( なにを悲しむか ) に、眼をふさいでいたら、忽然と、 1 言ロ と、夜も無ロでいるかれを、人なき僧院のひと間でとがめた。 ( いや、祖母さまは、いなくはない : 行と、いう考えが、ばかと、夏雲のように、胸にうかんで来た。 ( 悲しむのではありません ) と、光圀はまた涙した。 先 ( : : : どこに ? 里 と、眼をひらいて、眼のあたりの台座にすわっている鎌倉期 ( うれしいのです。祖母君でも母上でも、またお父上でもわた 梅 がらん の仏さまの、伽藍の天井をつきぬくばかりな、高いおすがたをくしでも、人間は亡くなっても、消え失せないものだというこ とがわかりましたから ) 見あげてみた。 ( それはどういう意味か ) どこかお顔が似ていらっしやる。 ( 身近なおひとが死んでから、初めて死というものを、恐いよ けれど、かれが心のうちに見つけた祖母は、それでもなかっ うな、あじけないような、いろいろに考えさせられましたが : きようふと、そんな恐いものでも、あじけないものでもな ふたたび眼をとじた時、なおはっきりと、ありかをつきとめ い死んだ祖母君といえど、まだここにいるということをつき とめました ) ( あ、祖母君はいる。なくなったのは、おすがただけだ。ここ ( どこにいると田 5 う ) 冫しる , ( ここにおります ) そう知ると、かれは、とめどもなく膝になみだを垂れた。 ′ - きよう 自分の胸を手で示した。 衆僧の読経が終る。 しようこう ( そちにして、めすらしいことを云う ) 焼香の順がくる。 父をのそいては、誰よりもかれが先であった。兄なるひとも頼房はそう深くも問わず聞きながしたが、それからの光圀 よりしげ あったが、その頼重をおいて、かれは幼少の時すでに、水戸家は、まるでちがって来た。 しみ、くてき 思索的になった。 の世子と定められていた。 うこんえ 九ツの時、将軍の家光から光の一字をもらい、十三で右近衛 ( 光圀。立たぬか ) かんいじんしやく ′一んちゅうじよう うなが 権中将に任じられていたが、その官位人爵もおかしくないほ 父に促されて、 ど、どことなくおとなびても来、また人品もそなわって来た。 それから二年、かれが十八歳の時という。 あわてて涙を横にこすった。面伏せに、焼香をすまし、座に しき はくいでん もどった。 史記の伯夷伝を読んでいるうちに、大きな感動をうけた。 かれは、自分に兄というものがありながら、兄をしのいで、 いつになく、しおらしい。 じせき 水戸家を継いでいる矛盾と不当な立場に、つよい自責を感じだ 父の頼房が、あとで、 そ こっぜん おもふ ひ早、 : 。たしかにいる ) むじゅん いえみつ
『分りました。お気もちはね。・ : ・ : 貴方には、夏菊とかいう、 お内儀が降りてゆくと、 くや 屋美麗なお女中さんが付いていますからね』 『 : : : 口惜しいッ』 『くだらぬ事を』 と、お佐和は独りで泣き焦れた。 下 天『それやあ、貴方の眼から見たらわたしは、くだらぬ女でしょ すると、何処かで、 版 : けれど : : いいえ、もう云いますまい、掃部様、よ 『ーー・仕返しをしてやるがいい。俺が相談冫 こ乗ってやろうじゃ 新 くも私に恥をかかせましたね』 ねえか』 ひとめ と、いう者があった。 『誰も恥はかかせぬ人目にかからぬうち、家へ帰るがいし ながい わしも長居はしておられぬ』 恟っとして、見まわしたが、お佐和の眼には、、 しつの間にか あんどん 『帰る家なんかあるものですか。石鐘の家へは帰らぬ気で、も側に来ている、行燈しか見えなかった。 みじたく でなお う身支度までして出直して来たのですから』 せんりつ 掃部は戦慄した。 なおさら 助けられた恩義があるだけに、猶更、怖しい気がする。やに 颱 風 ふりはら か わに、彼は女の手を振払って、二階から馳け降りた。 ちょうど酒の支度が出来て、二階へそれを持って上りかけた した もとえもん 階下のお内儀は、 元右衛門だった。 おしいれ 『おや、何うなさいました』 押入の中から這い出して、 たちすく 呆っ気に取られて立恟んでいたが、 掃部は返辞もせず、草鞋『掃部はもう帰ったのだろうな』 おどおど を足につけるや否、そこの轆を逃げるように出て行った。 まだ恟々した眼いろで、お佐和の前へ坐った。 『 : : : 変なお武家様だねえ』 見つけない男が、押入から出て来たので、お佐和も、気を呑 つぶや まれて、その顔を見まもっていた。 お呼は、呟きながら上「て来た。お佐和は「酒を見ると、 ばいっ 『お内儀さん、一杯酌いで下さいよ。早く : : : 』 『ーーーお佐和さんとやら、俺にも一杯くれねえか。ああ驚し み、かすき そして、大ぶりな杯で、眼をつむって四、五杯飲みつづけ た。今日みたいに、驚いた事はねえ』 かたむ あきた たが、それでも飽足らないように、大きな器で一息に傾けた。 『誰ですえ、お前さんは』 いいのかえ、お佐和さん』 『林の若党さ。佐藤元右衛門という者だ』 ちゃ ちまな - 一、が 『打っ捨っといておくれよ。もっと : : もっとお酒を持って来『あっ。では掃部がさっき血眼で探していた : : : 』 ふとんかぶ 『この中へもぐり込んで、蒲団を被っていたが、もうよかろう あき そら めえ 『呆れた人だね』 と、帰りかけると、又お前が連れて上って来たので、生きた空 もの かもん わらじ たい ふう 32 イ
河 はつあわせ 初袷を着、風も秋めくと、毎日のように、江戸のどこかしら ふえたいこ あさくさかいわい で、笛太鼓の音の聞えない日はない。わけて浅草界隈は、祭と うらだな きらび いうと、裏店まで綺羅美やかに賑わう。 うおまっ は おもての魚松のおかみさんは、髪の生えぎわに汗をにじませ あ ざんしょひるさ ていた。残暑の昼下がりである。やっと店の手がすこし空いた まえだれ 銀ところらしい。前垂の下に、何か持って、狭い路地を、小走りん。 に曲って行く。 ふと 、、いた どぶ板が鳴る。どぶの下から蠅が立つ、それがみんな肥った にわも おかみさんの体にたかった。魚のにおいがするからであろう。 けれども、庭面は暗かった。 ひとみ あらあら、寝てるんだね。大の字 大きな木の影は星をかすめていたが、木の根がたの人影は分「人見さん。人見さん。 らない。ただあのあたりにと、眸をいためただけで通りすぎなりに』 あ 格子も開けるには及ばなかった。狭い土間は開け放しだし、 うらえん 然し、そこにりつけられている江橋林助のほうからは、たふた間しかない家は、裏縁のすだれ一枚が揺れているだけで、 しゅうぜん 風の吹き通しにまかせてある。 しかに見えた。彼女のすがたが。愁然とゆくその影が。 おかみさんは、上って来た。 『あっ。 ・ : おおお蕗どの』 ひとみまたろうろうたく 思わず立って、声をあげようとした時である、うしろに番を人見又四郎の浪宅である。 くち ゃぶだたみ 主人公は、破れ畳のうえに、眼も唇も流して眠っていた。毛 していた武士が、すぐ大きな手でかれのロをふさぎ、もうひと ひるねまくら にしび ずねはし 脛の端に西日がさしている。感心なことには、昼寝の枕にも、 りの番の者へ、 書物を重ね、大きな刀をわが子のように抱いて寝ている。 『おい、手拭をかせ、手拭を』 し 「まだ起きるのは嫌かい』 と、締めつけながら、あわてていった。 まえだれ 自分の息子でも呼ぶように、おかみさんは側へ坐った。前垂 さしみ じゅう かぶ を被せて持って来たのは、刺身の出前ではなかった、お重につ こわめしに、、 めた赤飯と煮しめである。 ( どこへ置こう ? ) ちゃだんす と、茶簟笥ひとつない家のなかを見まわしていると、もう縁 がわに猫が来て眼をすえていた。 猫が下へ跳ぶと、又四郎は大きな眼をして、 う、うつ。ああいいところへ来てくれた。 『おばさんか。 水を一ばいくれないか。汲みたての冷たいのが欲しいな』 と、伸びをする、眼をこする、なかなか体は起こさない。 まつり 『お祭だからいいけれど、あんまり飲むと、体をこわすよ又さ おまえさんだけは毎日お祭なんだからね』 まわ うしろへ廻って、大きな体を押し起してやる。又四郎は、や 河 ひとみ まつり と はえ ゅ 129
たんたん かんいえいしよく じよう - 一 0 ・ : おやおや、五郎八か 『ないからこそ、あなた様は、淡々と、官位栄職を、邪魔みた 『そちも泣き上戸ではあるまいな いにぬぎ捨てて、さッさと、こんなところへ : ・ : ・隠居などして 言まだそこに手をついて泣いておる。なにが悲しいのか聞いてや しまわれたのだ。怪しからん』 行れ』 『怪しからぬか ? 』 先『てまえが、代りに申しあげましよう』 けんもちょへい 老公は、笑う。そして心配そうに寄って来た剣持与平を見て、 里『ほ。泣き上戸の気もちが、代弁できるほど分っておるのか』 『わしは、怪しからん隠居だそうだ。怒るなと、そちから一 『この一堂におる者の精神は、みな一つです。ーー老公、あな た様は、なんで副将軍のお職をお退きになりましたか。なぜ、杯、ついでつかわせ』 たたか 『いや、いらん』 あくまで闘って下さらなかったんですか』 こわ 景助は、両手をいつばいに伸ばして、反りかえった。 / 西景助は、老公をにらみつけた。 恐い眼をして、ト一 さかずき 『たとえ、老公のお杯なりと、ここのところを、われわれに わか 解らしてくれなければ飲まん。飲むものか』 こわ と、手ので、すぐそこらにある他人の杯を手に挙げて、 恐らしい、執こい眼は、酒の力を借りて、なお老公へ云いっ 『さあ、仰っしや、 つける。、 しゃ絡み出してくる。 ちりあくた 『なにを一じゃ』 『天下の副将軍 : : : ふふん : : : あなた様の眼には、塵か芥みた お みようり 「なんで、お退きになったか。隠居などなされたか』 いなものに過ぎますまい名利 : : : 実にくだらんものと仰っ ゆず かみ しやるだろう。だが、だがで御座る。その任や重しだ。上は、 『年を老れば、順にひっこむ。若いものに、あとを譲る。当然 そうせい 畏きあたりから、下は、われわれ蒼生にいたるまでの、心あるじやろ』 みなもとのみつくにこうごにん 洋一つか・、 、ものよ、、、 どれほど、幕閣にひとりの、幕臣ならぬ、純『いや、それは、世のつねのこと。源光圀公御一人にかぎつ ・一うもんみつくに - 一う ・ : な、なぜとあればだ。あなた様と ては当然とは申されぬ 正な日本の臣たる黄卩光圀公という : : : 』 しまの日本に、ただおひとりしかないお方だほ 眼だけでは足らなくなって、景助はここで老公の鼻を指さし ゃなぎさわよしやす まつだいら かにも、偉そうなのは、たんと居よう。柳沢吉保とか、松平な て、 ししよく ばっかく ・ : けれど、日本の役人、天下 にがしとか、幕閣の諸役人が 『すなわち、あなた様という者がおるーーーということに至嘱し の臣たる人は - 、あなた様しかおりませんぞ。 ていたか、あなた様は、お考えになったことがあるか』 かごん くちびる と、手を膝へ返すと、一応、唇をなめあげて、ろれつを改『過言じゃ、そんな事はない。そんな事はない』 いいや、そうだ、極々、少数かもしれないが、われわれと めた。 か、世の心ある一部では、そう云っている。しかるにだ。その 『あるまい ! 』 唯おひとり迄、身を退いてしまったら、これからさきの世のな かしこ ひ しつ ただ と お 0 ひと そ あ
と、敵の剛右衛門に対して、気ばかり逸り立ち、刀に心を澄た どとう いらだ 屋ます前に、感情のほうが徒らに、怒濤をあげて、唯、焦立った。 そして、 0 先に、その感情が、波を打ち、乱れを刻んで、 愈、剛右衛門をして、誇らせてしまった。 下それにひきかえ。 かたき ふてぶて 天瓶井剛右衛門の中段に向けている刀には、太々しい自信があ『気の毒だが、おれの後を尾け廻して、仇呼ばわりするからに めつばう めいどおやじ 版 は、返り討だ。冥途で親父も待って居よう。どうせ滅亡の道を あのよ ろとう たど みくだ 新 辿って、路頭に迷っている林一族。一つ彼世へ送ってやるの 焦立っ相手を見下して、 ばだい : ・念ムよ、 も、かえって菩提のお勤めというものだ。 ( 腕の内見えた ) ようす 源三郎っ』 と、微笑している容子なのだ。 1 一うとう、、 ーー途端に その眼は胴田貫の分厚い剛刀のみねを通して、もう源三郎の はツと、源三郎は、呼吸がつまった。 気を吸ってしまった。 剛右衛門の太刀から、さっと、風が起ったのである。 『 : ・・ : どうした。源三郎』 ーーー死なば死ね ! 余裕のある息で、剛右衛門は相手をからかい出した。 まど さしちが 刺交えてもー それは、愈、相手を焦心り惑わせる兵法でもある。 かたき 『ーーロほどもない奴が。仇呼ばわりなどは片腹いたい。いか跳びのいたが、又再び、殆ど夢中で、刃を振ッた。 てくび げんば にも汝の父、林玄蕃を討って立退いたのはこの剛右衛門に相違ジーンと、手頸から肩へ突き抜けて行った太刀と太刀との響 せつな なら ないが : : : 討っ討たれるは、武士の慣いだ。 : : : 討たれたのきに眼の晦んだ刹那、火華を降らして引いた剛右衛門の太刀 ふたんれん は、びゆっと返って来て、源三郎の真っ向へ来た。 は、玄蕃の未熟 ! 共方の親父の不鍛錬 ! ばツ、ばかめー 人を怨むより己れの恥を思えっ』 うしろ 思わず、声を割って、源三郎は後へ顔を避けた。たたたと、 『な、なにをッ』 なお かかと 源三郎は、血の滲むほど、唇を噛み、眼をいからしたが、ま同時に踵が乱れを打ったが、猶、伸び余っていた胴田貫の切っ かす てつべき るで鉄壁にぶつかっているような相手に対して、手にある刀先は、彼の肩先から腕の付根の辺りを掠めて、さっと、血しお の虹を描いて地へ曳いた。 は、動かすことも出来なかった。 かんばっ 振り被れば、その間髪に、隙が出来るし、突き込めば、外さ ( 薄傷ー どうためき とは、思ったが、顔へ自分の血をかぶったので、源三郎はと れて、敵の胴田貫の下に、一揮に血けむり立ててしまいそうな かす たんに、眼をふさぎ気も霞んで 気もちに襲われて進み得ない。 『むつ。むねんっ ! 』 『 : : : ちいツ。くそっ』 つかで 云いながら、どんと、横ざまに腰をついて、地へ仆れた。 と、ただ歯噛みして、柄手を硬くしてしまうに過ぎなかっ る なんじ かぶ こわ はや かたはら うすで くら や、ま っ たお
どうたぬきながもの なので、胴田貫の長刀を差して歩くと、着流しとはいえ、堂々る。はてな : ・ : ・何うしてこんな所へ、来ているのだろう ? 』 ものかげ 物陰へ身を退きながら、剛右衛門は、小首を傾げた。 たる人物に見えた。 『姫路まで何里ある ? 』 『一里たあねえそうです』 ′ ) うはら′ ) うえもん やつら 。すると、奴等あ飾磨泊りだな』 『ふム : 業腹剛右衛門 『重次郎たちの兄弟ですか』 『そ、つよ』 うぬば 己惚れは誰れにもあるが、わけても瓶井剛右衛門、女にかけ 『大坂へ行くなら、何れ便船へ乗るでしよう。危ねえ道中を、 はず ては、自信のあり過ぎるほうだった。 歩く筈あねえ』 たず ( 大坂表に落着いたら、迎えをよこすか、手紙を出すから、訪 『宇太平』 ねて来いよ ) 『へい』 うきふね もち と、いっか浮舟の奥座しきで、夏菊に云い残して来た言葉を 「見ッともねえから、その襦袢を捨ててしまえよ。餅でも売っ とたんに思い出して、 て歩くようだ』 かっ しいじやございません『さては、待切れずに、俺をたずねて、家を飛出して来てしま 『何も旦那が担いで歩くわけじゃなし、 おとめ 1 : 一ろ あだ 処女心というやつで』 か。浪人すれやあ、襦袢一枚だって、仇やおろそかに成りませったかな ? 一度は、そう考えて見ないでもなかったが、 んぜ』 『ーーー待てよ。連れでもあっては』 そのうちに、姫路の城下ロ。 さすが うまつな といやば と、遉にふと、身を隠したのである。 軒を並べている問屋場、馬繋ぎ場、飛脚屋などの混雑の中 うつ 案のじよう、連れはあるらしい に、ちらと、剛右衛門の眼に映った何者かがあった。 しき 何も知らない夏菊は、頻りと、人待ち顔に、町を見廻してい 棒立ちになって、凝と、眼をそれへ向けている主人を振向い たがー、ーそのうちに、何を見たのか、ニコと微笑を浮かべた。 「誰だろう ? 』 『旦那、旦那 : : : 。どうしたんですえ』 剛右衛門が眼をかがやかして見ていると、彼女の立っている 宇太平には、分らなかった。 したくぢやや あた 衛 辺りから、少し先の支度茶屋の軒端に、ひょいと、姿を見せた 右剛右衛門は、手招ぎして、 よ・一ちょう もど 者がある。 剛『宇太平、戻れ、ちょっとそこの横丁へ身を隠していろ』 重次郎の弟、林源三郎だ。 業『えっ ? 重次郎が見えたんですかい』 む - 一う 『そうじゃあねえ。浮舟の夏菊が、あんな所に立って居やが源三郎も、ニコと、彼方で笑った。 て、 のき じっ じゅばん しかまどま のきば かめい かし 239
国経世に、その理を用いうるにしても、自ら知識から得たそれはいった。世の中に立ったのである。 その又右衛門宗矩が、ちょうど三十歳となった年の六月に 斎と、実相体得から入ったそれとは、現わされる御政道の上に、 おやま は、主君家康の軍に従って、上杉景勝を討っため、野州小山の 舟大きな相違があるかと考えられます』 石 陣中に、一旗本として働いていた。 『わかった』 かっぜん 生 家康は、豁然と、眼をあげて、梢のあいだの碧い夏空を見入『柳生どの、柳生どの。御主君のお召であるぞ。急いでーー』 み、しま 柳 近習の一名に麾ねかれて、宗矩は、何事かと急いで、家康の むねのり ばくえ、 『 : : : そうか。ムム、そうか。いやよく相分った。宗矩の性質幕営へ駈けて行った。 ゅうひっ もおよそその言葉で察せらるる、では宗矩を、今日より江戸の家康は、祐筆に認めさせた自身の書面を、膝においた手に持 って、床几に倚っていたが、 秀忠へ、奉公に差出すこと、異存ないな』 ともな 『何とそ、お伴いねがいまする。宗矩、そちも、よう心を定め『宗矩かーーー』と、彼のすがたへ眼を与えると、手にしていた その書面を授けてから云った。 ておろうな』 『はい』宗矩は、明確に答えたが、身に過ぎた大任を、果して『この一書を持って、そちはすぐに陣を脱し、そちの郷里大和 おもて : ただ老来、久しゅう 充分に勤められるかどうか、さすがにやや不安ないろを面にかの柳生谷へ急げ。仔細はこれにある。 くしきれなかった。 相会わぬが、石舟斎にも変りないか、くれぐれ身をいたわるよ : 茶などっかわそう。めでたい主従うに、家康が申したと、よしなに伝えてくれい』 『彼方の茶屋へ来ぬか。 『えっ : : : では私は、せつかくの御合戦に、お供はかないませ のかため』 しよう ぬか』 家康が床几を立った頃、五郎右衛門は渋そうな眼をあいて、 『何も問うな。ただ急げばよい』 そのくせ、何もかも知っているように、取澄ました顔をしてい 『 : : : でも、上杉攻の御陣中から、私のみ退去を命じられ、故 郷へ帰って参りましたと、何でおめおめ老父に会って申されま しよう。身不つつかの為、御陣中に留めおくこと相成らぬとの 御叱責なれば、自決して相はてたほうが老父のよろこびと存じ 陽なた竹 まする』 かか 『はははは、疑うはもっともじゃが、そち一身に関わった事で はない。何も申さず立帰って、石舟斎に儂が書面をわたし、そ のうえの事とせよ』 が、そ 宗矩はぜひなく退がって、即日、大和へ急し こくけいせい 学 ) 0 一一十六歳、初めて老父の膝を離れて、彼は「奉公」の生涯に あお み やまと
、、はらむし 『よせよせ。介三郎にまかせておけ。さあ権三、親方のそちか これだけで終っていたら、或はかれ等のごう腹虫も、いっと 記ら仕事にかからんではだめではないか。晩にまた、わしが尺八 なく解消されていたかもしれないが、その事あってから約七日 どろ 行でも聴かせるから、きげんを直してかかってくれ。さあ、かか ほど後、ここの人々がつねの如く孜々として汗と泥にまみれて ひるざけ : 頼むから』 いると、すぐそばの街道を、昼酒に酔って、ふざけながら通り 先ってくれい まんじゅうやま 里 介三郎はもろ肌をぬいで、饅頭山のうえにのばった。そし かけた三人の浪人者が、 梅 て、きのうと同じように地形ならいのを持ちはじめた。 『 : : : あれだよ』 『あれか。 : ふうむ』 『やれよ、みんな』 親方の石権はそれを見ると、急に職人たちを叱りとばした。 『なんだい、侍のくせに、鍬をもってるなあ』 がまん じゅうめん けれど我慢のならない渋面をたれよりも濃く持っているのもそ「水戸の百姓侍だそうだ』 の石権だった。 『水戸か。なるほど』 あご 何がなるほどなのか、顎をしやくったり、眼まぜをしたり、 鼻で笑ったりして、小楊枝のさきで歯をせせりながら見物して その日は、誰もかれも、むッつり無口をつづけて、ただ仕事 いたが、そのうちに、げたげた笑い出した。 だけをしていた。 ふと、為がふりむいて、まっ先に眼にかどをたてた。 あくる日も。 「あっ、あいつだ』 次の日も。 ほかの連中もひとしく、 まるで嘘のよりあいのように、仕事場は気が冴えなかった。 『畜生。なんていけずうずうしいんだろう。勘太を斬ったの 時々、ため息のように、 も、小屋荒しをしやがったのも、あの浪人者だ、いやあいつら 『ごう腹だなあ。考えだすと、おらあ癪にさわって、たまらねが、みんなしてやったにちげえねえ』 ちょうせん え』 みな後方を向いて、挑戦を示した。石権も、金槌をさげて、 ため 為が大声を出した。 すわといえば、職人の先に立ちそうな構えをしていた。 親方の石権も、職人たちも、それを聞くと、いささか慰めら いや、もっと物すごい血相を一瞬見せたのは、ついきのうか きずぐちちりよう れたよ、つに、 ら、まだ傷口の治療も十分でないのに、むりに働きに出ていた 『忌々しいが、仕方がねえ。佐々の旦那は、喧嘩がきらいなん勘太だった。 じゅうじゅん きようもう だから』 ふだんの柔順を一変して、兇猛に近い眼いろにすら見え つぶ 介三郎へ、つらあてのように呟ゃいたりした。幾ぶんかれのた。 くちぶり 武士精神を疑っているらしい口吻もある。 けれど、その勘太は、すぐうっ向いて、石のこばを鑿でくん さっさ しやく なぐ寺、 くわ かなづち のみ
あたら 庭づたいに、中門のほうへ廻って行った。 ぬ場合。ただならぬ急な風雲の際。ーーー可惜、物の役に立つほ 斎中門の扉は、片扉だけ開いていた。石舟斎は、その内側に立どな男なら、御幕下より除いて、お飛脚などはお命じあるまい 舟 っていた。兵庫のことばでは、お変りもないといったが、四年に』 石 ぶりに仰いだ宗矩の眼には、世にいう寄る年波の変り方が、余『 : : : 面目次第もございませぬ。が、何はともあれ、この御書 生 りにもはっきり父のすがたに見られた。 面を』 柳 ふところ 彼は、一目見ると、胸がせまって、あやうくも洛れかけるも 懐中のそれを取出して、老父の前へ捧げたが、石舟斎はなお まぶた のを瞼に抑えながら、門の外に坐って一礼した。 手も伸べず苦々しげに云いかさねた。 『 : : : 宗矩でございまする。おわかれ申して後は、侍しては大『ーーと云うても、御奉公に出て以来、まだ四年、御用に立っ わび 間もないは是非もないが、この父に対して、日頃の無沙汰の詫 御所様の御陣に、平素、仕えては江戸表の秀忠様のお側に。 わきま 以後、御奉公に明暮もなく過ぎておりましたので、ついぞなどは何事か。奉公はどんなものかさえ弁えおらぬか。 御膝下へ来て孝養もいたしませず、御ぶさたの罪、おゆるし下でに、そちを御奉公にさし上げたその日から、石舟斎は、わし されますよ、つに』 に宗矩という子があるとは思うておらぬ。ただわしが養育して おもて 彼が、そう云えば云うほど、眼にも見えるほど、老父の面は世に出した一箇の者が、世にあって、いささかの奉公などして なんびと 不機嫌な色になった。いや、巌へ刻んだ何人かの巨像のようおるか何うか : : : それを案じる日はあったが』 しゅんげん 、峻厳そのものを示すだけで、宗矩が胸にこみあげているよ 『宗矩の心得ちがいで御座いました。おゆるし下さいまし』 とりなお うな父子の温情らしいものは、その白い眉毛の一すじも見えな『家康公の御書面を託されて参ったからには、そちは取も直さ っ一 ) 0 ー刀 / ず徳川家の使臣ではないか。なぜ、家臣共にもてなされて、わ 『 : ・・ : 宗矩、何しに来た』 が家へでも帰ったように嬉々とするか。又、石舟斎のまえに来 やがて老父が四年ぶりの子に対して、初めて云ったことばて、大地になど手をつくか。ーーー主命の何たるものかすら忘れ は、その一語だった。 果てるなど、言語道断』 『・まっ 0 ・ : 申しおくれました。実は、大御所家康公の御一書『 : ・ を携えて、小山の陣中からせ参りました』 あらためて、徳川殿のお使として迎えよう。ここ 『立て。 『では、飛脚役か』 は庭ロではあるが、石舟斎が隠居所、略儀はおゆるしあって、 『何かは存じませぬが、ただ急いで、柳生へ帰れとのおことばお通りください』 老父は、手ずから、左右の門をひらいて、わが子の使者を、 に依って』 めがね 「さてさて、そちも日頃、物の役に立たぬ者と、お眼鑑に見ら座敷に迎え入れた。 れておるものとみえる。 今は一兵たりと、おろそかになら あふ
こかげみつ みす 光圀は、なおも木蔭の密な林の奥へ、そぞろに足を移してい 『塗駕籠の御簾ごしに、白いお髯と、鼻ばしらの隆いお顔が、 罸ロ 何やらきようは、神々しげに拝まれたそよ』 状 さっ 行介三郎はすぐ察した。 が、その駕籠の列が遠く去るのを、岡の梅林からひそか ひげ 先老公は、老公の身代りを駕に乗せて、世間の眼を、それと信に見送っている人にも、白い髯と、鼻すじの隆い横顔とがあっ ひそ じさせ、自身はあとから、べつに密かな行動をとる考えでいる 梅 こ↓っ - ; 、よ、 もちろん、ほんとうの光圀は、決して去った駕籠の内ではな ふろうざわ しようがいふち 不老沢には、なお数名の老臣たちが、生涯扶持をもらって、 くろずきんぐみ 養われている。その中には、老公が青年時代の黒頭巾組にし 『格外。・ : ・ : 何しておる ? 』 て、老公の留守中には、老公の身代りをやっていたいわゆる 『いや、ちょっと』 「影の者」がまだ生き残っていた。 格外渡辺悦之進は、樹の数にして、七八本ほど前のほうへ這 もちろん、その「影の者」なるものは、呼べばいつでも山荘いすすんで、西山荘の裏門から一路この林の中を抜けてゆく小 へ来る。そして、どっちが本物の老公なりや、側近でもちょっ道へじっと眼を向けている。 みがま と見たぐらいでは分らないほど、容貔もすがたもそっくりに似『御隠居さまーーー』と、身構えのまま、手を振って、 せて来るのであった。 『おそれ入りますが、おみください。あの裏道の方から、お すがたを見られぬように : 十三 『なんじゃ、屈めと ? 』 ・一はんとき それから小半刻ほど後。老公の「影の者」を乗せて、ふかく 老公は、云われるまま、すぐ身をかくしたが、何のために格 りよそう めりじようよ 内を秘した塗、の乗輿は、大勢の旅装した家臣に守られて門を出外が、鷹のような眼をしているのか、まだ分らなかった するとやがて、 山荘の裏門から、ひとりの男が、おそろし ばや 大勢といっても、医師、茶道の者、その他の小者を加えて いす迅さで走って来た。 ところが、それ以上に脚の早いも と うしろめぐ も、二十名は出ない。 のが又、そのあとから跳んで来て、かれの前や後を繞り、その びんしようさまた 『御隠居さまが、江戸へお上りじゃそうな』 敏捷を邪げた ちくし製・う 『いつ、お帰りやら ? 』 『しつ、畜生つ。 : 帰れつ』 った みちばた あせ づらけ 伝え聞いて、路傍にも、野辺にも、畦にも、うずくまって、 男は、石を投げたり、鼻面を蹴とばしたりしていたよほど しようろうよう じやけん それを見送る百姓老幼の影が、夥しいばかりだった その男に馴ついているに違いな、。 いくら邪慳にされても帰ろ まぢかに、そのお駕籠を路傍から拝した者が、あとで語りあうとはしないのである 西山荘に飼われている、四五頭の 、つ一一こ↓、 鹿たった。 0 * 、レ、う あが か 1 一 おびただ こもの めりか - 一 たか - 一う′ 1 う ひげ か たか たか わ 6