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検索対象: 読書人の雑誌 本 2016年10月号
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1. 読書人の雑誌 本 2016年10月号

・ふどうの木と枝 ストから離れてしまうことになる。イエス・キリストと常に わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわっながっているということは、世俗的な価値を中心に動くよ たしにつながっており、わたしもその人につながっていれうになっているのではないかと、常に自分を批判的に吟味す ) る必要があるということだ。 ば、その人は豊かに実を結ぶ。 ( 「ヨハネによる福音書」・ 5 ぶどうの幹から離れた枝は枯れてしまう。それと同じよう・大きな愛 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさ にイエス・キリストから離れるとキリスト教徒は信仰を失っ 。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てる てしまうのである。常にイエス・キリストとつながっている ということは、実は難しい課題なのである。 こと、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行 うならば、あなたがたはわたしの友である。 313 年のミラノ勅令で、コンスタンチヌス帝がキリ ( 「ヨハネによる福音書」 スト教を公認した。ここからキリスト教は「与党化」あるい は「体制内化」していく。その結果、弾圧されていた時代と 比べて誘惑がはるかに大きくなるのである。キリスト教徒で「友のために自分の命を捨てること」とは、人間間の友情を 指しているのではない。マフィアやヤクザのような暴力集団 ありながら、名誉、出世、カネなどを重要な価値とするよう になれば、その人はイエス・キリストから離れてしまったこに所属している人間でも仲間のために命を捨てることはでき とになる。逆に何が何でも体制に反対するという野党的姿勢る。ここで「友のために自分の命を捨てること」とは、イエ も、政治に最大の価値を置くことになるので、イエス・キリ ス・キリストが、自分には何の罪もないのに十字架に掛けら 聖書の亠 = ロ葉」を読む 第 7 回友のために自分の命を捨てること 佐藤優 0 7

2. 読書人の雑誌 本 2016年10月号

れて死ぬという意味だ。このようなイエスが示した愛にとど なたは今夜、鶏が鳴く前に、 三度わたしのことを知らないと まり、愛の掟にとどまることによって弟子たちは友と呼ばれ言うだろう」と言い返す。ベトロは「たとえ、御一緒に死な るのである。 ねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決 キリスト教の特徴は「すべての道はイエス・キリストに通して申しません」と一言う。しかし、実際には、。 へトロは鶏が じる」という発想をするところにある。人生や仕事で困難な鳴く前に三度イエスを知らないと言うのである。 問題に直面したときは、聖書をひもとき、イエス・キリスト 人間は弱い存在だ。自分の弱さを素直に認めずにイエス・ ならばこのような状況でどのように行動したかを考える。そキリストに徹底的に従うことができるなどと調子のいいこと の上で、自分の行動をできるだけイエスに近づけていくとい を言ってはいけない。ちなみに遠藤周作氏の小説『沈黙』 うのが愛の掟にとどまるということだ。しかし、人間は本質で、何度も転ぶ ( 信仰を捨てる ) キチジローのキャラクター せいあく 的に性悪な存在であるので、愛の掟にとどまって行動するこは、。 へトロを基にしている。 とができないのである。イエス・キリストに従うことによっ てのみ人間は愛を知ることができる。 ・赦し 父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知 ・裏切り らないのです。 ( 「ルカによる福音書」・ 3 あなたは今夜、鶏が鳴く前に、 三度わたしのことを知らな いと一「ロ、フだろ、フ。 ( 「マタイによる福音書」・ ) 十字架に掛けられたイエスを、その場にいた人たちは揶揄 する。くじを引いて、イエスから脱がした服を分配する。議 ベトロはイエスの一番弟子であるが、少し調子がいし 、とこ員たちは、「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選 ろがある。官憲に逮捕される日の夕刻、イエスが弟子たちにばれた者なら、自分を救うがよい」、兵士たちは「お前がユ 「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく」、即ち「お前たちダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」とからかう。 は全員、俺を裏切る」と言った。これに対して、ベトロが この人たちは、神の子とは超能力を発揮し、死の危機から 「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決して自らを救い出すことができる存在であると勘違いしている。 つまずきません」と宣一一一一口する。これに対して、イエスが「あキリストの強さが、弱さにあるということを理解していな

3. 読書人の雑誌 本 2016年10月号

「いや、別に僕は馬鹿にしたつもりはない。僕は百合の花を と一言葉を濁してはっきりウェディングドレスと言えなかっ 貴いものだと思っているから。ュリネは犬にとっては毒だが」たのはポチの心が傷つくことを恐れたためですが、ポチの方 「まあ、そういうことだ。つまり僕は月見うどんを作るのは から、「ウェディングドレスのことか」と一言い、でも考えて 楽しいし、食べてもおいしいから、月見うどんを食べているみれば、と言ってやっと本質的な話を始めました。ポチは以 んだよ」 下のようなことを言いました。 「あれ、でもおかしいなあ。さっき人生の楽しみを追求する のが面倒になったから月見うどんを食べてるって言ってたよ 自分が酒をやめたのはウェディングドレスが辛かったから ね。でも月見うどん自体が楽しいのであればそれは楽しみをではない。確かに人の視線は辛かった。けれどもそれは気に 追求してることになりゃあしませんかね」 しなければ意外に気にならないというか、自分で自分のこと 「あ、そうか。わかった。ならばいし を気にしているほどには他人は自分のことを気にしていない そう言ってポチは手に持っていた鍵束をテープルに置き、 ということが次第にわかってくる。一瞬は、ぎよっ、とした そして言いました。 顔でこちらを見るが、数メートル行かないうちに別のことを 「ならば僕は月見うどんをやめよう。漬物とご飯だけを食べ考えている。それがわかれば人の視線なんてなんともおもわ ることにしよう。それでよろしいでしよう」 というか逆に相手の反応を見ておもしろがるくらいの 妙に静かな、しかし決然とした口調でした。私はこの感じ 心の余裕が生まれてくる。 に既視感を覚えました。そう、口調こそ違え、以前、「わか つまりやめた原因はそれではない。ではなにかというと面 ったそれならウェディングドレスで生活する」と宣言したと倒くささだ。朝、起きていちいちウェディングドレスに着替 きの感じに似ているのです。ということは。そう、さらに事える面倒くささ。これには閉ロした。そもそもウェディング 態がこじれる可能性があります。私は慌てて言いました。 ドレスというものは一生に一度の晴れの舞台で着るためにデ 「なにもそこまでして人生から楽しみを排除することはない ザインされており、毎日着るようにはなっていない。それを じゃないか」 毎日着るのは本当に嫌なことだ。朝、目を覚ます度に、「あ 「排除しているわけじゃないが、酒が飲めないわけだから」あ、今日もウェディングドレスを着なければならないのか」 「けれども、そこまでしたらほら、あの : と思うと気がふさいでならなかった。そしてまた動きづら

4. 読書人の雑誌 本 2016年10月号

不快な思いをさせたと反省する。この男にとって、仕事がまするなとシッペ返しする気力も残っている。それは六十代で あればこそだろう。編集者に感謝である。 さしく「身の丈に合った暮らし」だったのである。 ここから先の展開はどんでん返しに次ぐどんでん返しで、 このような展開からもおわかりの通り、私はこの小説を決 して甘くは書かなかった。ところが、読者カードの多くに、 そう都合よくは進まない。現実社会は甘くない。 「読んで心が明るくなった。先々に希望が持てた」 その意味では、主人公の恋愛もそうだ。私は当初、この小 説に恋愛を入れる気はまったくなかった。小説や映画では中「定年後の人生に道筋がついた気がして、心が解放された」 などとある。編集者と二人で「どこに希望が持てたんだろ 高年の男が激しい恋に落ちたり、のつびきならないところま で進んだりする。だが、現実社会を考えた時、どこのどんな うか」と話したのだが、 ひとつには主人公が最後に到達する 女が「終わった人」に恋をするのか。職なしカネなし、ある境地にあるかもしれない のは時間だけというリタイア男にそそられる女は、たまには「思い出と戦っても勝てねンだよ」 いるかもしれないが、ほとんどいないだろう。 これは旧知のプロレスラー武藤敬司さんの名言である。 だが、担当編集者 ( 男性である ) が言った。 「終わった人ーが苦しむのは、全盛期だった頃の自分と比べ 「やつばり、恋がないと淋しいなア。恋を入れられませんか」るからだ。それは遠い思い出であり、そんなものと戦っても この提案に、私は目からウロコが落ちた。そうだ、小説や勝てない。別の戦いをするべきなのだ。 映画と違う「現実」を書こう。妻や娘は「終わった人」に夢主人公はここに到達し、故郷の岩手県盛岡市に戻ってゼロ 中になる女は稀有だとわかっているので、 からやり直す。それは枯れていない六十代にとって、先は見 、恋でもしなさいよ ! 」 えないが心弾む新生活ではある。 と、けしかける仕末だ。 「希望を持てた」という読者は、自分にも帰れる故郷がある 脱稿した時、このシビアな恋物語があることが、六十代のと気づいたのかもしれない。 男を描く上で大きなポイントになったと思った。六十代は、 岩手が生んだ天才歌人・石川啄木、その詩集『あこがれ』 自分ではまだ枯れてはいないのに、社会では枯れた範疇に入の献辞をもじり、私は「あとがき」に書いた。 れがちだ。そんな時に思わせぶりな女が現われれば、「まだ「此書をすべての読者の ( うちだて・まきこ脚本家 ) 恋愛ができる自分」に力がみなぎる。女が裏切れば、バカに 遥に故郷の山河に捧ぐ」 5

5. 読書人の雑誌 本 2016年10月号

してゐる専門家である。農業者や工員その他に比して、より 三好が退路を断ったのと同じ時期に丸山は映画界に入り、 そしてスターとなった。その丸山に、三好は苦言を呈す。丸高い収入や、より贅沢な暮し方を自分の方から要求しゃうと 山が苦楽座を立ちあげた翌年、二人が誌上で交わしたやりと言ふのは間違ってゐる」とし、大半の市民は月収六〇円から 一〇〇円で生活しているとして一気呵成に続ける。 りがある。「新劇では食えない、食えないからしたくもない 演目を選ぶようになる、だから映画で稼ぎながら本当にやり「千円もの月収を得て贅沢に馴れスタア意識に毒されてしま った阿呆共が、自分で自分の『伝説』に縛られてしまひ、 たい芝居をするのだ」と主張する丸山に、三好が激怒する。 その反論は二五頁、約三万二〇〇〇字。量の膨大さに加『良い仕事のためにならば千円の月収が百円になってもよい』 え、辛辣さでも比類のないものだ。丸山が抱える自己矛盾をとは思はないで、口先だけでは『良い仕事』をやると称しな がら、千円の月収にかぢり附いてゐるーー・これを、これこそ 容赦なく暴き、粉砕し、徹底的に追い詰め、逃げ場を奪った うえで断罪している。公衆の面前で、ここ迄やられたらたま怯懦と言ふ。千円の月収のある者が百円の月収のある者を見 て『とてもそれでは食へない』とデマるーーーこれを、これこ らない ( 『演劇』昭和一八年四月号 ) 。 「君達は、スタア意識も道楽意識も生活の安全保証も捨てよそインチキと言ふ」。 そして、それだけの月収を持つ者が集まってさえ、苦楽座 うとしない。そこにはどんな種類の断絶も自己放棄も無し 在るものはせいぜい『映画の仕事が暇になったから、その暇の演目は「より曲って居り、より濁ってゐるとしか僕には見 えない」と切り捨て、丸山の言う「新劇余力論」を根底から をなるべく有益なことに使はう』・ : ・ : と言った程度のシミッ タレな『善意』だけ」、苦楽座の俳優は金持の旦那の道楽と否定した。 現実に、芸術家として厳しい道を選び、それでも「何とか 同じで「虚妄にとりつかれた『新劇くづれ』」と言い放つ。 丸山が「新劇では食えな食っている」三好の言葉である。特に、苦楽座の現状につい い」と書くのに対しても、ての一撃は骨身に滲みただろう。丸山や徳川夢声など人気俳 年 三好は、新劇で「餓死した優が集まる苦楽座では、それそれが映画出演に忙しく、一堂 昭 者が一人でも居るか ? 」とに集まっての稽古すらままならぬ状態で公演に至ることが多 かったからだ。 十切り返す。「芸術家 : : : は、 三もともと自分の好きな事を「これが『鞭打っ』と言ふ事になるのであったら、僕は鞭打 9 ママ

6. 読書人の雑誌 本 2016年10月号

現われはじめた。視界がかすみ、め「きり視力が落ちた。と、正直なところ心が揺らぐ。自分史には、おのれを客体化 病院の診断では眼底出血を起こしているという。レーザー光して凝視する、強靱で冷静かっ公正な″眼″が不可欠だが、 線を用いた光凝固という治療を受けるのであるが、症状は好自分がそれを備えているとは言い切れないからである。甘え 転しない。特に右眼の視力低下は甚だしかった。 て生きてきた私のことだから、ペンの先でおのれをかばい立 この年、一九八九年の暮れであるが、本田は自宅で心不全てするに違いない。 を起し、救急車で病院に担ぎ込まれた。幸い、心不全から そういう思いで越し方を振り返ると、恥以外に書くべき事 は回復したのであるが、『山と渓谷』での休載を余儀なくさ柄はないような気がしてくる。月並みな言い方だが、いまさ れた。 らながらいい加減に生きてきたことを悔やまずにはいられな いのである。 眼の不調は続き、本田は東京女子医大腎臓病センターに転 院する。病院での治療は不良で、右眼は糖尿病性網膜症に起さいわいにも、左眼の眼底出血は矯正視力〇・四でいちお 因する緑内障に冒され、もう視力は戻らないと診断される。 うくい止められた。だが、私は右眼の失明によって精神的な たなおろ 放置すると眼球を摘出しなければならず、それを防ぐ手術を棚卸しを迫られ、六十年になんなんとする半生が空疎である 受ける。左眼の視力は光凝固でなんとか現状を維持することことを思い知らされた。これは、せめて残された時間を少し ができたが、この時期が二度目の休載期に当たっている。 は大切に生きろ、ということであろう。 両眼の視力を失うことは免れたのであるが、その可能性も前にかかっていた医師の落ち度は不問に付すことにした。 あった。光を失えば、ノンフィクションを書く作業を持続す残された時間を係争などで費やすのはもったいないという気 ることは困難である。残された道はあるのか コラムで持ちになったからである》 ( 一九九三年十月号 ) は本田流の諧謔味をきかせつつこう書いている箇所がある。 病を得て六十代に入った本田の心境の一端が垣間見える。 《フリーになってからの私は、ほば一貫して「戦後」という テーマを追い続けてきた。その延長線上で自分史を綴ること「自由の精神」への共鳴 は可能である。これならば取材も資料集めもとくに必要とし『山と渓谷』での十五回の連載が完結したのは一九九一年十 二月号で、単行本が刊行されたのはさらに一年後である。 しかし、印刷に値するだけの作品を仕上げられるかとなる本田が病床にあった時期、神長が″代行者″として積み残

7. 読書人の雑誌 本 2016年10月号

い。イエスは、罪がないにもかかわらす、真の人になって、化すると考える。しかし、これは奇妙な発想だ。本当に肉や / 他の人間の代わりにその罪を引き受けて死んだのである。イ血に変わるならば、味も変化しているはずだからだ。特に エス・キリストの代理の死が、人間が救済される根拠なのでサによって、この変化が起きるという発想は魔術に近い。 ある。 大多数のプロテスタントは、パンはバンで、ぶどう酒はぶ 人間は愚かな存在だ。自分が行っていることがどういう意どう酒であり実体が変化するようなことはないと考える。た 味を持っているかを理解できていないことが頻繁にある。た だし、信仰のある人がこのバンを食べ、ぶどう酒を飲むと、 だし、その後、どこかの時点で「しまった」と気づくことがそれは体内で消化されて、自分はキリスト教徒であるという ある。そういうときは、妙なプライドにとらわれずに軌道修ことを再確認するエネルギーをもたらす。それだから、聖餐 正することが重要だ。 式は人間の救済に直結する重要なサクラメント ( 聖なる儀式 ) と考えるのである。キリスト教徒が日曜日に礼拝に出席し、 あず ・キリストの肉と血 聖餐式に与かることは救済と直結した重要な信仰的行為なの 一同が食事をしているとき、イエスはバンを取り、賛美のである。 祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われ た。「取って食べなさい。 これはわたしの体である。」また、 ・世の終わりまで 杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、 わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。 この杯から飲みなさい。 これは、罪が赦されるように、多く ( 「マタイによる福音書」・ 2 の人のために流されるわたしの血、契約の血である。」 ( 「マタイによる福音書」・ー イエスは、十字架に掛けられ、死んで葬られる。そして 3 日後に復活し、弟子たちと再会する。その後、天に昇ってい ここに描かれているのは、最後の晩餐の風景である。この く。それでは、再臨の日までイエスは地上からいなくなって 出来事を記念して、教会では牧師 ( 神父 ) が、バンとぶどうしまうのであろうか。そうではないというのが、この言葉が 酒を分け与える聖餐式という儀式がある。カトリックの場合意味することだ。 は、バンがキリストの肉体に、ぶどう酒がキリストの血に変 ところでユダヤ教では、神は律法を学ぶ人の間に現れると

8. 読書人の雑誌 本 2016年10月号

短歌研 実は美談として教科書にも載ったけれど、事実には裏もある。裏の 彼らは純粋に「空の冒険野郎」だった。 いや、果たしてそれだけか。 方が面白い。裏には恋も別れもあり、時代の魔の手も伸びていた。 アンドレ・ジャピーはフランス東部のスイスに近いポークール市 その疑問はさておき、空を飛んでいるとき、どの国にも民族にも 属さす、自分はただ一つのちつばけな生命だと感じるのは、いつのの出身で、この市にはジャピー一族が建てた幾つもの城がある。ジ ャピー一族の歴史は十七世紀から始まり、フランスの技術革新に大 時代も同じではないだろうか。あらゆる所属から離れて宇宙の塵と なる時間。かって父も、そしてアンドレも、もちろんサン・テグジきな力を発揮し、今もプジョーなど様々な産業分野を陰で牛耳って いる。アンドレはその一族の鬼っ子というか、明らかに正統な系譜 ュペリもリンドバーグも、自分を宇宙の塵だと感じたはずだ。その 究極の心細さと地上では感じられない自由。空を飛ぶ、ということ から外れ、空の子となった男。しかもかなりのハンサムで、空飛ぶ は科学的には納得出来ても、身体はその奇蹟に震えてしまう。死は貴公子と呼んでも良いルクス。 久々に私に恋がやってきた。恋がロマンを連れてきた。 すぐ近くにあり、それでも心臓は動いているのだ。 地上で自分を縛っていた概念や先入観や知識というものがはらは夜間飛行で眠れぬままシェードを押し上げて夜空を見ていたと らと外れていき、確かなものは何も無いと思えてくるかわりに、遠き、目の前に星座オライオンがくつきりと肩をいからせていた。即 かった人間がいきおい近くなるのも空の上。何しろ時空を越えた塵座に物語のタイトルを「オライオン飛行」と決めた。このギリシャ 神話の狩人を、アンドレも父も見ていたはず、と思えば、時を越え 同士なのだから。 アンドレは背振山に激突し、瀕死の状態で地元の炭焼たちに救出てロマンを語る勇気が、身体の底からじわじわと湧いてきた。 ( たかぎ・のぶこ小説家 ) された。帝国大学附属病院で手術を受け、見事空に復活した。その事 2016 加〃″ 月号 9 月 21 日発売定価 1 , 000 円 小第第 作 野 59 34 顰坂小市 評井池短回回 修光短現 第 〇 vs 日一研短 日永常ラ究歌 田のム新評 少紅中饕人 田ら対発 談受表 大和再 賞 島宏録 後 第 の す る 美文 南系穂歌 の うたう☆クラブ 双方向通信コーチなみの亜子 応募はホームページまたはメールで 斉藤斎藤歌集 『人の道、死ぬと町』 3000 円 梅内美華子歌集 『真珠層』 2700 円 花山多佳子歌集 『晴れ・風あり』 3000 円 尾崎左永子歌集受賞 『薔薇断章』 3000 円 黒瀬珂瀾歌集前川騒受賞 『蓮喰ひ人の日記』 2800 円 岡嶋憲治著 『評伝春日井建』 2700 円 短歌研究社 文京区音羽 1 -17-14 音羽 YK ビル T 圧 ( 03 ) 3944-4822 http://www.tankaken kyu. CO.jp/ 0d0 わ夜・ 7

9. 読書人の雑誌 本 2016年10月号

齋藤薫 出版社に就職し、「ヴァンサンカン」という女性誌に配属されてにとても不健全なものを感じていたのだ。本来、女は男が、それこ内 以来、ず「と女モノの世界で生きてきた。女モノの中でも、おそらそ男性ホルモン丸出しで語「たほうが、遺伝的本質が描けるし、そ く最も女性ホルモン濃度の高いビューテイベージの担当を長くしたのはうが女を磨く上でよほど効果的なのにと思ったりもした。 ことから、独立後もなんとなく、美容の世界でのライティングを生 だからもう一つ、自分の中で燻っていたのが、″まったくの女目 業とするようになる。 線で、男の生理的本質をあーでもないこーでもないと書いてみた フリーとして美容ェッセイを書き始めた頃、某雑誌の編集長に とい , っことだった。 なにか肩書きがないとね、ファッションジャーナリストがたくさん たぶん男モノを書きたいとどこかで思うようになった背景には、 いるんだから、美容ジャーナリストがいても、 しいじゃない ? と乗女モノばかり書いているための欲求不満があったと思う。 せられて、やはりなんとなく、そう名乗るようになる。でもそれ どういうことかと一言えば、女は女の悪口をなかなか書けない。少 は、「何が何でも女モノしか書きません」という宣言のようなものなくとも、 " 女性をきれいにすること。をテーマにしてきた立場と で、ますます女度の高い業界にどっぷり浸かることになっていった。 して、例えば化粧品をこき下ろすと、化粧品が効かなくなるのと同 ただここだけの話、女目線オンリーの世界にいて、いつもある違様、女の悪口をいくら書いても、女はキレイにならないから。 くすぶ あざま 和感が燻り続けていたのは確か。女性誌は、いわば " 女が女を語る いや、女を悪し様にできないから、男の悪口を書きたいと思った 女だけの世界。 : : : 男目線は、どうにも介在できない世界で、男性訳ではない。でも、女性誌編集者上がりの自分には、男をキレイに の執筆者にもどこかに女目線を強要するような傾向があったりすしようという義務感がない分だけ、ひょっとすると女モノより男モ る。 ノのはうが、本音で、魂で、時に大胆に、時に謹厳に実直に書ける でも女はや「ばり男がいるから美しくなりたいはずで、その偏りのではないかと思「たのだ。そして、異性であることのアドバンテ だって、女は男のカガミ , 齋藤薫ー 2 2

10. 読書人の雑誌 本 2016年10月号

だのそば打ちでは代替できないのだ。「貧乏性」ではなく、 書館には行かない。歩数計をつけて散歩もしない。昼間のジ 給料は二の次で仕事をしたい。社会から必要とされたい。 ムは爺さん婆さんばかりだが、一線を画して仲よくしない。 はた たが、ロにしにくい風潮の中、こう一言うしかない。 それでもやがて気づく。「傍から見たら、俺も単なる爺さん 「やっと晴耕雨読の生活を手にしました」 なんだろな」と。激しい落ち込みの中、悶々と日々を送る。 「温泉に行ったり、勉強し直したり、今までできなかったこ 私はこの本音と悲哀をしつこいほど書いたのだが、びつく とを始めますよ ! 楽しみだなア」 りしたのは講談社に寄せられる読者カードのコメントであ 本著の中に「身の丈に合った暮らし、という一一 = ロ葉が出てくる。圧倒的多くが書いてくる。 る。「身の丈」は人それぞれであり、「もっと仕事をしたい」 「どうして男の気持がわかるんだ」 ということが身の丈に合っている人はいるのだ。そんな男を「これは僕自身がモデルかと思った」 主人公にして、「定年小説」を書こうと思ったのが、本著の本当である。担当編集者によると、こんなにも多く読者カ 発端である。 ードが来たことは、編集者人生で初めてだという。 「終わった人」というタイトルは、すでに決めていた。 モデルは、よ、。まったくいない。どが、 オ自分がモデルか 主人公はエリートがしし 。雇用延長もできたが、その多くと思うということは、本音では「もっと仕事をしたい」と の場合、これまでのキャリアを踏みにじるような、バカにし 鳬々としている人が、いかに多いかという証拠ではないか。 た仕事を与えられる。とてもプライドが許さず、応じなかっ主人公をエリートにしたのは、もうひとっ理由がある。 た。結果、「毎日が大型連休」になった男の悲哀は、エリ 私自身が還暦を迎えた頃、急にクラス会や昔のサークルの トの方が明確に出ると思ったのだ。 食事会や、古い仲間たちとの集りがふえた。それらのメンバ まさに仕事一筋の男だったため、友達もいないし、趣味も ーはほば同年代である。定年になって暇があり、幹事を引き ない。やりたいこともない。やりたいのは仕事なのだ。しか受ける人が出て来たのだろう。 し、来る日も来る日も何とか時間をつぶさなければならず、 それらに出席してみて、感じた。男も女も、エリートも非 見たくもない映画を見に行ったり、スポーツジムに入ったり、エリートも、美人も不美人も「終わった人」としての着地占 カルチャースクールに通ったりする。それでも「自分は老人は大差ないなアと。 ではない」という矜持があり、老人の溜まり場と言われる図むろん、終わるまでの人生には差があろう。エリートや美 3