げたのに対して、我々はせめてその結果をはっきり観察して仁科は、一五日、広島と長崎の被爆調査から理研の研究室 から死にたい。末開人のように何が何やら判らずに殺されるに戻ると、開口一番、居合わせた研究員に、「サイクロトロ ンの修理はどうなっているか」と声をかけた。 のでなく、ギリギリまで科学者として出来ることをしたい。 サイクロトロンとは、電気を帯びた粒子に電圧をかけて加 原子力を使うほうは出来なかった以上、自ら観測をするモル モットになるほかあるまい。 ( 略 ) / それからの数日間は、速させ、磁石で進行方向を円形に曲げながら一周するたびに この『自ら観測するモルモット』という、奇妙な観念にとり加速度を上げていく装置である。こうして加速させた粒子 を、原子の中心にある原子核にぶつけて破壊させるのだ。原 つかれてすごした」 ( 「世界」一九五四年八月号 ) 我々の運命は今や、実験動物のように、実験者であるアメ子核の構造、核分裂や核融合などの核反応を扱う分野を原子 リカの手に握られている。しかし、ただ観測されるだけの存核物理と呼ぶが、サイクロトロンは、一九三〇年代から六〇 在ではない。殺されるまではこっちも観測してやるというの年代にかけて原子核物理には欠かせない装置だった。 理研には、大小のサイクロトロンが一基すつあった。小さ である。玉木は「奇妙な観念」というが、「自ら観測するモ きようじ 、 , 、幸い、大きいほう いほうは空襲で運転不能に陥ってしたが、 ルモット」は、私には科学者としての矜持を示しているよう はほとんどそのまま残り、少し修理すれば実験を開始できそ に思える。 うだった。仁科は今や前を向いていた。敗戦の痛みを乗り越 実際、玉木らは、仁科の調査後、宇宙線観測に使っていた 携帯用の電離箱などを被爆地に持ち込んで ( 原爆で発生しえ、空襲でズタズタにされた理研を再建し、中断していた科 た ) 放射線を測定し、この新型爆弾が疑いなく原爆であること学研究を再開させる。その希望が彼の顔をほころばせたのだ。 だが、その仁科の希望を打ち砕く出来事が起こる。九月、 を確認し、その威力を詳細に見積もることができたのだった。 占領軍は原爆開発に直接つながるような原子力研究 ( 特にウ ランの分離 ) を禁じる命令を日本政府に伝えた。仁科は、来 海に沈んだサイクロトロン 玉木が仁科と再会したのは、終戦直後の八月一八日。仁科日したアメリカの学者らに、サイクロトロンでは放射性物質 の自決を危惧していた玉木は、あっけにとられた。仁科は書を作り、そこから出る放射線をさまざまな試料に照射する研 き置きににじみ出ていた悲壮感を見せるどころか、ニコニコ究を行うつもりで、原爆開発は一切しないことを丹念に説明 したが、 一〇月の終わり頃、占領軍から「原子力に関わる研 5 顔をしていたからだ。
究は全部ダメだ」と通達される。仁科の抗議も虚しく、一 一鴨拘置所に収監された後、翌年一〇月、公職追放の処分が自 3 月二四日から、占領軍の兵隊が二つのサイクロトロンを五日分の身に及ぶことを察知して所長を辞任、仁科が大河内を継 間かけて破壊。残骸は東京湾に沈められてしまった。 いで第四代所長に就任した。さらに財閥解体 ( 一九四六年 ) サイクロトロンを使って原爆開発につながる研究をするこや、過度経済力集中排除法 ( 一九四七年 ) を経て解体され、 とはたしかに可能だ。三が、 オ人を傷つける恐れがあるからと財団法人理研は、一九四八年三月一日、株式会社科学研究所 いって刃物の使用を一切禁するのがおかしいのと同じで、サ ( 科研 ) に衣替えする。初代社長はもちろん仁科だ。目まぐ イクロトロンを禁ずるのもおかしい。サイクロトロンは幅広るしく変化する状況の中、仁科は金集めに銀行を駆け回り、 い研究に使える道具なのだ。この点、後にアメリカでも科学新たに稼ぐ手段を求めて情報収集に努めた。 者から非難の声が上がり、当局も後に誤りを認めている。 この年末、科研の一室で仁科研のメンバー数十名が集まっ 戦前に協力関係を結んでいたアメリカの物理学者で、サイて忘年会が開かれた。その時の参加者の一人で、現在八九歳 クロトロンの発明者でもあるカリフォルニア大学バークレー になる西村純 ( 東京大学名誉教授 ) によると、机の上には当時 校のアーネスト・ローレンスに宛てた一九四六年七月一五日まだ珍しかったステーキが並んでいたという。 付けの書簡で、仁科は苦しい胸の内を明かしている。 仁科は忘年会の冒頭、次のような挨拶をした。 「親切にもあなたが私達を助けてくれて、ようやく建設され「理研 ( 科研 ) は今や経営の危機に瀕している。純粋の研究 た六〇インチ・サイクロトロンは、不幸なことに今、太平洋をやる余裕はない。皆さんは経営に寄与することをやっても の底深く永遠に消えてしまいました。それはただ壊されるたらいたい。私のこの意見に反対の方は、今すぐ理研を辞めて めに作られたのだといえるかもしれません。戦争のゆえに、 もらいたい」 私達はこのサイクロトロンを研究用にはまったく使うことが 反対意見は出す、席を立つ者もおらず、みな押し黙って箸 できなかったのですから」 を進めた。会の後、西村は先輩の玉木が、「親方 ( 仁科の愛 称 ) はしようがないな。をわきまえていない。ご馳走 理研の経営危機 を前にして『それじゃあ辞めます』と言う人がいるわけがな しかし、仁科には、悲痛に沈んでいる暇はなかった。 い」とばやくのを聞いている。 四五年一二月に理研所長だった大河内正敏は戦犯として巣科研は、仁科のリーダーシップにより、一九四八年から抗
サイクロトロンを破壊されたのは理研だけではない。大阪 生物質のペニシリン、一九五〇年からは結核薬のストレプト マイシンの製造販売をはじめたものの、それでも資金難を脱帝国大学、京都帝国大学が所有していたサイクロトロンも占 領軍に破壊、投棄された。研究に必須の道具を失って、日本 するほどの成果は得られなかった。 「純粋の研究をやる余裕はない」と研究員に伝えた仁科だの原子核物理の研究者たちは途方に暮れた。 その後、一部の原子核物理の研究者は、宇宙線研究に転向 が、金儲けにしか興味を示さなくなったかと言えば、そうで する。もともと、原子核物理と宇宙線研究には重なり合う点 年よ、な、かつに。 前出の西村は一九四八年に東北大学を卒業し、科研に就職が多い。どちらも物質の究極の姿を追究する学問で、実験や した。面接の際、「何でも結構ですから先生のところで採っ観測に使う粒子の検出器 ( 霧箱や電離箱 ) も共通している。 てください」と訴えたところ、仁科に「君、宇宙線やれよ、違うのは、サイクロトロンのような加速器でコントロールさ と言われた。「宇宙線って何ですか ? 」と聞くと、「素粒子みれた粒子を観測するか、宇宙から運任せで飛びこんでくる粒 子 ( 宇宙線 ) を観測するかーーそのくらいだ。 たいなもんだよ」との答え。 西村は後に、宇宙線の振る舞いに関する「西村・鎌田関原子核物理の研究者が宇宙線研究に乗り出したのは、宇宙 数、を ( 鎌田甲一と ) 提唱して頭角を現し、気球を使った宇線が原子核にぶつかる現象を解析することで原子核の研究を 宙線観測実験でも世界的に活躍、後に文部省宇宙科学研究所することが可能だし、宇宙線自体にも未解明の謎はいくらで ( 現・宇宙航空研究開発機構宇宙科学研究所 ) の所長も務めた人もあったからだ。それに自然界にあまねく存在する宇宙線な らば、研究対象に選んでも、占領軍に禁止される心配はな 物だが、大学を出るまで宇宙線の知識はなかった。 こうして日本の宇宙線研究は、戦後はからずも原子核物 仁科にとって宇宙線は、理研で主任研究員に就いてはじめ て選んだ研究対象だった。その後、サイクロトロンの建設に理の研究者たちの新規参入によってその体制が強化されるこ とになった。 熱中したが、戦後、その情熱の結晶を無残にも破壊されてし まった。今や仁科には、自身の二大研究テーマのうち宇宙線 しか残っていなかった。「経営に寄与する、要素のない宇宙バイ中間子の発見 一九四七年に「ネイチャー」誌に掲載された宇宙線関連の 線研究なんてやめろという声もあったが、宇宙線研究まで諦 ビッグニュースも、日本の宇宙線研究を活気づかせるきっか めるわけにはいかなかったのかもしれない。 3