「理系と文系の狭間 . にある現在の経済学 長沼伸一郎 現在の世界で「今の時代を代表する経済学は ? 」と問われても、言わば「二大難解理論」としてそびえている。 そこにはアナリストの金融分析や経済行動の豆知識などが混在して こうしてみると、現在の経済学はもはや従来の文系的な解説書で いるだけの印象があって、何かその背骨のようなものが見えにく は扱い切れなくなっているのだが、この数学の高度化は経済学部の 。少し前の時代だと、中央にケインズ経済学が一本の幹のように教室内部でも大問題である。実際これらは大学院の成績上位の学生 存在しており、一般の人でもそうしたアカデミックな世界のトップでも理解困難なほどのもので、おまけに経済学部で扱う数学は量的 理論について知ることで、頭の中に座標軸が定まって経済全体が一 にもどんどん増えて、それへの対応は日に日に困難になりつつあ つのビジョンに収まるという感覚を得られていた。 る。そのためかっての理系の世界における筆者の前著『物理数学の そこで現在の大学内での状況を眺めると、今の経済学でそうした直観的方法』のような本が、もし経済学部にも存在していれば、そ トップ理論の地位にあるのは、マクロ経済学の「動学的マクロ均衡の状況が大幅に救われるのではないかということで、その要望に答 理論」である。ところが一昔前にはケインズ経済学の一般向け解説えて書かれたのが本書『経済数学の直観的方法』 ( 講談社プルーバッ 書が新書版でたくさん出ていたのとは違って、これに関してはそう クス ) である。 いうものがさつばり見当たらない。 ) その理由は一つには、この最新本書の場合何と言っても最大の特徴は、理系と文系の中央位置か 理論が高度な数学を使っていて、その数学部分がわからないと解説ら双方を視野に入れていることで、それによって初めてこれらの理 自体が不可能だからである。そして数学的に難しいという点では、 論の直観的な解説が可能となっている。また本書では、経済学全体 現在の経済学ではもう一つ、 リーマン・ショックなどの折に有名にを把握する方法論自体も、常識とは異なる全く新しいものが採用さ な「た金融工学の「プラック・シ「ールズ理論」があり、これらがれており、それは攻略目標を直接この「二大難解理論」に絞「て、 BII. TEBACKS 経済数学の 直観的方法 マクロ營学 5
の規模をこえる集団の中でも人間個体は暮らしている、とい ろいによって関係を一つずつ形成していかなければならない うことは繰り返し述べてきた。今日、われわれは、間億人のサルたちとは違って、一一一一口語があれば、身体的接触なしに関係 地球社会の一員として生きている。もちろん、こんな大規模をどこまでも広げていくことができる。しかし、人間一般に な社会をーー意図通りとはとうてい言えないながらもーー・運通用する言語というものはない。言語は多様化し、たえす 営し、それぞれの個人がその中の一人であるという自覚をも「方言」へと分かれていこうともする。言語は、集団を閉じ、 っためには、多数の制度や先進的なテクノロジーの助けが必分かっメカニズムにもなる。 要である。しかし、逆に言えば、制度やテクノロジーといっ このように、一一一一口語は二つの反対方向のべクトルがせめぎ合 た前提条件さえ整えば、われわれは、間億人でさえも、一つう場そのものである。ここでハイデガーが一言語について述べ の集団として認知することができるのである。では、集団のたことが連想される。ハイデガーは、一一一一口語を人間の道具とし 規模をどこまで拡張することができるのか。原理的に言えて捉えるのは適切ではなく、言語を表現する適切な隠喩は、 とこカ ば、それは無限なのではないか。。 、に、絶対に乗り越え「家」、「存在の家ーであると述べた。言語が、われわれを適 られない上限などはないのではあるまいか。 度に広く、適度に閉じられた空間の中に置くということを、 さて、すると、人間の社会については、次のような像が正心地よいものと考えるならば、まさに、 言語とは「家」であ 確である。一方では、 2 という極小の規模へと集団を縮小さる。だが、ジャック・ラカンは、例によって、これにひねり せていこうとするべクトルがある。他方には、集団を無限にを加える。一一一口語は、家は家だが、「拷問部屋」か「監獄」で 拡張していこうとするべクトルも潜在的には作用している。ある、と。 この二つのべクトルの均衡する規模として、「 15 0 」が浮 かび上がってくるのではないか。二つの互いに引き裂くよう なべクトルの合力が、 150 という規模の集団をしばしば凝 結させるのではあるまいか。 人間の社会に働くこの二つの背反的な力を端的に表現して いる人間的な現象は、言語であろう。言語が、 関係を拡大 し、拡散させるのに貢献することは明らかであろう。毛づく 1 Robin Dunbar, H ミ E き ~ ミド London: Penguin Books, 201 chap. 3. 現在の日本人の年賀状の平均枚数 ( 出す人に限定した ) は枚弱だとい うことなので、 15 0 より大分小さく、チンパンジーの集団規模並である。 が、 100 通以上出す人もめずらしくはなく、 150 通だと聞いても驚くほ どの数ではない。 3 Jacques Lacan. ト e ミ守ミ・トぎミトご、箜攣 . Paris: Seuil, 1981 p. 276. ( おおさわ・まさち社会学者 ) ( つづく )
ですが、ツヴァイクは歴史研究者ではなく、あくまで作家の立場か けれんみ らアプローチしているため、正しい部分もあるのですが、外連味溢 れる表現に流される傾向があり、それがまことしやかに言い伝えら アントワネット、ルイ・オーギュスト れたことが、現在のマリ 像を定着させるに至ったのだと思われます。 ルイ・オーギュストにおいても、冴えない風貌、背は小さく太っ ている等の表現がありますが、実際の彼は、新歳の段階で 178 セ ンチあったという記録が残っており、後の処刑時には 19 2 センチ アントワネッ の長身になっていたようです。それに対してマリー・ トはかなり小柄だったようで、コンピエーニュの森で二人が初めて 引き合わされた際に、その姿を見た者たちは彼女が間歳から肥歳く らいにしか見えなかったという記述を残しています。 麦にマリー ・アントワネットが髪の毛を高く盛ったりしたのも、 背の高すぎる夫との釣り合いを考えて、美容師がアレンジしたので は ? などと、担当編集の北本とヴェルサイユ滞在中に冗談半分に 話したりしていました ( 笑 ) 。 ・アントワネットも新歳を過ぎたあたりから、身長も伸び て体つきも女性らしくふくよかになっていったそうです。それでも ・アントワネ 土夫との身長差は結構あったと思われます。またマリー 談 ットとの婚約時のルイ・オーギュストを描いた絵画や版画を見る限 講 実り、彼が痩身である事が確認できました。筋肉質な体驅でかなりの 領カ持ちだったようで、錠前作りだけではなく自室の内装を職人達の ④陣頭指揮を執りながら自ら作業に携わったりと、今でいうところの 2
いつの日にか運動に復帰はしたものの舞台だけでは食べていけず、映画で生活 日にか提灯行列を見ることが出来よう。 会の喜びにひたれ得よう。俺は気が狂いそうだ。俺は太鼓費を稼ぐという構図はこれまでと変わらない。 を打ってみたい。俺は提灯行列をやってみたいのだ。長袖映画は、一本の例外もなく国策一色に染まっていた。昭和 の着物がみたいのだ。戦争、戦争、戦争、それは現在の自一八年に丸山が主演したひとつが、一二月封切の『若き姿』 注 分にとってあまりにもつよい宿命的な存在なのである。世だ。制作は、京城に拠点を置く「朝鮮映画製作株式会社 ( 以 はまさに闇だ。戦争に何の倫理があるのだ。大義のための下、朝映 ) 」だ。主演は丸山定夫、準主演は朝鮮の人気俳優、 黄澈。映画雑誌には「丸山定夫と半島随一の立役者黄澈との 戦、大義なんて何だ。 対決」と宣伝されている。 日本の植民地にされた朝鮮では、映画が露骨な国策遂行の 学生たちが実際に東京を発ち始めるのは、一二月に入って からだ。同年一二月九日、苦楽座の徳川夢声は、その風景に道具になった。初期は皇民化教育や日本語普及に、末期は戦 場に若者を駆り出すために使われた。特に昭和一七年に朝映 偶然出くわしている ( 『夢声戦争日記』以下同 ) 。 やかま 東京駅、今日の検札非常に八釜しい。即ち学徒出陣のが設立されて以降、制作は完全に朝鮮総督府と日本軍の管理呼 の 朝だったのである。歩廊には、日の丸の旗を胸に結んだ大下に置かれ、日本の映画会社が現場を仕切った。『若き姿』 学生が一杯いた。 ( 略 ) / やがて列車は、信号のベルが鳴りの監督は豊田四郎、脚本は苦楽座を立ち上げた八田尚之、セソ 終ると同時に静々と辷り出した。 / 恐らくこのベルの音をット撮影は大映多摩川撮影所、屋外ロケは北アルプスや白馬代 彼等は死ぬまで忘れないであろう。 / 私は一歩前へ出て、で、全編日本語である。 映画は、朝鮮人に兵役を義務付ける法整備が整うタイミン地 両手を上げ、車窓の学生たちに向って、バンザイを叫んだ。 『無法松』に生きる悦びをかきたてられ、そして戦地へ赴いグに合わせて企画された。昭和一八年三月、兵役法が改正さ植 た若者たち。多くは、一一度と故郷の地を踏むことはなかった。れ「朝鮮同胞に対し徴兵制を施行し、昭和十九年度より之を 徴集すること」が閣議決定され、さらに五月、陸軍に続いて 海軍が特別志願兵制度を新設、予備訓練の導入が決定される編 朝鮮の国策映画 この時期の丸山定夫 ( 四二歳 ) は、苦楽座で文学作品を舞 ( 『朝鮮』昭和一八年六月号 ) 。 台化した戯曲に出演しながら、映画にも出演している。新劇東京国立近代美術館フィルムセンターが、『若き姿』のフ /
考える。それに対して、キリスト教では教会にイエス・キリ いう、キリスト教を人間の内面の事柄に限定してしまう誤解 ストが常にいるのである。真の神の子であるイエスはいつだ。もっともルター派の一部や敬虔主義というプロテスタン も、「あなたがた」すなわちイエス・キリストを救い主と考ティズムの潮流の中にそのような傾向があることは事実だ。 える人々の間にいるので、洗礼を受け、礼拝に出席し、聖餐しかし、本来、ルターやカルバンが考えていた「信仰のみ」 式に与かる人々の共同体である教会が死活的に重要になるのとは、カトリシズムの「信仰と行為」という考え方に対抗し である。 て生まれたものだ。信仰があるならばそれは直ちに行為につ もっともこの教会は、目に見える聖堂や礼拝堂ではない。 ながるはずである。「信仰即行為」なのだ。それを「信仰と 人間の目には見えないけれども確実に存在する、現在生きて行為ーという形で整理すると、信仰と行為が分離できるとい いるキリスト教徒と死んで眠りに就いているキリスト教徒にうことになってしまう。それだから「と」でつなぐような信 よって構成されている教会が重要なのである。教会に行かず仰理解を宗教改革者は拒否したのである。 、個人で信仰を持っていても救いにはつながらないのであ「信仰のみ」という原理で生きる人は、人生の全ての領域に る。 おいて「信仰即行為」が貫かれなくてはならないと考える。 それだから、活動的になる。 ・信仰義認 正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のた・復讐 めに命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わ愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい つみびと たしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちの「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言わ ために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対すれる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べ る愛を示されました。 ( 「ローマの信徒への手紙」 5 ・ 7 ー 8 ) させ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼 の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって 人間は「信仰のみ」によって救われる、神学用語で言う信悪に勝ちなさい。 ( 「ローマの信徒への手紙」肥・四ー幻 ) 仰義認というのがプロテスタンティズムの基本原理だ。この 一 = ロ葉はよく誤解される。信仰があれば行為はどうでも、 しいと「目には目を、歯には歯を」という復讐刑は、古代バビロニ 3
持っている権利を用いないということです。 ア帝国で実施されていた。この伝統をユダヤ教も継承した。 これはそもそも「目には目と鼻を」というような復讐の拡大わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の を防ぐための規定だった。今でもイスラム世界では復讐法が奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。 ( 「コリントの信徒への手紙一」 9 ・ 機能している。 これに対して、キリスト教は復讐法を採用しない。なぜな ハウロは、イエス・キリストが説いた教えを独自の表現で ら、復讐は人間ではなく、神が行う専管事項であるからだ。 この世界の支配者は神であり、人間が犯した犯罪に対する復言い換える天才的な能力がある。バウロの論理は、自由な労 讐についても全面的に神に委ねられる。敵に対してキリスト働ならばそれに対する報酬があるが、奴隷労働には報酬がな いという前提に立っている。キリスト教信仰とは、イエス・ 教徒が取るべき態度は、憎しみでなく、愛に基づくのでなく てはならない。日本的に言うならば「罪を憎んで人を憎まキリストに奴隷のように従うことによって成立する。それ は、イエス・キリストが神の奴隷だったからである。もっと ず」ということになる。 ちなみにヨーロッパでは世俗化が進む過程で、復讐する主もイエス・キリストに従うことによってキリスト教徒は自由 体が神から成文法 ( 刑法 ) に転換した。欧米や、それに範をになる。奴隷になることが自由への道であるという逆説をパ とった日本の近代法が復讐法を禁止している背後には、「復ウロは説いている。 キリスト教の伝道を行うことをパウロは自発的意思によっ 讐はわたしのすること、わたしが報復するーというイエスの 言葉がある。聖書の言葉はこのような形で現代文明に埋め込て行っている。それならば、バウロは教えを伝えた相手から まれているのである。現在、普遍的な価値観とみなされてい報酬を受け取る権利があるはずだ。しかし、バウロはその権 る国家主権、人権、法の支配などの発想の背後にはキリスト利を放棄して報酬を受け取らない。なぜなら、バウロがイエ 教があるのだ。 ス・キリストの奴隷だからである。キリスト教が宗教活動に 対して報酬を求めないのは、その背後にバウロの奴隷的信仰 ( つづく ) 観があるからだ。 ・自由な者かっ奴隷 わたしの報酬とは何でしようか。それは、福音を告げ知ら * 引用はすべて「新共同訳」による。 ( さとう・まさる作家・同志社大学神学部客員教授 ) せるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然 7
物語はマリー・アントワネットとルイ世の次男、後のルイ世ュ宮殿で王太子妃として彼女なりに人生を歩み始める様子を描くこ となるルイ・シャルルが生まれた直後から始まります。 1789 年とにしました。 に起こるフランス革命の 4 年程前、マリ アントワネットとル 少年少女の結婚がテーマといえば、何となく少女漫画を彷彿させ イ・オーギュストにとって、この頃が人生で一番穏やかで幸せなますが、当時、大国であったオーストリアとフランスの皇女と王太 日々だったのではないかと思われます。 子、二人の結婚は「世紀の結婚」と言われ、これによって敵対して ことの始まりはヴェルサイユ宮殿を舞台にしたマンガを描きませ いた両国に同盟関係が生まれ、ヨーロッパ全土に大変な衝撃が走り んか、というフランスの出版社グレナ社と講談社からの依頼でします。今で一言うならアメリカとロシアが同盟を結ぶくらいの衝撃だ た。ヴェルサイユ宮殿が全面協力してくれて、現物の資料からデー ったようです。 夕まで、何でも見せてくれるという。すでに連載している『チェー この時マリ ・アントワネットⅡ歳、ルイ・オーギュスト新歳、 ザレ』の体制と比べたら想像するだけで天国です。 現在でいうなら中学生の年頃、全くの子供です。まだ成熟していな そのとき、どんな描き方ができるだろう、と興味が湧きました。 い子供同士が、国と国の政略で結婚させられてしまうのですから、 160 ページで単行本一冊の企画でしたので、どの部分に焦点を当近世とはいえ、まだまだ過酷な時代でした。 てるか悩みましたが、 彼らの何がいま現在まで誤解、曲解されてき ・アントワネットとルイ・オーギュストについては、オー たかを踏まえた上で、アントワネットのお輿入れから、ヴェルサイストリアの作家であるシュテファン・ツヴァイクによる伝記が有名 ほんとうのマリー・ アントワネット 冬 実 トフネットの ン ア マ惣領冬実 / 塚田有那 その歴史、ぜんぶ 騫をのアす気な い第なにれは、新第子を食“げ、第 : 、な、、を ・は 3 を気第られ交第き。な一気止 でしな
れる。そして、人類をその中に含む、旧世界ザルのもうひと つの代表が、類人猿である。ヒト以外の類人猿には、アジア 150 人の集団 に生息するテナガザル、オランウータン、そしてアフリカに 今しがた、ヒトの集団も含めて、霊長類の進化は、社会性 生息するゴリラ、チンバンジー、ポノボがいる。テナガザルの極小値と極大値の間を移動する、と述べた。極小値につい 以外の類人猿は、ヒト科に分類される ( もちろん人類はここてはすでに見た ( 単独行動 + ペア型 ) 。極大値の方も先に見定 に入る ) 。 めておこう。ホモ・サピエンスの本来の社会、いわば動物と 人間がチンバンジーやポノボといかに進化の分岐の中ですしてのヒトの社会、原初の自然な人間の社会がどのようなも ぐ近くにあるかということを印象づけるためにしばしば指摘のなのか、ごく概略的に確認しておこう。といっても、その される事実は、遺伝子の違いである。チンバンジーと人間のようなものが、実際に観察できるわけではない。ただ、理論 全ゲノムを解読した結果、両者の遺伝子レベルでの相違は、 と事実の双方から、そうした社会の外形だけを抽出し、仮説 1 ・ 2 % であるとわかった。つまり、チンバンジーと人間で的に設定しておくだけだ。霊長類の社会の進化についての説 は、遺伝子だけで比べると、 ・ 8 % 同じだということにな明が向かう先、ゴールを明確にしておくためである。 る。ゴリラやオランウータンの遺伝子と人間の遺伝子も、 2 ここで役立つのが、ロビン・ダンバ ーによって唱えられて 53 % しか相違がない。 いる社会脳仮説である。社会脳仮説とは、脳の大きさと ( そ もっとも、絶滅種のことを考えれば、これら類人猿の諸種の脳を有する動物種が形成する ) 社会集団の規模の間には、 よりももっと現在の人間に近い種がいた。チン。ハンジー・ポ正の相関関係がある、とする仮説である。「脳の大きさ」と ノボの系列とヒトの系列が枝分かれしたのは、およそ七〇〇 いうのは、厳密に一一一一口えば、大脳新皮質の容量、もしくは前頭 万年前だ。この七〇〇万年の間に、ヒトの系列には、現生人葉の容量だ。類人猿なら類人猿、サルならサル、あるいは原 類 ( ホモ・サピエンス ) が登場する前に、いくつもの種が出て猿類なら原猿類と、ひとつの進化の系列をとりあげ、その系 きて、そして絶滅した。もちろん、大半は、現生人類の直接列上のそれぞれの種の平均的な脳の大きさとその種がつくる の祖先ではない。 これらの絶滅した人類の仲間についても、 社会集団の平均規模の間の関係を見ると、そこに非常にきれ 後に検討することになるが、まずは、現在の地球上で生存を いな定量的関係を認めることができる。この仮説は、因果関 確認できる種、霊長類に限って考察の対象としよう。 係についての次のような推論に基づいている。まず、ある個
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とがたくさんあり、説明すべきことを説明せず、読者をはてなマー クの中に置いてきばりにしがちだ。私もその例外ではない。例外で ないどころか、どんびしやりの典型例である。 4 本当に困っている人たちのために だから、私の本には、読者の視点から適切な質問を投げかけてく そう思って、もう一度、考えてみる。憲法を待っている人は本当 にいるのだろうか。確かに、日々の生活に満足している人たちは、れる人が必要だ。なんと、『憲法という希望』では、国谷裕子さん がその役をやってくださった。皆さんもご存知の通り、国谷さん 「憲法なんてあってもなくても一緒だ」と思っているかもしれない。 しかし、本当に困っている人たちは違う。誰かに助けを、希望を求は、「クローズアップ現代」のキャスターとして活躍した。 めている。本当に困っている人たちのために、憲法は何をできる「伝えるプロ」の国谷さんが投げかける質問は、視聴者が「まさに そこを聞いてほしかった」と思うものばかりだ。 か。それを検討したのが、『憲法という希望』 ( 講談社現代新書 ) とい う本だ。 私の一方的な語りを読んで、「いま一つよくわからない」と思っ この本では、夫婦別姓訴訟と辺野古基地問題を考えた。民法七五た方も、きっと、最後の対談部分を読んだ後には、「なるほど」と と感じるところが格段に増えているのではないかと思う。 〇条は、夫婦のどちらかが氏を変更しないと法律婚はさせない、 規定するため、多くの別姓希望カップルが、事実婚という不安定な 状態にとどまることを余儀なくされている。辺野古基地の建設につ 6 お説教はそろそろ終わりに いて、沖縄の人々は、本当に困り果て、心の底から怒っている。 憲法は大切だとか、立憲主義は人類普遍の原理だと抽象的に言っ ても、その大切さはなかなか伝わらない。偉そうなお説教に聞こえ、 困っている人たちのために、憲法にできることはないのか。実は、 結構あるはずだ。憲法を国民がきちんと使いこなせるようになれば、「憲法なんてうんざりだ」という反発を生むことすらあるだろう。 憲法は社会をより良くする力になる。本当に困っている人たちの希しかし、本当に困っている人を前に、「すべての人が尊重される 望になる。『憲法という希望』では、憲法を神棚に祭り上げるので社会を作るにはどうしたらいいのだろう」と考えをめぐらすと、憲 はなく、憲法を引きすり出そう、現実に役立てようと試みている。法の潜在力に気づくはすだ。自すと、建設的な提案が見えてくる。 異なる個性を持つ人々が共に生きようとする限り、憲法は間違い なく待たれている。憲法にどんな希望が見えるのか。ぜひ、体感し 5 憲法を伝えるには ? ( きむら・そうた憲法学者 ) ただ、本の著者というのは、自分の中で当たり前になっているこてみてほしい。 なかったのだ。 0