに輪をかけて、 わが子だ。なんで、可愛くないこかあるものか。 」し、フ かば かじゃのりより ( いやいや、すでにもう、鎌倉殿の弟、蒲ノ冠者範頼、源九郎て、頼朝には負けられぬ。負けたがさいご、義仲の首も獄門、 義経などの軍勢が、続々、海道を上って来るということだぞ ) 義高も生かしておかれぬに極まっておる。いや巴、そういうそ とまで、あらしのよ、フこ、、、 冫ししさわがれているのである。 なたの一命もないのだぞ。義高にかこつけて、悋気を申すなら れん めんき
むねあ 『あるとも。一ノ谷とても、おなじこと。もし蒲殿の御軍勢えて、鎌倉殿にも、かって、鶴ケ岡の棟上げ式に、わざと、群 」いくとう・よう が、じっと、大手の生田を抑えていなかったら、九郎の殿も、 臣の中で、九郎の殿へ、大工棟梁の馬をひけと、命じられたこ ねずみ ふくろの鼠、平家方のよい獲物と食われてしまったに違いはな となどあるが、さて、鎌倉の府を離れると、やはり持ち前が出 しわさ』 るものとみゆる : まして、都へ出ては、なおさらに』 しかにーも。 ・ : あの小勢ではの』 『いや、そういうことも、よく伺っておくと、何かのばあいに 『すべて、この梶原父子を始め、蒲殿の大手軍は、平家の主力は』 を生田に引きよせ、九郎の殿が、首尾よく功を奏すのを、助け 『さよう、院中の方がたも、その辺、心得おかるるがよいかと ていたのじゃ。 : それになんぞや、九郎の殿の手勢どもは、 申さば、当り役でも 思う。ーーー宇治川といい、鵯越えといい あちこち、人目立っ功名手柄に、馳け散らして、拾い首を争うけた九郎の殿を、余りには、買い被らぬがよかろうでの』 い、かんじんな、院のおいいつけの物は、取り逃がしておるで 『ははは、なるほど、当り役と申すもので』 かばどの 『元来が、蒲殿は、無ロ温順。で、いつも縁の下のカ持ちょ。 物、るがく 『はて、逃がした物とは』 それに反して、九郎の殿は、猿楽で申すならば、主役を好 『つい、輪田の鼻の先に浮かんでいた敵の船へ、なぜ、わき眼む。そして、熱いといえば、冷たいといい、人が西をさせば、 ひとまね もふらず馳けなかったか。みすみす眼のまえの三種の神器を逸東をさすーーといった御気性よ。よくいえば、人真似ぎらいと かし・一ど・一ろ したのか。その賢所のお座船をば、なにゆえ、まっ先に捕えいった質だ。ところが、それがときどき、当りを取るのでな、 、わは・ははは +6 なかったかと申すのじゃ』 『なるほど』 いいたいだけをいったせいだろう。だいぶ凝が解けた景時の 『わしにいわせれば、大失態だ。九郎の殿の大抜かりそ。 容子である。そこで、ここらが雑談の切れ目とみたのだろう。 凱旋後は、つつしんで、身の落度を、院に伏奏し、みずから門式部少輔は、ちょっと、態度をかえて、きようの用件をもちだ を閉じておらるべきに、聞けば、公卿座のお招きに出て、武功した。 ばなしをしたり、諸家の門と往来したり、近ごろ、大得意でお『ときに、院でもしきりにお待ちかねですが、例の、鎌倉から らるるそ、つな』 のお内ざたは、まだ御当家にもなんら聞こえておりますまい 『 : : : でもありますまいが、何せい、九郎の殿が、町を行け 言ば、町の童までが、鵯越えのおん大将ぞ、あれが、源九郎の君『おう。御上洛の儀か』 くだしぶみ 『されば。 : : : 院ノ庁からは、二度も、おん促しの下文が参っ 放そと、申しはやしますゆえ、御自身では、ひそかに恥じておら 三れても、そこは』 ているはずですが』 『その由は聞いたが、しかしおそらく、鎌倉殿がこのさい御上 平『いやいや。自体、人中へ出ると、おれは鎌倉殿の弟御そとい うところを、何かにつけ、ひけらしたいお人なのだ。そこを憂洛あることは、まずあるまい なんとなれば、鎌倉殿より かばどの たち うなが - 一り イ 75
急転直下である。両軍の和議は、それから数回の交渉でまとっかわすのじゃ。おことも、はや、男立ちした一個の男、世間 も知れや。ゅめ、鎌倉殿の意にさからうな。心なき振る舞いな しかし木曾軍の将士は、それを屈辱的な和睦とよんで、ひど どせば、斬られもせん。つねに、人中の身を、心得ておくこと はれ ぞよ く激昻し、不穏な動揺さえしめした。 : やがて父も母も、晴の都入りして、天下に臨む日と そうりよ 『やはり僧侶は僧侶。ひッ腰がない』 もならば、また、相見る日もあろう。身を大事によき日を待 当然な非難は、大夫坊覚明の一身に集まった。覚明は耳のなて。わけて、鎌倉殿のみだい所には、よう仕えて愛しまれねば うつ いような顔している。だが樋口次郎兼光のまゆは鬱として重ならぬそよ』 義高は、泣きなき、うなすいた ゆきちか 講和の条件としては義仲の嫡子ーーーことしまだ十一歳になっ 海野一族の幸親の子、太郎幸氏は、おない年でもあり、義高 しみずかじゃよしたか たばかりのーー・清水冠者義高を、鎌倉方へ、質子として、渡すの遊び友だちでもあるので、その幸氏を付けて、やがて木曾陣 ことになったのである。 から、頼朝の手へ、送られたのであった。 もっとも、質子とは、表面にいわない。「頼朝の子として養千曲川のなぎさにたたずみ、巴と義中よ、、 イ。しつまでも、遠く し、つに亠めつ」。 、長く、両家がよしみの結びとせん」と、 なる一群の列を、見送っていた ふるみ、と 木曾の故郷へ、迎えが立ち、十日ほど後には、何も知らない 『 : : : 巴、よせ、見ぐるしい』 ねざめろうくらんど 小冠者義高が、寝醒の老蔵人に付き添われて、善光寺の坊中へ 巴は、下に泣きくずれていた。 着いた 初めて、かの女は母のもだえを、身のうちに持ち、義仲も、 『一夜は、義高を、抱いて寝てやれ』 その若い肉体に、ひしと、泣けない父のつらさを知った。 と、峩中・は巴に、つこ。 戦陣から戦陣への月日は早い。思えばこの父も母も、わが子 の育ちを、二年余りも見ていなかった。それが、見ちがえるば かりなよい小冠者となっている。巴は、名残りの二夜を、添い 御車返し 寝した。 いよいよ、鎌倉方の手へ、愛児を渡さなければならない日、 し 別れの杯を酌み交わして、父と母とは、こもごもに : っしし 返聞かせた。 都から見るに、このところ、源氏方の攻勢は、妙に低迷をつ 車『 : : : のう、冠者よ。冠者が、泣き顔などして参ったら、鎌倉づけている。積極的なうごきがない 御武者に、この父母まで、笑われようそ。ーー・鎌倉殿は、わが家東国の頼朝もそうだし、北陸の義仲もそうである。とにかお の縁者、冠者を子としたいと申すゆえ、やむなく、おことを、 平家にとっては、ここ小康状態の幾月かであった。 げつ・一う わぼく うんの み くるま
『九郎』 送というのが、名目であった。 さいいんのじかんちかよし 従者五百騎、荷駄数百頭、斎院次官親能と同行で、不破を越 の 殿『鶴ケ岡若宮の棟上の式。もうだいぶ以前になるが、覚えておえ、近江に入り、都へはいろうとしたが、当時、義仲と院と は、紛糾の最中である。 入洛のほどは、むずかしいとな 木るか』 乃『覚えております。養和元年の夏七月』 り、税の官物だけを、洛内へ輸送させ、義経は、しばらく江州 京 ほうぜん 『うむ、御家人どもが、みな宝前で神馬をひいた。和殿も、わ佐佐木ノ庄に潜んでいた。また、湖上を渡って、堅田党の堅田 たくみ しがエ匠へ与えた馬を、神前でひいた。あの日のことさえ忘れにいたこともある。 ねばよい』 いや、時には伊勢、時には伊賀、いる所をさだめず、そして 『ゅめ、忘れはいたしません。たとえ、遠くお側を離れましょ 今にも、鎌倉殿の大軍数万が、海道を上洛すべしと、諸道に触 、つとも』 れ、洛中にある義仲に、圧力と不安と、総じて、心理的な風声 義経は、誓って、立った。 を、たえまなく送りこんだ。 しようそう て ほうじゅうじでん それはかれの真情であったから、何気なく答えて鎌倉を出た 木曾の法住寺殿焼き打ちの暴は、木曾がその策に乗った焦躁 か らんばつばっ のだが、みちみち、頼朝の言を噛みしめてみると、容易ならな といえないこともない。十一月十九日、乱の勃発を、義経は、 い意味がある。 伊勢で聞いた。 じようとうしき げろうきんとも かっての年、鶴ケ岡の晴れの上棟式で、頼朝が、わざと弟の院の北面の下﨟公朝が、同地へせつけて、 おおやけ 九郎に、大工の駒をひかせたのは「わが弟といえ、公には、 『義仲の逆乱は、もう天下の知るところ。一刻もはやく、軍を そちも御家人のひとりだそ」と、衆臣にも意識させ、義経の心お進めあって、院の御心を安んじ給われ』 へも、しかと、心得させておくためのものだった。 ー - ー当時、 と、委細を訴えたからである。 人びともみな密かにそういったものだし、義経の直臣たちも、 たが、義経は、 「心外な」と口惜しがったことであった。 「何事によれ、鎌倉殿のおさしすなくば、一兵たりと動かせ かどで 首途にさいし、頼朝はそれをお復習したのであろう。もとよぬ。疾う鎌倉へ、告げられよ』 としし り、義経に思い上がる気など毛ほどもない。ただ特に念を押さ 、自身もすぐ熱田へ急ぎ、熱田で頼朝の命を待った。 れたことのさびしさが、いささか、胸をかすめたが、それと 頼朝には、絶好な機会である。しかしかれの前進は、なお極 て、行くての希望にくらべれば、路傍の石に、駒のひづめがつめて徐々であった。 さわ ますいたほどな障りでもない。 義経の任は、以後、もつばら義仲を洛中に封じ込めておくこ とにあった。「木曾を都攻めに」というのが、かれにかたくい いふくめられていた原則であった。 なぜならば、鎌倉の府も、そう大軍は送りえない。足もとの そもそも、かれの上方行きは、表面、東国八カ国の貢税の監 むねあげ 、ら、 みつもの と
『なんの、ただ秀衡殿の、おん情。当るもあたらぬもない』 は、まず第一に、あまたの大船を持たねばならぬ。ところが、 『それや、どうかな。この景時には、のみ込めぬ。が、まあそ東国勢には、船がない。鎌倉の府は、海に近いが、もともと、 にわかまちゃ のような過去はいま問うまいここで糺さにゃならぬ儀は、おつい近年、にぎわい出したばかりの俄町屋。巨大な兵船を造る わざ ふなだくみ ぬし、平家に加担か、どうかだが』 技術も持たぬし、船工匠とて、そう急に集められるものではな 『吉次は、奥州平泉の人間だ。平家の浮沈など、あずかり知ら い。それも十か二十の数なら知らず、何百艘を海上にそろえる ぬ』 『ではなんで、屋島へ通い、朱鼻の伴トなどと、密かな会合 『ふうむ。そう観たか』 を』 『観ました。鎌倉殿の軍奉行なら、さぞ、その御調達に、い あきゅうど 『商人だ。おれは商人。商売とならば、屋島へもゆく、鎌倉へから頭を悩ませて御座るであろうと』 かどわか も日参しない限りはない』 『なるほど。稚子牛若を誘拐して、後日にものをいわせようと 『ふうむ。いや、おもしろ、 ししし様だわいいかさま、武門は したほどな男、よく観ておる。だが、九郎の殿とは、鞍馬以来 じっこん 武門、商人は商人だ。では、この梶原が申しつけても、商売との昵懇であろうに、あちらを背にして、当家への出入りは、ど なれば、勤めるか』 んなものか』 『いうまでもないこと』と、吉次は片ほおで、にゆうと笑って 『なにはばかりがありましよう。じつを申せば、この春先、入 さん ー『しこたま、もうけさせていただくならば、梶原どのもわ洛の御祝に、堀川の屋敷へも、顔出しに参じましたなれど、も じようとくい かかりゅうど が上花客。頭も下げようし、犬馬の労も惜しみますまい。なおってのほかな不愛想で、牛若の以前はおろか、平泉の懸人 、御当家の蔵をも富ませてお目にかけ ったことも、はや忘れ顔に』 よ、つ』 『はははは。きらわれたか』 『以後、足ぶみはせじと思うて引き退がり、そのままぶさた 『よし、よし。追ッつけ、一肌ぬいでもらいたいこともある。 いちど鎌倉のわが屋敷へ来てもらいたいものだが』 『御帰国は、まもなくで』 『むむ、およそ察しはつく。稚子のころなら知らず、今の九郎 おんぞうし 『鎌倉殿のお召しで、近く蒲殿も下向されるし、続いて、わし御曹司ときては、おぬしらの手におえるお人ではない。つい先 てんまっ まろうど も帰国のはずだ。御前において、戦さの頑末も申しあげ、ま刻も、客人と笑ったことだが、人が西といえば東、熱いといえ 言 た、この後の御方策など伺うことになるであろう。その結果、ば冷たいという。とかく逆手逆手を好まれて、世上をあっとい 放おぬしの力によって、調達を頼まにゃならぬこともある』 わせたい気持がつねにうごいてやまぬ見栄づよいお性だ。寄る みなしご 三『ははあ、読めた。そちらで欲しいと思う物は』 べない孤児のむかしを知る人間などに、なんで今、よろこんで 会うはずもない』 平『なに。分かっておると』 『船でおざろうが 。しかも兵船。ーーー屋島を攻める次の戦に この辺から、ふたりの間は、急激に打ち解けて行った。 ひとはだ ま た み み、カ イ 77
拾い上げ、先に出て、掛樋の流れている手洗の間に立った。 巻『もし。お嗽いをなさいませ。わらわが、その乱れたお髪も、 ~ 旦してさしあげましよ、つ』 ら ひろゆか 『すぐ評議しよう、兼平。皆に、広床へ集まれと申せ』 ひだ ここへたど 7 同日、また、木曾谷からの使が、飛騨づたいに、 りつき、越後国府からも、翌日以後、つぎつぎの早馬だった。 軍議は、ただちに、出勢ときまる。 がしかし、困難な事情は多かった。 に、北陸はまだまだ、固まっていない。平家勢力との争 信濃飛脚の内容は、義仲以下の帷幕を、驚かせた。 たこのじろういえかね 依田の留守衆、多胡次郎家包からの急報である。 奪に委せられている。もし、越中伏木、その他の要害から、木 それによると、 曾軍が足を抜いたら、どうなるか。結果は、分かりすぎてい 鎌倉の頼朝は、にわかに、木曾の非を鳴らして、関東の将士 を動員し、続々、北上させている。 『なんの。案じては、きりもない』 しかも、よはどな決意とみえ、このたびは鎌倉殿自身、陣頭義仲は、大ざっぱである。 たてのちかただ に立っている。そして総勢一万余騎は、信濃平原に出て、長期『まず、樋口兼光はまいれ。根井小弥太、楯親忠、今井兼平 の陣を布こうとする態勢らしい も、供せよ。ーーー侍大将には、高梨次郎、海野弥平四郎、落合 以上は、武蔵、下野などにある所在の〃探りの者″の早耳な五郎兼行、小諸太郎忠兼、申しつけるーー・そのほか』 めんめん れど、万々相違ないことであり、おりわるく、わが君には、遠座中の面々を、眸にかぞえ、 : ここを立つは、八千騎でよい。越後 国に御在陣でもあれば、とりあえす、第一報を早打申しあげて『あとは、留守せよ。 おく。急遽、御対策を立て給わんことを。 というのであつ国府で、なお、敵勢と見合わせたうえ、兵力を加えよう』 、うまでもな そのほか、指名はないが、巴と葵の従軍は、し 『しゃツ、猪ロ才な。鎌倉のツグック法師めが』 状を、一読するなり、義仲は、こみあげる感情に、顔をまっ すると、新宮十郎行家が、不平を訴えた。 『殿。それがしは ? 』 かに染めた。 『おう、叔父御か。留守をたのむ』 従足弟の頼朝のことを、かれは以前から、経読み蝉だの、ツ 『いや、それはいかぬ』 クック法師だのといって、嘲っていた。 池ノ禅尼の情で助けられ、二十年も、配所でお経ばかり読ん『なぜの』 でいた男ーー・。そんな消息をまま耳にしていたからである。 『鎌倉殿の肚ぐろさ。行家とて、黙っておれぬ。鎌倉殿自身、 『 : : : おもしろい』 かねがね、いっかはと、木曾殿のすきをうかがっておりなが しばらくしてから、またつぶやいた。かれはいつもの自分をら、こたびの木曾攻めの理由には、その第一に、木曾冠者 は、源氏の裏切り者と称え、第二には、わしの名を挙げてお やっと見つけたようだった。 ちょこざい かけひ あざけ きよめ ぜみ ねのいのこやた
『だが、首もさまざま、おなじ鎌倉衆でも、おれの首は値が違る 巻 う。なんとなればだ。ゃい、そこらのやつらも、耳の穴をかッ 急に、それを書き出したのは、意外な伝手を得たからだっ の ち掘じって聞けよ』 た。ーーー葵の部屋にいたところを、侍女たちの声に呼ばれて、 都東国者ではないと初めにはいい張っていた男だが、今は東国何事かと自分の室へ帰ってみると、楯親忠の部下が庭先に平伏 弁まる出しである。すわり直して、あたりを睨めまわした。 していて「ーーー一応、お耳に入れねば」と、大竹藪の首斬り場 『いまは実をいおう。おれは鎌倉殿の侍所、和田義盛殿の下から、急に訴えに来ていたのだった。 ちしどの で、西浦七郎というが、日ごろは、ここの質子殿の守りに立っ 『えつ、義高の身近に仕える男とかや ? 』 番士のひとりだそ』 わが子の名が、その男の口からいわれたということだけで 『ここの質子殿とはなんだ』 も、かの女には、路傍の者とはおもえなかった。 『知らぬのか。あきれた無知なやつらだ。ここのとは、木曾殿『斬ってはならぬーー』 御夫婦のことよ。質子殿とは、さきに木曾殿から鎌倉にあずけ と、ためらいなくいい渡し、そのうえ、 られた人質の一子義高殿をいうのだわ。うぬが主君の御嫡子が『繩めを解いて、ここへ連れて来て給も。義高の起き臥しの様 のんき 身上もわきまえぬとは、いやはや、暢気な家来もあったもの子も知りたい。義高への便りもその者に頼みたい。ゅめ、あら - 一とづ うけたまわ だ。それでは、質子殿の大事なお言伝てを承って来たこのおあらしゅう扱うなや。ともあれ、早うここへ連れて来やれ』 と、 しいつけた。 れを、おん母の巴殿へも黙って、打ち首にもしかねまい。 ここでニッと見せた微笑は、木曾武者の間に、かれがねらっ 一存では計りかね申すといって、武者らは、楯親忠へ告げに ひる 心理的効果をもったことは間違いない 行ったらしい。午を過ぎてから、親忠自身が、その男を連れて かれらの顔と顔は、急に何やらささやき始め、そして中の来た 三、四名が大竹藪の小道を斜めに、あわてて馳けて行った。 待ちかねていた巴は、 たけむら 晩秋の明るい空と、六条館の大屋根の線とが、細かな竹叢『そなたは、和田殿の手の者、西浦七郎といやるか。義高の母 は、わらわぞ。 の葉の積みかさねられた道のかなたに見えていた。 : して、義高は、その後も、つつがなく暮ら していましようか。鎌倉殿の御夫婦には、お気に入られている か、それとも、疎まれておりはせぬか。また幼少から、あのお 熟れ柿は、まだいくつかこすえに残っている。そのまっ赤な子には、胸痛みを急に起こす持病があったが、鎌倉へ行った後 実に、ひる下がりの陽が照り返っていた。 は、お体など、・ とんな様子であろ。ーー、・背は伸びられたか。 しとみ 」机にむかい、蔀ごしに、見るともない眸を、柿の色 常のお食事はどのような ? 』 へやって、筆の手をほおのあたりへ休めていた。 などと、たてつづけに、それからそれへ訊くことは、すべ よしたか さっきから、こまごまと、義高への便りを書いていたのであて、わが子の消急についてのことばかりだった。 、つがキ一