「田中さん、しゃあ、勇大をリードして走「てくれますか ? 」 もう一台のビレルの新しいマシンのシートを調節していた田中が、勇大を見ながら笑「 て指で眼鏡を押し上げる。 「最初、僕が先を走るから、スピードに合わせてついてきてね。最初はゆ「くり走るから、 無理しないで」 「はい」 「ちょ 0 と見てみな。タイヤが今までのと違うんだけど、わかるかな」 いいえ」 勇大は、そう答えてから唇を軽く結んだ。タイヤ。感しも大きさも全く同しように見え る。そう言おうと思 0 たが、うまく言葉にならない。大人と話すのは苦手だ。特に初対面 の場合、人見知りしてしまう。だが、これからカートをや 0 ていく以上、こうした初めて 出会う大人が増えてくるのだろう。あまり口やかましくない太右衛門も、挨拶や礼儀に関 しては厳しい。勇大は、今日、、来る途中、太右衛門から言われたことを思い出 「ビー・レーシングというチームに入 0 たから、これからは、そこの人たちと一緒にや 0 ていく。最初と最後の挨拶くらいは、きちんとしなきやだめだぞ」 どういうふうに挨拶しようか、どんな言葉が適切なのか、うまく切り出せるだろうか
224 勇大が見守る中でこうした決定がなされ、すぐにシートが換えられた。それに乗ってみ て、走りがどう変化するか、タイムがどう上下するか。コースイン。ほかのダンロップ・ ューザーが、熱心にテストを続けているコースに飛び出る。路面にはすでにゴムがのって 最高の状態だ。 最初の一周は軽く流し、次の周回から全開で攻める。コーナーで身体が横に振られる。 座高の高い勇大のようなタイプのドライバーは、身体全体を使って車の挙動をコントロー ルする。「なんか、いい 感じ」変化にすぐ気づく。靴の上から水虫をかくような、もどか しい感じがなくなっている。フロント・タイヤが外へ逃げる、アンダーステアの感しがな くなった。「シートを換えたせいだな」セッティングの重要性を勇大は改めて強く感した。 タイムもすいぶん良くなった。ピットで出迎える野中の表情でそれがわかる。セッティン グの成果を確認してから、岡田が無表情にクルリと背中を向けて立ち去った。 榛名での第一一戦。 ee は相変わらすあまり良くなかったが、予選ヒートで勇大は果敢に 攻めた。榛名のコース・レイアウトは、自分のドライビングに合っている。そう確信して 最後まで攻めきり、並み居る強豪を尻目に決勝は五番手のグリッドにつけた。 日本カート界の最高峰クラスになると、スポンサーと年間契約して参戦する、 わゆるプロのドライバーも多い。そんなべテラン連中に混しって走るのは、四輪を目指す 実力ある若手ドライバーたち。彼らにとっては、さらに上のカテゴリ ーへ上がって
190 眉を開いた。 「サウス・ガルダ・サーキット : ・ 「サウス・ガルダ」 右に座ったロイも、同じ名前を繰り返した。どうもサウス・ガルダに向かっているらし い。カート雑誌なんかに、よくその名前が出ているのを知っていた。ヨーロッパ選手権や 世界選手権なども、そこで開かれているはすだ。「最初から、けっこう有名なコースで走 るんだな」勇大の胸は高鳴ってきた。 サウス・ガルダは、ミラノとべニスのちょうど中間くらいに位置する、ロナートという 街にある。すぐ北にはガルダというイタリア最大の湖があるから、こう名づけられた。 ミラノから高速を一一時間ちょっとぶっ飛ばす。土の色が乾いていた。灌木も日本のものと は種類が違う。町並みの様子もヨーロッパ的に見える。高い座席から景色を眺めていると、 すぐにサウス・ガルダに着いた。まだ午前十時だ。 パドックにトラックを横づけして、機材を下ろす。勇大もそれを手伝っていると、そこ に見慣れたランチアが来るのが見えた。高橋だ。最初の一「三回は、テスト・ランにつき あってくれることになっている。 「おはよう、五十嵐君。眠うない ? よう寝たか」 「大丈夫ですよ。 リ全開って感じです」
れば、かなりの上位まで狙えるチャンスだ。 スタート十秒前。予鈴ブザーの電子音が鳴る。その音が、心臓が止まるかと思うほど大 きく聞こえ、身体がビクリと反応した。勇大のテンションが極限まで高まる。ストックの グリップを握り直した。時報のようなスタートコールの電子音。五秒前。ピッピッピッピ スタートバーを押しのける。身体を前傾させ、ストックで勢いをつけながら緩斜面で最 大限のスピードにのっていく。最初の旗門が目前に迫った。身体の小さな小学生にとって、 旗門のポールを押し分けながら滑っていくのは恐怖だ。しなりがあって曲がるようにでき ているとはいっても、堅い棒がぶち当たってくるのだ。衝撃もある。当たれば痛い。しか しそうしないとタイムは伸びない。痛みは怯えと弱気を呼び寄せる。勇大は、その恐怖心 を半年前から始めた剣道のおかげで克服できた。 第一の旗門を見事なターンですり抜けたあと、中盤までは順調に滑り降りてい麦半 の最初の難関が、それまでのリズムを崩すように設置された旗門だ。直前にある小さなコ プも要注意。ヤマニの指摘を思い返す間もなく、身体が自然に動く。最も合理的な曲線を 描き、最大限のスピードで滑り抜ける。わざとリズミカルに設置されていない数カ所の旗 門をクリア。ターンの遠心力に振り回されることなく、重力の法則を上手に利用しながら、 勇大とスキーは谷へ落ちていく。
3 「田中君、今度からあの親子と一緒にやることになったんだ。ちょっと、みてあげてくれ ない ? 」 りよう ビー・レーシング・スポットの坂本裕社長から、そう一一一口われたとき、田中亮は「ああ、 あの金持ちの」と、すぐにわかった。最近、ビー・レーシングがホーム・コースにしてい かるでよく見かける親子だ。父親が、息子に熱心にカートを教えている姿が目立っ だ 幻田中にとって、子供がカートに乗っているということは、すなわち家が金持ちなんだな、 ラという印象になってしまう。 北海道からレーサーを夢見て仙台に出てきた田中は、最初、自動車整備の専門学校に入 カ った。そしてまずレーサーへの近道として、カートから始めることにする。仙台の南、名 工 チ 取市にあるビー・レーシング・スポットに入会したのは、一年くらい前このビー・レー ( フォーミュラ・カート ) に東北か シングは、全日本カートのトップ・カテゴリ
それが問題だ 「フロント・タイヤが、あんまり入っていかないんです」 「どんなふうに入っていかないの ? 「どんなふうって : 「感覚的な言葉で言われても、よくわからないな。コーナーのどこ ? 入っていかないの 「入り口くらい、かな」 「おおざっぱすぎるな、それしゃ。 ・ : なら、進入か。コーナーに進入して、どのくらい の位置 ? 進入の始まりの部分か、真ん中くらいか、それとも進入からクリッピング・ポ イント ( コーナーの内側でタイヤが最も接近する地点 ) までの間か。どこ ? 」 コーナーの入り口くらいだから 「えっと、わからない。だいたい、 「しようがないなあ。しゃあ、ステアリングのきり始めは、どんな具合 ? レスポンスは フ > し カそんな感しで、野中が延々と突っ込んでくる。シートから降りるなり、いきなりの質問 = 攻めだ。岡田以前に野中から、こんなに聞かれるとしたら、岡田からは、どれくらいしつ へきえき チ こく問いただされるのかわからない。正直、最初のうちは勇大は辟易とした。野中は、と 駟にかく細かく聞いてきた。コーナー一つとっても、高速、中速、低速、字、クランク、
照らしていた。 「お互いオヤジになるわけだよ。それでさ、杉山さん、電話でも言ったけど、今年、ナシ ョナルで、勇大を世話してくれない ? 」 太右衛門が、コーヒーの入った紙コップを口に運ぶ。長いっきあいの友人だけに通じる ような、気安い口調だ。勇大はその会話を横で聞きながら、自分がカートチームを変わる ことを初めて実感した。デビューした年、そして最初に東北ナショナル・カップにエント ーした去年と、約一一年の間、ビー・レーシング・スポットに所属してきた。だが、今年 からチームを変わる。体制を変えてチャレンジし直す。つまり違うチームの田中は、これ から敵になるわけだ。 「オープンにも、出たんだろ ? 」 だ 杉山は、応接セットのソフアでリラックスしている。久しぶりに改めてよく見ると、顔 グだけじゃなくて身体つきまで丸い感しの人だな、と勇大は思った。太右衛門が胸を張りな フがら、指を一一本立てる。 力「おととしの最終戦で一一位だよ。デビューした年でさ」 「そりやたいしたもんだ。それで、去年は、どうだった。けっこう表彰台に上がったって チ 聞いたけど」 カートの世界は案外狭い。ナショナル・カップ・クラスの結果は、主催の公式レ
逆に、誰もがしない雨中練習をすることで、ワンステップ上の技術が身につくのだとも 言える。本番のレースは常に晴れているときに行われるとは限らない。雨のレースもあれ ば、風の強い日のレースもある。あらゆる状況下で、カートを操ることを身体に覚えこま せるのは非常に大切なことだ。 だ力、小さな子供にとって、より過酷な状況で練習を重ねることは、強制的にやらされ てできるようなことではない。カートに乗ることが心底から好きでなければ、とても続け られないことを目黒はよくわかっていた。 「五十嵐君、今年、十二歳になるんでしよう。将来が楽しみだな」 再び同僚が、のんびりタバコを吹かしながら話しかけてくる。ちょうどエントリー かストの最終チェックにさしかかったところだ。邪魔されたくはなかったが、目黒は愛想良 まく顔を上げて頷いた。勇大のことになると、ちょっとサービスしたくなる。 刀「なんか、最初から ( クラス・ストック ) オープンで出るみたいよ。お父さん、か ラなり張り切ってたし」 一「でもまだ十一歳でしよう。誕生日、いつなんだろな、知ってます ? 」 目黒は、頭の中の引き出しを少しかき混ぜてみた。記憶力の良さには自信がある。 工 チ 「確か九月だった。オープンの第五戦に間に合うな」 一見すると外見は遊園地のゴーカートと大差ないように見えるカートだが、や国際
「元気やな。初乗り一一一一口うても、そない気張らんと」 「サウス・ガルダって、どんなコースですか ? 「ちょっと、独特ゃな。ま、走ってみればわかる。気いつけてけば、大丈夫やろー 高橋が車を見るために、トランスポーターの中をのぞき込んでいる。勇大は機材をセッ ティングする手伝いを続けた。最初は、ドライバーのロイも乗るのかなと思っていると、 レナートと一緒に勇大用のカートのセッティングを始めている。ロイは、メカニック的な こともするよ、フだ。ちょこちょこっとキャプのあたりをいしってから、ロイが自分の服を つまんで笑いかけてくる 「プリーズ・チェインジ・ユア・クロースズー 指をさされたほうを見ると、更衣室のようだ。その中でレーシングスーツに着替えた。 だ 気分が引き締まってくる。ピットでレナートが、ストップウォッチを持って立っている。 先に周回を始めている他チームのタイムが気になるらしい。しきりに測っている。「よー ンヾ。中でも フ し、やってやろうしゃん」にわかに闘志がわいてきた。カートの本場ヨーロ、 カイタリアでは、最も激しいシリーズが繰り広げられている。なにか自分が日本代表で試さ 」れているような、そんな気分で一一人に近づいていった。 チ ロイに手伝ってもらってシート合わせをしてから、ヘルメットをかぶる。押しがけスタ ートはしない。・ シュニア・ワールド・カート選手権で走る車は、ピストン・バルプ・エン
るためだが、速度が速いほどウイングによって生まれる「ダウン・フォース」が大きい 反対に、速度が落ちると、その下への逆揚力が減る。 プレーキを踏んで、車に制動をかける。すると車の速度が落ちる。その速度の落とし方 が、勇大がカートでやっていたやり方とは違う。カートにはウイングはついてないから、 プレーキングの仕方は人それぞれだ。だが、フォーミュラ・カーの場合、強いダウン・フ オースが生まれている状態からのプレーキングには、独特の方法がある。ダウン・フォー スが効いている最初のうちに、ガッンと強くプレーキングして、速度を効率よく落として いかなければならないわけだ。 さらに 3 マシンの場合、車重に比べてエンジンにあまりパワーがない。非力なエンジ ンでは、コーナーからの力強い立ち上がりは期待できない。どうしてもダウン・フォース の力を借りつつ、リア・タイヤに荷重するようにしてエンジンのパワーを路面にしつかり 伝え、立ち上がりに利用しないとだめだ。そのためには、ダウン・フォースが発生するく フらいの、ある程度、速いスピードでコーナリングしなければならない カ つまりどれくらいの速度でコーナーを回れば、最も効率的なダウン・フォースが得られ 工るかということになる。だからこそ、コーナーに進入する前のプレーキの使い方が重要に なってくるわけだ。これはもちろんコーナーの特性によって、さまざまに変化する。だが、 ただ漫然とプレーキを使っていたカートの乗り方とは、決定的に違うことだった。