に抱いている姿のどこかに初々しさもあって、気品のある武家 えつのしん 詈ロ 『悦之進』 娘だっこ。 状 行老公は供の者をふり向いた。 先乗馬は、昌久寺にあずけて来たので、きようは気がるな徒歩老公ですら、ちょっと目をみはったほどである。なぜなら、 っえ 梅である。西山の梅を伐って、杖としたのを突いている。けれゆくりなくも彼は、二十四、五歳の頃の恋人の貌かたちを、そ ど、杖を頼るようなお腰ではない。むしろ、途上に不測の事でのままその娘に見て、 たちま さつうな もあれば、その杖は不逞の者の頭上へ、忽ち一颯、唸りそうな 似ている。 ふく 含みを持っていた。 と、ふと思い出したからであった。 うぐいす ななめ 「よ、つ。 なんぞ ? 』 娘は、若い鶯のように、辻を斜に、老公のほうへ小走りに 十歩ほど離れていたので、悦之進と林助は、老公のそばへ、 寄って来ようとしたが、なぜか、うしろにいた渡辺悦之進が、 大股に寄って行った。 あわてて顔を横に振ったので、はたと足を立ちすくめてしまっ 老公は、左右の町屋を見まわしながら、 『わしが在城中と、綱条の代になってからと、城下の繁昌は、 さかん どう見えるな、さびれたか、盛になって来たか・ 『おそれながら、較べものになりません、何といっても領民何かもの云いたげな瞳を、悦之進のすがたへ注いだが、悦之 おおばしら は、大柱とたのむお方の御退隠に、気力を落しておるように見進のあわてた顔いろに、彼女も顔をあからめて、道を曲ってし られます』 『では、さびれた方か』 老公は、見送ってから、 『陰気になりました。以前と変りなく町々はうごいて見えます『悦之進。いまの娘は、たれの娘か。 しよみん が、庶民のすがたに何か元気がないようで』 あいさつをしてやらなかったのじゃ』 かえ 『なぜじやろう』 と、却って、彼の無情をとがめた。 じゃくは、 きし 4 うしゅ′、 かたち 『むずかしい儀で、われわれ若輩などには、お答えする知識を悦之進は、まっ赤になった。恐縮をとおりこした容である。 もちませぬ』 『申しわけございません』 『ウム、む』 『それは娘に云うてやれ。わしに詫びることはない』 ろばう 無理もないというように老公はうなずいた 『路傍ではあり、お供の折、遠慮いたしておりましたが : : : 父 ほんちょうつじ すると本町の辻で、はたと、目のさめるような美しい娘に出と父とが、極く親しくしていたので、それで』 おしろいけ りん なよや 会った。白粉気はないが、凛として、しかも嫋かで、文筥を胸『いずれ、家中の者の娘であろうが、その父親というのは』 おおまた つなえだ はんじよう ひとみ わ すなお なぜそちは、素直に かお そそ
とら 白石の後家、雪乃とおったえ まい。女のなきは、梅に月のないようなもの。面々が余りに虎じました者でございまする。 おなご : しかしその女子がひ下さればわかりましよう。よろしゅうお取りつぎを : ・・ : 』 になって荒れぬよう呼んだ女子じゃ。 とりのはずだが、あとは誰と誰かな ? 』 と、小腰をかがめている老女は、美人といわずに何といおう。 S ・ゅう上う かみ 髪も白い、からだも細い、柳腰もやや曲がってはいる。 四 れどその楚々たるすがたは、梅は老いてもなお梅であるように うめばたけ 女らしいひとであった。 門から遠く、彼方の梅畑の近くで、駕はとまった。 うけた そのまに老公と若い人々たちは、もとの席へもどり、もうそ『承まわっておりました。老公にもおまちかねです。さあ、こ あとに残って、駕のちらへ』 この明りから談笑の声がもれて来る。 ひきあわせやく 案内に立とうとすると、こよいの紹介役について来た牧野惣 客を待ちうけていたのは悦之進だけだった。 駕の灯はもとの闇へ帰って行く。 それと反対に、三つの左衛門が、 ・ : その由もあわせて、 『こちらは、御息女のお蕗どのです。 人影は、西山荘の門へ近づいて来た。 そう早、 『おお、惣左どのか』 御前へ』 まきのそうぎえもん じゅうばこ と、ロを添えた。 悦之進から声をかけた。牧野惣左衛門は、何か重箱のような お蕗は、母のかげに、寄りそうたまま、黙って礼儀をしただ 包みをかかえて入って来た。すぐそれを悦之進にわたし、 ゆきの てみやげ 『これは、雪乃さまのお手土産だそうです。老公のおすきな御けであった。 ごひろう 悦之進は、なぜか、 まんじゅう、御披露ください』 『はあ』 と、用向だけをのべてすぐ身をよけた。 とのみで、それには強いて眼をそらしてゆく。案内して玄関 見ると、 ひか の から控えに通し、取次にゆくまで、何となくそわそわしていた。 惣左衛門の退いたうしろには、ふたりの美人がつつましやか たたず 『おや、老公には ? 』 に佇んでいた。 かじん ひとりは、たしかにうら若い佳人だが、ひとりのほうは、も大勢のいる元の部屋へはいってゆくと、悦之進はまごっい よわい う齢にしたら六十にも近い老婆であった。それを美人といってた。まるでさっきの様子とは座の景観がちがっているからであ は少し当らないようだが、老婆なるが故に美人と云えないわける。 ぎよう 各のまえに行儀よくならべた配膳も、思い思いなところへ は決してない なべ 運び、大きな鍋のかかっている炉を中心にかたまり合っている 現にいま、悦之進のまえに、すこしすすんで、 おお 汁『かねがね、惣左どのに仰せくだされて、こよい来い、会うてのだった。 やるとの、老公さまのおことばに甘え、お約束の頃おいと、参『悦之進か。ここじゃ、わしもここにおるよ』 講 かなた ろうば かご し ふき ろ はいぜん れいぎ
そのあいだに、 悦之進は、顔を洗い、ロをそそぎ、髪のみだ れも直していた。 状 行『おう : 衣服をととのえてから、悦之進はまたそっと、友にたずね ) 0 先『おうつ・ 里 ふたりは相寄って、 『今朝ばかりはついお傍の御用を欠いてしもうたが、 , 御隠居さ 梅 まの御きげんは悪くはないか』 『いや、べつに : まず文八から訊ねた。 何ごとも平素とすこしもお変りは見え 悦之進はつかれきっているらしく、すぐには、ことばも出なぬ ・ : だが、貴公のすがたを見ると、あいての者と、行き会 ひろう かった。いや肉体の疲労もさることながら、頭も混乱していた ったかのように察しられるが、追いついたのか、下手人をひと りでも、捕えたのか』 おもて びんばっ かき : いや』 問われたことには答えもせず、面を振って鬢髪のみだれを掻 あげながら、 何をきいても、悦之進は顔を横にふるだけであった。 『 : : : 御隠居さまには、はや、お眼ざめか。それとも、昨夜か その悲痛極まった面色は、あまりに追究すると、ついに。志 ら寝もやらずにおいであそばすか』 涙をすらたたえそうに見えたので、文八も問うことをやめて、 きがか もくねんあいたい それだけが 何かにつけ老公のことのみが、気懸りらし黙然、相対していた。 く、そう問い返した。 努めて平静にもどろうとしているらしい悦之進であったが、 おやす 『いや、あれから、すこしばかり御寝みになった。そしてもうやがてやや心に自信がそなわるといつものような調子で文八 常のごとく、お学問所に坐しておられるが』 頼んだ。 『すまないが、老公へそっと、お取次ぎしてくれないか。 すこし平静に返って、 朝夕、お側に仕えているおれが、ひとに取次ぎをたのむなどと おしか 『文八。わしの衣服を、あれまで持って来てくれぬか。このす いうのはおかしいが : : : 今朝はなんだか御叱りがあるような気 がたでは、お目通りにも出られぬ』 がする。ゅうべ、おいいつけも仰がずに、無断で駈け出したこ 悦之進は、裏庭の石井戸のほうへ歩いて行った。 とも、あとで不覚をしたと悔いられているし、なお、毎朝の御 どろ なお じゅうじゅう 手足の泥など洗い、髪も直して身なりをととのえるつもりら用を欠いて、今頃、もどって来たことも、重々、お詫びをせ ねばならぬ』 『、心付宀に』 : ひと 『そんなお心のせまい御隠居さまではあらせられぬ。 しかの 気がるに、鹿野文八は、奥へ駈けて行った。 りで行き難ければ、し っしょに参ろう、お縁先から』 たず ゅうべ きわ かみ
かんるい 十二 悦之進は、感涙につきあげられていた。 しりぞ がくぜん 『ふたりで、供をせい。格外もわしに従いて来るがよい』 ふり向くと、ふたりは、愕然と立って、身を退けた。 『えつ、従いて来いとの仰せは ? 』 すぐうしろへ来ていたひとは光圀であった。 まで おどろ 『もとより江戸表へ』 とりわけ、愕いたのは、渡辺悦之進だったことはいう迄もな その儀については、、 『 : : : お ! お待ちください おもて 、御注意申しあげたい事がござりますれば』 木の根がたに、平伏したまま、面も上げなかった。 『へ山・のことか』 『虚無僧 : : : 虚無僧。なぜ返辞をせぬ』 : よ、つ 『万一にも』 いや、このたびこそ 『道中の不安ならば案じぬがよい 『久しぶりであったな』 しようへき みち おそ 『おこたえを致しまするにも、畏れ多うござります以来、拙は、たとえ西山から江戸までの途すがら、いかなる障壁、いか なる危害が、待ちもうけておろうとも、光圀はかならず参る 者めは、かりそめとは申しながら、藤井紋太夫の徒に』 参らんと我れ思い立ったからには、我れを阻める百難もあろう 『云うな』 うず 梅の花で埋まった空のや。光圀は行くぞ』 横を向いて介三郎のうえを見た。 はくぜん こもび とは申せ。大切なおん身にござりまする。何とそ、ここ 木洩れ陽が、ふたりの肩にも、老公の白髯にも、光りの斑を静『 かに撒いている ばう - - ひょうがぐ ふるま したく ととの 『申しつけておいた支度は調うておるだろうな。出府の駕や供『しかし光圀とて、暴虎馮河の愚は振舞わん。格外も供せよと むわ ー。しささか存ずるヒ日もあればこそじゃ。ーーー介三 の用意は』 ー ) つかい 『よっ。 悉皆、相済ましてはおきましたが、ただいま、こ郎、そちはな、すぐ光圀が旅立ちを玄関の者へ申し触れよ。供 そろいせよといいつけい』 れにおる悦之進がことばには』 『まっ。 : して、御隠居さまには』 『これこれ、悦之進とは、だれを云う。渡辺悦之進なれば、と かんどうもう 、ー , 、それ『しばし、この梅ばやしの奥で、梅の花でも観ていよう』 くに勘当申しつけてある者。これに来るわけはない。 『お十乂度なども、 ) ) さいましよ、つに』 におるは、そちが虚無僧寺にいた頃の旧友、格外という者と思 ともび - と 『供人を連れ、医師をつれ、出府の道中して参る光圀は、もう 、つが、ちご、ったかの』 『あっ : : : そうです、仰せの通り、てまえが佐々十竹の頃の支度もすまして、はや乗物の内に居ろう』 『えっ・ : ? ・では』 春友、渡辺格外に相違ございません』 『ひそかに行け』 『そうだろう。 ーー格外』 かご み ノ 55
かしら 「では」 のはみな頭を下げていた。 しようしようとうしゆっなえだ と、みな膝を楽にした。 記『そろうたな、よう見えたな。日ごろはみな少将 ( 当主綱条の ちょうし うれ ぜん ちゅうきん そのまえに、膳が運ばれる。幾つか銚子が要所をみて置いて 行こと ) へ忠勤のこと、陰ながら欣しくそんじておる』 と・一ま あお 先たれもまだ老公のすがたを仰がないいつのまにか床の間を行かれる しやくにん うしろに坐ってそういう老公の声を耳に知るだけであった。 酌人の悦之進と与平が、 梅 『亭主どのに代りまして』 『手をあげてよろしい』 ああ と、座の中にすわり、銚子のつるを把って、そろそろ杯陣へ 老公のことばに、初めて、いっせいに胸が伸びる。 ひふ お変りもなくと、人々は眼をこらして老公の健康を、その皮膚むかいながら、 ぶれいこう まな ひげごいん 『こん夜は、申すまでもなく、汁講すなわち無礼講ですから、 や眼ざしゃ髭や語音や、あらゆる容子からさぐり見るのだっ どうぞ十分に』 と、酌いでまわる。 わかれた親に会うように。 その位置は去っても、君公として、今なお、思いきれぬ敬愛「やりますぞ、大いに』 ひとりが、うけながら、ふと云い出した。 を、ひしと抱いて。 『きようこれへ参る途中、人見又四郎を誘いに寄りましたとこ 『膝をくすせ、あぐらをくめ。ここは百姓家じゃ。わしもいま ろ、きのうのうち、西山荘へお供して来ているとのことでした は少将の領土の民、おぬしたちも少将の家来、ひとつものじゃ。 ばうどの それにまた、こよいは遊ばうとい , ? 一夕、わしも遊ぶ、みが : : : あの棒殿はどうしましたか』 『そうじゃ、そういえば、棒も見えぬ。林助も見えぬ。悦之 なも肚のそこから遊べ。さあ、くつろげ』 いがか なお、いくらか固くなって、如何はせんという顔いろがみな進、見てこい』 けんもち えつのしん に見える。剣持与平と渡辺悦之進のふたりが、老公のそばから老公も、もう三、四献は、白髯のあたりへ杯を通わせ出した くちぞ 頃であった。 ロ添えした。 『おことばにあまえて、気ままになされい。老公はこうしてお いでになるのがお勝手なのです』 すると、客のなかの年長者から、 『しからば、おゆるしを』 ひら と、平たく坐り直す。 つづいて、次々に、 『では』 ひざ ら せき 悦之進はすぐ、ふたりを呼びに立って行った。それにして おそ けげん は、遅すぎると、人々がやや怪訝を抱きかけていた頃ーーーまた しゆきよう はんかん 酒興もいよいよ半酣という頃、 『見あたりません ! 』 と、悦之進がもどって来て、老公以下、一同へ告げた。 っ こん はくぜん はいじん
しらいしすけざえもん 『云いおるぞよ』 『もう世におりませんが、白石助左衛門どのの御息女です』 と老公は反らして、林助へ笑いかけながら、 『なに、助左衛門の』 みなろ みじゅく 『そちなどはまだわけて未熟、悦之進の学間武芸には見習うて これには老公も驚いたらしい。余りにも、自分のうちに感じ あた も、わき道には見習うな』 ていた事と中りすぎていたからである。 と、云った。そして、 いま去った娘のどこかに、自分の若かり 似ていたはず。 ちゅう びこう おもかげ 『こう町中を連れ立って歩いては、微行も微行になるまい。中 し頃の恋人にそっくりな面影が見えたのは、偶然ではない。 まんじゅう くずや じきまた早、 ゆきの おっと 白石助左衛門といえば、いまは亡き人であるが、雪乃の良人食は又左の浪宅にてしたためる。わしは葛屋へ立寄 0 て、饅頭 第つら を誂えて後より気まかせに参る故、そちたちは、人見又左の宅 だった者である。 で待ちあわしておれ』 『では。 ・ : 雪乃の娘か』 と、次の辻をひとり曲って行った。 『さようで御座います』 いなずけ 気がかりにはなるが、老公の意志である。ふたりは老公のす 『そちも独身。許嫁のあいだとでもいう仲か』 のき ふるかしほ 旧い菓子舗の軒へはいるのを遠くから見届けてから、 『いえいえ。そんな次第ではございません』 ひとみまたざえもん 人見又左衛門の浪宅へ先に行って待っことにした。 『それに似たような程度か』 ま - 一と 老公は、老舗の店がまえをながめまわし、そこの黒い看板に、 『 : ・・ : ど、つも宀是に』 せつこう 悦之進は途ガにくれるほど、ただ羞恥んでしまっている。も浙江まんじゅう どうてい けっ・・・、 とあるのを見出すと、杖を店の土間へ入れて、おおどかに呼 う三十近いが、その容子は童貞の潔を証明している。 しゅしゅんすい しんかげりゅう そうじゅっ 槍術は天性の上手。剣は真陰流をきわめ、幼年から朱舜水にびたてていた。 おさ 師事し、また心越禅師に侍座して、侍ひとかどのたしなみは修「まんじゅう屋。まんじゅう屋。ー、、。誰もおらんのか。商は めた者とは・ーー・老公の眼からも、今は見えないほどな彼の困りしておらんのか』 方である。 おり 『ははは、悦之進、ひどく閉ロいたしたな。こんな折には、禅 返辞がない。 もだめじやろ。そちの日頃よくいう禅の肚でもーー・ー』 そこで老公は、少々、足のつかれを思い出して、折もよし 鶯『めですな』 みせがまち かぶと と、店框の端に腰かけていた。 とうとう兜をぬいだ形である。悦之進は、腋の下に汗をおば しむく するとひとりのお菰がのっそりと入って来た。裏へでもまわ えながら、頭を掻いて、一矢酬いた 若『御老公にはかないません。御自身のお若いころに、人すぐれ 0 て物を云うのかと見ていると、そうではなく、 ごしゅぎよう 『菓子をくれい。おい、店番はいないのか。店番は』 て御修行がありましたから』 へいこう わき 1 一そくじよ ぜん そ みとど あきなし
文八は、心からかれに、同情しながら、寝もやらず、もし裏保が、肚のそこから老公を憎んでいる ) たた おびやこんてい ラロ 門でもほとほと叩く音がしたら、すぐ起きて行こうときき耳を それらの事が、つねに人々の心を、なんとはなく脅かす根柢 状 行たてていた。 となっているらしい。文八も、それだけは、是訟する。 生 が、悦之進は帰って来ない。 先 しかし、それと雪乃母娘と、なんの関聯があろう。ーー・要す 里べつな不安が文八のむねにこみあげて来た。或は、くせ者をるに、ま 0 たく別問題か。 かえ 追撃して、どこかの山林で、追いついたはよいが、却って大勢『ああ、解らない。 : それにしても、悦之進どのは ? 』 おもて の相手のために、返り討になったのではあるまいかなどと。 寝がえりを打った時、戸外にはもう鶯の声がしていた。 えたい 実際、得体の知れない敵である。この敵の正体、おそらく誰 五 にもわかっていないのではあるまいか こおりぶようわしお 『郡奉行の鷲尾どのと、老公のおふたりをのそいては 『すこしでも寝ておかねば』 えばしりんすけますいがわ 文八は、おとといの夕方、江橋林助が増井川の附近で見かけ と、あすの勤を思って、文八はそれから強いて眼をふさ、 たびあきゅうど かん たという怪しげな旅商人のことなど思い出していた。それに関だ。 れん 聯があるのではなかろうかーー・と、さまざまな想像をめぐらし とろりと、したかしないか、と思ううちに、はや戸を繰る音 はじめた。 が玄関でする。 たれいうとなく、 「 : ・・ : 老公のお目ざめ』 ( 老公の御身辺も、よほど御注意申しあげぬと : : : ) かれは、がばと起きた。 などと暗に危険を示唆する声はふだんにも聞くことだった。 いつもなら悦之進が、もうお側に侍して、何かと、世話して と云って、そのひとに、 いるのであるが、けさはその悦之進がまだ帰っていない ( なぜ ? ) あわただしく、身じまいをととのえて、お座の間へ行ってみ と、たずねても、誰も答えはしないのである。また、明確に 分っているものもないのである。 老公のすがたはない。 じようまうかが にもかかわらず、この清隠の一高士のまわりには、なんとな いちばん奥の端のーー・・三畳間へ伺ってみた。お学問所であ あんうん く去来する暗雲のようなものが感じられた。 漠としてではあるが、 『たれじゃ』 おんじよう ( 老公は由来、幕府から忌まれておいでになる。老公の御事業ふすまの音に、老公はふり向いて云う。そこに居られたので はんばくてきゅう ある。 は、反幕的の尤なるものと、幕府の学者はみな口をそろえて、 ぎん めゅうえい けんしんやなさわよし 将軍家へ讒している。また政治的には、柳営第一の権臣柳沢吉『文八にございます』 ついげき る。 やす 学 ) 0 っとめ おやこ うぐいす
彼方の影も、駈け寄って来た。 とか聞く蕗どのも、きのうにわかに西山荘をたずねて来ておる が、御承知か』 『佐々どのか ! 』 と、まず云う。 『存じておる』 あふ と、やや顔をあからめて、 なっかしさに洛れている声であった。 ふたり 介三郎はいきなり手をのばして鼠色の手甲をかけた相手の手『両女が江戸からこれへ参るまで、何事もなかれと、実は、見 をにぎって、 ・ : そしてすぐ自分は、御城下に えかくれに守って来ました。 - 一おう たくら えつのしん 立ち入り、江戸の藤井と呼応して、しからぬ企みをなしてい 『悦之進か。どうした ? 』 のぞ ぞくしん かさ る藩中の賊臣二三の者の行動をたしかめていたわけです』 と、笠のうちを覗いた 渡辺悦之進の眼には涙があった。 お蕗母娘が行方知れず『ではお身も : : : 人見又四郎と共に ? しるこう おやこ せいてきていしん 『いえいえ、又四郎とは会いません。人見の犠牲的な挺身も悲 となった汁講の夜、老公のさしずなく、母娘のすがたを翌日ま せっしゃ 」かんき しようぜん で探し歩いたという科で、老公の勘気をこうむり、悄然、西山壮ではありますが、拙者はあく迄、老公の御意志を尊重してま おばめし いりたいのです。すなわち老公の思し召としては、どこまでも 荘を去った悦之進だった。 はり・、 『はなしたい事があって、実は、江戸表から急いで来た。どこ覇力を用いず血で血を洗うようなことは避け得られる限り避け ろうく ぞ、人目にかからぬところへでも』 ねばならぬとーー : あの御老驅に、あの豪毅な御気質をもじっと おさ た きようみ、つ 『ょに。貴様も江戸から ? 』 抑えて、あらゆるものに耐えておいで遊ばすものと恐察してお ふたりは、西山荘の門をうしろに、、、 とこへともなく歩き出し りますれば : : : 同じ憂いと同じ目的は抱いても、人見と行動を ともにすることは、拙者の節義がゆるしません』 あやうきようぐう 『蕗どのの危い境遇を知りながら、なぜ、お身が救うてあげな 九 カたかことばの一つもかけてやらなんだのか』 うめばやし かたく おおやけ 道から離れた梅林の中。古い木の切株も腰かけるに手頃であ『頑なとお笑いになるかもしらぬが、ふたりはまだ公にゆる ′一かんき かぶものと されている間ではありません。殊に拙者は御勘気をうけておる る。渡辺悦之進は被り物を脱った。 そうどう しるこう 身 : ・ その御勘気をこうむったのも、汁講の夜、あの騒動に 『佐々氏、お久しゅうござった』 雷『変ったお身なりで : : : 以来どうしておられたか』 つい蕗どのの安否に心をひかれた為ーー忘れたわけでもありま ごかんき 『ひたすら御勘気のゆるされる日を待つのみでした。その間せんが、老公のおさしずもまたず、勝手に夜明方まで、血まな ばうぜん 、藤井紋太夫一味のしていることも、およそ調べあげまし こになって、時ならぬ時刻、茫然、山荘へ立ち帰って来たこと : ですから、い さ亠ごか御 が御機嫌をじたに依るものです 春た』 ま - 一とっく 『云うてま、 ーしいか悪いか知らぬが、お身とは親もゆるしている奉公の真を尽し、お側へ帰参をゆるされるまでは、たとえ顔と かなた きけ・かぶ てつこう ふきおやこ 0 あんび うれ せつ、 ため 0 すく 757
そっちよく たず おりました』 率直に、かれは訊ねた。 1 三ロ と、答え、 『もし、御老公』 状 『油断はできぬ』 行『なんじゃ』 と、つぶやいた。 先『人ごみを追うなら、どう申しても、道をひらきましように、 どな おおたかしんえもん 梅何故、特に大高新右衛門の名を呶鳴れと、おいいつけなされま聞きとがめて、又四郎が、 『浪人ていの者か』 したか』 たびあきゅうど 『いや、旅商人と云った』 『その儀か』 ) とばは ? ・ と、馬のうえから左右を見て、同じ疑いを抱いていた林助、 『江戸者』 悦之進へも云うように云った。 こおりやくにんはんせい 『ひとりか』 『新右衛門は、当所の郡役人、藩政と里民のあいだにあって、 - 一ころ 『ひとり』 どれほどな威令を持っておるかと、ふと、試みてみたのじゃ。 : あのぶんならまずよかろう。総じて、威なければ、令も行『何していたのだ』 ぐんもとじめやく われぬ。一郡元締役たるものが通るとあれば、知らねばぜひも『脚をいためたので、休んでいるというた』 あたり ・ : そしてそのまま戻って来たのか』 ないが、知ったら四辺をはらうくらいな威がなくてはならぬも『変だな。 と ふしん のだ。 里民へ徳をほどこしても、平常、威がなければ、善『何を問うても、すらすらと答えるし、不審もないので』 ・ : まずこの辺 『念が足らん。おれが行って、もういちど捕えてみよう』 政もあたりまえに思い、感謝のうすいもの 又四郎が、あとへ引っ返そうとすると、初めて聞えたよう は、新右衛門にまかせておいても安心じやろ』 道は暗くなっている。 せんぎ ともしび 『やめい、やめい。つまらぬ詮議だては』 ゆるい坂。畑や藪かげの平和な燈火。 びふうおりおり 『でも。 : さきほども仰せられたように、威なければで』 微風の折々に、薫々となにがなし匂う。野梅であった。 ぶっそう しよういんきょ きよっかい 『曲解すな。百姓隠居の往来に、なんの物騒があろう。さなき ・はて ? 』 『おや。林助が・ だに、旅はさびしいもの、故なく旅人をとがめるな』 悦之進がうしろを見る。老公も気づかれて、 おく 老公は、馬を降りた。 『いつのまにか、おらんの。どこで遅れたか』 山荘の門にも、梅が白い。一日見ぬまにもちがっていた と、見まわしていた。 うまや ひ 馬のロ輪を曳いて、悦之進は厩へまわる。 江橋林助は、すぐ坂の下から駈けあがって来た。何していた やげんひ たず 薬研を挽く音がしていたが、それがやむと、たちまち召使の かと訊ねられて、 あふ ただ そして老公の 『この下の河べりに、怪しげな男の影を見ましたので、糺して影と影がかさなって出迎えに溢れ出てくる。 ゃぶ くんくん あや 0
『にわかな出府にかかわらず、両名とも、よう待ちうけたのが』 詈ロ おそらく、このたびの出府が、光圀の終りのものとなるで介三郎は、胸のうちに、素足で霜をふむような傷さを覚え 状 あし 1 一しら 行あろう。そちたちも供をせい そのままでよい。足拵えな ちゅうじきおり 人見又四郎も鬢の毛をそそけさせていた。江戸に着くまで、 ど、中食の折に茶屋などでととのえたがよかろう』 めりど ひと - 一と 里 と、 いって、すぐ駕籠の塗戸をしめさせた。 彼と介三郎のあいだにも、もう一言の論争もなかった。おたが うれい いに、ただ憂と憂を見かわしているのみだった。 ふたりは、顔を見あわせた。 もう駕籠はさきへすすんでゆく。 しゅめい 主命である。主君の行動だいささかの自我もここではゆる 幸、天候にも恵まれ、道中はつつがなかった。 されない。 江戸表に着いて、小石川のやしきに入ると、老公は、風邪ご 歩行の人々のなかに加わってから、介三郎は、鹿野文八にそこちゃら、多少つかれ気味ともいわれて、四五日は陽あたりの ひとむねせいよう っとたずねた。 よい南の一棟に静養していた。 『すこしも知らなかった、 , 御出府とは : お支度にあたっ 『御隠居さまが渡らせられると、何となくこの上屋敷全体が華 て、御隠居さまには、拙者の帰りの遅いのを、お怒りではなかやぐような』 - 一ものはし 学に、刀』 と、小石川の家臣たちは、お下婢や小者の端にいたるまで、 う力が よろ - 一 いそか 『そんな御容子はいささかも伺われなかった。渡辺悦之進どの忙しさをみな歓んでいるふうだった。 からも、おとりなし申しておったし』 そういう空気を観ても、この邸内の平常には、何か明るくな 『悦之進といえば : : : 悦之進だけが、お供のうちに見えぬが ? 』い陰が、立ちこめていることは、老公によく分るのであった。 『ゅうべ、先に、早馬で立った。 小石川へお先ぶれに』 日頃は開けない部屋も、老公が来ると、隈なく開いた。 ゅ 『挈 : つ、か : 障子にも、廊下にも、冬日はいつばいに映しこみ、行き交う しわぶき と、ふと、また、駕籠のうちから洩れる咳声を気にして、 家臣たちも、寒そうでない かぜみ うかが 『すこしお風邪気味のように伺われるが、どうして、かくは急『玄桐どの、玄桐どの』 侍医の井上玄桐は、たれか ? いのうえげんどう 『侍医の井上玄桐どのも、そう案じて、御延期をおすすめしたそしてやや曲り加減の腰を急に伸ばし、 が、何か、ゆうべは固く御決心の御容子で、押して御出発を仰『ゃあ、紋太夫どのか』 せ出された』 と、若い者みたいに、 元気に笑顔を示した。 『ーーーおそらくこれが、出府の終りであろうなどと仰せられた 紋太夫は、歩み寄って、 はやうま じ おお さいわい びんけ み とうしろを振りむいた。 かみ