映画・テレビドキュメンタリー 0 橋本佳子 プロテューサー それぞれの「出発点」で観たい、生活を少しだけよくするための一歩 いて考える。今回は、そんな季節にふさわしい作品を、日 本とフランスから紹介する。 人生フルーツ』は、郊外のニュータウンの一角、雑木林 に囲まれた木造平屋に暮らすある夫婦 ( 建築家の 8 歳の夫 と、料理が得意な歳の妻 ) の物語。畑には R 種類の野菜 と種類の果実が育ち、食卓を彩る。手作りの丸太小屋 畳ワンルームで囲む、四季折々の豊かな食事。まさに家 は暮らしの宝石箱だ。自然の大きなサイクルのなかで穏や かに生きる夫婦のゆっくりと丁寧な暮らしぶりを、 2 年に わたりカメラが追った。人生は、だんだん美しくなる。そ んな = = ロ葉が心にしみる 「私たちの生活を変えなければ、人類は減亡する」。フラ トウモロ ンスで大ヒットした『 F— 0 0 c c O 』はこんな衝撃的 な『ネイチャー』 ( 国際科学雑誌 ) の論文から始まる。そ の解決策を求めて、フランスの人気女優メラニー・ロラン らが、農業、エネルギー、経済、民主主義、教育 : : : な どなど、「世界を変える新しい暮らし方」を探す旅に出た。 そこで出逢うひとつひとつが驚きに満ち、地域通貨のあ り方など目から鱗の事例が枚挙に暇なく、私たちの暮らし を考える上で示唆深い。町の花壇に野菜を植えてシェアす るなど、私の町でも出来そうだ。今すぐ手の届くところか ら始めたい。そんな勇気と希望に満ちた映画だ。 私がまだアシスタントの頃、当時参議院議員だった山口 キムイルソン 淑子さんの北朝鮮訪問に同行したことがある。金日成主席 との会談を含む番組のロケだったのだが、すべてを当局が 段取り、撮影現場には必ず役人が立ち会うという不自由な ものだった。『太陽の下で』は、今も変わらぬ北朝鮮の海 外メディアへの厳しい検閲をくぐり抜け生まれた。ロシア 人監督は当局の管理下で撮影しなければならない状況を逆 手にとって作品を成立させた。北朝鮮の真実とは何か ? 描かれた「庶民の日常生活」に驚かざるをえない 3 0 VERTOV SIA, VERTOV REAL CINEMA HYPERMARKET FILM 、ェ 0. CESKÅ TELEVIZE,SAXONIA ENTERTAINMENT GMBH,MIITELDEUTSCHER RUNDFUNK2015GMBH, MITTELDEUTSCHER RUNDFUNK 2 田 5 『太陽のドで真実の北朝鮮』 舞踏の練習に励む 8 歳の少女の少年団入団から 「太陽節」公演までの 1 年間の密着ドキュメント。数か国にわたる多種多様な取材が、見事にまとめられてい ロシア政府は北朝鮮政府の要求で非難声明を出る。映像も印象深く音楽も軽やかだ。メラニーロランは妊 し、上映禁止にした。しかし、監督たちは世界各国娠中にネイチャーの論文を読み、子どもたちの未来のため で上映をし、数多くの賞を受賞した。 に映画制作を決意したという。 監督 : ヴィタリー・マンスキー / 2015 年 / チェコ = ロシア 監督 : シリル・ティオン、メラニー・ロラン / 2015 年 / フランス = ドイツ = ラトビア = 北朝鮮合作 / カラー / 1 IO 分 カラー / 120 分 2017 年 1 月 21 日よりシネマート新宿ほか全国順次公開 12 月 23 日からシアター・イメージフォーラムほか全国順次公開 はしもと・よしこ ドキュメンタリージャパン代表を 20 年間務める。ドキュメンタリー を中心にテレヒ番組や映画作、。 - 品で数多くの受賞作品をプロテ ュース。放送文化基金個人賞、 ATP 個人特別賞、日本女性放 送者懇談会賞を受賞。座・高円 寺ドキュメンタリーフェスティバル 実行委員。最近作は『広河隆 人間の戦場」「 FAKEJ 「い しぶみ」。 2017 年 3 月には基地 にゆれる沖縄を追った「標的の 島」の公開を控えている。 45 DAYS JAPAN 2017 / 1 一 1 @ MOVEMOVIE - FRANCE 2 CINÉMA - MEI. Y PRODUCFIONS 『 TOMORROW パーマネントライフを探して』
ヾを第 。ー第第当い、、トを . 「イ学 0 ト・ ? ~ 3 下を = ツ . 第 露第まツ カチョウの家族とエレナ。このカ チョウたちは道でさまよっている ところを警察に保護ざれた。エレ ナと緒に家から小さな池まで歩 き、そこで水浴びをする。 ねずみのゴタに食べ物を与える工 レナ。家族のいないゴタは生まれ たときからエレナと一緒に暮らし ている。 27 DAYSJAPIN 201 刀 1
0 0 4 遊牧中、結婚するカップルのため に装飾されたテントで、花、 到着するのを待つ新郎側の家族。 , 、 , フーゼスターン州リ付近、イラ ン。 2016 年 の 定住を望んでいると話す。「こんな放 岐路に立っ民 浪の暮らしは嫌いだわ。生まれてから 彼らはずっと闘ってきた。イラン立ずっと耐えてきたけど、ほんと、やっ 1 ノ 0 一 ) 1 、・一 1 C' ノ 1 1 年 ) のと かいなのよ」と。遊牧の暮らしを離れ 憲革命 ( きも、第二次世界大戦中、イギリスと る唯一の道は、街に住む「夫」を見つ けることた。 ソ連のイラン進駐に蜂起したときも、 子どもたちは川歳まで小学校に通う 遊牧民を打ち負かすと決意したイラン 皇帝に狙われたときも、中央政府に服遊牧生活では大自然の中での「青空教 従の意思を示すよう強いられたとき室」だが、より高いレベルの教育は街 も、いつもそうだった。イラン政府 にでしか受けられない。しかし、読み書 よって遊牧民への定住化政策が採られきのカこそが、街に定住するために必 てきたこの数十年間、イランの遊牧民要とされる大切な能力のひとつだ。イ スフアハンやシーラーズといったイラ は、多くの苦難と挫折に耐えてきた。 今、彼らは生き残りをかけた闘いのンの都市に出かけた多くの遊牧民が、 中にいると一言えるのかもしれないそ 二度と帰ってこないのだという。 もちろん、人生観の違う人たちもい の数は 10 0 年前の 5 0 05 5 5 0 万 る。ひとりが私に疑問を投げかけてき 人前後から 15 0 万人まで落ち込み、 イラン人口 7800 万人のごく少数派 。「街へ行って何をするんだ ? 唯一 こよっこ。 の財産の動物を売って定住するのか ? イラン南部を遊牧する遊牧民の最大何のために ? 仕事が見つからなかっ たらどうするんだ ? 」 部族、パフティャーリ族の人々にとっ こうしたリスクを背負ってでも、な て、春と秋は家畜のための良質な牧草 んら生活の保障のない都会に住もうと を求めて移動する季節た。遊牧は 35 、仕事を見つ 8 週間続く。かっての移動手殳ごっこ ・おカナする人たちはいる。たた けて街の暮らしになじむ人がいる一方 ロ、ハや馬は車やバイクに代わってはき で、部族との交流が途絶え、公的な支 たが、それでも移動には困難を伴う 何日もかけて何百キロもひたすら歩援を受けることもできず、日々の暮ら き、毎晩キャンプを張り、木を切り出しをまかなえずに深い抑うつ状態に陥 る人も少なくない年老いたサ。フザリ し、水を汲み、家畜にえさをやり、 ンをこね、食事をつくる。夜には、牛もそのひとりだ。「誰も助けてはくれ遼 ない。そ , フさ、わしは怒っている。か 泥棒を見張らなければならない おしゃべりをしていた、ハフティャー んしやくを抑えるためにアヘンを吸い訳 リ族の 3 人の若い女性はみな、街への続けて、もう巧年になるよ」
21 栄養失調のこの男の子はイエメン のアル・ツハイタ地区にある小さ な小屋で家族と暮らしている。小 屋の外のべッドで横たわっていた。 2016 年 9 月 26 日 DAYS JAPAN 2017 / 1
4 21 歳の時に、函館で結婚をした 時に撮影した記念写真を抱える皆 川光子さん ( 77 歳 ) 。元山市。 2016 年 8 月 8 日 今でもあの時のことを思い出すと胸が った。そのため、「朝鮮の方たちは親切 だから」といつも話していた母親は結 苦しくなるんです」と、光子さんは涙 を流しながら語った。清津へ向かう船婚を央く受け入れたという。その後、 の中では、母に祝福されなかったこと帰国運動が広まる中で、夫婦は朝鮮へ 19 6 0 年 1 月 1 日 に対する悲しみと同時に、これから新渡る決意をする。 しい土地でどうやって生きていく力と、 に新潟を出港し、清聿には 2 日後のレ しつかりしなければという気持ちが入日に着いた翌月の 2 月 3 日から夫婦 り交じっていたという。以降、水産研 一緒に平壌日用品総合工場で働き始め 究所で働く夫と 4 人の子どもと元山でたという 暮らして来た と 取材で出会った日 「年の札幌オ リンピックの別 本人女性たちは、生 。まれ故郷である日本 に母から届いた っさに対する思いが本当 手紙に、『夫婦 に強い。日本での思 2 人で見に来て の歳 日 7 い出を表情豊か「ⅱ 下さい』と書か 8 れてあったのを 明すその姿が、自然と んんた時に、午 祝寺私の祖母と重なった。 をこ してもらえたの 第」】日つ国交がなく、緊迫し た日朝関係が続いて かなと思ったの の剞 いるため、両国を行 です」と「子さ * 幌き来することか出来 んは言う ないでいるだが彼 女たちは、故郷の日本をもう一度訪れ 日本での生活苦から たいという想いを持っている。元山に 抜け出して 暮らす皆川さんは窓越しに外を眺めな 首都の平壌で暮らす新井好江さんがら、つぶやいた 「ここは札幌と気候がほとんど同じな ( 歳 ) は、巧歳の時から住み込みで働 いていた東京都内のゴムエ場で、在日んです。札幌では 5 月になるとアカシ アン・キジュン 朝鮮人の安基中さんに出会い、歳アの花が満開になっていました。ここ の窓から見える低い山にもアカシアが の時に結婚。もともと経済的に貧しい 家庭に生まれた好江さん家族に、手をあるのですが、香りが部屋に入ってく ると、その度に故郷を思い出すんです」 差し伸べてくれたのは近所の朝鮮人だ 3
日本の在来馬 オランダ人写真家が、日本全国 8 か所を巡って、 の現存する在来馬を撮影した。 み馬たちの自然な息づかいか聞こえる 写真・文 / シャルロット・デュマ Photo Text by Cha 「ー0容e DUMAS 135 与那国馬 日本の最西端の与那国島で暮らす。 沖縄県八重山郡与那国町。 2015 年 よなぐに
オス馬のカンは人間の歳でいうと 92 歳。動物セラピに使われて - 、 いたが、関節炎のためにを宣告 され、もう役に立たないと判断さ 今は残りの人生を土レナの れた。 看病を受けながら暮らしている。 4 1 丐第をネ ′強物イ 0 その頃エレナは、マドリードの土地ナは、独学で勉強したり、ときには獣 カ狭いうえに賃貸料は高ぐ、多くの動医が治療をおこなうところを見せても 物を受け入れられないことに悩んでい らったりして、今では簡単な手当ては た。それを聞いた団体は、土地を購入自分でするようになった。さらに専門 し動物たちのために提供することを決的なケアが必要な場合は、ト / 型動物は 意。エレナは団体に敬意を表して、この動物病院に連れて行き、牛や馬など大 新しいサンクチュアリの名前を「プロ型動物の場合は獣医に来てもらう。 ウィ 1 ガンの家」とした。それが現在 ここにはエレナを助けるスタッフが タラゴナにあるこのサンクチュアリだ。 ホランティアが数人いる。彼 「プロヴィーガンの家」は広さヘク女は数週間に一日だけ休みを取り、海 タ 1 ルほど。ここでは今、、フタや牛、岸でひとりだけの時間を過ごす。そう ニワトリ、羊、アヒル、馬、ハト、ウ して日々のさまざまな悩みや葛藤に向 サギ、小鹿、そして大猫など 200 頭 き合ったり、死んでしまった動物に心 以上の動物が、虐待を受けたり、告 門使を寄せたりする。そして、気持ちを落 された過去から逃れ、仲良く暮らしてち着かせ、同時に、さらなるエネルギ ーをかきたてるのた いるたいていの場合、保護すべき動 物を見つけた警察や活動家、ときには このサンクチュアリは、エレナの活 市民などから、この家に連絡が入る。動に賛同してくれる人々や団体の支援 そうするとスタッフが動物を保護するのおかけで成り立っている。それでも ため、大型車で現場に駆けつける。 動物のための食べ物や医療費などにか 毎日 200 頭以上の動物の世話をすかる費用すべては賄えず、借金をして るのは大変だ。エレナは毎日早朝に起 いる状況だ。彼女の今の望みは、その き、朝食も取らずに彼らの健康状態を借金がなくなること。そうすればより チェックして回る。その後も動物の世多くの動物を救えるからだ。 話をしながら、一日中神経を張り巡ら「動物は賢くて、豊かな愛情を持った せて、施設内の物音や鳴き声に耳をす素晴らしい存在。彼らは、人間によっ ます。そこここが動物たちの陽気なて強制的に置かれた状況からひとりで 騒々しさに包まれていれば彼らが元気脱出することはできないんです。だか な証拠だが、妙に静かだと、エレナは らこそ、彼らに献身的に尽くす人間が 異変を察知して飛んで行く してもいいでしよう ? 」と語る。その 0 けがや病気の動物を保護することが 語り口は、今後も自分の生き方を変え 多く、ここでは医療的なケアも欠かせ ないという強い自信と愛情にあふれて しノ 医療の知識が全くなかったエレ ( 翻訳 / 野口みどり )
1 0 0 . 日本から大切に持って来たアルバムを 眺める多喜子さん。元山市。 2016 年 8 月 9 日 日、宮崎県生まれ。「子どもの頃はお転 母には黙って 婆でね、しよっちゅう男の子と喧嘩を 愛する夫と共に していたの。家の裏には竹ゃぶがあっ 「私が夫と出会ったのは炻歳の時。当たので、よくタケノコを取りに行って 時、日本は戦争中でした。私は学校を食べていたんです。バレーポ 1 ルをし 卒業し、バスの運転手になったばかりて遊んだのも懐かしいです」。炻歳で サ・デスン でした。職場で出会った 6 歳年上の夫出会った在日朝鮮人の夫、史大順さん もバスの運転手だったのです。はじめとはその後、結婚し子どもを授かった。 の頃は朝鮮人だとは知らなかったので「最初は、何で朝鮮人と一緒に暮らす すが、分かった時には既にお互いを好のか』と言っていた母も、結果的に私 たちのことを認めてくれるようになり きになっていて、もう離れられなくな っていたんです」。現在歳の井出多喜ました」。そしてい年 9 月 2 日、歳に 子さんは、懐かしそうに当時を振り返なった多喜子さんは夫と 4 人の子ども と共に、朝鮮 ると、声を出 撮子が 半島北部に渡 して笑った。 頃多 っ ~ 0 一 1 一年 のカ頃ることになっ り上ん年 の春と夏、朝 か宀須さ 9 ート 0 年から 鮮半島に渡っ きん てかさ年までの間、 た日本人妻・を っ宀下順 渡た右大主に日本赤十 を取材するた にれ史 鮮さんの字土と朝鮮赤 め、朝鮮民主 影さ夫ネ 十字会が実務 主義人民共和 国を訪れた。首都の平壌から多喜子を担った「帰国事業」により、在日朝 さんが暮らす東部の港町、元山へは鮮人の夫を持っ多くの「日本人妻」と 車で 3 時間ほど。白い花を咲かせたア呼ばれる日本人女性たちが日本から朝 カシアの並木が、車窓の向こうにしば鮮民主主義人民共和国に移住した。 らく続く元山市内の多喜子さんのア当時、日本国内における民族差別や貧 ートを訪れると、近所の女性たちが困に苦しめられていた多くの在日朝鮮 人たちが子どもたちの教育や将来を考 集まりおしゃべりをしているところだ えて、また、朝鮮戦争直後の国の再建 いらっしゃい」。 「いらっしゃい に貢献するために、帰国運動が拡大し こう日本語で言うと、優しく私を居間 ていた。この帰国事業により、合計約 に刀ロいて′、れた 9 万 3000 人が新潟県の新潟港から 井出多喜子さんは 1927 年 4 月 ノ つ、、 0 ビョンヤン 1 ウオンサン
: 気を、 1 在来馬を訪ねる巡礼 人の心を癒し、時には命をも救って くれる動物。私は子どもの頃からとり わけ馬が好きで、今もよく馬を撮影し ている。米国ア 1 リントン墓地に兵士 の柩を運ぶ馬が、以前は伐採された木 を運んでいたと知り、森で働く馬に会 いたくなった。英国馬搬協会会長ダグ・ ジョイナ 1 による訓練を見学し、彼が 北海道へ 3 週間指導に行くというの で、私も日本へ飛んだ 長野県では、アファンの森財団の設 立者・・ニコルに話を聞いた。木 曽川上流の谷で育っ木曽馬を含め、日 本固有の馬群は 8 種あり、それぞれが 独自の特徴や歴史を持つ。そのうち 7 ばつばく 種は絶滅が危惧され、伐木の搬出を担 う木曽馬も現在わすか 140 頭ほどだ。 中央アルプスの高地、木曽福島には日 本唯一の木曽馬保存牧場がある 木曽馬は 8 種の中では最も大型で、 飯次に訪れた与那国馬は小型だが、どこ か古代の神話を思わせる風格があっ た台湾まで 100 キロの距離の小さ な与那国島に暮らす馬は、今も純血を 保っている。私が島に到着した夜は大 子を 型台風により暴風雨が吹き荒れたが、 産占 その余韻が残る翌日の早朝、しなやか にたたずむ馬の姿には感動した。 私は動物に近づくのが好きだ。神秘 、土 的な存在を間近に観察したい。自分の 海の 」日本能と直感を頼りに近づいていくのが ばはん 58
角を切り取る作業は、サイに麻酔 をしてからおこなう。目を覚まし て普通に歩きだすまで 20 分もかか らない。 イを見守るために毎月囲万ューロ ( 約細菌の感染が急速に広がり、€数豆 2400 万円 ) を費やしているという。サイが死んだこれを受け、南アフリ 「こうした費用を賄うためにも、サイカの自然保護に取り組む複数の の角を合法的に販売する必要があるんは「サイは牛ではない。飼育はできな い」とヒュームを非難した。 だ」と、ヒュ 1 ムは主張する ヒュ 1 ムたち南アフリカの畜産農家 異論唱える たちは、サイが絶滅危惧種であり国際 専門家たち 取引が禁止されているにも関わらず、 こういったサイ農家たちの主張に対「牛からは乳を搾り、羊からは毛を刈 る。それなのに、サイを育てて角を取 し、野生動物を守るために活動するイ って何が問題なのか」という思いを抱 キリスの Z O 「ポ 1 ンフリー」の (-) いている。密猟を防ぐことに繋がると O ウイル・トラバースは異を唱える 「かって、象牙の密猟問題をめぐって主張はするものの、彼らが莫大な利益 同じ主張が出されたことがある。つまを期待していることは事実だ 現在、サイを飼育する農家たちは何 り、殺さずにク必要な分だけ採取すれ トンものサイの角を国内の秘密の貯蔵 ば、いだろう、そうすれば密猟もなく なるはずだという主張だ。それによっ庫に保管している。ヒュームは自分が て 2 年、限定的に取引が認められ、ア保管している角を 5 トン程度と見積も に 100 トンの象牙が供給る。これらを販売することで巨額の金 ジアの市場 された。それだけの量があれば需要は銭を得ることができるとすれば、それ 満たされ、密猟は止まるだろうと国際は最短でも円年にスリランカで開かれ 機関は考えたのだ。ところが、結果的るワシントン条約で角の取引が認め には、需要は増加し、密猟も増えた」られた後だ ( 認められればの話だが ) 。 ースや他の専門家たちは、取しかしそれが現実になるかどうか、見 引の合法化は逆に絶滅を招くと考えて通しは未だ立たないままた こうした状況の中、サイを飼育する しるト一フハ 1 スはこ - フも机ける。 「取引を合法にしてしまうと、まとも畜産農家には、破産の危機に脅える者 な科学では証明されていないサイの角も出始めている。その危機が現実にな の治療的効果にクお墨付きツを与えてれば、現在彼らの農場で暮らしている 何千頭ものサイたちの運命も危うくな し土フこし」になる」 多くのサイを限られた面積の農場でる。いずれにしても、サイたちの命が 飼育することで、サイの健康問題も発翻弄される状況に変わりはない。 ( 構成・翻訳 / 田村栄治 ) 生している。ヒュームの農場では年、