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検索対象: 目でみる「心」のバリアフリー百科 : 障害と福祉 1
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1. 目でみる「心」のバリアフリー百科 : 障害と福祉 1

多彩な個性と手法で互いの作品を高め合う もちつか 風 やきたしけるさく かいはい こさく たかかきかずひろさくもりおんかくたい ゆさい こうつうじ 【高垣和大作『森の音楽隊』 ( 油彩 ) 】交通事 ふじゅう たかがき 故で四肢が不自由になった高垣さん。「絵 なにげ はじ しゅんかん は、何気なく描き始めても、はまる瞬間か さくひん かお ある」と語り、この作品では、りんごと顔 とき の丸みを描いている時がそうだったと言う。 し、 つら はじ とがあれは、辛いことも乗り越えられる」と語る。 かた 会に入ってからだという八木田さん。「集中できるこ やぎた しゅうちゅう 【八木田茂作『百合』 ( 色鉛筆 ) 】絵を始めたのは風祭 いろえんひっ ゆり かざまつり \ ん すいさい つ 【持塚のり子作『ピエロ』 ( 水彩 ) 】動くこと むずか もちづか の難しい持塚さんは、大好きな人形や、野 わきお さいはな か 菜や花をベットの脇に置いて描く。 にんぎよう だいす 38

2. 目でみる「心」のバリアフリー百科 : 障害と福祉 1

はら一みちを たましいえが はは 0 母と子のきらめく魂を描く ちからづよはは しようわ ねんこうべし のち 力強い母のぬくもりか、後に、アーティス はらさんは 1928 ( 昭和 3 ) 年、神戸市に生 ふじゅう えがつづ りようてあし のうせい まれました。脳性マヒのため両手足が不自由 トとして、はらさんが描き続けるテーマとな しゅうせんこ ははてひと ねんかんとけい あと いんばんてん さいちちな りました。終戦後 20 年間、時計・印判店を で、 8 歳で父を亡くした後は、母の手一つで しな さい そだ しそうさく くるまいすてはい 育てられました。車椅子が手に入らない時代 営んでいましたが、 40 歳で、絵と詩の創作 げんざい かいがてんこうえん いとき せんねん がっこっ いとき あそ だったため、学校へ行く時も、遊びに行く時 に専念します。現在は、絵画展や公演などで ぜんこくまわいっぽう ふくしかつどう あめひ ゆきひ ははせお せつきよく 全国を回る一方で、福祉活動などにも積極 も、雨の日も、雪の日も、母の背に負われて ときかん てきさんか 出かけました。この時感じた、やるせなくも 的に参加しています。 すいか ども おお 【『大きな西瓜』】子供の ころ、畑のあぜにひいた うえいちにちじゅうなが むしろの上で一日中眺め はたらははすがた ていた働く母の姿は、いく やさ つもの優しい絵になった。 はたけ かあ 【お母さんシリーズ】 えがおはははたらはは 笑顔の母、働く母など、 かずおお 母のシリースは数多く みぎ ある。右の 4 枚は絵は さくひん がきになった作品から。 はは むわり 20

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西一勇三 ようがか ちせい てんせい そしつ 0 天性の素質と知性を合わせ持った洋画家 がっこうそっきようご ねんなら しようわ にしむら 西村さんは、 1945 ( 昭和 20 ) 年に奈良 います。学校卒業後はプロの画家のもとで、 ほんかくてきしどう りよう のうせい さい けんう 本格的な指導を受けるようになります。 23 歳 県に生まれ、生まれつきの脳性マヒのため両 ときはじ こてんひら じようたい こそうさく うでつか ひだりはんしん の時に初めての個展を開き、その後も創作 腕が使えず、左半身もマヒしている状態です。 かつどうはげ すうど ある こてんせいこう さ力はうこがっこうざいがくちゅう 活動に励みながら、数度にわたる個展を成功 堺養護学校在学中にリハビリのために、歩く したいふじゅうじ びようが はじ くんれんみきあしつか 訓練と右足を使っての描画を始めました。絵 させています。また、肢体不自由児のために すはら かたの おし さいのうかいか か 絵を描く楽しさと素晴らしさを教えるための を描くうちに、いっしか絵の才能を開花させ、 こうほてんはつにゆうせんは かいがきようしつひら こうとうぶじだい 絵画教室を開きました。 高等部時代には公募展で初入選を果たして がか しきさい きようわたの 【協和を楽しむ】「それぞれに固有の色彩と質 がめんうえひび いちまい かんゆう 感を有するものたちが一枚の画面の上で響き のぞ わおん あい、和音となってくれることを望みながら にしむら 絵を描いている」と語る西村さん。 しつ か はな はな 【『ュリの花』】白っほ。いバケツに入れられているユリの花に かん はくとう くわ 見つめられているように感じ、それに白桃もつけ加えて描き しぜんう 上げた。このように、絵のテーマは自然に生まれてくる。 か せいふつ みきあしゅびえふでも 【右足の指に絵筆を持つ】静物た たの たいわ ちとの対話を楽しみながら、心 えふではし をこめて絵筆を走らせていく。

4. 目でみる「心」のバリアフリー百科 : 障害と福祉 1

鈴木に太曲 えが しきさい やさしい色彩でメルヘンを描いた ずあんかもとしゆきようつ とうきようと すすきしんたろう めいじ ぶんてん 図案家の下で修行を積みます。しかし、文展 鈴木信太郎は 1895 ( 明治 28 ) 年、東京都 しゆっぴん りよかんいとないえ あぶらえにゆうせん おさな はちおうじ ようがか 八王子で旅館を営む家に生まれました。幼い に出品した油絵の入選などを経て、洋画家と みちほんかくてきすす かたあし ころわずら ようつい ねんころ しての道を本格的に進みます。 1932 年頃か 頃に患った腰椎マヒで片足か不自由だったた ねんりようしんすす ほんさ えそうてい かきようつ はく てが らは、本の挿し絵や装丁なども手掛けるよう め、家業は継げず、 1 910 年、両親の勧めで白 しんたろう ばかいようがけんきゅうじよはい くろだせいき しどう ねんな になりました。信太郎は、 1989 年に亡くな 馬会の洋画研究所に入り、黒田清輝の指導 ねんかんしゆきようあとはちおうじ はなふうけい にんきよう えが やさ を受けました。 3 年間の修行の後、八王子に るまで、花や風景や人形などを描いた優し さくひんよおくつづ せんしよくがっこうおりものずあんべんきよう おりもの 戻り、染織学校で織物図案の勉強をし、織物 い作品を世に贈り続けました。 はん相んすすきしんたろう 【晩年の鈴木信太郎】絵を描く しんたろう ことが大好きだった信太郎は、 つえ こうねんくるま 杖をたよりに、後年は車で、 しやせいで どこへでも写生に出かけた。 ふじゅう もど を、 , , ト嘛簽当新トを だいす 00 00b0 ~ 聞 6 8261 ~ きいろつほせいぶつ もも しんたろう 【『黄色い壷の静物』】信太郎の絵には、よく桃か えが たいしようあいじようも しんたろう 描かれている。対象に愛情を持つ信太郎は、描 ももいた おなもも きかけの桃が傷んできても、同じ桃でなけれは ならないと、取り替えることはなかったという。 ひじゅっあしおといまむかし 【『美術の足音今は昔』】 ねんしゆっぱん 1987 年に出版された信太 しゅうだいじ 郎の工ッセイ集。題字・装 しんたろう 画も信太郎の手による。

5. 目でみる「心」のバリアフリー百科 : 障害と福祉 1

高岡ー哲也 やさ ひだりて 0 左手からほとばしる明るさ ! 優しさ ! 生きるカ ! ちから げんざい けんりつようごがっこうかよこうこうせい がっこうしゅうじかん たかおか す。現在は、学校で週 2 時間もうけられてい 高岡さんは県立の養護学校に通う高校生で とくいぶんや てあしげんご ふじゅう のうせい かだい じゅきよう る、得意分野を伸ばすための「課題」の授業 す。脳性マヒのため手足や言語が不自由です しよさく せいさく じかん うこひだりて が、わずかに動く左手で、伸びやかな書の作 を制作の時間にしています。 へいせい ねんがつ やまとこおりやまじよう ひんか 2001 ( 平成 13 ) 年 4 月には、大和郡山城 品を書いています。 ない かいめてんらんかいひら ちゅうがくねんせい どうねんなっ しよどうはじ につ 内で 3 回目の展覧会を開き、同年夏には、日 書道を始めたのは中学 3 年生のとき。クラ しがっこう ちゅうゆうこう しよどうてんえら つづ おも じさく ちゅうごくたず 中友好のための書道展に選はれ、中国を訪ね スメートへの思いを綴った自作の詩学校す かつどうはばひろ ふでか しよとお きやもんを、筆で書いたことがきっかけで るなど、書を通して活動の幅を広けています。 辷っ一一 しよじよさくがっこう 【処女作『学校すきやもん』】 ぜんちょう かっこっ おも 4 人のクラスメートと学校への思いを書いた たいさく 全長 4 m にもなる大作。 たいす さくひんならしひら 【大好きな作品】奈良市で開か さんせだいこうりゆうさくひんてん れた「三世代交流作品展」の会 いちばんす さくひんなかれる 場で、一番好きな作品『流』と。 じよう ちゅうこくほうもんならけんにほんちゅうごくゆうこうきようかいしゆさい 【中国訪問】奈良県日本中国友好協会か主催する日 ちゅうごくひら ちゅうじどうせいとゆうこうしよどうてんとくせんえら 中児童生徒友好書道展で特選に選ばれ、中国で開か しよどうこうりゆう てんじかい さんか れた展示会に参加し書道交流をした。 てつやさくひんてん てんらんかい 【哲也作品展】 3 回目の展覧会は やまとこおりやまじようない ひがしすみやぐら 大和郡山城内にある東隅櫓ギャ ラリーで開かれた。 かいめ 14

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斎藤 った 0 木の温もりを伝える木簓師 よしのぶ ちょうか にゆうえん はんとしかんいちりゆうらんましよくにん こうねつ さいとう 彫課に入園し、半年間、一流の欄間職人の 斎藤さんは、生まれてすぐに出した高熱の しどう そっえんご おさなころ じたくさくひんせい ししことば ふじゅう 指導を受けます。卒園後、自宅に作品の制 ために、四肢と言葉が不自由です。幼い頃か さくはんばいおこな よしこうほう ねんゆうじん ひら たい しようわ 作・販売を行う「良工房」を開きました。体 ら木が好きで、 1975 ( 昭和 50 ) 年、友人の たいさくせいさくむすか りよくてき きんねん ちょうこくきようしったず すす 力的に、大作の制作が難しくなった近年も、 勧めで彫刻の教室を訪ねました。しかし、四 せいさくはんばい こうほうもくせい こもの さまざま しどうむずか ししようがいもさいとう 工房で木製の小物などを制作・販売し、様々 肢に障害を持つ斎藤さんへの指導は難しい かつばっ がくえんさいさんか きほ どくがく はじ ことわ なイベントや学園祭に参加するなど、活発な と断られ、独学で木彫りを始めました。 かつどうつづ ねんじゅうどしようがいしやじゅさんしせつ えんもく 1982 年、重度障害者授産施設マーシ園木 活動を続けています。 よしこうぼうかいせつ かいせっとうじ 【良工房開設】開設当時 ねん きようりよく ( 1982 年 ) のころ。協力して ちいき くれたボランティアは地域 ちゅうがくせい の中学生たちだった。 しと都将大 に一よ一示、立ロ デ、そ塑 モ年彫 をん展し 空 9 一賞 1 / ィーし ひ美い受 ー - ーんロや ひロロ者を 了く乍っ労よ賞 き / ィーさ′ 1 ろし こんー刀いー刀 ノき←圭れ防 えんくう きよう ほさいとう わんりよくよわさいとう 【『行』を彫る斎藤さん】腕力の弱い斎藤さんは、 けず ハンマーの重さを利用して、木を削り込んでゆく。 おも りよう 12

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ロ協力者一覧 アートヒリティ 愛知県立名古屋養護学校 青森県立七戸養護学校 青森県立弘前第ニ養護学校 香川県立聾学校 岐阜県立大垣養護学校 岐阜市立岐阜養護学校 国立療養所箱根病院 後藤もも代 春秋社 清美社 世界身体障害者芸術家協会 東京都立羽村養護学校 東京都立府中朝日養護学校 東京光の家光の家新生園 奈良県立奈良養護学校 日本チャリティー協会 / ヾソナ 福井県立嶺北養護学校 福岡県立福岡高等聾学校 福岡県立養護学校福岡高等学園 武州養蜂園 仏光院 水木プロダクション 宮城県立西多賀養護学校 持田昭俊写真事務所 山形県立酒田聾学校 著作権については十分配慮いたしましたが、お気づきの 方がいらっしゃいましたら、弊社まで御一報ください。 ロ主な参考文献 一番ヶ瀬康子・花田春兆編『写真・絵画集成日本の福祉 5 文化に息づく』日本図書センター 大石順教著『障害とともに生きる 4 妻吉自叙伝堀江物語』 日本図書センター 大石順教著『無手の法悦』春秋社 大石順教尼遺徳顕彰会編『大石順教尼遺作集』春秋社 国立療養所箱根病院「風祭会」著『風祭 412 番地』 NOVA 出版 茂木俊彦監修『障害を知る本 10 からだの不自由な子ども たち』大月書店 鈴木信太郎著『美術の足音今は昔』博文館新社 田島隆宏著『うたがきこえる田島隆宏写真詩集』実業の日本社 田島隆宏著『小さな声で田島隆宏 ( オタ ) 詩集』博字堂 はらみちを著『創作児童文学館 10 南の島ルソンから』岩崎書店 はらみちを著『はらみちを詩画集おかあさんのせなか』らくだ出版 水木しげる著『のんのんばあとオレ』ちくま文庫 水木しげる著『ほんまにオレはアホやろか』ポプラ社 山口昌男監修『目でみる日本人物百科』日本図書センター 山下浩著『家族が語る山下清』並木書房 『えのぐの詩』小学館 『鈴木信太郎展図録』読売新聞社 『山下清のすべて』サンマーク出版 47

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田昭優 しやしんか った きかんしや 0 駆け抜ける機関車の「鼓動」を伝える写真家 ねんとうきようう もちだ 持田さんは 1960 ( 昭和 35 ) 年、東京に生 さいときわずらびようき まれました。 1 歳の時に患った病気のため、耳 でんしやす ふじゅう ちい か不自由です。小さい頃から電車が好きで、 ちちおや しようがっこうこうがくねん 小学校の高学年になると、父親から借りたカ ぜんこくてつどうと メラで全国の鉄道を撮りにいくようになりま かすす ろうがっこうこうとうぶ した。聾学校高等部のデサイン科に進み、こ しやしんかこころざ りようしんがっこう の頃から写真家を志しますが、両親や学校の しようわ みみ か わたししやしん 私と写真 がわとり せんろ ポーツ ! 線路の向こう側に鳥か じようききかんしや パッと飛び立つ。蒸気機関車がや とりおし ってくる事を鳥が教えてくれる。 かま ゆび むねたか 胸が高まり、カメラを構える指に ちから 力がこもる。来たっ ! バシャパシ じようききかん ャとカメラのモードラが蒸気機関 いち 車のドラフトに負けじとあたり一 めんせいじゃくつやぶ 面の静寂を突き破る。やがて、けた けむりわたし は たましく轟き、吐き出す煙が私に わたし しやしん おおかぶ 覆い被さる。私にとって写真とは、 としゅんかん ころひび 心の響きを切り取る瞬間をモット ども ーとして提えていたい。子供たち すなおおどろ には素直な驚きをもって、おじい かん なっか さんおばあさんには懐かしさを感 じようききかん せだい じて、それぞれの世代に蒸気機関 こどうった おも 車の鼓動を伝えていきたく思う。 もちだあきとし 持田昭俊 とどろ とら 26 ひひき くろうおおみち 先生は苦労の多い道と、賛成してはくれませ さいときはじ ひら しやしんてん んでした。 28 歳の時、初めて開いた写真の展 しゅゴよんしやひとさくひんみと らんかい 覧会で、出版社の人に作品を認められたこと どくりつ をきっかけに、カメラマンとして独立しまし げんざい しんかんせんこうこくしやしんざっし た。現在は、新幹線の広告写真や雑誌グラヒ いっぽう てが さつめ しやしんしゅうきよう アを手掛ける一方で、 4 冊目になる写真集『響 かつやくつづ えんしゆっぱん 煙を出版するなど、活躍を続けています。 せんせい さんせい まつづ かかんおな どめしようじき はしよ 3 日間、同じ場所で 3 度目の正直のつもりで待ち続け おもどお けむりめぐ うつく ぎやっこう は ていたら、思い通りの美しい煙に巡り会えた。逆光に映えて えいぞう りったいかん 立体感のある映像を切り取る事ができた。

9. 目でみる「心」のバリアフリー百科 : 障害と福祉 1

かんしゅうしや 監修者のことば せかい び 受の世界。。。のはじめに はな うつく ふうけい 人によってさまざまですが、不自由な 美しい花や小鳥たち、見飽きない風景、 さいだいげんい にんげんつく みごとかいが だ ちょう 手を工夫と努力でカバーして最大限に生 そして人間が造り出した見事な絵画や彫 くちあしてはたら せかい かしたり、ロや足に手の働きをさせたり 刻。そうした美の世界に触れて、心の底 やす わ あ かんどう から沸き上がってくる感動と、静かな安 しているのです。 えいきよう ちよくせっそうさく かんかたひとりひとり また、直接創作にはあまり影響しな らき。それは、たとえ感じ方に一人一人 しようがい も おも びみようちか あ いと思われても、どこにしても障害を持 微妙な違いはあったとしても、障害の有 そうさくかつどうつづ ちが っということは、創作活動を続けてゆく る無しによって違ってくるようなもので うえおお せかい はありません。バリアの無い世界。バリ 上で大きなハンティとなるのは避けられ ないのです。 アフリーなのです。 そうさくつづ かんどうみ わ それでもなお、創作を続けるのです。 その沸き上がる感動や満たされた安ら ひとびと よろこ し じぶんじしん 造り出す喜びに魅せられているにして きを、自分自身でも噛み締め、他の人々 げいじゅっかつどう った も、まさにチャレンジなのです。この本 にも伝えようとするのが芸術活動であ ねっき さくひんそこ った おもかたちいろ からは作品の底にあるチャレンジの熱気 り、主に形と色によって伝えようとする びじゅっ かんと かんと あ のが、この巻で取り上げてゆく美術なの を感じ取って下さい。 とく せんじん すでに亡くなられている先人たちも特 です。 かたちいろひょうげん べつ 形と色で表現してゆく芸術の美術に 別ケストに加えて、そうしたチャレンシ しようかい かいがちょうこく とうぜんしゆりよくあ は、絵画と彫刻が当然主力に挙げられま ャーたちを紹介してみました。といって ぎ げいじゅっか ちょういちりゆうかた しやしんくわ も、芸術家として超一流の方から、技 すが、書や写真も加えてあります。アニ ひと とうじよう じゅってき メでお馴染みの人気キャラクターも登場 術的にもまだまだこれからという人まで はやはなし いっしよ が一緒になってしまっています早い話、 します。 じっさいひょうげん くさやきゅう 実際に表現しようとする場合、筆や メシャーリークの選手と草野球のおじさ 小つうて すわ つか んを同じべンチに並べて座らせているよ ノミやカメラを使うにしても、普通手で たいへんしつれい つか うなものです。大変な失礼をしてしまっ 使いますよね。でも、大切なその手に障 ゆる しゆっぱんしゅしめん さくひんはっぴょう がい も ているのを、出版の趣旨に免じて許して 告を持っていても、見事な作品を発表し じゅうぶんこころと そうさくかつどうつづ ひと いただいていることを、充分心に留めて て盛んな創作活動を続けている人も、決 ねが よ すく 読んで下さるようお願いしておきます。 して少なくはありません。 ふじゅう ひと とり どりよく くふっ て び しようがい さ やす あ っく だ み た か ほん くわ げいじゅっぴじゅっ しょ なじ せんしゅ ふで ばあい おな てしよう たいせつ みごと けっ さか

10. 目でみる「心」のバリアフリー百科 : 障害と福祉 1

田島一隆宏 ちじよう 地上 50 センチのカメラマン たかひろ そうさ でんどうしきいどうしやこうにゆう たじま のうせいしように かめ ごだけで操作できる電動式移動車を購入し 田島さんは生後 20 日目に、脳性小児マヒ じゅううこまわ さいとき しししようがいしんだん ます。自由に動き回れるようになった頃から による四肢障害と診断されました。 9 歳の時 しやしんきようみも つか からだ さつえい かぜ 写真に興味を持ち、ロだけを使っての撮影を には風邪をこじらせてしまい、体が工ビのよ ごしやしんてんかいさいししゅう さいとき はじ じようたい 始めました。その後、写真展の開催や詩集の うに反った状態になりましたが、 13 歳の時 しゆっぱん ぶしゅうようほうえん 出版、カメラマンとして武州養峰園という にだいぶ反りがやわらぐようになりました。 はちみつがいしやしゅうしよく つよしんねん けんりつしん さいさいたまけんふかやし 蜂蜜会社に就職するなど、強い信念のもと、 そして、 21 歳で埼玉県深谷市にある県立身 たいしようがいしやしせつかいこうえんにゆうしよ どうじ いろいろなことにチャレンジしています。 体障害者施設・皆光園に入所し、同時にあ せいこ くち いっしゅんなっ あき 【『ホウジャクの一瞬』】夏から秋にかけて見ら はなみつす れるホウジャクは、飛びながら花の蜜を吸う蛾 みつすしゅんかんと いっしゅ の一種。田島さんは蜜を吸う瞬間を撮るために しゅうかんまつづ 2 週間待ち続けた。 【ピントを合わせているところ】 まえ トフォーカスではなく、前もって撮り たい所にピントを合わせて、ひたすら まつづ シャッターチャンスを待ち続ける。