カートの抜き方を勇大に教えていた。けっこう飲み込みが早いほうで、練習でもその片鱗 が見えてきている。だが、もう一度、確認の意味もこめて教え直すことにした。デビュ ・レースの結果に、ちょっと気落ちした様子を感じたからだ。 子供のカート・ドライバーの場合、教えてできる子、教えてもできない子、そのほかに、 教える前からすでにできてしまう子というのがいる。勇大の場合は、ていねいに教えれば、 かなり上達も早い。すぐにできるようになる子の部類に入る。教えてもできない子の中に は、とにかく速いのだけは速いというタイプもいる。速いのだけど、抜くタイミングがぜ んぜんだめで前の車を抜けない。 レースで抜く場所は、ほとんどの場合はコーナーだ。それには、ある種の方法、抜き方 がある。前のコーナーから直線、そして抜こうとするコーナーへのライン取り。アクセル やプレーキングの虫、 リリズム、そしてタイミング。抜く相手の車の横に、いつ出るのか こうしたことが絶妙に重なり合って、初めて抜くことができる。カート自体の性能差がそ れほどないオープンの場合、こうしたテクニックが非常に大切になる。直線で抜きさ っていくことは、よほどエンジンが速くなければ無理だ。オープンでは、全員のエン ジンが同し条件のものだから、そうした差は生まれにくい。 「結局、抜こうと思っている前のコーナーから、いかに先に出るかということなんだ」 「はい
くのか、それが問題だ スキーだって、寒さに鈍感なまま続ければ凍傷になり、最悪の場合、手足を失ってしま うこともある。天候に常に注意していなければ、雪山で簡単に遭難してしまう。自分の生 命をかけるような場面さえある。子供たちにスキーを始めさせた理由も、大自然の中での 人間の限界、自然のルール、生きるための原理原則を教えたかったからだ。それは、ひろ 子にもよくわかる。太右衛門がぶつきらばうに答えたのも、妻の自分がこうしたことを理 解しているという自信からだろう。 「今日、勇大をね」 か「カートに乗せたの、あれ、思いっき ? 」 気を取り直して聞いた。 幻「違うさあ。カートって、ああ見えて、すごくタフなスポーツなんだよ。身体ができてな ラい子供の場合、カートに振り回されるばかりで、練習してもそんなに効果が上がんないの カ とんでもないという感じで、太右衛門が首を振る。 工 チ 「だから、今日、カートに乗せてみようと思ったんだよ。やつばり四輪にデビューするま で、カートで修業させるのが一番いい。正式な四輪レースに出ることができる十八歳まで、
ウィークディの夕方。イギリス人は、パプで雑談しながらスタウトやエールのビールを 飲むのが好きだ。それも立ち飲みしながら、ガャガヤと大きな声でしゃべりまくる。そん な雰囲気にも、親しみがわいてきた。最初は座る場所がなかなかなくて、仕方なく立った まま片手で皿を持ってカレーを食べたりしていた。イギリスに来たばかりのころ、毎日の 食事に朝昼晩と、悩んでいたころのことが懐かしい 「そうだ、こないだのテスト、どうだった ? 一郎が話題を変えるように、身を乗り出した。連ドラのビデオは、勇大の母、ひろ子が 日本から送ってくれたものだ。それを借りた一郎が、無断でマコッチャンにまた貸しした。 気ますくなりそうな雰囲気を、レースの話題に振ることで回避したわけだ。 「去年より、ずっと調子いいんだ。今年は、けっこういけそうな感し」 だ この仲間と一緒にいるときは、なるべくレースの話はしたくない。い ) > 気分転換になり、 ノ頭の中からレースのことを追い出せる、貴重な時間だからだ。一郎もマコッチャンも、日 フ本からこのオックスフォードに来た留学生だ。オックスフォードには、由緒あるカレッジ 力が多い。世界中から若者たちが集まってくる大学町だ フライド・ポテトを、皿からゴッソリつまんだ。一郎の皿だが、ビデオの一件もあるか ら文句は出ないはすだ。勇大の場合は、留学のために来たわけしゃない。イギリスで 走るために来た。そのシリーズも、今年で一一年目に入る
くる。だが、誇りを傷つけられたらとことんまで戦う気位の高さ、いったんこうと決めた らテコでも動かない頑固さも、その性格の中に備えている。 子供のプライドというのは、非常に壊れやすいものだ。特に、勇大の場合、ちょっとき ついことを言われると、すぐにしょげてしまうようなデリケートなところもある。太右衛 さか 門は、そのガラス細工のような勇大の繊細な性格を、なるべく逆なでしないようにしてい る。短所を矯正するのではなく、長所を伸ばしていくボジテイプな子育て方針というわけ とにかく、太右衛門がどうであれ、勇大がどんどん速くなっているのは間違いない。 最初は、勇大が自分からほんとうに好きでカートをやっているのか、少し疑問だった。 かだが実際、黙々と辛抱強く練習を続けるのを見てから考えが変わった。子供がカートを始 まめる場合、金と時間をかければある程度は速くなれる。どんなことでも同しだが、それ以 幻上は本人のやる気しだいだ。田中は、せつかく光るものを持っているのに練習が嫌いで脱 ラ落していったカート・ドライバーを、今までに何人も見てきた。 一勇大の場合、走ってこいとピットから送り出せば、燃料が続く限りすっと練習を続けて いる。それも、ただグルグル漫然と走るのではない。それぞれの周回ごとに工夫をしてい 工 チ ることがよくわかる。うまく回れないコーナーをどうやったら克服できるのか、コースの 四どのエリアが苦手なのか、それぞれ子供なりに分析し、一つずつ自分のものにしている。
イバー自身がキャプレターを調節することもある。 頑丈に作られているヤマハの市販エンジンの場合は、それほどキャプレターの調整に過 敏になることはない。だが、デリケートなチューニング・エンジンでは、特にこのセッテ イングがレースの結果を左右すると言っても過言ではない。子供の場合、それができない。 キャプレター内に入る混合燃料が濃いのか、薄いのか、子供にはわからない。わかるのは、 車が遅いか、速いかだけだ。 田中は、今、目の前を通過していった勇大のカートのマフラーから出る煙を見た。排気 煙からでも混合燃料の濃淡がわかる。大丈夫だ。エンジンも、調子のいいときの金属的な かん高い音を出している。ただ、そうした見た目や音などでわからない場合もある。勇大 は、混合気が濃すぎたり薄すぎたりして遅いとき、「エンジン、遅い」といってピットに ま入ってくる。そんな勇大の言葉少ないリクエストに応えて、田中がキャプレターを調節し 刀てやるわけだ。 今日は、特に暑い。田中は首筋を伝う汗を、タオルで拭った。ピットを見ると、帽子も フ 一かぶらす太右衛門がストップウォッチを握りしめている。ビー・レーシングのほかのお客 さんと話し終えてから、田中がその後ろ姿に近づいた。気配を感した太右衛門が振り向く。 工 チ 朝から勇大は何十周しているのだろう。その周回ごとのタイムを、克明にメモしたノート を見せてくれた。
264 実際のところ、少年時代からすっとカートで育ってきて、そこで得たものをすぐに捨て 去ることはなかなか難しい。勇大の場合も、容易に自分の過ちを認めたくなかった。どこ が悪くて練習やレースでリザルトが出ないのかさえ、わからなかった。わかろうとしなか った。「次にがんばれば、なんとかなる」「次のレースでちゃんと走れば、リザルトはつい てくるさ」「単に攻め方が違うだけ。戦術の問題だ」 : : : 根本的な部分で過ちを犯してい ることを、直視する気は毛頭なかった。 だが、現実という無慈悲な支配者が、見たくはない自分の真の姿を、嫌でも顔面に突き つけてくる。勇大は、初めてのイギリスのレースを経験するうち、自分への過信と自 分の限界を思い知ることになる。予選で出遅れ、決勝で伸びない。十位以下を低迷するレ ースが続き、結局、この年はシリーズが終わるまで結果は出なかった。最後のレースまで 「これだ ! 」という手応えはつかめなかった。 こうした現実から、自分のやり方が間違っていたことを知った。一年目は、それだけで も成果だと言える。問題の所在は、はっきりしていた。プレーキングの方法と高速コーナ ーの克服だ。プレーキの問題は、フォーミュラ・カーの空カ特性と関係がある。 航空機の翼は、上昇するためについている。だが、車の場合、翼は逆向きだ。フロント とリアにウイングがついているフォーミュラ・カーの場合、空気の流れを利用しながら、 タイヤを路面に押しつけて走っている。エンジン・パワーと制動力を効率的に路面に伝え
122 すでに、父親の肩のあたりまで背が伸びてきている。中一の男の子は、成長期の真った だ中だ。勇大も、この半年で五センチは身長が伸びている。体重も増えた。レースに出る たびに、不足重量を補うためカートにポルト留めしてある補充鉛の数が、どんどん減って きた。それだけ規定重量に近づいているわけだ。 小さいころからスポーツをやってきた子供たち共通の「壁」に、成長期の身体のバラン スの問題がある。これは、特に身体全体を使ってやる体操競技や陸上、アルペンスキーな どで顕著に現れる。神童などと言われ、小さいころに活躍した選手が、成長するに従って この壁を乗り越えられずリタイアしていくことも多い。カートの場合も、子供が、自分の 成長についていけなくなることがよくある。それまでは上手にできていたはすの車のコン トロールが、だんだんできなくなってしまうわけだ。成長に合わせた練習方法やセッティ ングの仕方もあるが、必すしもうまくいくわけではない。変化し続ける自分の体格に惑わ されす、とにかく練習を重ねて、基本的なテクニックを身につけていくはかはない。 体重と体格は、カート・コントロールの重要なファクターだ。カート自体の重量は、約 六十キロ。体重六十キロのドライバーが乗るとして、全重量の半分が運転する人間のもの になる。人の重さの占める割合がこれほど大きい乗り物は、カートくらいのものだ。ドラ イバーの体重の違いが、運動性能に大きな影響を与える。 さらにカートは、重心がきわめて低い乗り物だ。背の小さな子供と、体格が大きく座高
かきむしる。 「ああ、そ、つだったつけ。亡れてた。さっきよりタイムが落ちてたから、変だなって思っ てさ」 ギア、つまりミッションがついていないカートの場合、エンジンの回転だけで、低速か エンジン・チューニングが必要なの ら高速まで、ほば全域をカバーしなければならない。 は、そのためだ。低速で瞬発力があり、中速で粘りがあり、高速でスピードが伸びるとい う、この相反する要求に応えるとき、エンジン・チューナーの腕が試される。 さらに、エンジンの駆動をリア・タイヤに伝えるフロントとリアの歯車、つまりスプロ ケットの選択も重要だ。プラグの種類と点火時期。ピストンの大きさと重量。クランク・ かシャフトの長さ。マフラーの選択。そのほかにもまだまだたくさんあるこれらの、無限と も一一一一口える組み合わせで、車の性能が決まってくる。 「リア・タイヤの減りが均等しゃないな。やつばり左のほうが、減りが激しい フ「空気圧、どうですか ? 力「微妙なところだな。〇・〇一くらい上げてみよう」 タイヤの空気圧はエア・ゲージで微妙に測定する。普通は一・〇 / 立方センチだが、 チ それを〇・〇一 / 立方センチずつ上下させる。ドライバーの癖によってもタイヤの減 Ⅲり方が違うし、前後の四輪で空気圧の組み合わせも無限にある。勇大の場合、乗り方のせ
るためだが、速度が速いほどウイングによって生まれる「ダウン・フォース」が大きい 反対に、速度が落ちると、その下への逆揚力が減る。 プレーキを踏んで、車に制動をかける。すると車の速度が落ちる。その速度の落とし方 が、勇大がカートでやっていたやり方とは違う。カートにはウイングはついてないから、 プレーキングの仕方は人それぞれだ。だが、フォーミュラ・カーの場合、強いダウン・フ オースが生まれている状態からのプレーキングには、独特の方法がある。ダウン・フォー スが効いている最初のうちに、ガッンと強くプレーキングして、速度を効率よく落として いかなければならないわけだ。 さらに 3 マシンの場合、車重に比べてエンジンにあまりパワーがない。非力なエンジ ンでは、コーナーからの力強い立ち上がりは期待できない。どうしてもダウン・フォース の力を借りつつ、リア・タイヤに荷重するようにしてエンジンのパワーを路面にしつかり 伝え、立ち上がりに利用しないとだめだ。そのためには、ダウン・フォースが発生するく フらいの、ある程度、速いスピードでコーナリングしなければならない カ つまりどれくらいの速度でコーナーを回れば、最も効率的なダウン・フォースが得られ 工るかということになる。だからこそ、コーナーに進入する前のプレーキの使い方が重要に なってくるわけだ。これはもちろんコーナーの特性によって、さまざまに変化する。だが、 ただ漫然とプレーキを使っていたカートの乗り方とは、決定的に違うことだった。
った。カートを始めた少年の中には、自分の意志ではなく、父兄の考えで「乗らされてい る」ように見える子供も多い。だが、どうやら勇大は違うようだ。勇大は、ほんとうに走 るのが好きで、自分の意志でカートに乗っている、そう目黒が確信した理由は、彼の練習 量の多さだ。実際、五十嵐親子は、この一カ月足らすの間にすでに数回、練習走行をしに コースに来ている。 カートという競技は、その外見に似合わす、意外に体力を消耗するハードなスポーツだ。 まだ身体の小さな少年の場合、勇大のように頻繁に長時間、乗り続けることは、 ついことに違いない。しかも今日のような冷たい雨の中でカートを周回させるとなると、 経験を積んだ大人でも尻込みをするだろう。 まず、雨中走行のために、車高などを特別にセッティングし直さなければならない。走 ったあとのカートは、すごく汚れるから、特に入念なメンテナンスも必要になる。誰もが 雨の中での練習を嫌うのには、もちろんそうした理由もある。 さらに車高の低いカートの場合、雨水がのったコースでの走行は、まるで水中をくぐり 抜けているようなものだ。ヘルメットのバイザーに水滴がついて前は見えなくなるし、雨 はすごい勢いで身体に叩きつけられてくる。そしてなによりも雨に濡れることで体温が奪 われ、体力を著しく消耗する。神経を研ぎ澄ましていないと、大きな事故にもつながりか ねない。体力と気力を奮い立たせないと、満足にカートを走らせることさえできない。