監修者 : 花田春兆 ( はなだしゅんちょう ) 1925 年生まれ。脳性マヒ 1 級。都立光明養護学校卒。 城西国際大学講師。内閣府障害者施策推進本部参与。 日本障害者協議会副代表。著書「日本の障害者一そ の文化史的側面」等。俳人。 【表紙カバーテサイン】山口千穂 柳平和士 【編集・企画・構成・執筆】 ハュマ / 戸松大洋長井静大石佐世 目でみる 「心」のバリアフリー百科 大角倫代 [ 発行所 ] ( 株 ) 日本図書センター [ 発行者 ] 高野義夫 初版第 1 刷発行 2002 年 2 月 25 日 舞台に生きる 上川真澄 3 柳平和士 東京都文京区大塚 3 ー 8 ー 2 TEL 03 ー 3947 ー 9387 ( 株 ) プロスト BN4-8205-6816-7 C8336 \ 22000E ( 全 5 巻・セット ) 旧 BN4-8205-6819-1 C8336 \ 4400E ( 第 3 巻 ) [ 印刷・製本 ] 〒 112 ー 0012
人と人の優しさをつなき、明日に伝える せかいじゅうひと しあわ 【世界中の人たちの幸せ】『ハ ト』という名のメロティーに合わ がくだんいん せたダンス。楽団員たちのいつも ひとがら まえむ 前向きで、人をいとおしむ人柄は、 わか ュージカルチームの若いプレー ャーたちにも受け継がれ、舞台に も映し出されている。 ひと うつだ 22 楽団あぶあぶあ & ミュージカルチーム LOVE いの よろこ 【祈り】生まれてきた喜びと、 いの れからの幸せを祈るシーン。こ ねん のシーンの完成までに 3 年かか ラブ った。ミューシカルチーム LOVE ふたし、 じしんたん の舞台は、プレーヤー自身の誕 ゆうじよう 生から出会い、友情の生まれる えが までを描いている。 しあわ かんせい じよう
. 共に生きるみんなの歌とおとりのつどい かすかすめいきよく つ数々の名曲と詩が生まれる とも ともい うた しこうほおこな 「共に生きるみんなの歌とおどりのつどい」 を通じて詩の公募が行われます。そして、そ みなとくしやかいふくしきようきかいしゆさい ふくし すうへんきよくつ えら うた は、港区社会福祉協議会主催の「福祉まつり」 の中から選ばれた数編に曲が付けられ、歌と いちぶ かいめむか おこな もよお たんじよう ねん の一部として行われていた催しでした。しか して誕生します。 21 回目を迎えた 2001 年 こくさいしようがいしゃねんよくねん しようわ やく ペんし しんきよく し、国際障害者年の翌年 ( 1982 ( 昭和 57 ) には、約 60 編の詩が寄せられ、 2 つの新曲 ねんみなとく じぶん てつく しろうどく 年 ) 、港区の文化を自分たちの手で作りたい が生まれました。このほかにも、詩の朗読や どくりつ かくさきようしよ だもの こえたか ふくし おど という声が高まり、「福祉まつり」から独立 各作業所による出し物、みんなで踊るティ まいねんがつみなとくこうほう かたち せいだいおこな した形になりました。毎年 3 月に港区の広報 スコタイムなどが盛大に行われました。 てづく かんばんひたり いしよう 【手作りの看板 ( 左 ) とユニークな衣装 ざせき しかいしゃみき やく を着た司会者 ( 右 ) 】約 200 席の座席は たくさんの人で埋め尽くされ、みんな の待ちわびる中、つどいが始まる。 イ行一 うた い つう なか ぶんか 、にキ、る みんなの気クのつどい せき 21 なか だもの 【ワークアクティによる出し物「よさこい ワークアクティでは、つどい おこな しゅうかん しごとあいま まえ が行われる 3 週間ほど前から仕事の合間を しゅう かいれんしゅうおこな ぬって週に 1 ~ 2 回の練習を行ってきた。 とうじつ きんちょう たの 当日は「緊張したけど、楽しかった」とい さんかしゃよろこ こん う参加者の喜びの声か聞かれた。 ソーラン」】 38
数々の名曲と詩が生まれる共に生きるみんなの歌とおどりのつどい すうにん はじ 【初めのあいさつ】数人の さぎようしよおこな だいひょうしや 代表者が作業所で行っ ないよう ている仕事の内容や「よ れんしゅう さこいソーラン」の練習 ようす の様子について説明した。 ちからづよおん たの 【楽しむ観客たち】カ強い音 ひと がく 楽に合わせて、見ている人たー . グ・ からだ ちの体も自然に動き出す。 せつめい かんきやく しせんうご ひろううえした おど ていきあ なるこ 【鳴子を手に息の合った踊りを披露 ( 上、下 ) 】 じかんおこな しごとあいま れんしゅう 練習は仕事の合間のわずかな時間で行われ まいねん たが、毎年このつどいを楽しみにしている れんしゅうい おほ いっしようけんめい みんなは、一生懸命に振りを覚えて練習以 はっき じようせいか 上の成果を発揮した。 39
数々の名曲と詩が生まれる 共に生きるみんなの歌とおどりのつどい い そ み や マ み や ん く っ く マ ん い そ すそ も な な で く れ く に い で いす な ば を つ た ま も い る る つ の も っ も わ し よ よ き も ら く わ る っ わ い わ 力、 と ら ら た ら い 下た い し、 しゅわ さんか 【手話サークルも参加】 ボランティアと さんか しゅわ して参加した手話サークルのメンバー しかいしや はな うた は、司会者の話す言葉から詩、歌とす しゅわやく かんたんしゅ べてにわたって手話で訳し、簡単な手 おこな 舌のレッスンも行った。 しいこになるよ こうぼ しろうどく きのしたたえこ 【詩を朗読する木下多恵子さん】公募された詩 ろうどくよう しんきよく からは、朗読用の詩と新曲にするためのもの すうへんえら はたらきのした か数編選はれる。ワークアクティで働く木下 きも さんは、素直な気持ちを詩に書き綴った。 ことば つづ すなお 一三ロ かざ 【つどいのフィナーレを飾るディスコタイム】 いちばんたの みんなが一番楽しみにしているティスコタイ ひと あっ ムでは、多くの人がステージに集まってきて、リ おんがく おど ズミカルな音楽に合わせて楽しく踊った。 おお
数々の名曲と詩が生まれる 共に生きるみんなの歌とおどりのつどい ぜんもう たかはららんどう 【全盲のピアニスト、高原蘭堂さん】 たかはら とうきよう 高原さんは、東京のナイトクラブで えんそう かつどうおこな ピアノ演奏の活動を行っている。その いっぽう あおんがくなかま 一方で、気の合う音楽仲間たちとボラ ちじようてんごくけんせつがくだん ンティアバンド「地上天国建設楽団」 とうきようとみなとく かつどうちゅうしん けっせい を結成、東京都港区を活動の中心に きよくせいりよくてきつく して、オリジナルの曲を精力的に作 つづ り続けている。 ちじようてんこくけんせつがくたん 【「地上天国建設楽団」】第 3 かい さんか ちじようてん 回から参加している「地上天 ごくけんせつがくだん おんがくめん 国建設楽団」は、音楽面での せんめんてききようりよく 全面的な協力にあたり、 かずおお れまでに数多くの名曲を生 み出している。 0 い めいきよく 第 【飛び入りでステージに登 ほふくまさはる じよう 場】 とう さ中で 春の興な くき 政客そ即し 、ろ = 足 保、れひ披 のではを カかかン 一び人ダ ホよ呼 3 な のらき敵 んかす素 40
川津 憲 効 しあわ おどろ りようて し両手から驚きと幸せを生み出すマジシャン かわづ しようわ ねんおおいたけん 一方で、マジシャン「ミスターかわづ」とし 川津さんは、 1950 ( 昭和 25 ) 年、大分県 こうねつ みみき しどうかつやく せいごま て、ステージやマジックの指導に活躍するよ に生まれ、生後間もなく高熱のために耳が聞 かわづ さいときゅうじん みひとたの うになります。川津さんは、見る人が楽しく こえなくなりました。 38 歳の時、友人の たはこ てうこ ぜんこくかくちつづ け なるようなマジックショーを、全国各地で続 煙草を消すマジックを見て、その手の動きに せかい ほんみ れんしゅう たいかい ひかれ、本を見ながら練習を始めました。 け、そしていつか、世界ろう者マジック大会 ねんはつぶたいた せかいじゅうみみふじゅう ほんかくてき しゆっえん 1996 年に初舞台に立った頃から本格的にマ に出演して、世界中の耳の不自由なマジシャ いんさつかんけい しこと こうりゆう ゆめふく ジックに取り組み、印刷関係の仕事をする ンと交流したいと夢を膨らませています。 いっぽう 第ー 5 にんげんう ふたいまねあ かんきやく 【人間が浮いた ! 】舞台に招き上げた観客を、ふわり かわづ ひょうじようゆた しゅわ と浮かせてしまう川津さん。表情豊かな手話を交え ねんがつひら すす てステーシを進めていく。 2001 年 3 月に開かれた大分 しやふくしたいかい ひとまく 県ろう者福祉大会「マジックショー」での一幕。 おおいた けん
サークル四季 かきよく しゅわ ゆうが O 歌曲を手話で優雅に舞う しゅわ うたかしうつく しゅわあ引っ 手話ダンスは、歌の歌詞を美しい手話で表 おど し、リズムに合わせて踊るタンスで、生まれつ みみき うた おど おんがく き耳の聞えない人も、ともに歌い、踊り、音楽 たの しようわ を楽しむことができます。 1979 ( 昭和 54 ) ねんかしゆさかもときゅう かし しゅわ 年、歌手の坂本九さんが、歌詞に手話をつ うた はじ けて歌ったことをきっかけに始まり、 1981 にしざわゆう ねん にほんしゅわ 年には西沢佑さんによって「日本手話ダンス ひと うつく 【準備運動】練習の始め、音楽に合わせ、輪になっ じゅんびうんどう て、バレエのように美しい動きの準備運動を行う。 じゅんびうんどうおこな おんがく れんしゅうはじ : 34 はじ 始め、 15 年以上になる。 ねんいじよう をきっかけに手話タンスを しゅわ 友人に教えてもらったこと ゆうじんおし 季の会長、千島寛子さん。 ちしまひろ かいちょう の手話をする、サークル四 しゅわ 【笑顔の会長さん】「元気」 えがおかいちょう げんき ともかい せつりつ せんこく ひろ 友の会」が設立され、全国へと広がりました ともかい ひと サークル四季は、友の会のサークルの一つ とうきようとみなとく かつどう で、東京都港区で活動しています。メンバー やくめい やくはんすうひとちょうかくしようがいも は約 30 名で、約半数の人が聴覚障害を持っ しゅわ なか ています。手話ダンスサークルの中でも、サ しやおお けんちょう ークル四季にはろう者が多く、健聴のメンバ まなあ おお ーと、互いに多くを学び合っています。 たが 5 を物を - ーン たいせつ いちばん とうきようと 大切だといい、和やかな雰囲気で進められる。 ふんいきすす ロではないので、メンバーが楽しむことが一番 たの 障害者福祉会館に集まって練習している。プ れんしゅう しようがいしやふくしかいかんあっ 【指導員 ( 左 ) と練習風景】月に 2 回、東京都 しどういんひだりれんしゅうふうけいつき 手話タンスは、全体に優雅でしなやかな動きが多い。 せんたいゆうが しゅわ フラダンスの動きをもとにした 【優雅な足さばき】 ゆうかあし
木村 けいにん でんどうくるま 新しい笑いに挑戦する電動車いすの芸人 きむら あわじしまなんだんちょう ねんきげきやくしゃ しんさいあとひさいち しようわ 木村さんは 1950 ( 昭和 25 ) 年、喜劇役者 震災の後、被災地であった淡路島の南淡町か だいめはかたたんかい ふたたぶたい ちょうなん いらい でんどうくるま ふくおかけん すがた の 2 代目博多ラ毎さんの長男として、福岡県 ら依頼を受け、電動車いすの姿で、再び舞台 はたちときげいのう あが ぶたい ふあん に生まれました。 20 歳の時、芸能プロダク に上りました。舞台への不安はありましたか、 よしもとこうきようにゆうしゃ きげきやくしや かんきやくまえ いまじぶん かっ わら ション吉本興業に入社し、喜劇役者として活 笑いで迎えてくれた観客を前に、今の自分た やくよしもとしんきげき ざちょうっと さい あたら わら ふたたぶ からこそできる新しい笑いがあると、再び第 躍、吉本新喜劇の座長も務めましたが、 38 歳 こきむらすすむげきだん ときのうないしゆっけったおひだりはんしんふじゅう ちょうせんはじ の時に脳内出血で倒れ、左半身が不自由に 台への挑戦を始めますその後、木村進劇団 を設立、福祉施設など公演を続けています。 ねんはんしんだい せつりつふくししせつ こうえんつづ ぶたい はな なり、舞台から離れました。 1995 年の阪神大 きげきやくしやりようしんきむら 【喜劇役者の両親】木村さ だいめはかたたんかいちち んは、 2 代目博多淡海を父 はかたたん に、博多淡子を母に持ち、 あかほう ふたいやくしや 赤ん坊の頃から舞台役者と して育てられた。 わら あらた ちょうせん むか はは ばあ 【お婆ちゃんにふん きむら くち する木村さん】 ロは たっしや かり達者ですこし げん 意地悪、とても元 ばあ 気なお婆ちゃんは、 よしもとしんきげき 吉本新喜劇の頃か やく らの当たり役。 よしもとしんきげきかつやく きむら 【吉本新喜劇で活躍する木村さん】間寛平さん みぎ びようき にんきもの ( 右 ) とのコンビで人気者となり、病気で倒れる ねんかんよしもとしんきげき ざちょうっと までの 17 年間、吉本新喜劇の座長を務めた。 12 はざまかんべい たお
榎本健一 きげきおう ぎそく あいしよう 0 「エノケン」の愛称で親しまれた義足の喜劇王 えのもと けんい ち 一皐ジ えのもとけんいち たいへいようせんそうこ めいじ ねんとうきよう かつやく 榎本健一は、 1904 ( 明治 37 ) 年に東京で 太平洋戦争後も、尭台や映画、テレビで活躍 わんばくおんがくず ようしようころ ねんだっそ あくせいびようき 生まれ、幼少の頃から腕白な音楽好きで、 1 8 しますが、 1952 年、脱疽という悪性の病気 さいあさくさ みきあしゅびうしな ねん みきあし 歳で浅草オペラのコーラスポーイとなりま で右足の指を失い、 1962 年にはついに右足 よくねんさるかにかっせん こざるやくにんき こつけい せつだん す。翌年、猿蟹合戦』の滑稽な小猿役で人気 を切断することになってしまいます。しかし、 しだいてんせい きげきやくしや はっき ふこうこくふく げいのうかい きそく ふつき を得ると、次第に天性の喜劇役者ぶりを発揮 そうした不幸を克服して芸能界に復帰、義足 ぶたいえいがだいかつやく ねんだい す力たぶたいたくるま えいがしゆっえん して第台や映画に大活躍、 1 930 年代には 姿で舞台に立ち、車いすで映画出演するなど、 にほんきげきおう こくみんわら うずまこつづ 「日本の喜劇王」と呼ばれるようになりました。 国民を笑いの渦に巻き込み続けました。 ぶたいえいが しようわじだいしよきあさ 【昭和時代初期の浅 くさけんいち 健一は、 1 929 ねんあさくさ 年に浅草で「カジ ノ・フォーリ げきだんはたあ という劇団を旗揚 けいえんげき げし、軽演劇と呼 きげき ばれる新たな喜劇 ふんやかいたく の分野を開拓した。 きげきえいが 【喜劇映画『エノケンの法界坊』 ( 東宝・ 1 938 年 ) 】 きげきえいが せいこう きげきおう 喜劇映画でも成功をおさめ、アメリカの喜劇王チャ にほんきげきおう ップリンにならって「日本の喜劇王」と呼ばれた。 そんこくう けんいち 【孫悟空にふんする健一】 ねん 1932 年の「カシノ・フォ こうえんそんごくう ーリー」の公演『孫悟空 みがるう けいみよう 軽妙なキャグと身軽な動 かんきやく ばくしようさそ きで観客の爆笑を誘い、 あいしようした 「エノケン」の愛称で親 しまれた。 ほうかいぼう とうほう ねん