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検索対象: 新・平家物語(四)
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1. 新・平家物語(四)

何事によれ、知泰がさしずによってうごけや人びと』 院方は、接戦をさけて、遠矢を用い、つぎつぎに木曾の勇者 ふれ 巻しかし、そう布令ている間にも、七条ロや東殿の門を、あふを、的にとらえた。また、院の御所は近いので、加勢はつぎつ 殿れ出て行く兵や騎馬の影は、全然、知泰などは無視していた。 ぎに増してきた。 木何しろ広さも一と目にできないほどひろい。五つの法住寺建今井勢は袋だたきの目にあった。 だが、急はすぐ六条陣屋へったえられ、「それ行け」「今 京築群からなる院の御所である。地域は十町四方もあり、隣接の 蓮華王院、最勝光院などをふくむと、加茂河原から、阿弥陀ケ井殿を討たすな」と、居合わせた木曾兵のあらましが援軍にし よえん 峰の南の山や渓流や池までが、すべて御苑といってよい そいで来た。そしてたちまち、院方の兵を追いしりぞけたう するとその山腹の方で、新たな鬨の声が起こった。 え、騎虎の勢いで、院の御所の一角へまで肉迫してゆき、そこ どとう おなじ武者声でも、京兵のそれには京兵らしい呼吸があるの高い大築土へむかって、怒濤のような喊声をくり返してい もう - 一う み、んき が、木曾兵の猛吼には、なんともいえない山気があった。 『あれよ、はや木曾勢が山へまわっているそ。山のすそを断ち すると、後から来た援軍のうちで、 あしきたろう ものいのごろう 防いで、敵を御築土に寄せつけるな」 『葦敷太郎を見つけたそ。葦敷太郎を、物井五郎が生け捕った 知泰は、指揮に声をからしながら、馳けずりまわった。 と、呼ばわるのが聞こえた。 木曾方の人びとは、自分たちを裏切った人間を眼に見ると、 寝返りの味方を追って、東の岸へ駆け上がった今井兼平と、 肓目的にその影を取り囲んで、撲る、蹴る、あらゆる辱ずかし わのいのこやた そうぐう 根井小弥太の部隊は、そこで院方の兵と遭遇して、川を後ろめを加えたあげく、 『院方へ寝返ったのは、そも、たれの手引きぞ。いかなる欲に 『退くな、退けば、追い陥されるぞ』 釣られたか』 と、突っ込むほかない壁へ突き当った。 と、責めののしった。 あしきたろう 寝返った葦敷太郎と高田重家の人数も、踵をかえして、きの すると葦敷太郎は、さも心外そうに、それへ答えた。 しゅ うまでの友軍を、無慈悲に包囲してかかった。そして、 『裏切り裏切りとののしるが、もともとこの葦敷が主と頼うだ 『小弥太、小弥太。あたら犬死になどせず、降伏いたせ。今井お人は、木曾冠者ではない。新宮十郎行家殿だ。その行家殿と 殿も、院へ降って、一命を助かられよ。以前のよしみ、おとり一つにならんと、川を越えて参ったるなれ。ただの裏切りと なしはして進ぜる』 は、わけが違う』 びつこどのな と、遠くでいうのは重家の声だった。 『しゃツ。吐かしたり。さては、あの跛行殿と狎れ合うてのこ 『けがらわしい。そこ動くな、重家』 とだったか』 兼平は、馬上姿を躍らせた。 根井小弥太は、大の行家ぎらいである。 ともやす しん とき きびす おおついじ 23 イ

2. 新・平家物語(四)

『ここ風邪ぎみにて、臥しおりますれば』 『もともと、御当主には、院と平家のもつれにも、木曾が上洛 巻と取次にいわせ、どうこわれても、会わなかった。 にも、お関り合いを避けて、久しく御出仕もないことですが、 ごそうめ、 ち法印に会うのが、なんとなく、こわかったのだ。 、かかる危急の日まで、その御聰明を冷たく守っておら せつけ 都あの僧の、理解のある慰めとあたたか味で接しられると、いれるのは、どんなものでしよう。摂家のおひとりであり、国家 卩まの義仲には、かえって畏怖に似た心理とニガ手を覚えるらしの重臣としても』 み ひそかには、自分でも醜いと知っている顔面へ、しいて、 『いや法印。こうしてはいるが、儂は決して、風月に逃避れて 鏡を押しつけられるような気がするのだった。 いるわけではない。ただ、ひとのように、権栄と保身に、恥も 『はて、なんとしよう』 なく右往左往のできぬ性分ゆえ、門をとじているだけのもの 断られた六条の陣門にたたずんで、静賢は、何か身の毛がよ したた だつようなものに吹かれた。 兼実は、しきりに、、、わけした。かねて認めておいたらし 『院は院で、あのような御準備だし、ここには、 かくの如き殺い上奏の一文をも取り出して、静賢に示した。 気。 : : : 火を発するばかりだが』 『じつは、使をもって、聖慮を仰ぐっもりでいたが、事態、そ ぜひなく、ちまたへ歩き出したが、ちまたの声も、血走ってのような切迫とあっては、心もとない。すぐ出仕して、じきじ ごかんそう また いた。ある者は「木曾殿が院を攻める支度ぞ」と、 き、御諫奏申しあげよう』 ちゅうばっ ある者は「院が木曾を誅伐なさるのだ、院の木曾征伐そ」と叫ふたりは、連れ立って、院の御所へ、車をいそがせた。 ゆきげみち びまわってはばからない。 あいにくの雪解道である。牛の歩みも、車の輪も、泥の海を 女子どもは、とうに山野へ疎開している。それなのに、な泳ぐようであった。法住寺殿へ行きついたころ、もう黄昏の灯 おわしわしいいながら、さんばら髪と素足で、今ごろ町に残が見られた。 かせ っているのは、戦さ稼ぎの火の手を待っ餓鬼の浮浪にかぎって 常日ごろ、兼実の門へは、客と称するいろいろな人物が来 よヾ、 て、木曾、西海、東国の動静から、院中の機密なども、 十′ー刀 「ー - ーああ、餓鬼がよろこび始めている。餓鬼の乱舞は、なんらに聞いてはいたが、い ま、院中の実際を眼に見て、 としても、防がにゃならぬが』 『かくまでとは思わなかったが、浅ましい有様よ : : : 』 どうしても、義仲が会わないので、一時は、手の施しようも と、まゆをひそめたことだった。 ししがき たて ない絶望感にくるまれたが、ふと、かれの胸にうかんだのは、 諸所に鹿垣を結い、壕を掘り、外廊には、楯をならべ、まる つきのわおとど じようみ、い わらんじ 月輪の右大臣、九条兼実 ( 玉葉の筆者 ) であった。 で城寨の備えである。きれいな敷き砂の道にさえ、武者草鞋が つきのわどの 『そうだ、この危さを、救うお方は、月輪殿のほかこよよ、 。オし』捨ててあるし、付近の木立には野営の煙りが立ちこめているな かれは、その足で、兼実を訪ねた。そして院中の秘しごとかど、おおいようもない兵馬のにおいが、むうっとする。 はいえっ ら、眼に見た六条のけわしさを、切々と訴えた。 兼実は、祗候の間にすわって、拝謁を待ったが、夜にはいっ がき カく かか たそがれ 224

3. 新・平家物語(四)

そして一方、 『いちど、頼朝を上洛させよ』 くだしぶみ という御意向もあり、院ノ庁からは、関東への下文も再三だ まか ったが、頼朝の答えはいつもあいまいだった。「罷る」とも明 じようらく 言せず、「上洛せず」ともいわないのである。 つまりそれが、頼朝の政治性でもあろうが、しかし、法皇 が、このさい是が非でも、頼朝を呼びつけようとなさるのも、 政治目的のほかではない。 ちまたではもう、この三月中には、鎌倉殿が、院へ御あいさ つのため、上洛するだろうと、もつばら、風評がたっている。 かばかじゃのりより ところが、三月にはいるとまもなく、逆に、蒲ノ冠者範頼が、 寿永も三年となるが、人の眼に、桜の花が心からながめられ院庭に、伺候して、 たのは、今年、なん年ぶりのことだろうか 『鎌倉よりの召状により、ひとまず、帰府仕りますれば』 きがせん それだけでも、人心がやっと連年の飢餓線から脱して来たこ と、お暇ごいをして立った。 とがわかるし、二次の合戦があるまでも、こんどは、遠い西海 つづいてまた、数日の後、鎌倉から、院ノ庁へたいして よみがえ 、けレ」れ・ しげひらきようみがら くだ のことだろうと、芽吹き柳の生気とひとしく、人も春に甦っ 「ーー生捕の三位中将重衡卿が身柄は、当国へお下し給わって、 おおやけ て来たことが、路傍に遊び跳ねている子どもらの皮膚の色にも処分の儀も、頼朝へおまかせねがいたい」という公な要請が あらわれている。 あった。 院でも、ここ、さっそくのように、御普請に取りかかってい もとより、重衡の中将の処置は、鎌倉からやがて、こう求め て来るだろうとは、予期されていたことである。けれど、要請 ほうじゅうじでん さきの法住寺殿は、木曾の焼き打ちにあ、 し、いまの仮御所の裏には、このことで、頼朝が感情を害しているらしい様子 は、ほとんど、院ノ庁としての威厳にも欠けるし、お住居とし が、すぐ院に反映していた。 ても、手狭に過ぎる。 なぜならば - 一ん′一うしよういん の新御所は、白川の金剛勝院へ、御造営を加え、そこへお移り さきに、法皇が、屋島の平家へ与えた宣旨のうちに「神器を 倉と同時に、年号の改元とか、後鳥羽帝の即位とか、とにかく、 還すなら、重衡の身を返してやろう」ということを仰っしやっ 鎌三種の神器は無くとも、着々、皇統と朝政の事実をすすめてしている。 まおうというお急ぎようが、法皇のおさしずに見られるのだっ これは、鎌倉へは、なんの相談もない法皇のおひとり決め ) 0 じゅえい てぜま 鎌倉の眼 ひふ かえ イ 81

4. 新・平家物語(四)

ただし、義仲が、都を立ったのは、事実であった。 九月二十日。天晴ル、コノ日、立皇ノ事アリ。中 巻法皇後白河と、ごく側近の数名だけが、心得ていたことなの 略。 ちである。 ひらくげ 夜ニ入ッテ、人伝テニ云フ。義仲、今日俄カニ逐電シ、 都法皇を中心とする極くお身近な院中の秘事は、院中の平公卿 行方ヲ知ラズ。郎従大イニ騒ギ、院中、マタ物騒ガシト。 卩にさえ分からなかったものらしい 二十一日。伝へ聞グ、義仲一昨日 ( 十九日 ) 院参シ 察するに、義仲が、先ごろ猫間の中納言のことばの端から、 テ、御前ニ召サル。 行家にある内命が下ったのを知って、にわかにあの日院参した 勅シテ云フ。天下静カナラズ、平氏放逸ニシテ、事々ニ マカ うえ、院へ向かって、 不便ト。義仲申シテ云フ。罷リ向フ可グン・ハ、明日未明ニ ( 叔父行家への、じきじきの御下命は、何とぞ、御撤去ねがい 向フペシト。 スナハチ、院、手ヅカラ御剣ヲ取リテ、義仲 ニ蚣フ。 ンカ と、その解任を、要請しに行ったものであろう。 義仲退出シ、昨日 ( 二十日 ) 俄カニ下向セルモノナリト云 ( 木曾全軍の紊れになる ) という理由も挙げたろうし、また、 二十三日。家能卿来リ、雑事ヲ談ズ。先ニ、行家ヲ ( 元来、行家は戦さ下手、一度たりとも、きようまで、戦さに ため 追討使ニ遣ハス・ヘキノ由、院ョリ再三義仲ニ仰セラルル 勝った例しがない ) モ、義仲、左右ヲ申サズ、自身俄カニ逃ゲ下ルガ如ク行 ということなども数えて、 せん せん ク。行家ヲ取籠メオカンガ為ナ リト、云々 ( すでに、平家追討使の宣は、義仲に賜わっておるところ。宣 を奉じて、義仲こそ、下向申すが当然 ) あきらかに、義仲は都を出ている。 と、強く主張したことでもあろう。 しかも、急いだとはいえ、ずいぶん乱暴な、無秩序極まる出 院にとっては、思うッポにはまったのである。が、さあらぬ陣振りというほかはない。 態で、義仲の請いを容れることにし、行家の方は、さたやみと おそらくは、大夫坊覚明とか樋口、今井などの腹心に、 して、 『あとは、よう留守しておれ』 ( さらば、おこと自身、急いで征け ) と、頼み、 と、追討の下向を、うながされたものに違いない 『おれに続く人数は、あとを追って、続いて来い。残る人数 これらの機微な政略と、院の裏面にからむ義仲の進退とを知は、行家のうごきに、油断すな。もしまた、その間に、頼朝が よくよう るには、やはりここでも九条兼実の「玉葉」をさぐって見るし上洛して来るようだったら、このままの陣容では当り難い。い 、刀ナ . 」し やでも、分け目の大戦さはまぬかれまいそ。そのときは、その ごと その「玉葉」三日間の日記記事によると、 ときの分別としよう。ともあれ、ことある毎の早馬を怠るな』 みだ べた トリコ イへヨシキャク 182

5. 新・平家物語(四)

と、ある。 下せぬか。都の路次や、美濃、伊勢ばかりへ兵を送って、平家 巻平家は、西の山陽から。鎌倉勢は、東から。 それさえ刻 へ向かっての軍を進めぬそ、平家追討こそ、任ではないか』 とうの・ヘんかねみつ ごけんせきくだ ち刻、義仲の首の輪をしめつけてくる感じなのに、十一月には、 と、頭弁兼光をもって、きつい御譴責を降した。 ると、南都の僧兵がうごき出し、叡山の様子も、怪しげに見え義仲は、その場合でない旨を、抗弁して、 卩始めた。 『どうしても、即刻、平家追討を行えとの御命なれば、一族の しだのよしひろ まだ、鬨の声こそあげないが、みな、自分に叛く者であるこ 志田義広を、さし向けんと存じまする。ーー・鎌倉方のいぶかし とを、義仲は知っていた。なぜならば、南都へは、さきに、義き動きの止まぬかぎり、義仲は、都を離れるわけにはまいら 仲から同心せよという使者を出している。しかし反応は、逆たぬ。義広へ、追討の役、仰せ付けねがいまする』 った。あきらかに、敵意をしめし、院へ、歩み寄っていた と、強くいい張った。 がん 果して、それから間もなく、 頭弁兼光も、また頑として、 『奈良の僧正が、石川判官代義兼の兵とともに、院の御所へは 『さような、わたくしごとの願いは、お聞き届け相成るまし かずかず 何かと、和殿に対する世上の疑惑も数々のおりなれば、その明 と、物見の知らせがあり、また、 かし立てのためにも、平家追討に向かわれるがよい』 「叡山の座主明雲も、仁和寺の法親王も、何事にや、それそ と、かれの請いは、取り上げられるふうもない れ、常住の寺を去って、院中にたてこもったらしい様子』 町の様相は、すでに、あるものを感じとっている。この日あ という風聞である。 たり、つじつじは、事実上、戦さになったような騒ぎを描き出 でも、まだ義仲は、それが院の重大な御決意を示す要害の手していた。 それを見つつ六条へ帰ってゆく義仲のあたま 始めとも思わなかった。 でかれは、西へも東へも、また南も、もう、自身が合戦の中にあるのとおなじ錯覚に陥ちてい へも、手持の兵を続々派して、ただ遠くにのみ備えていた。 そして、院へ対しては、 『戦えば、おれは勝つ。きっと勝つのだ。信濃、北陸、斬り従 せいちょう こ、つま 『いたずらに、聖聴を驚かし奉るのではおざらぬ。しかし、世えて来たおれではないか。 何を院の公卿ばらに、 もてあそ 上の騒がしさ、なんとも奇怪に存じますゆえ、守護として、念で、男を下げたり、みじめに弄ばれて』 あわ のために』 ひどく、自分が、憐れに思えた。 と、各所に、兵を配置し始めた。もちろん、院の御所への通眠っていた本質のものが、ばっ然と、血に醒めた。九十日の しやだん 路も、十一月九日限り遮断した。 あいだ、檻の中を余儀なくされていた野性であろう。からから すると、それに酬いるかのように、法皇は、義仲を召されと、かれは笑いたくなった。院も公卿も、何ものそと、しした て、 げなまゆとなった。 『再々、申し渡してあるに、なぜ和殿は、言を左右にして、西『ゃいつ、車を止めろ。たれそ、馬を貸せ、馬を』 とき おり 274

6. 新・平家物語(四)

義仲は、ひとりで会った。 義仲は、開き直った。 なら もちろん、武家の慣いで、客殿の外には、伏せ武者が、内を『ーーー時により、武家が兵馬をうごかすのは、その家職だが、 要心していたにちがいない。 聞くところによれば、ここ数日の間に、院におかせられても、 まうじゅうじでん が、夜はおそいし、灯は少なく、それに相互が、きのうきょ 密かに、大和、河内、丹波あたりの武者を召して、法住寺殿の 廿 - いキ、 うの、研がれた感情の裡にある。ことばの前に、ます、凄気が内へ隠しおかるるそうな』 漂った。 『あ。何者がそのような虚説を』 『義仲に御用はないはず。さるを、かかる深夜に、お使とは ? 』 『いや、虚説ではない。たしかめてある。義仲は、都の守護 めしい 酔ってはいるが、切り口上に義仲の方からロを切った。い 職。肓目ではおざらぬよ。ー・ー・疑わしくば、いちいち名をあげ ひょうごのかみあきつな げんのくらんどなかかね や、酔をかくすために、かえって、ことばが、そうなるのかもてみようか。兵庫頭章綱、河内守仲信、源蔵人仲兼、七条信 きいののりみつ さまのかみすけとき 分からない 清、紀伊範光、左馬頭資時など、ひそかに、郎従をつれ、ゆゅ その儀ですが』 しげなる装いして、昨夜も一昨夜も、院に近い森や御所の内へ と、静賢は、僧侶だけに、ともあれ、義仲の気もちを先に柔かくれた。まだまだ、ほかにも、多くの武者を召されたにちが らげよ、つとした。 . し十 / し』 ごしんねん 今夕、木曾殿御退出の後、院こよ、、こ 。しオく御宸念をわず『 : らわし給うて、なお、あれからも、諸卿をとどめおかれ、さま『武門にもあらぬ院の御所へ、何事なあって、さように兵をお ざま、御談合の態でおざった。やはり院の頼みと思し召すは、集めあるか。ーーー察するに、不意を突いて、この義仲を討たん 木曾殿のほかには無いのでのう』 ずるお考えに相違あるまい。い や、そうだ。ーーー義仲もそれゆ 『法印』 え、不時の備えを、命じおいたまでのこと』 『ゃ。それは曲解です。邪推と申すもの』 『院のお使が、世辞追従をならべに来たわけではあるまい。余『何が、邪推』 事は無用、御諚のみを、仰せられい』 『なるほど、武者どもを召されたのは事実ですが、それは一昨 たず いまくまの さんろう 『では、訊ね申すが』 日、今熊野の参籠から御帰還のみぎり、路次の守りを仰せつけ 一じよう 代って、泰経が口をひらいた。 られた者どもで、いわば儀仗の兵馬にすぎぬ』 児『こよい、御辺が六条へ立ち帰ると間もなく、洛中に軍馬の動『なぜ、木曾の警固はお嫌いあるか』 じよれつ きが見ゆるとて、怪しからぬさたを、院へ告げ参る者もある 『供奉には、序列、故実もあれば』 れ せんぎ が、そも、何ゆえのお支度ですか。きっと、所存を確かめ参れ『ま、そんな詮議は、・ とうでもよい。院の御信頼は、義仲にな ら よめい 、鎌倉の頼朝にあることだけは、はや確かなのだ。迂愚な義 嬲との、御命でありまする』 『はははは、そのことか。ならば、お答えは後として』 仲にも、それだけは読めておる。これ以上、何をかいおう』 0 ′一じ上う そうりよ うち 209

7. 新・平家物語(四)

だされい』 め、公卿のたれひとり、おれの話には乗っても来ぬ』 巻 と、ロぐちで呼びとめた。 かれもかれなりの政策は抱いている。 こうさっ の すると ち大夫坊覚明に計って、守護の名のもとに、軍政の高札なども従者も、牛飼も、足をとめて、振りむきかけた。 そでごうし まえすだれ 義仲は、車の前簾をパラッと上げて、袖格子の外へ身を乗り出 都早くから諸所に立たせてはあるのだ。 し、その両足を、前板に踏ん張っていった。 しかし、院の態度は、 『ゃい、やい、牛飼、なんで牛を止める。手綱とムチを、おれ ( 木曾布令は木曾布令。院は院 ) に渡せ』 と、市中の市政には、関知しないような冷淡さを示してい と牛飼の棒切れを取り上げたが、手にしてみると、短すぎる おりには、出仕して、院議に問いたいとすることもあったので、舌打ちして、ほうり捨て、 が、義仲が姿を見せると、院の空気は、すぐ変ってしまう。敏『弓がよい。誰ぞある、持てる弓をおれによこせ』 た と、郎党の弓を引ッ奪くった。そして、カまかせに、牛の尻 感な無表情と冷たさを示し、たまたま、かれが上卿のたれかを つかまえて、何か立ち入った問題にふれようとしても、心を開をそれで打った。 えじ 門にいた北面の衛士たちは、一陣の黒いものが疾風のように いて、相手になってくれる者はない。衣冠の殻を一そう固くし なまへん て、何か煮えきらない、底に底のあるような、堂上言葉の生返通りすぎたので、仰天して見送ると、それは木曾殿の牛車と、 後からツンのめるように馳けて行く家来たちであった。 答しか聞かれなかった。 院の御門を、こんな無法者が通ったのは初めてである。未練 きようもである。 くらんど そうに、なお車を追いかけて来た蔵人たちも北面どもも、ただ いやいつも、かれが院参していい顔つきで退出した例はない あ かんしやく が、きようはまた、よほど何か癇癪にさわったことがあったと呆ッ気にとられた顔をしていた おおまた つ、だっ、と大股に床を踏み みえ、院の奥の廊から、だっ、 鳴らして来て、表の牛車に乗るやいな、 『早くやれい、早く。問うまでもない。六条へ立ち帰るのだ』 何を怒ったのか、義仲は、自分で、牛車の牛を御して、帰る ゃいな、 供の武者や牛飼にまで、ひどい当りようである。 ゅなり 何かは知らず、従者たちは、牛の鼻づらを引ン曲げて、大あ『まちごうたら、都のうちで、弓鳴に物をいわせにゃならぬ よろいぐそく 者ども、鎧具足して、疾うとう、六条の館にあつまれ』 わてに車を引きまわし、正門の方へ向かって急ぎ出した。 ふれ くらんど と、洛中に分宿している諸将へ布令わたした。 すると、院のうちから二、三の蔵人たちが、あわただしく追 落合兼行、諏訪次郎、高梨高信、栗田別当、富樫泰家など、 い馳けて来て、 しようけ、 たてねのい 『あいや、木曾の殿、木曾の殿。ーー上卿がたの仰せです。まそくぞく集まった。四天王の樋口、今井、楯、根井はいうまで もない いちど、元の座へ、お戻り給われい。お胸をなでて、お返しく しゆっし た ほくめん よ しり 0 ″ 6

8. 新・平家物語(四)

いとな 沈黙がつづいた。救いのない対峙だった。泰経は苦りきッた はあるが、都に生き抜くことは、やさしゅうない。都の営み、 まつり′一と 巻 まま、 の 院中の政事、人のつきあい、なべて裏と表のあることよ。せ「 そうもん あたら ち『では、その通りを、木曾殿の御返答として、院へ奏聞申しあかく、戦さには勝ちながら、可惜、都に敗れ召さるなよ』 都げてもよろしかろうの』 利不利を説くにしても、静賢がいうと、どこかに、情味があ と、念を押して立ちかけた。 り、あたたかさを、感じさせるのであった。 うそぶ 勝手に、といわぬばかりな義仲の嘯きである。泰経は、帰っ 義仲も、この僧には、反抗したことがない。ないばかりか、 た。帰るしかなく立ち帰った。 その夜も、いっか首を垂れて、別人のようこ、、 カれの言に、聞 じようけん けれど、法印の静賢は、あとに残って、なお義仲と、個人的き入っていた。 にはなしこんでいた。 地下の父母のことをいわれ・世間の愛で育てられて来た身上 この静賢は、大夫坊覚明の知りあいであった。義仲とは、入をいわれ、また、妻や子のことなどいわれると、義仲は、うつ じっこん しずく 洛以来、昵懇にしていた。これまでにも、何か事がむずかしく向いたきりの鼻すじから、ばたばたと、ひざへ雫するほど、意 なると、いつもこの僧が、なだめ役に立ち、院と六条の間を、気地なく涙をこばした。 往来していた。 そしてやがて、崩れるように、両手をつくと、 『はて、あいにくよの。大夫坊覚明は、伊勢へ向かって、おら 『まこと、御不審の通り、六条へ寄り合えと、こよい将士へ布 ぬそうな。 : こういう時に、覚明が不在とは、つじ明りが有令ましたが、夜明け次第、兵を解いて、ふたたび、院を脅かし おうち りながら、風に消されているようなものじゃ。木曾殿の御内に奉るような儀はいたしませぬ』 と、自分の非をみとめ、 とって、覚明こそは、まこと、つじ明りともいえるお人なの はんい に、なんで、遠くへお遣わしなされたか』 『あすも、平常のごとく院参して、身に叛意なきことを、明か し立てまする』 、 - つは′、 酔をつき抜けた義仲の面は蒼白にまでなっていた。そうした と、素直にわびた。 むとんじゃく 相手のまゆなどには無頓着なつぶやきに似ていながら、静賢の義仲のこういう一面を、なぜ人はいわないのか。法皇も、院 やすつね 言は、義仲の胸を、ひしひし打った。静賢は、この未成熟な、 の諸卿も見てやらないのか。静賢は、さきに帰った泰経が、義 まだおとなでもない青年でもない一個の男の感じやすい点を、 仲にとって不利な奏上をしないうちにと、馬を借りて、飛ばし よくのみこんでいるらしかった。そのまれなる長所も極端なるて帰った。 院中のすべてが、今のように、義仲を白眼視し とら 短所も、ややもすると、孤独なさびしさに囚われがちな影をたままでは、ついには、大事に及ぶであろうと憂えて急いだ。 も、見ぬいている風であった。 かんべき 『 : : : のう木曾殿、御辺の癇癖も無理はない。都が、御辺を翻 ろう 弄し、試し抜くのじゃよ。御辺は、竹を割ったような御気性で かくみよう ほん ゃぶ

9. 新・平家物語(四)

というよりも、そんな院中泰経は、ただちに、院の裁可を、鎌倉へ報じ、また源九郎義 頼朝には、不快であった。 巻、いの、こそくな政策は、鎌倉の府が将来に理想する樹立の大方経を院庭に招いて、 ひんし の針とはまったく馳するものである。まして、瀕死の屋島平家『さっそく、武士どもをして、重衡卿の身を、鎌倉へ差し立て に、わざわざ蘇生の途を与えるような和をむすぶ気もちなど毛られよ』 手 と、その手続きをうながした。 頭ない。 たとえ、重衡の中将が、どんな貴人であろうと、軍の捕虜で あるからには、処置は、鎌倉のさしずに待つべきだ。法皇と 義経は、都に残る て、権限外のことである。 もし、院のそういうやり口が悪例になって行ったら、鎌倉の都にとどまって、洛中、畿内の治安を厳にし、兄頼朝の代官 として、院や平家のうごきをも、抜かりなく視ていよーーーとい 府は影のうすい、無権力な存在となるしかあるまい。何をもっ て、武士どもを統御してゆけるか。頼朝には、うかと、見過ごう鎌倉の命令なのだ。なまやさしい任ではない。 かじわら 『だが、梶原も去れば』 してはいられない。 と、そこはいささか、気がらくになるよ、つな思いもしないで ことにわかに、かれが、中将重衡の引き渡しを求めてきたの は、つまり、法皇のお行き過ぎにたいする無言なしッペ返しではなかった。 しかし、」と ) なぜか、義経にさえ、よく分かっていない あった。 とに、梶原とは、時務の意見も食いちがう。院のお気うけな さすが、後白河のお胸には、すぐ、それがこたえたにちがい やすつね ど、毛頭争う気もないのに、人のロ端にも、両者の名がすぐ並 ない。近臣の泰経へ、ただ一一一一口、 べられて、とやかくと、評されがちだ。 『 6 いよ、つに』 こういうつまらない神経に疲れるのはやりきれない。一方が と、気まずいお顔つきで、裁可を仰せ渡された わずら その泰経は、先ごろ、鎌倉へ使して、帰って来たばかりであ去れば、もう煩いはなくなるだろう。 その梶原が去るのも、あと二日となった。重衡の中将の護送 る。そのおりも頼朝は「ーーすべて将士の勲功の賞は、追っ て、頼朝が計らい申さん」といっていた。ことばの裏を返せばをかねて、かれも鎌倉へ帰国する。きのうきようの梶原やしき は、それらの支度やら何やらでごった返しているという。 「武士どもの軍功に、院直接の恩命ざたなどは、迷惑である、 とし、つことよ、、 しま、重衡の旅装などについて、そこへ打ち合 さし控えてもらいたい」という意味にほかならない。 で、頼朝の腿は、泰経にもわかっている。こういう点にわせに立ち寄った土肥次郎実平が、義経の前で話していること まで、鎌倉の眼は細心なのだ。おそらく、かれの上洛は、見込だった めしゅうど きひん のりより 『貴賓のお旅路でもない、囚人の下向に、そんな気心をつかう みがあるまい。範頼を呼び、次いで、重衡の中将の引き渡しを 九郎の殿の気がしれぬと : : : 梶原どのは、そう申されての。初 求めてきたことだけでも、充分にそれは察しられる。 イ 82

10. 新・平家物語(四)

ひつじこく 義経の本隊が、七条大和口に見えたのは、未ノ刻 ( 午後二時 ) せ参るは、木曾とは小旗もちがい、笠符も変って見ゆる。 : オオ、近づくほどに、木曾にはあらず、きよう初めて、都 ごろで、並木松にさやぐ陽影もやや移ろいかけていた。 この日の″玉葉記事。によると、義経の入京ぶりは、軍紀正へはいったる東国武士の大将とは覚えられて候うそ』 しゅうごうろうぜき といい直し、こんどは、両手を打ち振って、歓喜の様子をそ しく、その兵には、秋毫の狼藉もなかった、としるしてある。 こに見せていた それと、かれの洛中到着も、思いのほか早かった。 その歓びを谺して、院中、いくつもの大屋根の下からも、ど 、こよ、こだまする戦闘の雄たけ まだ加茂河原や東山のどこ力し。 さか が、義経は「もう、戦さは諸手の侍大っと、人びとの色めきがあふれ、早くも、ことの由を、法皇の びが熾んであった。 あしおと お耳に達せんとするのであろうか、奥へ走る跫音やら、大庭へ 将にまかせておかん」とするかのように、兵馬をそこに駐め、 こおどり 出て、空を仰ぐ影やら、狂喜、雀躍といっても、なおいい足 そして、 『さきに名ざしたる六人の者、装いを正して、この九郎とともらないほどだった。 ひづめ 間もあらず、院の正門の外にあたって、駒のあぶみや、蹄の に参れ。一刻も早く、院の御心を安んぜん』 音が聞こえ、ひたと、気配が澄むと、いと若わかしく、そし と、五条御所の方へ馳け出した。 院の御所では、さっきから東の築土に登って見物していた大て、すずやかな声が、声張りあげていっていた。 み、きのうひょ、フ これは、鎌倉の前右兵 『内なる御近侍まで申し入れます。 膳大夫成忠が、「義仲は、はや遠くへ、落ち終わって候う」 うじじ えのすけよりとも と、内へ告げ、また「今は、木曾武者の影だに候わず、いずこ衛佐頼朝が弟の九郎義経と申すもの。宇治路の木曾勢を攻めや ・ : 」と、大声ぶって、ただ今、洛中へ着きました。何はあれ、院の御安否こ に見ゆるも、鎌倉の白旗、坂東武者の影ばかり : で呼ばわったので、院中の男女は、恐怖の底からよみがえっそいかがかと案ぜられ、戦さ装いのままなれど、御所守護のた め、早々に馳せ参ってござりまする。ここお開け給われい』 て、にわかな歓声さえわき起こしていた。 はっきりそれを耳に聞いた院中の公卿女房たちは、うれし涙 すると、しばらくして、成忠の声が、再び、 『やや、浅まし。またまた、木曾武者が馳せ参って候うぞ。汕やら、どよめきをもってこたえ、成忠などは、築土から飛び下 りて、したたかに腰を打ち、はってまわる有様だった。 断あるな、人びと』 そうもん よしつねいんざん 義経院参ーーとの奏聞に、たれよりも大きなしかも意味深い と、そこから転げ落ちんばかり、大あわてに怒鳴っこ。 それを聞くと、みな色を失って「あな、無情」「こんどこそ感動と蘇生の思いを抱かれたのは、後白河法皇であったには相 。は、焼き殺されめ」と泣き悲しんだが、たちまちまた、成忠違ない ; 、ただ一と声、 見は、 みたが を『ゃあ、やあ、しずまり給え。今のは成忠が早まって見違えて『開けよ』 と、奏者へ仰せ遣って、やがてまた、ほかの公卿へ、何事力 かなた、五条の橋北より、射向けのそでを吹き 九候うなり。 なびかせつつ、馬上のみ、六、七人、砂けむりたててこなたへを命じおかれた。 しょて とど かさじるし 319