萩乃 - みる会図書館


検索対象: 新・水滸伝 二
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1. 新・水滸伝 二

篝火の女 すると。 熊楠がいよいよ出陣した晩だった。混雑まぎれに、家来でも四 てんゅう 天祐 雨なきタ立 落したのか、牢の前に、鞘を抜けた短刀が落ちていた。 か、それがやっと手の届くところにある。萩乃はその晩、仮牢 みより を破った。そして、風雨の中を夢中で逃げ、身寄の漁師の家の ほしかぐら 安中三郎進から八雲へきた手紙のうちは、 床下、干鰯倉の闇、釣舟の中の幾日と、覚えきれない程な惨苦 古河の利根川べりまで出で給わば、城兵をひいて、自らをなめて、やっと、奥州船へ乗り澄ましたのであった。 ひとや お迎え申さん 『ーーそういう事とは知らない八雲様は、もう、私は獄舎の人 と、書いてあった。 間か、死んだ者とお思いになって、一図に、先へお出でになっ 萩乃は、それを唯一の目的に来たのであるが、その頼りは、 てしまったのではないか ? 』 はてし 絶望に近い 萩乃は、果なく迷い歩いた。 『いっぞやの夜、橋場の宿を追われて通ったのは、たしかに、 春はくれて五月ーー・六月 八雲様らしかっ . たが ? 』 桑がしげり、麦はのびてくる。 萩乃は、餅売をしながら、それとなく北条方の足軽に訊ねて然し、古河から利根川一帯の兵馬は、雲の峰の下に、じっと みたが、八 雲の捕まったという噂は聞かない。それにつけ、 備えたまま、動かなかった。 ( お嬢様は、萩乃がこうしてお後を慕って来ているとは、夢に 安中城からの迎えも見えない。 力しも ~ 、 も御存じないであろう。 八雲の消息も皆目知れない。 : ああ早く行き会いたいが ) と、念 餅の籠を腕にかけて、彼女は炎天の下を、 あの時。ーーもう過ぎし日であるが。 『ーーー足軽さん、買うて下され』 小田原の御幸浜で、萩乃を捕えた武士は、萩乃がふだんから桑畑の蔭を、呼んであるいた。 北条家のうちで誰よりも憎く思っていた相木熊楠だった。 ところが、その日に限って、 熊楠は、その時、さも央よげに云った。 『要らん』 ざか ( この小賢しい女には、俺自身で、糺したいことがある ) 『餅など頬ばっていられるか』 彼女は、それから数日、熊楠の屋敷のうちの仮牢へ抛りこま どこへ行っても、売れなかった。 れていた。幸なことに、熊楠には上州攻めへ出陣の命が下った すると後で、 やしき ので、邸は、ごった返していた。 天人餅を一つくれ』 みゆきがはま めあて ただ さや いちず りようし

2. 新・水滸伝 二

『だけど、家中の者に、気づかれないように』 してお手紙は』 女『抜かりはございませぬ』 『これに』 の萩乃は、裏門の潜りから、往来の眼をしのんで出て行った。 萩乃は窓を閉めて、なお屋敷の庭や次の間なども注意ぶかく 火召使もずいぶん多かった中で、たった一人、今日まで残って見まわしてから、帯の間に秘して来た密書を、そっと、主人の いて、寝る間も、主人の身辺に細い気くばりをしている萩乃だ手に握らせた。 うしろ姿を見送って、八雲はふと、 八雲は、封を切ると、 ( 彼女も若いのに、私のために 『おなっかしい』 まぶた おとめ と、済まないような心持に、ふと、臉を熱くした。 とロの裡でつぶやいた。もう、処女らしい涙をいつば、にこ けれど、萩乃は、元気者だった。いつも、愛嬌のある黒い糸たえて。 うれ 切歯を見せて、愁わしげな顔をしたこともない。 『お読みになったらすぐ火に燃やしてくれと使の大七殿が申し 今も、やがて、いそいそと戻って来て、 ました』 『姫さまー・』 『そうですか : はず と、息を弾ませて寄り添った。 焼くのも残り惜し気なのである。彼女はなんども読みかえし 『ど , つでした』 て、吐息をついた。 『やはり、姫さまはお偉いと、つくづく頭が下がりました』 『姫さま。お便りの中は、何んな事でございますか』 『そんな事より、笛の持主は』 『ーーー御覧』 らつばもの 『上杉家の乱波者で、安中三郎様の手勢についている石田大七萩乃にそれを渡して、彼女は、自分の小机のまえに坐りくず 殿でございました。 そして、笛もやはり、姫さまのお察しれてしまう。 とけんかん どおり、あの杜鵑管でございました』 この悶えを、この情熱を、遣り場なく喘いでいるようなその 『では、三郎様が、私へお便りを下さりたい為に』 うしろ姿 たずさ 『そうです。この笛を携えてゆけば、お疑いもあるまいし、 萩乃は、彼女と背中あわせに、許されたその秘密の文を読ん 又、姫さまの居所をたずねるにも、何かの便りになろうというでいた。 お考えで、石田大七殿へ、お預けなされたのだそうでございま : 』と、八雲は、あれ以来毎日、思いつめている三 郎進の姿を、今も濃く臉に描いているように、 くぐ 八雲どの。 去ぬる年の都の誓いを、この身は忘れてはいない。神かけ て、あの誓いは胸に刻みこんでいる。 カく あえ 186

3. 新・水滸伝 二

である。 『子どもは、怖い かたとき 女と、呟やきながら、大七は、朱い横笛を持って、城下の辻萩乃は、彼女の小間使であり、忠僕であり、又、片刻もそば 、むらい と云っても を離れないただ一人の護衛の士でもあった。 ので、ひやらひやらと吹き初めた。 火『さあ、お出でお出で。飴を買う子には、阿波人形の上方踊り勿論、萩乃は女性なのである。そして、年ばえもそう大しては 一つか二つほど上であろう。色が白くて、笑勝が深 を見せようず。買わない子には、見せぬとは云わぬが、遠慮し違わない、 やえば 篝 うしろ さあ、初めは槍舞じゃ、槍かった、笑うと、すこし齲の蝕っている糸切歯が唇からこばれ て、後のはうに立っておくれ。 て見える。 舞じゃ』 『姫さま。めずらしく、外をごらん遊ばして、何がお心にとま りましたか』 『おまえには、聞えない ? 』 『なんですか』 『あの笛の音が はの 『飴売でございましよう』 『萩乃ゃ。ーー・来てごらん』 『ちがう』 『なんですか、姫さま』 八雲は、首を振った。 萩乃は、八雲によばれて、侍女部屋から縫物を置いて立っ くちもと 萩乃は、黒い糸切歯を、ちらと笑んだ唇元から見せて、 『ーーーでは何の笛と仰っしゃいますか』 紅い糸屑がその裾についてゆく。 ・、しき - 一うじゃしき 『あれを、ただの笛と聴くのは、おまえの耳がどうかしていま 小路の邸だった。千貫以上の禄取りが住む古い武家構えの とけんかん 窓先なのである。裏も表も、いつも門扉はかたく閉まったまますよ。あれは、杜鵑管です』 『えっ』 で人の住んでいる気配もない家なのであるが、めずらしく、こ がんじようちょうなけず 萩乃は、耳を欹てながら、 ういう声がして、巌畳な手斧削りの窓格子に、美しい顔が二つ 『どうして、それがお分りになりますか』 並んた。 めいばう はたち 二十歳か、二十一、二ぐらいな、一方の気品のある明眸の麗『いちどでも、自分が、この唇を歌口に当てたことのある笛の のびどめ 人は、おととしの秋、武州野火止の合戦で、甲州勢のなかへ駈音を、何で忘れてよいものか。しかも世間に幾つとは無い名笛 け入って戦死した東郷五郎左衛門直広のわすれがたみーー母もでもあるし : やくも 『そういえば、ただ子ども寄せに吹いているようでも、どこ なく今はただ独りでこの広い屋敷に取り残されている八雲なの つぶ ′′ノ - 一しもと っ あか そばだ え

4. 新・水滸伝 二

あゆ 『くそうッ ! 歩べッ ! 』 黄母衣は使番の目印だ、急な使者は陣中でも駈けぬけをゆる 女牛車が十輛ばかり、荷駄が三十頭ほど、軍のいちばん後からされているし、列も横切る場合すらある。その黄母衣組の士 の続いて行ったが、牛と馬も、暴れたり反れたりするので、遙か カ一騎に、ただの騎馬武者が五名ほど、一頭の裸馬を中に囲っ ・一うじん 大に、遅れていた。 て、黄塵の中から次々に姿をあらわし、驀っしぐらに、眼のま 『牛方さん、お休みよ』 えをよこぎって彼方へ駈け去った。 篝 その一輛の軍梱のあいだに、萩乃は乗せてもらって来た。足 その一頭の裸馬の背には、ひとりの女性が、荒縄で縛りつけ 軽や、荷駄の者と、すっかり懇意になったおかげである。 られていた。前後の武士は、相木熊楠の手の者だった。 『甘いものでも食べてさ。体がたまるまいよ』 『おう、女だ』 『ばか言けつ、首が飛ぶわッ』 『おとといの夜、御本陣で捕まった女じゃ』 『気の毒だなあ、戦する男はよ』 一瞬だが、足軽たちは、女という声だけで、わいわいわいと 『よう、女は見ておけ』 はしゃぎ合った。萩乃も、それをチラと見た一人であった。は 何うしても動かない馬を、足軽たちが槍の柄でなぐりつける ぐらぐら ッと思うと、全身の血がのばって、起ちかけた頭に と、馬は気が狂ってしまったらしく、田の中へ飛びこんで、ひと眩いが来てしまった。 とりで暴れ廻った。 『やっ、餅売りが、牛車から落ちたぞ』 『抛ってゆけ、抛って行け』 『病気が出たか』 それも捨てて進みに進む。 『抛ってゆけ』 おとといの夜、利根の川向うに現われた軍馬は、安中勢でな 『いや、女は、かあいそうだ』 かったことを、萩乃は、翌朝この人たちに聞いて知った。 荷駄の小者が三、四人駈け戻って行って、埃の中から彼女を あの戦の後、間もなく、この一部隊は、安中へ行けと本陣か かつぎあげて来た。 わだち ら命をうけて出発したのである。萩乃は、ことによると主人の 絶え間なく、牛車の轍は廻って行く。 八雲はとうに安中城に入っているかも知れないと考えたので、 夜になると、行軍はずっと楽になった。萩乃は、人にかくれ 急にこの軍旅へついて来る気になった。ーー・然し、それも儚いて、泣いてばかりいた。 恃みのような気もする。 翌る日の朝早く、安中の城下に人馬は着いた。そこでも萩乃 やがて、並木のロにかかると、 は、真っ暗な絶望にぶつかった。なぜならば、安中城の城壁の 『おつ、うしろから黄母衣が来たぞっ、道を寄れ』 うえに見える旗差物は、すべて、北条勢と、武田勢のものであ っこ 0 足軽頭が、槍をふって呶鳴った。 たの ちが めま はたさしもの かなた 202

5. 新・水滸伝 二

おど 安中勢の迎えかも知れない。だ 久しく、姿が見えなかった外郎売が、ひょっこり、顔を見せ萩乃は、胸を躍らせた。 て呼びとめた。 が、それも八雲様が居なければ何になろうか。 『ーー・どうだい、売れるかい』 真っ赤に灼けた陽が、夏草の蔭に沈んだ。 『ええ。陣中薬は、どうかね』 宵は、風も月もなかったが、やがて二更の頃になると、わあ とき 『薬のほうは、大変な景気さ。もうこの間の荷を売り切って、 っと、鬨の声が、野や畑をゆるがした。 小田原まで荷を取りに行って来たんだ』 萩乃は、利根川の堤へ、駈けて上ってみた。 「戦もないのに、よう傷薬が売れるだな』 北条方では、かねて今夜の襲撃を、知っていたものとみえ、 『戦がない ? ・ : 何を寝ばけているんだ、深谷、本庄、秩父『安中勢だ、蹴ちらせ』 しゆら ひと ちまた どて の鉢形、この一月余りは、修羅の巷だ。 堤の蔭から、雲のように、兵馬や薙刀の光や、槍や太刀が、 そして今は、武田 方と北条勢が、一手になって、安中城を遠巻きにしてるじゃね躍り越え躍り越えして、どっと、河にかかった。まるで、雨な えか』 きタ立のように。 『えつ、安中城を』 小銃の音が、ひろい闇の中で、パチパチと鳴りはためく。 びつくり 『そうさ。たいそう吃驚しなさるね、何か、おめえの色男でひゆっ と矢うなりが、萩乃の顔を何度もかすめた。 『おおー も、安中城にいるのかい』 しいえ : : : そんな訳じゃありませんけれど』 対岸に見える黒い小さい何百名かの人馬ーーー正しくそれが安 萩乃はあわてて田舎言葉も出なかった。 中勢であろう。あの中には、安中三郎進も来ているにちがいな 餅を食べ終ると、外郎売は 『どれ、俺も、稼ぎに御出陣としよう』 『ーー、お嬢様あっ。八雲様あっ』 大股に歩みかけたが、ふと、足をとめて、笠のつばに手をや 声かぎり呼びながら、萩乃は、河へ向って、狂女のようにざ りながら、 ぶざぶと入って行った。 うしろまき 『おや、ここの陣所だけは、後詰でうごくめえと思ったら、こ ひろ 輦 れやあいけねえ、此っ方まで戦が拡がって来やがった。今夜あ た のたり、敵が、襲せてくるか、此っ方から出てゆくらしいそ』 珠玉の輦 1 一と 玉独り語にしては、大きな声だ。外郎売は、そういうと、道を 珠更えて立ち去った。 『ーーー今夜あたり ? : 。ほんとかしら』 北埼玉の多門寺に近い方角である。この辺、桑の木ばかりだ かせ きたさいたまたもんじ こづっ どて くるま ななた / 99

6. 新・水滸伝 二

わこうどはかな 然し、乱れ世の若人の儚さよ。戦と恋は両立しない。 『では、この小田原を』 も、弓矢の捨てられない武人であることを、君もゆるせ。 『お逃げあそばせ、萩乃が、一命をもって、お供いたしまする』 ただここに、二人の希望をつなぐ一途がある。 『でも、御先祖からの主君の地を』 それはおん身が、城地の監視をやぶって、私の城へ逃げて『ではーーー女の道はどう遊ばしますか』 くることだ。幸にも我れ等は今、安中城に立てこもって、 武田の遠征軍を蹴ちらしている。 と、泣き伏したが、すぐ あなた すずり 貴女に、その勇気があるかどうか。幸にも、もし来給うな『萩乃。ーー硯へ水を』 もた おか らば、使の者に、その旨を齎らしたまえ。われは、死を冒 と云った。 おもて して、古河の利根川べりの辺りまで、手勢をひいてお迎え筆と紙とを持った八雲の面には、つよい意志が坐っていた。 に参ぜん。 燭の明りがその横顔の情熱を明々と焼いている。 『ーー・行って参ります』 必ず吉報のお返しあらなんことを、信じて待つ。 夜は出やすかった。 永禄六年一一月 梅花の多い城下である。錦小路のくら闇には、ほのかな香が うごいていた。町をまっ直ぐに突きぬけると、松の樹の間が青 なみ たそが 白く光っている。そして、ざあっと濤の階音が裾を吹いてくる。 二度はど繰返しているうちに、紙のうえに黄昏れが漂った。 燭を点けて萩乃はその燈に手紙をかざした。ばっと、音をたて萩乃は、浜を見まわした。 ほのお て紙は一片の焔になってしまう。 『大七様あっ : 『姫さまー 約束の人影は見えないのである。ここでと云った巨きな松の うしろす 後へ摺り寄って、八雲の耳もとへ、強いーーー低い声で、ささ下にも。その附近にも。 ゃいた。 『どうしたのだろう ? 』 「お書きあそばせ、御返事を 行きっ戻りつしていた。 。その御返事を、大七殿が、 胸今夜、御幸で待「ているはずでございます』 艘の漁船の中から、 の『なんと書こうぞ、あの、真実なおことばに対して』 『おう、東郷家の召使か』 鳴『真実なおことばには、真実を以てお答えするよりほかはあり と、人の声がした。 思わず、はいと答えながら側へ走って、 潮ますまい。姫さまの真実とは、常に仰っしやっているように、 女の道を踏むという事でございます』 『大七殿か』 そう うめ すると、浜に曳きあげてある一 おお 7

7. 新・水滸伝 二

立って、あなた様にかかる矢を、すべてこの身にうけて参った の姿を、眼に見ても信じられないのであった。 女『ごもっともです』 だけの事です。 例えば』 と、乱波者の石田大七に、眼をやって、 の熊楠は、いつものような重い声でいう。 『それにおる大七が、初めに、小田原の城下へ入りこまれた折 大『すべてが、自分一存で為したこと、おわかりになりますま ちーう い。かような智課は、あなたのような清純なお人には、分らぬも、すでに、奉行所の目付たちは、挙動をあやしと見ていたの たずさ ままがむしろよいたた ながく、お倖せであれ、よいお子でござる。万一にも、大七の携えてきた三郎進殿の密書が、余 しるし をもうけて、八雲様は、恩師五郎左衛門先生へ、又、三郎進殿人の手に入ったら、八雲様は、即日に殿より首級を召されよ くよう そして、 う。そう考えて、自分が捕えた。又、萩乃を召捕ったのも同じ は、厳父越前守どのへの御供養をあそばされい。 やしき とりて この熊楠は、ただ欣ばしさでいつばいでござる、決して、誇言考えであったし、八雲様の邸へ、捕手を向けたのも、この熊楠 てら ではない、衒いでもない、欣しいのです、欣し涙が出てならなに相違ないのです』 かば いのでございまする』 『まだようわからぬ、それ程、この身を庇うてくれるおん身 しそう ま、なぜ、捕手を使嗾して、私を苦しめたのですか』 『その夜の事、お覚えはもうないか。ーー捕手のかかる少し前 なぞ に、お邸の窓下を、編笠かぶって、それとなく謎ことばを、謡 女子道・武士道 ごえ 曲声にまぎらして、お告げして行った侍のあったことを』 『あっ・ 。ではあの編笠の人は、熊楠、おん身だったのです ・カ』 『どうしてでしよう、私は知りたい。熊楠、何がそなたは欣し いのですか』 『又、萩乃には、出陣の混雑を、幸に、牢の前へ、わざと、短 刀をすてておいた。 そして、かねて、自分の屋敷にかくし 「男の為ることを為し事が : : : 』 、「′い・つニ′よ′り かおかたちけそう 『では、初めからそなたは、この八雲も、お父様をも、恨んでておいた石田大七を、巧みに貌容を化装させ、外郎売に仕立て それがし はいなかったのですか』 て萩乃の身をまもらせたのも某の策。ーーその他、いちいち つかまっ 熊楠の今日あは申しあげぬ。すべての事は、きようの夜明けに、大七から越前 『なんでお恨み仕るすじがありましようか そして、ここに自分の心の 守御父子へ申し告げてやった : るも、恩師のお陰、一日とて、忘れ申したことはない。ただ、 かの ほんかい きべんしゃ それがし 世上の詭弁者が、とやこうと、某の心を測ったり、あなた様底をのべて、恩師の御息女におわびすることも能うた。本懐で の身辺に、危い風聞をしきりに沙汰いたしまする故、いわゆす。では、萩乃、忠義をつくせよ、この熊楠の御手伝いは一 ・ : たのむ』 る、兵学の逆策をもって、まず自分より先に、あなた様の敵に時、そちの奉公は末が長い。 す うれ 208

8. 新・水滸伝 二

寄ると、途端に、 よがすみ うた 女「捕れつ』 夜霞の小路の辻へ、謡いながら消えた。 のと、苫を刎ねて云った者がある。 「あっ ? 。今の謡は』 うみなり 火萩乃は、その顔を見て、 しきりと、海鳴の音が先刻から胸底に騒いでいる所である。 『あっ 八雲は、はっとして、そこを閉めた 篝 と、身ぶるいして蹌めいた。 間もなく、燭もふき消した。奥で、物音だけが暫く密かにし どこに潜んでいたのか、砂を蹴って、真っ黒に彼女をつつんていたが、やがて庭境の塀のやぶれを潜って、隣地の大宗寺の だ人影が、彼女の必死な反抗をたたみ伏せて、後ろ手に縄をま林から止へ逃げのばった。 わしてしまった。 ほっと、息をついて何気なく、わが家の方を振返って見る ちょうちん と、何とあぶない一刻の差であったろう。表門裏門から提灯や たいまっ 松明をかざしてなだれ込んだ奉行所の手勢の声が、そこまで風 帰ろう筈はない。 帰らぬ萩乃を、八雲は、不安な胸をい に送られてくる程だった。 だきながら待っていた。 『どうしたのであろう ? も、つ夜も更けるに』 つい窓を明けてみた。 立ち寄る軒 すると、誰やら、笠をかぶって、窓の外の夜更けを通って行 く人影が、扇を口に当て、 うしぞう 「丑蔵 : : : 。開けておくれ。 ・ : 丑蔵』 はや潮の そば降る小雨のあいだに、 こう人声がして、誰か憚るように うしおに巻かれて 戸を叩く者がある。 、一かわがわ 迷うよ 酒匂川の上流で、井細田村と足柄村に跨がっている小さい部 友の千鳥は。 落だった。五、六軒しかない筏流しを職とする土民の家もみな はや潮の 寝ているうちに、そこの一軒だけが、 微かに、破れ窓から灯影 寄せくる磯そ を見せている。 立てよ 『ーー誰だい ? 』 すげ 残る千鳥は。 丑蔵の女房のお菅らしい返辞である。やがて、がたびし、内 おう よろ さいたむら かす ひそ 788

9. 新・水滸伝 二

が嘶いていた。平野には、母衣を負った伝令の騎馬武士が駈け 『ゅうべ、宿場のお検めがあったが、知ってるかい』 ているし、畑には、茶褐色の具足をつけた足軽が、槍を伏せ 『あ、知っていたよ』 て、夜となく、昼となく、西の方を見張っている。 『よく陣屋へ連れて行かれなかったね』 戦線は近いのだ。 娘は、ちょっと顔いろを変えて、 『ばかな云うて、おらは何も、連れて行かれるような悪い事は 田舎娘は、辺りをながめて、 おそ しないもの』 ( ああ、遅かった : : : ) 『だがサ、怒っちゃいけねえよ、ゆうべ北条方の足軽が探して 当惑の眼をみはってしまったが、それから幾日か経っと、ど もち あめ いたのは、女だと聞いたから、それで心配してやったんじゃな こで仕入れて来たのか、餅だの飴菓子だのを入れた竹籠を腕に しカ』 かけて、畑や河原の兵たちの間を売り歩いていた。 甘い物にも、女にも飢えている足軽組の兵は、 『女なら誰でも捕まるという法があるもんじゃない』 きれし 『けれど、その女も美麗な女だという噂だし、おめえも、美し 『天人が餅売りにきた』 い方だから』 と噪いで、 『知らないよ』 『天人餅か、買ってやろう』 『あ ~ 通っ』 『こっちへもくれ』 いりまめ 外郎売は顔を抑えた。煎豆が一粒、その手の指のあいだに挾目付の眼をしのんで迄、争って、彼女の竹籠を軽くした。 然しーーどの兵も、この田舎娘の黒いやえ歯を見覚えている かしす 娘は、ぶんぶんと、怒り顔に、足を早めてゆく。 者はなかった。萩乃は心の裡で、これは八雲の側に侍いたきり やしき だが、どう侮辱されても、外郎売は離れない。後になるか先で、あの小田原の邸に幾年も閉じこめられていた恩恵だと思っ になるか、きっと彼女の影から半町とは距たない間にあった。 「ちっ・ 『だが、油断はできない。 あの外郎売だけは、何だか、自 舌打ちをして田舎娘は何か思案していたが、次の日、古河の分の素姓を知っているような気がする』 人 町へ人ろうとすると、ここはもういつばいな軍馬であって、北 田原から奥州船に乗るまでの苦、いは、まったく危い橋 天条方の里見義介や、千葉新助などの率いて来た房総の兵が、約であった。今考えると、よくもと思われるほどだった。然し、 たむろ かんく の七百ほど屯しているのであった。 はんとの危難や艱苦は、おそらくこれから先の道であろう。こ れから先、安中城までの道だと萩乃は覚悟している。 畑いや、ここばかりではない。 附近の部落や利根川べりの要所要所、いたる所に兵が居、馬 あらた さわ うち たけかご 797

10. 新・水滸伝 二

「その成敗は、貴様にまかせる。 今夜のうちにだそ』 『はつ、では 目礼して、外郎売の男は、萩乃の体を横抱きにすると、魔風 のように、何処かへ立ち去った。 その頃から何処となく、深夜の空気がさわがしかった。熊楠 は、眼をかがやかせて、大地の音でもあるようなその気配を聞 がくぜん き澄ましていたが、愕然と起って、 『十介つ。魚住十介はおらんかっ』 十介は駈けて来て、槍と一緒に身を屈めた。 「なんだっ、あの遠い物声は』 『お味方です』 『味方 ? 』 『されば、何者かが松井田の城を、相木勢にまかせておいて は、百年経っても落ちるはずはないなどと申し触れる者があっ 一よめ、 て、その為、御本陣氏政公からの御命で、里見義介、そのほか しもごかん の手勢が、下後閑の間道から、急に、総攻めにかかったそうで 1 さいます』 『なに、この相木熊楠をさし措いて、総攻めにかかったと。う うむそうか : くちびるか 唇を噛んで、凝と、考えこんでいたが、突然、 じんがね 『陣鉦、陣鉦つ。公、 糸カカりの鼓を打てや。夜の白むまでに、松 炎 井田の城は相木勢が乗り破った』 愛鎧を着こむと、 かカり 炎『十介、篝火を焚けつ、あるかぎりの篝火を焚けっ』 憎と、命じた。 十介は、それそれの部将に、熊楠の命をつたえて駈けまわっ じっ へきれき た。霹靂のように急なのである。陣屋の裏から荒駒が狂いだし いなな て、まだ夜のふかい河原で嘶いた。 憎炎愛炎 松井田城の山絵図をひろげて、相木熊楠は秘策を描いた。そ して、肚はきまった。 鉄砲組、槍、弓、長太刀、それぞれの部将をあつめて、 『城を抜くか、斬り死にするか、この二つを、夜明けまでに決 めるのだ。相木熊楠もきようかぎりの一命と思うてかかる。 祖先以来の君家の御恩に酬うはきようを措いてない。よい ・カ』 云いふくめて、手配を授けた。 それが終るとすぐ、 「八雲を曳き出せ』 と十介に云った。十介は疑って、 『えつ、今ですか ? 』 『そうだ』 とき 熊楠の肚がわからなかった。何で、一刻を争っているこの総 まわ がかりの間際になど曳き出せというのであろうかと。 『連れて来ました』 十介の声に、又、山絵図を繰ひろげて後ろ向になっていた相 木熊楠は、ふり顧って、 うめ 『うむ : ・・ : 』と、ふとく呻いた。 205